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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

レクイエム

2010-03-03 13:59:51 | 哲学・思想
バンクーバー・オリンピックの女子フィギュアで、安藤美姫選手がショートプログラムで使用した楽曲はモーツァルトの「レクイエム」。
過去の自分に別れを告げる葬送曲だ。

日本人的感覚では「レクイエム」というと「鎮魂」を思い浮かべるが、「レクイエム」には「鎮魂」という意味は含まれないらしい。
「レクイエム=死者の安息を願うこと」と「鎮魂=死者の魂を慰めること」とは別なのである。
死後観(死んだ後にどうなるか)が違うのだから、当然といえば当然の違いでもある。

しかし、そもそも「鎮魂」というのは、神道では死者ではなく生者の魂を鎮めることを意味するようだ。
この辺りは、それこそ下手に書くと非常にお詳しい方々に口撃されてしまうので、あまり述べないが、古来、神道では「生きること」そのものが穢れを生むものなので、これをおさめる必要があった。
禊(みそぎ)などはこの典型である。

いや、いきなり話がそれてしまった。
神道の話をしたいわけではない。

「レクイエム」

今、私が私に送りたい言葉だ。
私の想いを葬送したい。
「鎮魂」でもいい。

私は穢れている。
社会通念に照らし合わせて。
だが、それが私にとっての救いでもある。


普段であれば、ここから「社会通念とは何だ?」というような、ドストエフスキー「罪と罰」ではないが、何が、どこからが「悪」なのか。みたいな話をするところだが、今日はしない。

穢れというものがあるから、私は救われる。
穢れがあるから、「穢れ」から逃れようとする「禊」が許される。
これはウルトラ・ミラクル。

私は穢れている。
いや、私は穢れていない。
だが、社会的には穢れている。
しかし、私は穢れることで自分を救う。

なんて楽なんだ。
「救い」のないこの世界に、突如として「救い」が表れる。
「救い」を手に入れる条件は唯一つ。
「私は穢れている」ということを事実として受け止めること。

相対性というのは諸刃の剣

しまった、また話がそれてしまった。

私は、自分の想いを葬送したい。
しかし、葬送する必要がもともとあるわけではない。
葬送することで自分を救おうとしているのだ。

あぁ・・私にとっての「救い」とは何だ?

上村愛子氏の「自分に勝つ」は正しい

2010-02-17 13:45:22 | 哲学・思想
アスリートネタを継続。

一つの在り方を突き詰めている人の考えは深い。

(上村愛子)
http://blog.excite.co.jp/aikouemura/10772280/


私の友人が言ってくれました

難題のない人生は『無難な人生』
難題のある人生は『有り難い人生』

私はその後者を歩いてると。

オリンピックを夢見て
オリンピックでのメダルを夢見て
ずっと戦い続けてきました。

毎年、毎日、新しい考え方や新しい行動
いろんな自分を発見してきました。

自分のこうありたいと思うとおりの自分
自分の嫌いな自分

成功したときの喜び
失敗したときの悔しさ悲しさ
心が折れるとき
また立ち向かうとき

いろんな自分自身と向き合い
スキーの技術の成長と同じように
自分自身を成長させることができました。

ありがたい事だなぁと思います。


人間の身体的特徴を理由にスポーツ選手は早熟だ。
競技にもよるが、彼らのスポーツ人生のピークは10代後半から30代前半にもってくる必要がある。
(中学受験生はピークが12歳って話題も最近あったけれど・・)
若いときから周囲の期待や思惑を一身に背負う辛さと向き合ってきたのだ。

その中で鍛えられる精神力は、並みの人間の比ではないだろう。



(これは自分のことを棚に上げていうのだが)
それはそうと、最近こういう短絡的視点で物事を評価する人が増えた。
当Blogで繰り返しているように、日本の強さというのは、答えを先送りして物事に取り組む愚直さにあったと考える。
この考えは全体的合理性とのトレードオフであって、デメリットもある。
しかし、デメリットばかりを強調して、日本人のある種の奥ゆかしさを批判するのは早計で、トレードオフを無視することがあってはならない。
即座に答えを求められている場面と、そうではない場面をしっかりと認識して判断をくだすべきだが、ろくに考えもせず一つの考え方に一様に染まってしまうのは危険だと私は思う。
まぁ、そこが日本人らしいといえばらしいのだが・・。

上村愛子はなぜ勝てなかったのか?(岩崎夏海)
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20100216/1266289037

↓上のエントリに対する反論は、このエントリを呼んでもらえば十分だろう。

こういう勘違いしている奴がマスゴミに多いような(NC-15)
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20100216/1266330774

「他社に先んじる」ということではなく、「自分に勝つ」という努力こそが彼女を鍛えたのであって、それを批判するのは勘違い野郎と言われても仕方ないだろう。
一つのことを突き詰めて考えた経験がない人なのだろう。


またしても辺境論ネタだが、「自分に勝つ」というのは意味的にはおかしい。
「自分」が「自分」に勝つことなどできないからだ。
「勝つ」というのは相対的価値だから、「自分」が勝てるのは「他者」以外に有り得ない。
では、ここでいう「自分」とは何か。
それは自分が想定する自分。
つまり、「こうでありたい自分」=「理想(仮想)の自分」といいうことだ。

だから、本来的な意味では「自分に勝つ」というのは「自分ではない自分に勝つ」=「他者に勝つ」という意味なのである。
そして「最高の競技者」=「理想の自分」なのであれば、「自分に勝つ」=「金メダル」でもあるわけだ。
(「最高の競技者」でなくても「最高到達点の自分」でもいい。その場合は金メダルとは限らない)
だから上村愛子氏の言説は全く正しいのである。

日本を覆う閉塞感を解決する方法があるか(第三部)

2010-01-14 14:32:58 | 哲学・思想
第一部第二部に引き続いて第三部。
第二部の議論が少々強引だった(説明不足だった)ので補足をする。


言葉と言うのは非常に低レベルなコミュニケーション・ツールで、想いを完璧に伝えることができないばかりか、多くの場合に誤解と偏見を与えてしまう。
どんな人類文学史上に輝く大名セリフも、恋する2人の間で交わされるアイコンタクトやボディ・ランゲージには勝てない。
テレパシーが使えたらどれだけ楽だろう。
しかし、その場合、伝えられないことで発達する文化というのも捨てることになるのだが。
ここでもトレードオフである。


前回の議論では、「資本主義を採用する人々」が「消費活動の極大化」のために「共同体の解体」と「消費主体の原子化」を行ってきたことによって現状の数多の問題が生み出されているので、これらを解決するためには資本主義に共同体という抑制機構が必要であるとする内田樹の主張を斜め45度の方向に受け流した。
私は、「共同体の解体」というのは人々がそれを望むから起きるのであって、資本主義ゆえに起きる現象ではないと主張したのであるが、ここの説明が足りていなかったので補足する。

「○○主義」なるものを漠然と捉えている人達には馴染みがない考え方かもしれないが、「○○主義」というものは人間の頭の中で情報を整理するために行われる無形の情報(ラベリング)であって、形があるものではない。
共産主義や資本主義があたかも構造を持っているように我々がイメージするのは議論の単純化のためにであって、実際に頭があるわけでも手足があるわけではない。
しかも、実は○○主義なんてものは何ら役に立っていない。

我々人類がこれまでしてきたことは「目の前にある問題についてどう対処するか」ということで、その議論の上に出来た制度や文化といったものを事後的に○○主義に分類しているに過ぎない。
いや、もちろん「目の前にある問題についてどう対処するか」を、どういう思想に基づいて考えるかというところに「考え方としての○○主義」なんてものが登場するであろうと考えがちではあるが、実はこの「考え方」というのは、○○主義という大そうなものではなく、単に知識である。

「△△はいけないことだから、□□しなければならない。」
「△△という問題への処方箋は、□□が適切である。」

という具合の知識で、事後的にこれらの知識を体系的にまとめてパッケージングされたものが○○主義なのである。
ゆえに、行為中の人間が「俺は○○主義だから◇◇する!」と考えることはなく、「こういう△△の場合は、◇◇するのが適切だ!」と考えるのである。
これは独裁体制下でも宗教団体内でも同じことである。
「私は■■教だから、●●する!」などと考える馬鹿はいないのである。


だから「市場原理主義者」とか「新自由主義者」とかいって人を罵るのはやめたほうがいい。
なぜなら、言われる側は自分が○○主義者だなんて思っていない。
それなりの理由があるから、そういう主張をするのである。
○○主義者と呼ばれる人達が皆同じ考えを持っているわけではないのと同じ理由だ。
せめてパッケージされた知識を知った上で批判すべきであろう。

さて、第3部の本題に入ろう。

事後的に知識がパッケージングされた○○主義は多くある。
例えば「共産主義」と「資本主義」だ。
(他にも「清貧主義」「菜食主義」「実利主義」「御都合主義」「無主義」・・などたくさんある)
しかし、「共産主義」や「資本主義」を例にとってみても、どこからどこまでが「共産主義」で、どこからどこまでが「資本主義」なのかを、正確に答えられるような人はいないだろう。
海に流れる川を見て「どこからどこまで海水で、どこからどこまでが川の水か」と聞くようなものである。
そんなもの、どこかで思い切りをつけて決めるしかないのだ。

なぜ、そういうことが起きるのか?
なぜ世の中は白黒はっきりつけられることばかりではないのか?

