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加藤大治郎。(番外編vol.341)

2013年09月18日 08時58分55秒 | Weblog
日本人としては世界最速に近いライダーだった「加藤大治郎」選手ですよ。

いわゆる英才教育型で3歳からポケバイに乗り、

成長と共にミニバイク、エリア選手権と連戦連勝で駆け上がり、

95年にホンダワークス入りを果たします。

それは少し先輩の阿部典史選手(ノリック)の時と同じ期待感を感じるものでした。

97年に全日本ロードレース選手権GP250チャンピオンとなり、

00年にWGP250ccクラスにフル参戦。

いきなり4勝を上げて総合3位となりルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。

01年はWGP年間最多勝利数である11勝を上げて堂々のワールドチャンピオンに。

翌年02年からステップアップで、新たなカテゴリーとなるモトGPクラスに昇格。

速い4スト勢に負けない速さを見せつけますが、

「加藤大治郎」選手の乗る2スト500ccではなかなか勝負にならず総合で7位。

それでも2スト勢では最高の表彰台を2度ゲットします。

03年はモトGPクラス勝負の年と考え、

不利とされた小柄な体格を肉体改造し、万全の体制でレースに挑むことになります。

この年、前年チャンピオンのバレンティーノロッシ選手が、

レース前に「加藤大治郎」選手が一番のライバルになるだろうと語っていましたからね。

しかし、第1戦日本GPの最終シケイン前でまさかの大転倒。

そのまま帰らぬ人となってしまいます。

享年26歳、まだこれからという時の出来事でした。

これはWGP最高峰クラスで日本人チャンピオンになれる可能性をも

失ったことになります。

飾らない姿勢や、憎めない性格で周りから愛されてたこともあり、

彼のゼッケンナンバーだった「74」のバッチやステッカーは今もなお、

後輩たちのヘルメットやツナキに貼られています。

「加藤大治郎」選手はバイクレースの世界では太く短い人生だった天才でしたね!






坂田和人。(番外編vol.340)

2013年09月17日 08時59分08秒 | Weblog
先日の原田哲也に継ぎWGP日本人チャンピオンに輝いた「坂田和人」選手ですよ。

88年から国内レースに参戦し、

90年には全日本ロードレース選手権国際A級125チャンピオンに。

これを切っ掛けに91年からWGP125ccクラスにフル参戦。

デビューイヤーこそあまりふるわない成績でしたが、

93年から頭角を出し始め、翌年94年にWGP125ccクラスチャンピオンに。

その後もトップクラスを走り続け98年に2度目のタイトルを獲得。

ただし99年シーズンをもってレース活動に終止符を打つカタチとなります。

現在は解説者やライダー育成に力を入れているようです。

当時を振り返ると「坂田和人」選手の場合、

チーム体制や資金的なことに恵まれていなかったことを思い出します。

ワールドチャンピオンになりながらも「バイトしてる」って言ってましたからね。

「坂田和人」選手の場合はアプリリア・チームに所属していましたが、

500cc、250ccクラスに比べ125ccクラスは、

マシン開発や運営費用をケチる傾向にあったようで、

ボクらが思ってるような大金を手にすることはなかったようです。

上の排気量にステップアップしなかった理由は分かりませんが、

そこは可愛そうな感じでした。

で、とにかくこの時代は125ccクラスに日本人ライダーが多く参戦してて、

上位がほとんど日本人という時代でした。

80年代からレースを見ていたボクにとってはとても嬉しい時代でしたね。

なんせ、それまで日本人の活躍という場面は無いに等しかったですから…。

93年シーズン「坂田和人」選手が優勝したときは「やったぁ!」って感じでした。



原田哲也。(番外編vol.339)

2013年09月16日 10時20分03秒 | Weblog
世界に通用する日本人ライダーの先駆け的存在だった「原田哲也」選手ですよ。

いわゆる英才教育型選手で11歳からポケバイでレースを始めています。

10代にして国内レースにデビューし、91年に全日本ロードレース選手権250ccクラスで優勝。

93年からヤマハワークス入りを果たし本格的にWGPに参戦、

デビューイヤーにして、いきなり250ccクラスシリーズチャンピオンに輝きます。

その後も98年まで250ccクラスで走り、95年が総合2位、

97年、98年は総合3位という成績を収め99年から500ccクラスにスッテプアップ。

アプリリアで戦いますが、マシン性能でホンダやヤマハに劣っていたため、

思うような結果を残すことが出来ず、01年から再度250ccクラスに転身。

ホンダからフル参戦を果たしていた加藤大二郎選手と激しいバトルを繰り返し、

常に良いレースをしたのですが、残念ながら総合2位に甘んじてしまいます。

結果的には93年に1度シリーズチャンピオンに輝いただけに止まりますが、

どの時代もちゃんと速かった選手でしたね。

と、まぁ、とても優れた「原田哲也」選手ではあったのですが、

個人的にはあまり好きな選手ではありませんでした。(笑)

インタビューに答える彼の表情は常に冷静沈着で周りを見透かした目がキライでしたね。

自分に自信を持っていたのか、

ボクには、いけ好かない態度に見えて腹立たしかったです。(笑)

ただ、引退を表明した時、涙を流してる彼を見てちょっとだけ人間味を感じましたけどね。

現在は4輪転向もささやかれながらモナコで悠々自適な生活を送ってるようですが、

80年代の弱い日本人ライダーイメージを、

一気に変えてくれた90年代のスーパースターだったことは、

間違いなかったですね!






