粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

かぐや姫「赤ちょうちん」

2015-05-12 23:14:19 | 音楽

かぐや姫といえば「神田川」という大ヒット曲であまりにも有名だ。「赤ちょうちん」(1974年)はその次につくられた曲で内容も「神田川」の続編のようだ。いわゆる「四畳半フォーク」といわれる貧しい恋人たちの純愛を歌ったものだが、今の若者が聴けば「ダサイ」歌の典型にも思えるだろう。

曲が作られた当時も自分自身、学生時代だったが、多少はそんな印象を持っていた。しかし、その後就職した会社で入社間もない頃、同僚数人で近くの居酒屋で飲みに行ったときのことだ。2歳年上の先輩女性が歌の話に及んだときに「赤ちょうちん」を挙げて「この歌、好きよ」と意外なことを口走った。特に歌の最後の「生きてることはただそれだけで悲しいことだと知りました」という歌詞がすごくいいというのだ。

彼女はとてもきれいな瞳をしていて、実は自分自身入社早々密かに憧れていた。ただ彼女を週末に飲みに誘うとしたが、いつも断られた。彼女は山登りが好きで専門雑誌で知り合った同好会で週末はしばしば山登りにいっていた。程なくして同好会仲間の男性と結婚してしまい自分自身ショックを受けたことを覚えている。

そんな彼女に、「今外国なら何処へ行きたいか」と聞いたことがあった。そしたら、意外な答えが返ってきた。「サハリンがいいな」と。自分自身、想定外の場所に絶句してしまった。あるいは普段の家にいる時のことをたずねると「一晩中泣き通すことがよくある」などと自分をドキッとさせることも語っていた。

赤ちょうちんの歌詞、山登り、サハリン、そして夜通しの涙…。自分とはまるで違う彼女の生活空間に戸惑いながらも自然に引き込まれる。そしてじっと人を見つめる彼女の眼差しはどこまでも清いが、自分には一瞬寂しさが垣間みえるようだった。それは彼女がふとつぶやいた「生きてることの悲しさ」なのだろうか。

昔、ある大学教授が日本人は独特の死生観をもっていると指摘していた。それは「人間は悲しい存在」ということだ。日本人は人間を正義の名の下他人の悪を裁くような極端には走らない。人間は神にも悪魔にもならず、欠点と弱さをもった存在であることを、日本人が本音では自覚している。彼女の思い出とともに赤ちょうちんの歌にもそんな死生観がうかがわれるのだ。

追記:この「赤ちょうちん」を志村けんがパロったコントを動画で見つけた。往年のTV番組「だいじょうぶだ」の1シーンだが思い切り笑った。「キャベツばかりをかじってた」のフレーズだけがしつこく繰り返され、遂には部屋中がキャベツだらけ。最後は「仕事行くよ、俺」こんなわかりやすく面白いコントは志村けんしかできないだろう。こうしたパロディには南こうせつや作詞家の喜多条忠も苦笑どころか喝采しているにちがいない。