答えは簡単である。
この宇宙が相対的であるからで、2値状態しかとらないものはないからだ。
(またその話か!相対性、相対性ってうるさいよって思うあなた!わかるその気持ちは。しかしこれこそ生きる意味で生命の奇跡なんだ。いずれわかる。)
「0」か「1」かで状態を処理するデジタル信号処理は、人間が思い切ってそう決めているだけで、実際の自然状態は2値で表現できないものばかりだ。

この説明に文章を割くのは面倒だし、これまで当Blogで繰返し説明してきたことなので、以下を参照して欲しい。
(ググったところわかりやすいページを見つけたので、これ以降いつもこのページを参照させていただきます。)

科学哲学史(7) ポパーの決断(哲学的な何か、あと科学とか)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t7.html

おっと、本題に入ろうといいながらいきなり横道にそれてしまった。

結局、「○○主義」は情報を整理するために事後的にパッケージ(一般化)された知識であって実態はない。
「○○主義」と「△△主義」とを区別することは、情報を整理するためには有用だが、それ自体に実態がない以上、パッケージング(一般化)されたものを個別に当てはめようとしても、どこかはみ出るし、どこか足りないものになってしまう。
つまり、何かの実態を「○○主義」という言葉で議論する時は、それが一般化されたもので、個別に当てはまらない可能性があることについて注意されるべきである。

上記を理解した上でで、ようやく本題の本題だ。

では、なぜ人類は「○○主義」を乗り換えてきたのであろうか。
歴史上、「○○主義」は腐るほどあるが、時代とともに採用する「○○主義」は移り変わっている。
ここに、歴史を読み間違えない重要なターニングポイントがある。

先述したように、「○○主義」はパッケージングされた知識である。
中身は知識である。
知識には様々なものが含まれるが、実用観点からみた知識はノウハウと呼ばれる。
ノウハウは、試行錯誤した経験から役に立つ知識が体系化されたものであるから、人間の活動における生産性を上げる鍵である。

ここで感の良い人は気づくだろう。
ということは、「○○主義」はそういうノウハウが必要とされていたから存在するのである。
そう、「○○主義」は何もないところに突然湧き出てくるものではない。
それを必要とする環境があるからこそ自生するのだ。
人類が置かれている環境は同じものが2度と繰り返されず、変わり続けている。
「万物流転」である。

これが、人類が「○○主義」を乗り換えてきた理由である。

人類が「○○主義」を採用するのは、それが人類の知恵だからなのではない。
その時、その場所で必要だと思われる知識を採用しているだけである。
「○○主義」というのは前方向への採用ではなく、常に事後的に採用されているのだ。

だから、本来的な意味では「共産主義であったソ連が崩壊したから共産主義はだめだ。」というのはおかしい。
より厳密にいえば「共産主義と呼ばれる考え方に基づいて運用されてきたソ連において、ソ連国民は環境の変化によって共産主義ではない考え方を採用する必要があると考え、その考えに基づきソ連の解体を決断した。」のようになるであろう。

主義・主張はそれが必要とされたから構築され、存在し、必要なくなれば捨てられる。
これが人類の歴史が教えてくれることだ。

ようやく結論だ。

人類の歴史を鑑みるに、主義の変遷は常に前方向(未来方向に向かって)に行われてきた。
それは人類が環境に適応する結果であり、言い換えれば「進化」の一面といえるだろう。

よって、「資本主義が共同体の解体と消費主体の原子化を行った」かのごとき主張はミスリーディングである。原因と結果が逆転している。

人々がそれを望んだから、事後的に資本主義と呼ばれるパッケージされた知識ができたのである。

はてさて、これで理解いただけただろうか。

第四部へつづく。。

日本を覆う閉塞感を解決する方法があるか(第二部)

2010-01-13 14:17:25 | 哲学・思想

ここでの議論は反証可能性がないので、これはあくまで虚論の域を出ない。
だからここから何を得ようかということは、ひたすら読み手に任されるものなのである。


前回第一部に引き続いて内田樹のブログをコピペしながら持論を述べる。
その後、彼のブログが更新されたのだが、その内容も実に興味深い「ミドルメディアの時代」ので、この議論の後に続けてそちらも引用させてもらうことにする。


鳩山首相が内田樹の日本辺境論をお買い上げだそうです。
(私は立ち読みしていたのですが、彼への敬意をこめて購入させていただきます(笑))
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100112k0000m010043000c.html


鳩山由紀夫首相は11日、東京・丸の内の書店「丸善・丸の内本店」を訪れ、経済書や思想書など計28冊を自費で購入した。記者団から経済書などが多かった理由を聞かれると「資本主義も新しいものが求められており、日本の風土にどう生かしていくか勉強したい」と語った。


...前回からの続き


資本主義に対するもっともラディカルな批判はマルクスによるものだが、マルクスの主張は一言に尽くせば「万国のプロレタリア、団結せよ」という『共産党宣言』の言葉に要約される。
資本主義に対する根底的批判の言葉が「資本主義打倒」ではなく「貧しいもの弱いものは団結しなければならない」という遂行的なテーゼであったことを見落としてはならない。
資本主義が「悪い」とされるのは、別にそのシステムが本質的に邪悪なものだからではない。
それが市場を形成し、貨幣を流通させ、人々を共通の言語で結びつけ、通信、交通、信用、決済のシステムを整備する限り、資本主義はまことにけっこうなものである。
問題は、資本主義の活動性がある閾値を超えると、人々を分断し、孤立化させる点にある。
資本主義の邪悪さはその構造そのもののうちにではなく、「人類学的水準」において顕在化する。
だから、資本主義に対する抑制的行動は「人類学的」水準において、つまり「弱者の連帯」というかたちでのみ効果的に果たされる。


なるほど。「そうきたか」と思わされる名導入である。
さすが、内田樹。

ここが、これから彼が語る物語の出発点になる。
このエントリの後半部分について私は激しく同意するものであるけれど、彼と私の結論を違ったものにしてしまうのは、この部分に関する認識の違いである。
彼の問題意識は「資本主義の問題は、人々がそれを採用する時、人々を分断し、孤立化させる点である」と述べるのである。
思わず話しに引き込まれそうになるが、逆をいえば、ここが否定されると彼の資本主義否定は無効化されてしまう。

「人々を分断し、孤立化させたものは何か?」

この問題については確実に答えることは難しいであろう。
どのレベルで答えるかによって、答えが変わるからだ。
(原因には原因があり、またその原因にも原因がある。このどの時点での原因を述べるかだ。)

また、資本主義を採用する国家で起きたことが、資本主義ではない制度を採用する国家で起きないのかどうかも確かめられるべきであろう。
そもそも人類的進化の上で、人々の孤立化は不可避かどうかという問題だ。
資本主義に促進する効果があるのか、たまたま資本主義国家で顕在化したのか、などだ。

続いてもう少し細かい説明があるので見ていこう。


マルクスの説いた「共産主義」とは「コミューン主義」communismeということである。
コミューンを基礎単位として社会は構築されるべきだという論である。
別に経済活動を国家統制しろとか、一党独裁にしろとか、そういうけちくさい話ではない。
コミューンとは人間と人間のあいだの距離が「わりと近い」共同体なので、「論の政治的正しさ」や整合性ではなく、「ガキのころから知っとるけど、あれはなかなか肚のすわったやっちゃ」とか「あれは口だけのヘタレや」という判断が合意形成に際して優先的に配慮される場所というふうに私は理解している。
そういう集団を社会活動の基本単位とすべきだと提唱していたというふうに私はマルクスを理解している(日本のマルクス主義者のほとんどは私と意見を異にされるであろうが)。
そんなマルクス主義の最期の「彗星の尻尾」も1970年代の初めに宇宙の彼方に消え去り、それ以後覇権を握った資本主義は共同体の解体と消費主体の「孤立」を国策的に推進してきた。
自己決定・自己責任論も、「自分探し」も消費主体を家族や地域や同業集団から切り離し、「誰とも財産を共有できないので、要るものは全部自分の財布から出したお金で買うしかない(金がないときはサラ金から借りる)生活」をデフォルトにすることをめざしてきたのである。
その「趨勢」に日本人の全員が加担してきた。
その「結果」として若い世代の方々は「共生する能力」を深く損なわれたのである。
彼らの責任ではない。
教育も、メディアも、思想家たちも、率先して「誰にも決定を委ねない、自分らしい生き方」を推奨してきた結果、「共同体の解体」と「消費主体の原子化」が晴れて実現して、こうなったのである。
日本社会が官民を挙げての努力のこれは「成果」なのである。
「共同体の再生」という大義名分には反対する人はいないだろう。けれども、それが「消費活動の冷え込み」を伴うという見通しについては、「それは困る」と言い出すだろう。
申し訳ないけれど、これはどちらかを選んでもらうしかない。
資本主義者のみなさんにご配慮いただきたいのは、限界を超えて「原子化」した人間はもはや消費活動さえ行わなくなるということである。


