粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

メガソーラーの自然破壊

2015-05-30 16:57:49 | エネルギー政策

太陽光発電は地球に優しい再生可能エネルギー。そんな耳障りのいい宣伝文句が反原発メディアによって流布されている。そして、今後のエネルギー問題の救世主のごとくもてはやす。しかし、2年後に稼働するというあるメガソーラーの想像図を見ると、そんな楽観論も消え失せ、むしろ薄ら寒ささえ感じる。

自分がよく訪れるあるブログ(ドクター町田のコラム)に、このメガソーラーについて、厳しい感想が書かれている。問題のメガソーラーは鹿児島県内に建設される出力約92MWと日本最大級のもので、敷地200万㎡に約34万枚のソーラーパネルを敷き詰めるものだ。

しかし、その想像図を見ると、「山肌の緑は無残に削り取られ、黒いパネルがうねり、残された森が、悲鳴をあげている」(同コラム)状態だ。自分もこの想像図を見ると「胸が痛む」気持ちになり「こんな想像図を書いて平気な神経が信じられない」と思う。

もちろん、メガソーラーが全てこんな山の木々を切り倒して建設されているとは思わないが、どうしても既に開発されている平野部よりも山間部に設置される可能性が高い。最近自分は新幹線に乗ることは少ないが、よく乗る人の話だと、車窓からは、やたらそんなソーラーパネルの集合体を見かけるという。

こうしたメガソーラー は景観として単調かつ無機質で決して美しいとは言えない。悪く言えば、グロテスクにさえ見える。世界に誇る美しい自然に恵まれた日本の原風景を破壊する恐れが十分にある。そして一度破壊された自然はなかなか戻らない。

よく原発事故で日本の国土が汚染されたという。しかし、人が避難し誰もいない地域の自然は緑があふれ動植物は相変わらず、生命力を見せつけている。確かに人の手入れが施された里山は荒れて入るが、人が戻れば再生も可能である。それに反してこんなメガソーラーの敷地は度合いは違うが禿げ山とさして変わらない。

鹿児島のメガソーラーは200万㎡だから2K㎡すなわち1.4Km四方の広さになる。同じ鹿児島県内にあり、年内に再稼働が予想される川内原発は145万㎡で2基で180MW出力になる。前述のメガソーラーの2倍の出力で敷地は7割である。さらに、発電効率も原子力は3倍前後高い。その上、原子力はほば安定した電力を供給できるのに対して、太陽光は昼夜や天候によって発電能力が差がありすげて決して安定電源にはなりえない。

もちろん、自分自身太陽光そのものを否定するつもりはない。個人が太陽パネルを設置して使う分には問題がない。あるいは治産治消で地域的に活用するのもいい。しかし、それはあくまでも補助電源としての役割しかなく、到底主要電源にはなりえない。いくら、蓄電技術が進んでも、電力の安定供給は送電システムが十分でなければ早々望めない。

だから、もはや、太陽光をエネルギー政策の最終的な切り札と崇めたてるのは誤りであることを社会的に認識すべきである。一番悪いのは反原発のイデオロギーに悪用されることだ。エネルギーと政治思想とは完全に切り離すことが何より先決だ。敢えて言えば、原発反対を叫ぶことは自然破壊を誘導することにもなりうることを認識すべきだ。