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進化する魂

フリートーク
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国家システムについて議論しよう

2010-03-05 12:20:51 | 政治
あっと驚く内容はなく、非常に当り前の認識が述べられている。

日本の産業を巡る現状と課題(経済産業省)
http://www.meti.go.jp/committee/materials2/downloadfiles/g100225a06j.pdf

経済産業省は政府の一部門なわけだから、この内容は鳩山政権を後ろから刺していることになる。
しかし、一行政機関とはいえ、経済産業を担当する部門として危機感を持っており、現在の政権および一部世論に対して言っておきたいことがあるのだろう。
是非、予算委員会では、この意志を汲み取り、この資料をディスカッション・ペーパーとして与野党の議員で討論していただきたい。
国会で議論する時は、ここに書いてあることは最低限の前提として持っておかないと、もうだめだ。
もはや、社民系や共産系の空想に付き合って信念対立ごっこをやっている時ではないのだ。
万年同じ議論を繰返し、空想ばかりを振りかざし、現実的な解決策を提示しようとしない無責任な野党体質とはオサラバする時が来ているのだ。
誰が/何が正しいかなんてことを一年中繰返し、そんな中身のないことに政治的決着を求めているような連中に付き合い続けるのは、もはや時間の無駄である。

当Blogで何度も繰り返すように、厳密には、この宇宙に善悪も正誤も存在しない。
そんなものが存在するのは、我々の頭の中だけで、実際にはどこにも存在しないものだ。
我々は、自分達の都合のいいように、宇宙の相対性を利用して物語を組み立てている。
本来、善でも悪でもないものに、善や悪というラベルを貼るのだ。
その行為自体についての評価はしないが、その行為に無自覚であるとうことは、実に危険なことだ。

これも繰返し述べているが、なぜ危険かといえば、我々は「もともとない」ことをでっちあげて、「これが正しい」とか「これは悪」と決めつけて、それで人やモノを制約しようとする。
その制約が、みなにとって有益であることであるならば問題ないが、人の知性は不完全であるから、往々にして資源の最適化に失敗し、一部の人々に利益が偏ることがある。
そして、その偏りを正当化する物語をまた組み立てる。
「究極の資源の最適化」というものを人は知ることができないので、それが許されてしまう。
「どういう状況がベストな状況なのか」という問いに対して答えられるのは、地球では「神様」と呼ばれる存在だけだ。
つまり、誰にも答えられないということになる。
これが利権と呼ばれる仕組みの根本的源泉であり、信念対立が永久に繰り返される原因だ。

人が不完全であるなら、人が失敗することを前提にシステムを構築すればよい。
しかし、一部の人々に利益が偏ることがあることを前提としてシステムを構築できればよいが、これは非常に難しい。
いかんせん、「最適なシステム」は誰にも見たことがないので、システムの欠陥は、システムの有意性で覆い隠せてしまうのだ。
ある特定の機能を実現するための商品であれば、機能を実現できないことは、その目的に照らし合わせて不具合は明らかになる。
だが、我々が接している「システムの目的」は何であろうか。
これがなくして、欠陥も不具合もない。
ゆえに、我々は目の前で起きた問題について、いつも場当たり的に短期的視点でしか語れないのだ。

我々が語らねばならぬのは、「システムとは何か」「システムの目的とは何か」、そして「システムが間違った場合はどうするか」ということである。
西欧諸国は、封建制度から民主制度に変わる中で、このような過程を踏んできている。
血みどろの道を経験してきたがゆえに、「システム」を構想する必要性について比較的理解がある。
米国などは、ヨーロッパから脱出してきた人々が理想郷として作り上げた国家であるがゆえ、この思想は先鋭化している。
「構想する」「そうあるがゆえにそうある」というのが血肉化している。
もちろん、それが理想などというつもりはないが、「状況が思わしくないなら環境を変えればよい」という発想ができる。
これができるのと、できないのとでは大違いだ。
環境を変えるという大きな構想力を持たないと、大きな構造変化に対応できない。

「国家幻想論」などというものを振りかざしても構わない。
「システムなんかいらないよ」と縄文時代生活に戻るのもありだろう。
そういう意味では近代文明を取り入れずに原始的生活をしている人々は、近代生活を送る我々よりも2000年ほど先行しているのかもしれない。

なんにせよ、日本では「システム」に関する議論が足りない。
国家というシステムを棚上げにしながら議論するものだから、結局、誰もが最終的に信念対立に持ち込んで負けない議論をして平行線になってしまう。
「大きい政府」とか「小さい政府」とか、その議論の前に、根幹の「政治システム」について議論するべきだ。
専門家が議論するなら、面倒だから省略してもいいけれど、政治家の皆さんにはまだ早い。
「大きい」と「小さい」というワーディングで信念対立しているんだもの。
これは、自分だけは賢いと思う傲慢さの表れ。
「相手はこちらがわかっていることがわかっていないダメなやつらだから、言って聞かせてやる。」的な発想でしか語れない万年野党体質のアホをなんとかして欲しい。

だんだん書いていることがよくわからなくなってきてしまった。
たぶん、最初と最後で論点が変わっている気がする。
あまりにひどい文章になってきたので見直す気にもなれない。
つい昨日の参院予算委員会の政治家の皆さんの議論を聞いていて本当に情けなくなってしまったので、気持ちが高ぶってしまった。
国会議員のみなさんが事実を明らかにしようという謙虚な心もないし、どうすれば解決できるかと考えるという真摯な姿勢もない奴らが、さも「俺の言っていることは正しい。わからせてやる。」という態度になっているのが腹ただしくて仕方がない。

こうなった以上、やはり選挙区をひろげよう。
当Blog開設当初から主張しているように、地域毎に選ばれるような地域の代表である連中が天下国家を語ることが、そもそもおかしいのである。
「衆議院が国家の代表」みたいな馬鹿な議論する輩が多いが、どう考えたって「地域の代表」だろう。
天下国家を語って国会議員になることができないという、現在の選挙制度に致命的欠陥がある。
やはり、憲法を改正し、大統領制にするとともに、全法案国民投票制度に移行すべきである。
議員内閣制の方が人類の知恵の連続性が担保されるとかいう議論をしている場合ではない。
民意を直接反映しない方がいい面もあるが、それでは永久に民度は上がらぬであろう。
「国民」が「国家システム」の構成員なのであれば、国家システムの責任を負うことができるのは国民以外には存在し得ない。


同じこと何度も書くのが面倒なので全く説明不足ではあります。
また、自分のことは完全に棚上げておりますが・・。

[追記]
これなんか同じことだよね。
テーマを変える。
自分達が作ったシステムなのに、無自覚に取り込まれたらだめですよってことです。

チームの人を活かすということ(My Life in MIT Sloan)
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/234c301ea8bbb80129ec2aa86f9b742d


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