「資本主義は共同体の解体と消費主体の孤立を推進してきた。」
なぜなら
「共同体生活では消費は活発化されないので、消費活動の極大化を目指すため」
その内容は
「共同体の解体と消費主体の原子化」
ここに
「自己決定・自己責任論という理路がある」
その結果
「共生する能力が深く損なわれた」
その上
「限界を超えて原子化した人間は消費活動さえも行わない」

つまり、資本主義者は消費活動を極大化するため共同体を解体することに一生懸命になった。
必然的に人々は分断され、孤立化する。

なるほど。一理ある。
しかし、彼の意見が資本主義者に受け入れられることはないだろう。
残念だが、彼と私の結論が異なる原因はここで決定的になる。
「資本主義者が消費活動を極大化するために共同体を解体しようとした。」というのは、ある意味で陰謀説に近い。
(思うに彼は妄信する者を嫌った議論が多いが、資本主義者が妄信していると思うには少し早い。)

なぜなら、私が思うに「人々は消費活動を極大化したいと思った」のではなく、「人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知りたいと思った」なのだ。
資本主義社会において見られた共同体の解体は、消費を指向したこと(消費活動を際限なく可能とする資本主義とうい仕組み)に要因があるのではなく、己の欲求を満たそうとする人間の性質そのものに要因があるのだ。
すると、この共同体の解体の要因は「資本主義」ではなく「人間が人間であること」にあることになる。

彼はこういう。

資本主義の邪悪さはその構造そのもののうちにではなく、「人類学的水準」において顕在化する

これはミスリーディングだ。
邪悪という相対的概念を使うのは好まれないが、「人類学的水準」において顕在しているのは、常に「人類学的邪悪さ」である。
彼のいうとおり資本主義は生きていない。
ゆえに邪悪さを持ちようがない。
邪悪だというなら、邪悪なのは人間でしか有り得ない。

いや、もちろん「資本主義という仕組みが人類学的邪悪さを顕在化させる」という議論は成り立つ。
では、資本主義以前のコミューン主義制度において人類は邪悪ではなかったのであろうか。
彼の論理に従えば、コミューン主義制度においては人類の邪悪さは抑制されるので、よりよい社会が成立するということになる。
これは現実か。
歴史上、そんな時代はあったか。
(これから先にあるという意見か。とりあえず過去の話を。)
昭和の「3丁目の夕日」や明治の「坂の上の雲」のような時代に日本人は幸せだったか。

その時代に日本に訪れた西欧の人間が「日本人は幸せそうだ。心が洗われる。」なんて言っているのを聞いて、「あの時代はよかったのだ。」と思っているのだとしたら、それは大きな勘違いである。
それは西欧から訪れた人間の価値観に照らし合わせて幸せそうなだけである。

ここは断言しよう、そのように皆が幸せだった時代はなかった。
そんな時代が存在できるのは人間の頭の中だけだ。
古代ローマ時代や江戸時代にはあったという人がいるかもしれないが、無駄な問いである。

なぜか。
答えは簡単である。

幸福とは常に相対的なものだからである。
この時代だけが特に幸せなんてことは有り得ない。

なぜか。

不幸がなければ幸せで有り得るはずがないからだ。
苦労を知らずして優しさを理解できぬように、不便さを知らずして便利さを知ることはできないし、憎しみや無関心をを知らずして愛を知ることもできない。
人間の認知の本質は、行為や結果にはなく、常に中身(動機)なのだ。
(同じことをしても、感じるものは人や時代によって変わる。)
我々が、この相対的な宇宙の住人である限り相対性から逃れることはできない。
幸せというものが絶対的基準であるかのように思う人は、そう思う限りにおいてこの考えは理解できぬであろう。
(幸せと不幸せのバランスが重要だが時間的作用性を考慮に入れるとそのバランスがいつ結実するのかは難しい問題で、結局すべてがプロセスなのだ。その上、時間の矢は過去方向には戻らない。我々には未来という希望を信じることしかできない。なんてこった!)

つまるところ、こうである。

人間は「人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知りたいと思った」。
この決して飽きることのない欲望こそ、人類を人類足らしめる要素である。
これは太古の時代から変わらず、いつの時代も人類は新たな主義や思想や制度を採用してきた。
そして近代という人類史上ごく狭いわずかな期間において資本主義という制度を採用している。(現在進行形)
しかし、これは人類が出した答えでもなければ、結論でもない。
あくまでも途中の結果であり、プロセスの一部でしかなく、過渡的な現象である。
これまでにそうしてきたように、これからも人類は走り続ける。
人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知るために、あらゆる手段を使うであろう。
そのために資本主義が障壁となるようであれば、資本主義を修正または乗り換えるであろう。
しかし、それは人類の欲望を抑制するためではなく、それが最善の方法と信じるからである。


この種の議論に慣れない方には細かい違いとうつるかもしれないが、これは本質的に大きな違いである。
要因を取り違えるということは、対策を誤るということになり、結局、結果として損失を被る可能性があるからだ。
誤った情報に基づいてなされた判断は誤った結果を導く。
(もちろん、完璧な答えなど誰も知らないが)

第3部へつづく。。

日本を覆う閉塞感を解決する方法があるか(第一部)

2010-01-08 19:29:01 | 哲学・思想
すごい重たいテーマですが内容を見てがっかりした方おりましたらすみません。

内田樹。

私は自分勝手かつ一方的に彼と考え方が似ていると思っている。
彼の経済に関する認識はトンチンカンだから出てくる結論は異なる場合が多いが、問題意識は似たようなところにある。

そんな彼の今日のブログは秀逸である。(しかし相変わらず結論は異なる)
これを読んで書いてあることをさっと理解できるなら、当Blogの主張の真髄を理解したということである。
少なくても当Blogのスピリチュアル・シリーズで表現しようとしたことがあまりにもさらっと書いてある。
「なんだそんなものか。」と思われた方はもう当Blogを読む価値がないのかもしれない。
なぜなら、当分これ以上の結論は出てこないからだ。
(どうしよう・・やっぱ政治あたりをメインにやってくしかないかなぁ)

長くなるが持論を交えてコピペしていく。

そんなことを訊かれても(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/01/08_1532.php


仕事始めに取材がふたつ。
太田出版の『atプラス』という雑誌と、『週刊プレイボーイ』。
媒体は違うが、たぶんどちらも対象としている読者の世代は同じくらい。
20代後半から30代、いわゆる「ロスジェネ」世代とそれよりちょと下のみなさんである。
生きる方向が見えないで困惑している若い諸君に指南力のあるメッセージを、というご依頼である。
『atプラス』の方はかなり学術的な媒体なので、「交換経済から贈与経済へ」という大ネタでお話しをする。
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」という自己形成モデルのおおきなシフトが始まっているという大嘘をつく。
もちろん、そのようなシフトは局所的には始まっている。
けれども、まだまだ顕微鏡的レベルの現象である。
それを「趨勢」たらしめるためには、「これがトレンディでっせ」という予言的な法螺を吹かねばならぬのである。
めんどうだが、そういう仕事を電通や博報堂に任せるわけにはゆかないので、私がボランティアでやっているのである。


まず、私はなぜ彼が「交換経済から贈与経済へ」と結論に至るのかはわからない。
言葉の問題として、つまり意図を伝えやすくするために「贈与」という言葉を使っているのであれば納得できるが、真なる意味で「贈与経済へ」などと言っているのだとすれば、これはかなりトンチンカンな意見と言わざるを得ない。

もしそうだとすれば「交換経済」の定義が狭すぎる
いや、彼のことだから恣意的に、現資本主義を意図的に貶めるために「交換経済」というラベリングをし、資本主義に置き換わるものを「贈与経済」と言う形で浮かび上がらせているに違いない。
これはかなり作為的な表現である

