粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

脱原発デモ遠くになりにけり

2015-03-09 18:55:10 | プロ市民煽動家

原発事故直後、首都東京で活発な原発反対運動がメディアの注目を浴びて、これがまるで「国民の民意」であるかのように持ち上げられた。特に毎週金曜日に繰り返された脱原発デモは一時は動員15万人を豪語するほどの勢いであった。

そして、事故後4年目となる直前の昨日8日、都内でこれまでのデモを主導する団体が大規模デモを呼びかけた。集まったのが主催者発表で2万3千人の人々だった。ただ、NHKの報道では毎年この時期に行われる大規模デモであるが、年ごとに1万人ずつ動員数を減らしているという。本人には失礼だが、集会で演説したのが、宇宙飛行士とはいってもほとんどズブの素人といってよい秋山豊寛氏では寂しすぎる。

ただ、変わらないのはデモ隊の掛け声である。原発反対、再稼働反対、である。出席した女性がインタビューで「年齢に高い人ばかりで若い人が少ない」といったことを話していた。しかし、こんなお念仏のようなデモでは若い人も集まりにくいだろう。原発避難民の現状のことも口にしているが、あまり実感として伝わってこない。

言い方は悪いが、自分たちの嫌原発の情緒だけで行進しているように思える。日本の大衆デモとは所詮こんな現実世界とは遊離したものといってしまえばそれまでだが、脱原発を唱えるのなら、日本のエネルギー政策に新たに提案をするものがあってほしいとは思うのだが…。

同様なことは、集団的自衛権行使反対、秘密保護法反対、憲法改正反対といった国家の根幹をなす問題に対してもいえる。あるいは、最近のイスラム国による日本人人質殺害事件についてもしかりだ。これらのデモは、まるで呼びかける言葉自体をただ差し替えているだけと思えるほどパターンが一緒だ。そして脱原発デモ同様情緒的に見える。

こんなデモを繰り返していけば、いずれ国民から遊離していくのは目に見えている。脱原発デモ、遠くになりにけり、だ。朝日新聞の朝刊でも昨日のデモのことは、写真はあるもののベタ記事といってよいほどの小さな扱いであった。一時はあれほどこのデモを賛美していたのに。

折しもドイツのメルケル首相が訪日し自国の脱原発政策を日本にも勧めるようである。しかし、ドイツも原発ゼロを目指しているが、必ずしも脱原発はメルケル首相の思惑通りには進んでいないようだ。再エネを奨励することで逆に国民の担う負担の重さがここにきて表面化している。

ただドイツは自国が原発を止めても周辺国の原発を当てにすることができる。しかし日本はそれが容易にできない。今こそ、日本は将来的なエンルギー政策に対して責任ある議論がなされるべきである。もはや脱原発デモで浮かれている場合ではない。


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (リンデ)
2015-03-25 14:25:11
エネルギー政策についての議論は情緒的な部分だけではやっていけない筈なんですが、未だに原発との対立事項で語っているのには呆れます。
善VS悪の二元論的な決めつけでは、脱原発は難しいというのを反対派には自覚して欲しいですね。
返信する
一長一短 (うるしねまき)
2015-03-29 16:31:38
それぞれのエネルギーには一長一短がありますね。化石燃料は電力を調整できるが、多くを輸入に頼るしCO2が出る。
原子力は電力を燃料を輸入に頼らないでコストも抑えられるが、電力調整はできない(一定の電力を保てるが)。
再生可能エネルギーは自然の力を利用できるが電力の調整ができない。発電量は自然任せというのが最大の弱点ですね。
そんな不安定な再生エネルギーを固定買取制度で20年も同じ価格で保護することは経済原理からずれていると思います。
返信する

コメントを投稿