そもそも真なる意味での「贈与」というものが成立するのかという疑問が浮かぶ
たとえば「無償の愛」などというものが成立するかどうかと同じ問題だ
(これは論点のすりかえか?そのつもりはない)
スピリチュアルな分野ではこの言葉はよく使われるので、多くの人は誤解しているであろうが、この言葉はあくまでも方便であって真実を述べているのではない。
本物のスピリチュアリストが「無償の愛」と口にする時は、これは人間の知性でわかりやすいように言葉にしているだけで、真なる意味での「無償の愛」は存在しない。
「母親の子供に対する愛情のように」などというが、そんなものはマヤカシだ。
「であるなら、なぜ母親は自分の子供にしか愛情を提供できないのだ。それはその愛情が無償の愛などではないからだ」と私なら答えるだろう。
子供がいなければ母親の愛情が存在しないのであるから、子供がいることによって初めて愛情が存在できる
これがどのような意味で「無償の愛」に昇華できるというのか
完全に条件付の愛ではないか。

中にはこう反論する人がいるだろう。
「マザー・テレサのように誰にでも分け隔てない人もいる。」と。
だからそれは、誰かがいないと成立しない愛なのである。
誰かがいることによって成立する愛なのだとしたら、その愛の発生は条件にまみれてるのだ。

そうするとこう反論する人がいるであろう。
それは人間だから不完全なのであって、神の完全なる愛は違う。」と。
なるほど。それはあるかもしれない。
だが、経済は人間社会を暗黙的に前提としているのだから、神の愛では経済は成り立たないのである。

するとこう反論する人がいるであろう。
「ちがう。人間は神の子だから可能性はあるんだ。」と言われるかもしれない。
多分こういう人は初めから議論する気がない。
人間が神になる可能性はある。それは認めよう
だが、人間が神になった時、経済はあるのだろうか
あると言われるのかもしれないが、私はないと思う。
経済が必要なのは人間社会もしくは神ではない下等生物社会だからなのではないか
神の世界にも経済があるのだろうか
完璧なのに経済が?
そんなバカな。

話が脱線したので戻す。(しかしこのネタは脱線しまくることになるであろう)

私は人間が「無償の愛」を実現することは不可能だと思っている。
同様に「贈与経済」なんてことは有り得ないとも思っている
つまり、人間社会における全ては「贈与の形をした交換経済」でしか有り得ない
だから、内田樹の主張する「贈与経済」などというものは「交換経済」の言い回し方の問題だ。
そういう意味で私は「贈与経済」は新しい「交換経済」のコンセプトなのだろうと考えている

そういうことだから、いらぬ批判を受けたり議論が混乱することを避けるために、彼は言い回しを変えた方がいい

「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」



「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな交換者へ」
とするか、または
「クレヴァーな交換者から、よりクレヴァーな交換者へ」
が適切と思われる。

よし、次へ行く。


資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。
経済学者がさっぱり言わないので、私が代わりに申し上げるが、そういうことなのである。
共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もうそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。
銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。
「やるなら自分の手銭の100円玉使ってやれよ」という話である。
経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。
だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。


「資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。」ということはないだろう
おそらく彼の頭の中では「資本主義者」がいわゆる「新自由主義者」に近いイメージで形付けられているのであろう。
しかし、私が知る限り完全自由競争を指向する専門家はいない。
一部カルト的な信者はいるが、「共同体の再構築」を全面否定するなどというのは一般的には受け入れがたい考え方だ。
資本主義者が反対してきたのは、共同体が形成されて、それが利害関係の調整において強い影響を持つと調整機能が鈍ることであって、決して共同体形成に反対してきたのではない
軸が違う。
「安心」や「公平」という人間の感情が経済活動において重要な要因となることは認知されているし、それが共同体形成であっても特段問題がない
資本主義者は、利害調整や配分機能において一部の利権が優先される市場の歪みを嫌っただけである
市場の調整機能が損なわれると、結局みんなが損するだけなので、全体最適の観点から、市場の歪みを極力排除しようと言っているだけに過ぎない。

「共同体形成は必ず利権を生み出すもの」だというのなら、共同体形成が市場の調整機能を歪めることが必然であるから、資本主義者が共同体形成を嫌うという論理ならわかる
しかし、この議論は少し強引だ。
まず「嫌う」と「否定する」は似てるが違う。
また、共同体形成が必ず利権を生み出すのだとすると、その共同体はある目的(利益)を持った集団であり、その成立動機からして「贈与」から遠いものなのではないか
結局、共同体間では「交換経済」がなされなければならず、「贈与経済」は成り立たない
「贈与経済」が機能するためには、十分に、むしろ地球で一つくらいに規模が大きくならなければならないが、そういうことを意味しているのだろうか

第1部から飛ばしすぎて読者の方は読みにくくて仕方がないのかもしれないがご了承いただきたい。
のっけから内田樹批判を激しくしてきたが、決して彼の言ってることが理解できないわけではない
誰も言わないから私がタネを明かそう
彼の言っているのは「あの世」のお話なのです。(「あの」ってどれだ?)


「あの世」は「生きる」必要がない。
生きる必要がないというのは「何かを必要とすることがない。」という意味だ。
これをイメージするには相当な想像力が必要かもしれない。
必要とする必要がなければ交換する必要がない。
交換する必要がないということは、経済が必要ないのだ。
これは画期的である。
「あの世」では経済が必要ないのだ。
それを「この世」に適用しようというコンセプトは理解できるが、納得できない。
物質的世界で生きるのに様々な条件がついてまわる「この世」に「あの世」の作法を適用しようというお話自体が無理なのである。


でもほら、そう考えると内田樹の主張がよくわかるじゃないか。


第2部へ続く。

坂本龍馬という物語

2010-01-07 21:54:05 | 哲学・思想
個人的に物凄く驚いて思わず絶句する出来事があった。
驚くのは私だけで他の人にはほんとどうでもよいことだけれど
なんとまた内田樹とシンクロニシティ(偶然の一致)である。
今日私は同僚に「私の未来と坂本龍馬」について語ったのだが、その内容が今日更新された内田樹氏のブログの内容とほとんど同じだったのだ。
これまでも度々見られる現象である。

ニコラス・タレブのブラックスワン的に言えば「そりゃ大河ドラマの龍馬伝始まったし、同時期に似たようなこと考えることもあるっしょ。ほとんど違うけどたまに一致するとそこだけ強調されまんがな」となるが、1度や2度ではないのである。
まぁ確かに彼とは出す結論は違えど考え方は近いと勝手に一方的に思っているので、一致することは多いのかもしれない。

坂本龍馬フィーヴァー(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/01/07_1037.php

ほとんど原文ままを下記にコピペする。
自分が同僚に語った内容と同じ部分を太字で強調する


私たちの国では、システムや価値観のシフトが時代の趨勢としてやみがたいという「雰囲気」になると、ひとびとは幕末に眼を向ける。
地殻変動的な激動に対応した「成功例」として、私たちが帰趨的に参照できるものを明治維新のほかに持たないからである
日本人がある程度明確な「国家プラン」をもって集団的に思考し、行動した経験は維新前夜だけである。
それはアメリカ人が社会的激動に遭遇するたびに「建国の父たち」を想起するのと似た心理機制なのかも知れない。
司馬遼太郎によると、坂本龍馬の名前はひとにぎりの旧志士たちのあいだでこそ知られていたが、明治中期にはもうほとんど忘れ去られていた
それが国民的な知名度を得たのは、日露戦争前夜の1904年、皇后の夢枕に白衣の武士が立ち、来るべき戦争における日本海軍の守護を約したという「事件」があったせいである。
夢に出てきた侍の容貌が細部に至るまであまりにはっきりしていたため、皇后がそれを侍臣に徴したところ、当時伯爵になっていた田中光顕が「それは坂本龍馬です」と答えたとされている。
田中は旧土佐藩士、武市瑞山の門人だった人である。龍馬が京都の近江屋で遭難したとき、いちはやく現場に駆けつけ、坂本龍馬と中岡慎太郎の死に立ち会った。
このオカルト的エピソードが新聞に掲載されて、龍馬は一躍「日本海軍の守護神」という神格を獲得した。
どこにどういう作為があったのか、今となっては知る術もない。
だが、日露戦争前夜という国家的危機に遭遇したとき、「坂本龍馬」というアイコンが幻想的な国民の統合軸として、集団的に選択されたということに間違いはない。
この選択はおそらく無意識的なものであったはずである(他人の夢の中に出てきた人の容貌を聞いて人間が特定できるはずがない)。
けれども、無意識的な選択であったということは、それが日本人の「欲望の真のありか」に近かったということでもある。
私たちが現在有している坂本龍馬像はその大部分が司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で造型したものである
けれども、これを司馬の「創作」とすることに私は微妙な違和感を覚える。
司馬遼太郎は実にさまざまな幕末の人物を列伝的に描いている(西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、近藤勇、土方歳三、沖田総司、村田蔵六、山岡鐵舟、清河八郎、以下無数)が、司馬「竜馬」ほど生き生きと描かれた人物は他にいない。
それは司馬遼太郎自身が「この人を日本人が『危機』のときに帰趨的に参照すべき『日本人の原点』としよう」と願って「竜馬」を造型したからだと私は思う。
そして、そのような種類の「期待」は司馬が描くほかの幕末人士のうちには見ることができない。
高杉晋作も土方歳三も十分魅力的に描かれてはいるが、その人間的欠点まで含めて「愛すべき」人物として描かれたのは坂本「竜馬」ひとりである。
この「えこひいき」のうちに、私は小説家の作為ではなく、田中光顕と同じ種類の「国民的願望」の投影を見るのである。
坂本龍馬が「ほんとうは」どういう人だったのかということには歴史=物語的には副次的な重要性しかない
私たちが自分たちの国民的アイデンティティとして、それに基づいて思考し、行動するのはいつだって「歴史的事実」そのものではなく、「歴史的事実として選択された『物語』」だからである
「ほんとうは何があったのか」を知ることよりもむしろ、「『ほんとうは何があった』ことに私たちがしたがっているか」を知ることのほうが切実なのである
坂本龍馬は私たちが「近代日本人の原点」として、国民的な合意に基づいて選択したアイコンである
私はこれを「賢い選択」だったと思っている。
近代日本人がなしたロールモデル選択のうちで、もしかするといちばん賢明な選択だったのではないかと思っている。


坂本龍馬は本当に国民的人気を得ている。
偉人ランキングで調査をするとほぼ間違いなく「1位坂本龍馬、2位織田信長」である。
私の周囲にもファンは多く、歴史好きでなくても坂本龍馬は好きだという人はよくみかける。
全国に同好会が腐るほどあるし、坂本龍馬の生まれ変わりを自称する輩まで大勢いるのだ。
しかし、世に語られる坂本龍馬像がフィクションであったらみんながっかりするであろう。

だからといってそれが駄目だというつもりはない。
歴史と言うのはそもそもフィクション性を持っているからだ。
その時代、現実がどうだったかということを確かめることはできない。
伝承を物証をもって裏付ける作業には限界がある。

だから、私は歴史が本当かどうかなんてことを考えることはあまり意味がないと思っている。
(歴史に対する理解が争いを解決してくれる場合もあるのかもしれないが)
みんなそれぞれが思うように歴史に物語を求めたらいいと思う。
我々が知っている坂本龍馬は「国民の願望」による創作だ。
だから未だに坂本龍馬はみんなの前に現れる。
「平成の坂本龍馬」だとか言ってね。

「人々に受け入れられる物語には願望が込められている」という仕組みを知ることは、基本的認識として持っておきたいことだ。

空っぽの有用性

2009-12-29 00:48:24 | 哲学・思想
ショックなことに夜中にがんばって書いたエントリの半分が消えてしまったので書き直しました。

前回のエントリで老子の「タオ(道)」の話を出したのは唐突だったが、これは年の暮れに少し物思いにふけていたのと、↓の記事のある一部分に関連を見出したからだ。

鳩山首相政治資金問題会見、雑感(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-cbe0.html


現在では著作権が山本七平の親族に移譲され「山本七平の日本の歴史」(参照)というタイトルになっているが、当初の著作権者イザヤ・ベンダサンはこう述べていた。漱石の「こころ」の文脈で。

 この点で、この作品に乃木将軍が登場するのは偶然ではない。彼を軍神にしたのは、実は、日本人ではない。むしろ逆輸入であって、少なくとも戦争中と直後は「乃木無能」が定評であった。彼は確かに無能である、というより「即天皇去私の人」であり、この点でまさに真空的人格であった。
 従って彼は、意志、決断、それに基づく指導力などはじめから皆無なのが当然であり、ただその真空的な人格が周囲に異常なエネルギーを巻き起させただけである。そして、それが発揮する --- というより実際には「させる」だが --- 一種独自の力に、逆に超人乃至は超人的偉力をもつ指揮官と錯覚したのは、日本人よりも外国人であった。彼らには「去私の人」のもつ真空が発生させるエネルギー、それは理解できないが故に、かえって不思議な魅力になっていき、自分もそれに巻き込まれて、正当な評価を下しえなくなってしまうのである。
 実はこれが「天皇制」のもつエネルギーである。中心に、欲望の無力状態、人間関係・社会関係における無菌人間を設定し、一種の真空状態を作り出す。これを「去私の人」と言いうるなら、そういって良い。本人は真空であるから、一切の意向はない。いや、たとえあったとしても、ないと設定される。従って意志決定も決断もしない。それが徹底すればするほど、それはますます真空状態を高め、それが周囲に異常なエネルギーを起こして台風を発生させ、全日本を含み、東アジアを巻き込み、遠く欧米まで巻き込んで、全世界を台風圏内に入れてしまう。しかし「台風の目」は、静穏であり虚であり、真空であって、ここには何もない。たとえ「目」が非常な早さでどこかへ進行しても、それは周囲の渦巻が移動させているのであって、「目」が「目」の意向に従って進路を決定しているのではない。


この極東ブログに出てくる「真空人格のエネルギー」は、老子道徳経の第11章で言わんとしている「空っぽの有用性」のことである。


老子道徳経の第11章

三十輻共一轂   三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。
當其無有車之用  其の無に当たりて、車の用あり。
挺埴以爲器    埴(つち)をうちて以って器を為(つく)る。
當其無有器之用  其の無に当たって、器の用有り。
鑿戸以爲室    戸ゆうを鑿(うが)って以て室を為る。
當其無有室之用  其の無に当たって、室の用有り。
故有之以爲利   故に有の以て利を為すは、
無之以爲用    無の以て用を為せばなり。

[当Blogによる独断と偏見による意訳解釈]
車ってのは車輪の穴に車軸を通すことで動くよね。
穴がなかったら動けなくて車の意味無いよね。
土をこねて器を作ってみても、中がくり抜かれてなかったら使えないよね。
器ってのは中が空だから意味があるんだよ。
戸や窓ってものを形作って部屋を作ってみても、中がつまってたら使えないよね。
部屋ってのは中が空じゃなきゃ意味ないんだよ。
ってことで、我々は普段モノが役に立っていると思うけど、実はその前段で空っぽであることが役に立ってるんだよな~。


慣れていない人にはちょっと難しいかもしれないけれど、我々は普段「何かが役に立つ」を「(有形無形を問わず)構造を持った何かが役に立つ」と無意識的に脳内変換している
役に立つモノは「有」であると考えている。
例えば、我々は普通「家」を役に立つモノだと考えるけど、「家の中身(空っぽの部分)」が役に立つとは考えていない。
役に立っているのは「家」であって「家の中身」ではない。
同様に水を飲むのに「コップは役に立つ」けど「コップの中身が役に立つ」とは考えない
それは、我々が「コップ(有)」を考えるとき、無意識的に「コップの中身(無)」を前提として捉えているからだ
(少ない事例でいきなり結論めいたことを述べるが)
要は、「有」の前段に「無」があって、「無」がなかったら「有」が存在し得ないということを意味している。


これは「無」の中に「有」があるってことなのだ。
いつもの言葉で言えば相対性を用いて「無」から「有」を構築しているということ。
この視点はものすごく強力なもので、万事に適用できる。
少しずつ突き詰めていこうと思う。

これが「空っぽの有用性」とどう絡んでくるかを述べよう。

いきなりサッカーの話をしよう。(適切な例かはわからない)
サッカーというスポーツでの肝要は、空きスペースを創ることにある
戦略高いチームは空きスペースを相手陣地に創り出す戦術に長けている。
相手を誘き寄せて空白地帯を創り、そこにパスを出す。
そこにパスが来ることを予期していたプレイヤーが抜け出してボールを受ける。
そのプレイヤーはスペースにおいて自由を得るのだ。
伝説的で独創的プレーが表現されるのはプレイヤーの自由があればこそである。

続いて、組織の話に移ろう。
例えば「会社」について考える。
「会社」には身体があるわけではない
「会社」という組織は型であって中身はない。
しかし、中身がないから、中にいる人は自由に行動できる。
たいていの「会社」には、中にさらに「役職」という型がある。
会社」の中身が空っぽだと個人の自由裁量が大きすぎるので、普通さらに「役職」という型を創って個人の裁量を限定する
しかし、逆に会社の中身を型だらけにしてしまうと個人の裁量がなくなってしまう
こうすると、もはや自由意志を持つ人は不要になる
単純労働は新興国に移動するか、もしくは機械化されてしまう

型をどう決めたらよいかわからない仕事もある
その場合、やはり自由意志を持つ人と「空きスペース」が必要だ
一般にクリエイティブな仕事をする人に当てはめる型を少なくするのはこのためだ。
芸術家にいたっては型をはめようとしないだろう。

これで感のいい方はもうわかるだろう。
「空っぽの有用性」とは「自由」にある
換言すれば、人間の「自由」を発揮したければ「空っぽ」であることが有用であろう
「自由」を発揮させたくなければ「空っぽ」を創ってはいけない

さて、そろそろ「真空人格のエネルギー」と「空っぽの有用性」を繋げて考えてみよう。
(もう答えてしまっているけれど)

なぜ真空人格の周囲に莫大なエネルギーが生まれるのか
それは「自由」が周囲にもたらされるからだ
「自由」は人類が持つ最も強力な性質だ。
「自由」がなければイノベーションも生まれない。
「自由」がなければ何も変わらないだろう。
(「自由」が何かという究極の問いについての持論はいつか述べたい)
あとはどのような方向性(型)が示されるかだけだ。

ゆえに、「創造性」を最大限発揮したければ「神のごとく沈黙すること」である
その真空の周囲には「自由」がもたらされ、能力の限りを発揮するであろう。
ただ、その発揮される方向が必ずしも望ましいものとは限らないなら、真空加減を調整するしかなかろう。
時としてその調整には「権威」が用いられる
「権威」は型のようで型でないようなものだ。
解釈そのものに自由裁量があるからだ。
非常に便利なツールである。

社会における必要悪とは何か

2009-12-25 16:51:35 | 哲学・思想
これは社会を表現するのに非常に本質的でしびれるものだ。

鳩山首相政治資金問題会見、雑感
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-cbe0.html


私が傾倒した思想家吉本隆明は、正確な言葉ではないが、こう言っていた。食えなくなったら盗みでもしなさい、それは悪いことではないのだ、と。盗んで食えるものがあるなら盗めばいい。人が飢えて死ぬより何倍もよい。人が飢えるような世界そのものにいかなる正義でも認めてはいけない。少なくとも、他者にそんな正義を求めるような社会を作ってはいけない。この世にあって大衆が生きること、その倫理こそが社会の根幹ではなくてならないし、そこには必然的に悪が含まれる。

[中略]

「銭ゲバ」ではないがカネがなければ親が死ぬという状況もある。そういう状況に立つ人が悪を自身の倫理と受け入れるなら、罪は罪でもしかたがないと思うし、同情せざるを得ない。
 少なくとも、カネがあって、カネを使って汚い所作を他者に押しつけて、自身は潔白だという人間よりは、食い物やカネをくすねた人間のほうがはるかに尊いと私は思っているし、それは戦後日本の餓えをしのいだ記憶やその生の話を伝え聞く庶民には当然のことのように思っている。


ここで述べられているのは、「公平」であるという「正義」と、それに反する「不公平さ」という「悪」についてである。

これまで確認されている人間の性質として、人間は「経済的合理性」よりも「公平さ」に対するバイアスが強いことがある。
「経済的損得」よりも「裏切り」「背信」「怠惰」「狡猾さ」を許さない。
「最も多く人が助かること」よりも「助かる人が少なくても公平であること」を重視するのだ。
ゆえに法律は「合理性」よりも「公平性」が重視されて作られているし、弱者が拳を握り締めて正義を訴える時の根拠は「公平性」である。
世にいう「正義」とは「公平さ」に他ならない
(ここでは話を単純化しているが、正義は相対的な概念で、各個人にとって公平であるか否かに基づいていると考えてもらいたい)

吉本隆明が言わんとするのは、「求むべき社会倫理の根幹」は「合理性(全体最適)」であり、「正義(公平)」がそれを邪魔するのであれば、それを打ち砕く「悪(不公平)」は必要悪である。というものだ。


「全てにおいて公平であること」を社会的善として定義すると、社会は非常に非効率的で硬直的になってしまう。
代表例が社会主義である。
社会主義は公平さを最重要視するので、沈むタイタニック号の中でも「できるだけ多くの人が助かる道」よりも「できるだけ皆が公平に助かる道」を選ぶ。
いつもいうようにトレードオフから逃れることはできないので、結果は散々たるものになるだろう。


無論、それがダメだというつもりはない。
我々の選択の問題だ。

トレードオフについて考える [初級編]

2009-12-05 01:03:01 | 哲学・思想
今回のエントリはトレードオフに対する理解を深める初級編です。
いや、単に時間がないなかでエントリ数だけ稼ごうとするものです・・。

私は日常的に次の言葉をよく使う。どれも同じ意味だ。


「この宇宙ではトレードオフから逃れることができない。」
「この宇宙では相対的であるということから逃れることができない。」
「この宇宙において絶対性とは有/無意識的に問わず幻想に過ぎない」


しかし、そんな話をすると、こんな反応が返ってくることがある。


「必ずしも、トレードオフではないことがあるのでは。」
「例えば、"宝くじにあたること"とか。」
「働かずして棚から牡丹餅じゃないか。」


私はこう答える。


「あなたが、宝くじで3億円当たったとしよう。」
「そうすると、あなたは"3億円当たらなかった人生"で得たであろうことを失ってしまうことになる。」
「例えば、あなたは苦労して家を建てる経験を失う。」
「お金を細かく工面することで成り立っていた生活を失えば、あなたはこれまでと異なる生き方をすることになる。」
「慣れない生き方は、時としてあなたに慣れない経験をもたらす。」
「泡銭を手に入れた人間の末路を示した物語は世の中に多い。」


こういう話を一発で理解できる人は、そもそも「トレードオフ」を理解できる人だ。
たいてい次のような反応を示す。


「そんなの屁理屈だ。」
「"たられば"を使えばなんとでも言える。」
「私は3億円当たっても変わらない自信がある。」


トレードオフを理解できない人は、自分にとっての利益が何かが見えていない。


「私は仮定の話をしたのではなく、事実を述べただけだ。」
「もしあなたが貧乏なら、金持ちの経験をすることはできないし」
「もしあなたが金持ちなら、貧乏の経験をすることはできない。」
「何かによってあなたが変わるかどうか、もちろんそれはあなたの問題である。」
「そのこと自体、私がどうこういうことではない。」
「しかし、あなたが何かを得たということは、それが得られなかった場合に経験したであろうことを失ったのと同意なのだ。」


反射神経がいい人はこう反論するだろう。


「"経験を失った"というが、得たい未来を得て、得たくない未来を失ったといえるのではないか。」


いつものパターンでこう答える。


「それが"得たい未来"なのか"得たくない未来"なのか、なぜあなたにはわかるのだ。」
「未来が実際にどうであるかは事後的にしかわからないはずだ。」
「あなたは過去においては得たくなかったけど、未来において、得てよかったと思うかもしれない。」
「その場合、あなたは得をするのか、損をするのか。」


結局、次のようなコメントをする。


「でも、3億当たったら生活楽になるし、欲しいもの買えるし、バラ色の人生が待っていそうじゃないか。」


議論が堂々巡りするので、少し結論染みたことをいう。


「だからそれは、経済的な余裕は手に入れるが、経済的余裕がないことによって得る経験を失う。」
「つまり、3億円を手に入れるということは、基本的にあなたが変わることを意味している。」
「あなたが本気で変わりたくないと思っているなら、3億円を手に入れても、3億円を手に入れていないかのように振舞うことだ。」
「その場合、あなたには3億円を手に入れる意味があるのだろうか。」
「逆に、3億円が欲しいなら、あなたはあなたを変えることを覚悟しなければならない。」


つづく。。

費用負担のない便益など存在しない

2009-09-23 10:44:34 | 哲学・思想
今日も内田樹ネタです。
(私は彼と考え方が似ているのです)

デモクラシーのコスト(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/09/17_1112.php

人類が誕生して数百万年、有史と言われる時代が1万年近くあるわけですが、紆余差局しつつ我々は「民主主義」という政治形態を採用しています。
(民主主義の定義は何かという小難しい話はここでは省きます)
共産主義でも社会主義でも、まして専制国家でも封建制度でもなく、なぜ「民主主義」なのでしょうか。

歴史にあまり興味のない人は、共産主義=旧ソ連的な暗い社会や、専制国家=中世の貴族社会などをイメージするかもしれません。
一部の富める権力者と多くの奴隷のような労働者というピラミッド構造に終わりを告げた制度が民主主義なのだと。
参政権や投票権を国民全員に与えられ、国民一人ひとりが主役の制度であると。
実際、私は学校で「いかに民主主義が素晴らしいか」ということを無根拠に教わりました。
正確にいえば無根拠ではなく、実態的には「いかに共産主義や専制国家がひどいか」という話の相対として「民主主義の素晴らしさ」を説かれたのです。
私が小さい頃は、熟年の先生は戦後の影響を色濃く受けており、そしてまだ冷戦下でありましたので「大きな物語」が通用する時代でした。
先生は民主主義の素晴らしさを生徒に教えるのに苦労する時代ではなかったのです。

しかし、このは教え方はフェアではありません

我々が本当の意味で民主主義の素晴らしさに気づくためには、民主主義の利点と共産主義の欠点に光を当てるとともに、民主主義の欠点と共産主義の利点にも光を当てなければなりません。
民主主義への信任が国民の思考停止によって維持されているものだとしたら、その上に成立している民主主義・政治というものもまた思考停止によって維持されているものだからです。
国民が民主主義をよりよく理解することによって、より政治が洗練されていくものだということを知ることが重要です。

では、民主主義がどのようなものなのかを内田樹の言葉を用いて考えていきましょう。


デモクラシーというのは「そういうもの」だからである。
トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で、デモクラシーはアリストクラシーに比べて不完全な制度であるが、それでも美点があると書いている。
「アメリカのデモクラシーにおいて、民衆はしばしば権力を託する人物の選択を誤る。」
しかし、そのような「間違って選ばれた統治者」たちの手で現にアメリカは繁栄している。
なぜか。
それは「デモクラシーにおいて、公務員が他より権力を悪用するとしても、権力をもつ期間は一般に長くはない」からである。(アレクシス・ド・トクヴィル、 「アメリカにおけるデモクラシーについて」、岩永健吉郎訳、『中央公論世界の名著33』、中央公論社、1970年、456頁)
デモクラシーが前提にする人間観は、人間はたいていの場合、権力を長くもつと「悪いこと」をするという経験則である。
だから、統治者を定期的に交替させるルールが必要である。
統治者が非常に有能であった場合、彼に交替を要求することは心理的にも、制度的にも困難になる。だから、できれば、統治者は最初からそれほど有能でない人間を選んだ方がいい。
統治者はただ民意の代表者でありさえすればよい。
それがアメリカのデモクラシーの本質だとトクヴィルは看破するのである。
「疑いもなく、支配者に徳と才とが備わっていることは、国民の福祉にとって重要である。しかし、それにもまして重要なのは、被支配者大衆に反する利害をもたぬことである。もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になろうからである。」(457頁)
トクヴィルがこの文章を書いたのはアメリカが建国して60年ほどのことである。
その時点でトクヴィルはよくデモクラシーの本質を見抜いたと思う。
有能で有徳だが、「民衆の利害と相反する」政策を行う統治者よりは、さして有能でも有徳でもないが、「民衆と利害を共にする」統治者の方が好ましい。「賢い統治者」よりは「身の丈にあった統治者」の方が好ましい。
それがデモクラシーの公理である。
私は「官僚主導」から「政治主導」へというのは、その意味でデモクラシーの「本道」だと思う。
日本の官僚たちは、必ずしも有徳ではないが、多くの場合政治家たちよりも有能である。
そして、自分たちが構想した国家ヴィジョンが「民意」に従うよりも国益の増大に資すると判断した場合には、「民意」に抵抗することを厭わない。
何が悲しくて「有能な官僚」が「無能な政治家」や「愚鈍な選挙民」の風下に立たなければならぬのか、と官僚たちは不満げに言うであろう。たしかに理屈に合わない。
だが、それがデモクラシーなのだ。
「ただしい官僚」の意見よりも「間違った民衆」の意見を優先する。
それはその方が「ただしい」からではない(「ただしい」のは官僚の方なのだから、民衆の意見は間違っているに決まっている)。
けれども、短期的にはそれで失敗があっても、長期的に見た場合にはその方が利得が大きいのである。
というのは「官僚」たちは自説に固執するが、「民衆」はころころ意見を変えるからである。
官僚の判断が仮に99%ただしくても、1%の誤りを犯すことがある。だが、そのとき彼らは「勝率99%」を理由にして、その1%の誤りを決して認めない。
民衆の判断は多くの場合誤るが、彼らは「何だかこの政策はうまく行っていない」と感じたら、100%の確率で意見を変える。
ビューロクラシーとデモクラシーの差はこの1%の差にしかない。そして、その1%が国家存亡の分岐点になることがあるという経験知が私たちをデモクラシーに導いたのである。


そうです。
民主主義というのは、全く完璧ではない考え、いや制度なのです。
他に比べてよさそうだ。というに過ぎないものです。

民主主義を表す言葉として、イギリスの元首相W・チャーチルのものがよく引用されます。
民主主義はくそったれだが、他のどれよりもマシだ。」
(かなり意訳)

彼が首相であった時は、まだ共産主義国家隆盛の時代でした。
皆が「私の考える○○主義が最も優れている!」と皆が本気で訴えていた時代です。
その中にあって彼の洞察は優れていると現代において認識されています。
(言葉だけ独り歩きしているのかもしれませんが)

確かに共産主義に欠点は多いのですが、それと同時に民主主義にも同じ数だけ欠点があるのです。
我々が民主主義を採用するのは、他と比較して優位性があると認めたからであって、絶対的優位性が確認されているからではないのです

このことは、万事にあてはまる原理ともいえるものです。
宇宙に絶対的基準なるものが存在せず全てが相対的なものであるなら、全ての問題の解はトレードオフ的なものにならざるを得ないのです。
少し哲学的な(つまり理解しにくくいい加減な)表現を使うと、何にでもなる可能性を一つの結果に確定するという行為は、何にでもなれた可能性を限定するという行為といえるわけです。
(決断という行為が常に諦めるという行為と同義語であるということと同じです)
何らかの利得(結果を確定)を得ようとすれば、必ず何らかの損失(可能性の限定)を得ることになります。
つまり、メリットの裏には必ずデメリットがあるのです。
(もし、あなたが絶対神を認める宗派等に属しているのなら無理はいいませんが・・)
内田樹がいうように、民主主義のメリットを享受するためのデメリットも同時に存在していることを理解しなければなりません。

このあたりは世界屈指の自由民主主義国家アメリカ合衆国でも大衆レベルでは十分に認識されておらず、オバマを社会主義者だと言って批判する人々が多々いるようです。
「社会主義だから駄目」とか「自由主義に反するから駄目」とか、無根拠にそういう論理を使ってはいけません。
現在の日本でも無根拠な「小泉・竹中構造改革」批判と、その批判者に対して「社会主義者」のレッテルを貼って無根拠な批判が目立ちます。
(もちろん中には骨のある有意な批判も多々ありますが。)
しっかりとお互いの利点・欠点を知った上でなければ両者の相互理解を構築することはできないでしょう。

なんだか話の途中で終わってしまった感もありますが、物事に向き合う際の基本的な姿勢についての持論を展開させていただきました。

理解し合えない些細な原因

2009-09-11 22:17:13 | 哲学・思想
教育のもたらす利益について(内田樹)

私は内田樹のBlogを読むのが好きだ。
直接話して確かめたわけではないが、彼の考えと私の考え方は似ていると思う。
いつも自分の考えをなぞるように頷きながら読める。
さらにいえば、同じ時期に同じネタで盛り上がったりするのだ。

しかし、出てくる答えが違う。
考え方はほとんど同じなのに、なぜか出てくる結論が違うのだ

そこで、彼の最近の記事を使って(引用をこえてほぼ全部コピペなのだが)、なぜそうなるのか考察してみよう。
(私は決して自惚れているわけではない)
自分以外にはほんとどうでもよいことなのだが、でもこれってみんなに共通の問題だと思う。
解り合えない原因は、実は非常に些細な問題なのだ

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彼は国家と教育の結びつきについての説明をする。

まずは彼の現状認識が述べられる。
この点については私は肯定も否定もない。



日本は、高等教育への財政支出対GDP比率が先進国最低の国である。
文科省はこれを5%にと要望したが、財務省に一蹴された。
教育は私事であるから、公的支援には及ばないというふうに考えておられるのであろう。
教育は自己責任で行え、と。
行政を頼るな、と。



つづいて、教育が国家に結びつく時代的背景が説明される。
いつの時代も、税金を払う側は税金の使われ方についてナイーブになるものである。
特に、国家を民主的プロセスによって創造してきたという自負のあるアメリカ人には、より一層、国家が公権力の下に税金を徴収するという行為そのものがリスクをはらんでいるように見えるのだろう。
年貢の時代から素直に徴収されていたのかは勉強不足で知らないが、日本人は伝統的に比較的従順であると思う。
(でも自分の力で稼いでいると自負している実業家やタレントなんかはすごいムカついているのだろうけど)



これは公教育という制度が発足した当初から、ずっと言われ続けてきたことである。
すべての子どもたちにできるかぎりの教育機会を提供するのは国家の義務である、という考え方を提示したのは、18世紀のフランスの啓蒙思想家たち、なかんずくコンドルセである。
理論ではフランスが先行したが、制度的に定着したのはアメリカが早かった。
しかし、そのときにアメリカの市民たちの中に、公教育制度につよく反対したものがいた。
ブルジョワたちである。
彼らはこういうロジックを立てた。
公教育を受けるのは貧乏人の子弟である(私らの子どもは高い授業料をとる私立学校に通っている)。
貧乏人が貧乏であるのは、能力がないか努力が足りなかったか、いずれにせよ自己責任である。
なぜ、自己責任で貧乏になった人間の子どもたちの面倒を私らが納めた税金でせにゃならんの。
ブルジョワたちはそう言って公教育制度の導入に反対した。
勉強したい人間は自分の金で勉強しろ。金がないならあきらめろ、と。



もろ正論とはいえ、教育格差が叫ばれる昨今、簡単にはそうだねとはいえない。それは彼も同じだ。
次は、「経済合理性とは何か」を基にした議論だ。
ミクロで損でもマクロで得するという論法は私もよく使うし、非常にまともに思える。
いや、どこまでがミクロでとこからがマクロかみたいな話を厳密にすると面倒なんだけどね。
でも人間ってそういう1次元止揚した物語に弱いんですよ。



これに対して公教育制度の導入を求めた思想家たちは苦肉の説得を試みた。
いや、それは短見というものである。
ちょっとお考えいただきたい。
みなさんがここでちょっと我慢して税金で公教育を支援してくだされば、文字も読めるし、四則計算もできるし、基礎的な社会的訓練もできている若い労働者がそのあとどんどん供給されるようになります。
高いスキルをもった若年労働者がこの先のみなさんのビジネスにどれくらいの利益をもたらすと思いますか。
ここで1ドル損して、あとで10ドルにして取り返す。それがイタチボリのアキンドつうもんでしょうが。
まあ、そういうふうなことを言ってブルジョワたちを説得したわけである。
さきゆき自己利益を増大させるという保証があるなら、公教育に税金を投じるにやぶさかではない。そういう経済合理性に基づいて、アメリカのブルジョワたちは公教育の導入を受け容れたのである。
その図式をわが国に適用すれば、どうして文科省が支援の増額を求め、財務省が反対するのか、そのロジックがわかる。
文科省は古典的な啓蒙理論の立場から「教育は公的な仕事である」と考えている(だから、あれこれわれわれのやっていることに口を出しもするのである)。



マクロといっても人間の知性が完全ではない以上、どこまでをパラメータに含めた上で経済合理性と言うのか、これは非常に難しい問題だ。
これに対して、投資対効果を基準に経済合理性を再考する。
効果がないんだから、経済合理性がないんじゃないかと。
マクロは、それを裏付けるミクロの基礎固めができていないと説得力を持たないぜということだ。
こういうドンデン返しはよくある。
夢のある大物語を聴かされた後、ある質問者が「でもそれだとこの場合の説明ができません」と言われるのだ。
これで回答につまるようなら一流の論者とはいえない。
(少なくても今後の課題なんかでまるめてはいけない。その時点で信用は地に堕ちる)



財務省は財界の言い分を代弁して、「教育は私事であり、教育目的は自己利益の増大であるなら、『受益者負担』の原則を貫くべきで、公的資金を投じるべきではない」と考えている。
この言い分もそれなりに筋が通っている。
教育にこれまでずいぶん国費を投じてきたけれど、その結果が「このざま」じゃないかと言われると、われわれはつい絶句する。
学力も先進国最低レベル、校外学習時間も最低、高等教育まで受けたが、英語が読めない、四則計算ができない、漢字が書けないという「学士」が現にたくさんいる。
あれだけ税金使って、これかよ。
そんなものにこれ以上金は出せん。
勉強したければ自己責任でやりなさい。
自分の金で学校に通うようになれば、少しはまじめに勉強するようになるであろう。
そう言われると、それなりに筋が通っている。
そもそもの最初に「公教育にいま金を出しておくと、あとでがばっと回収できますよ」というロジックで納税者を納得したのであるから、「『がばっ』とならないじゃないか」と言われるとプラグマティックな公教育論者は立場を失う。



次に、彼は一つの可能性を示唆し、反論をする。(これは可能性を示唆しているのであって彼の持論ではない)
現時点でこの意見は反証不能なため、正誤の判断はできない。
実験してみれば答えは出るだろうが、やってみてダメでした系のトンデモの可能性もある。



もちろん、反論は可能である。
「出し方が足りないから、『こういうこと』になったのである」という反論である。
高等教育は予算逓減のせいで、「勝ち組・負け組」の二極化が急速に進行し、危険水域に向かっている。
これは事実である。
いまここで教育に投資しなければ、わが国の明日はない。
というのも、かなりほんとうである。



それに対して、さらにその可能性についての反論を述べる。
実はこのような神学論争的議論はビジネスの世界でも政治の世界でも、科学の世界でもよくある。
我々はどうしても一般化という呪縛からは逃れられない。
これは特殊事象かもしれないが、他の事象と照らし合わせて一般化を行う癖があるのだ。
しかも、賢いと言われる人は、この一般化能力に秀でている場合が多い。
また、困ったことに我々は一般化された情報に弱くもある。



財務省の反論は「おい、それは破産する前の企業の言い分だろ」というものである。
「おたくが融資してくれないから潰れかけている。潰したくなかったら、追加融資してくれ」という言い分を許してどれほどの不良債権を抱え込んだか、おいらは忘れていないぜ、と財務官僚は悪夢のバブル崩壊を思い出して目の前が怒りで暗くなっている。



そしてようやく彼の持論だ。
読み手をぐっと惹きつける。
私も思わず「そうだそうだ」と心の中で頷く。



どちらの言い分も私には理解できる。
しかし、これはこの「教育はペイする」というロジックそのものが内包していた背理であると私は考えている。
教育をビジネスの語法で語ってはならない、というのは私の年来の主張である。
公教育導入のときにも、ほんとうは「教育を国家的な事業として行えば、あとで私人の自己利益が増大する」という利益誘導型ロジックを利用すべきではなかったのだ。
このロジックを使う限り、「オレは公教育制度から何の利益も受けていない」と言いだした人間がいて、「オレ的には公教育なんか要らないね」と言いだしたときに、これを抑止することができなくなるからである。
教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。



そして、話の革新へ。



そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。
私人を公民に成熟させるために、自己利益の追求と同じくらいの熱意をもって公共の福利を配慮する人間をつくりだすために、マルクスの言葉を使って言えば、人々を「類的存在」たらしめるために作られた制度なのである。



全く同意、彼は私の心の代弁者だ。
しかし!



私たちの国の教育支出の対GDP比がきわめて低位であるのは、これを非とする人も是とする人もどちらも教育の意義を「利益」という語で語ろうとすることに由来する。
教育は利益をもたらさない。
教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。



この結論が私と異なる。


「教育は人々を社会化するためにある。」


これは同意。が、


「教育は利益をもたらさない。」


これには不同意だ。でも


「教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。」


には同意だ。

感のいい人ならもうわかるだろう。
彼と私では「利益」という言葉に対して込める意味が異なるのだ。
何を「利益」として捉えるのか、そこが違う!
彼はいつも「利益」を「金を儲ける」という意味で使っているが、私はもっと曖昧な意味で使う。
私は、単純には金に換算できないことも何かの役に立つなら、それを「利益」と呼ぶ。
つまり、便益だ。(私にとってプライスレスも利益なのだよ)
だが、彼は彼自身の意味でしか利益という言葉を解釈しないから、リバタリアニズムを批判をする。
しかし、リバタリアンの利益が「金の追求」とは限らない。
少なくても私は違うし、私の知るリバタリアンも違う。
(いきなりここでリバタリアン宣言をしているように見えるが、私は自分をリバタリアンだとは思っていない。リバタリアンって言われるけど・・)

さらにいえば、彼は違う場所でこうも述べる。
「新自由主義者」と呼ばれる人達は、自分達が全てを管理できると勘違いしていると。
これは、リーマンショック以降、主に金融関係者に向けて行われた代表的な批判であるが、これは相当大きな勘違いである。
なぜなら、(新自由主義者と等価ではないだろうが)リバタリアンはリスクを完全に管理することなどできないと考えている人達だからだ。
知性の不完全な人間に完全な計画や管理などが行えるわけがないという立場に立脚しているので、国家戦略や規制なんかで事が思った通り上手く進むわけないだろと考える。
だから、国家は余計な事はせず、規制緩和をして、人間の創造性を生かせと言わんとするのである。
最適なバランスは人間が決めることはできず、需要と供給のバランスで決まるのであるから、市場機能を使ってバランスを取ろうとするのだ。
それを市場原理主義や新自由主義などと呼ぶのはお門違いである。

その意味で


「教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。」


は、彼が彼自身に求めている要求であるのではないか。そう私は思うのである。

国語の問題として彼が正しく、私が間違っているのかもしれないが、ここで重要な問題は、言葉の定義なんていうほんの些細な問題が大いなるすれ違いを生むことだ。
いわゆる「パラメータ問題」はヒューマンコミュニケーションにも適用できる。
シミュレーションする時なんかに入力変数を小数点4桁から5桁にするとロジックは同じなのに全く異なる結果が出てしまうあの問題だ。
ほんのわずかな認識の違いが、結論を変えてしまうのだ。

私は勝手であるがじっくり話合えば、彼とリバタリアンはきっと分かり合えると思っている。

初めに言うのを忘れたが、私は彼が好きだし、彼の考え方を尊敬している。
ただ、ちょっとした違いがあるといいたいだけだ。