コーク・バリントン。(番外編vol.338)

2013年09月14日 08時56分16秒 | Weblog
最近は毎日懐かしのライダーを書いていますが、逆に今の現役ライダーのことは、

ほとんど分からないことに気づかされてます。(笑)

考えてみれば80年代から90年代の頃のボクは毎月いろんなバイク雑誌を買いあさり、

隅々まで読んでたんですよね。

そんな感じで、今日は南アフリカ出身の「コーク・バリントン」選手ですよ。

76年にスポットで初参戦を果たし78年から本格的にフル参戦するのですが、

250ccクラス、350ccクラスのダブルエントリーで早々に同時チャンピオンに輝き、

翌年も2年連続で同じくダブルタイトルを獲得します。

当時、参戦していたカワサキファクトリーで走っていたのですが、

このクラスではホンダやヤマハより性能が高かったことが伺えます。

80年から同じくカワサキより500ccクラスに参戦しますが、

元々、2ストに弱いカワサキだったこともあり、

排気量の大きい新型マシンは開発と実践とを並行して行っていたため、

さすがの「コーク・バリントン」選手でも思うような成績を収めることは出来なかったようです。

2度ほど表彰台に上がりますが、シリーズ全体で見ると総合8位が最高で、

ヤマハのケニーロバーツ選手やホンダのスペンサー選手にまったく及ばなかった結果となります。

82年のシーズンを持ってカワサキがWGPから撤退すると同時に、

「コーク・バリントン」選手も引退してしまいます。

彼の走りはとにかく攻撃性の高いスタイルで、

複数のマシンからなる接近戦から、最後に優勝というパターンが多かった気がします。

古い乗り方ではありましたが、バリーシーン選手に近いイメージでしたね。

たらればですが、もしホンダもしくはヤマハから500ccクラスに参戦していれば、

結果は大きく変わっていた気がします。

ボクより一世代前の選手ですが、当時、古い雑誌を読みあさり

こんな選手のことも調べていましたね。


アントン・マンク。(番外編vol.337)

2013年09月13日 09時25分32秒 | Weblog
ドイツ出身のWGPライダー「アントン・マンク」選手ですよ。

70年から74年まで本国ドイツの国内レースで走っていたのですが、

75年からWGP350ccクラスにフル参戦します。

いきなりオーストラリアGPで初勝利をおさめ、デビューイヤーにてランイキング5位を獲得。

その後、80年、81年と連続して250ccクラスチャンピオンに輝き、

並行して81年、82年と350ccクラスチャンピオンにもなります。

83年は500ccクラスにステップアップしますが思うような成績が出ず、

翌年から250ccクラスに返り咲くカタチとなり、

85年に総合2位、87年に5年ぶりとなる250ccクラスチャンピオンになります。

WGPトータルで5回もチャンピオンに輝いた才能あふれる選手だったですよね。

特に85年シーズンはあのフレディースペンサー選手が、

250ccと500ccの同時チャンピオンを獲得した年で、

実は「アントン・マンク」選手が2位だったんですよね。

当時、あまりのスペンサー話題ですっかり陰に隠れてしまった感じだったですが、

ボク的にはこの年の「アントン・マンク」選手の活躍はよく覚えています。

250ccならではのハイスピードなコーナリングと複数のライン取りを

上手く乗りこなしていました。

日本では500ccの結果ばかりが取り上げられていましたが、

250ccの誰が優勝するか最後まで分からない数台からなる接近戦は圧巻でした。

そんな中で、最後にトーンと飛び出して優勝する「アントン・マンク」選手の走りに

シビれたものです。

88年、クラッシュから大きなケガを負いそのまま引退してしまいますが、

当時で38歳と最高齢の選手であった「アントン・マンク」選手。

忘れられないですね!




ルカ・カダローラ。(番外編vol.336)

2013年09月12日 09時39分05秒 | Weblog
イタリア出身のWGPライダーだった「ルカ・カダローラ」選手ですよ。

84年に125ccクラスで初参戦を果たし、86年はチャンピオンを獲得。

翌年87年から250ccクラスにステップアップし、

91年、92年と2連続でシリーズチャンピオンを獲得しています。

デビュー当初は荒削りで転倒も多かったようですが、

125ccクラスチャンピオンになったあたりから安定した走りをするようになります。

また移籍も多く、

→マールボロヤマハ・アゴスチーニ

→ロスマンズ・カネモトホンダ

→マールボロヤマハ・チームロバーツ

→チームカネモト・ホンダ

→スズキグランプリチーム

→Muz

と現役中何度もチームを渡り歩いています。

とにかく速かったのですが、97年以降からその走りに陰りを見せ始め、

00年シーズンをもって引退してしまいます。

現役中は業界でグランドスラム(125cc、250cc、500ccの3クラス制覇)の可能性を

秘めた逸材と言われていましたが、

残念ながら500ccクラスで94年の総合2位が最高で実現にはいたりませんでした。

当時、最強ライダーが勢揃いの中、しっかり頭角を現し、

90年代に速かった1人として印象に残ってる選手ですね!



ジャコモ・アゴスチーニ。(番外編vol.335)

2013年09月11日 08時55分31秒 | Weblog
60年代から70年代に駆けてWGPで大活躍した「ジャコモ・アゴスチーニ」選手ですよ。

とにかくとてつもない成績を残しており、

現役時代の優勝回数が122回と歴代トップの成績を残しており、

あのバレンティーノロッシ選手でも今だ追いついていません。

66年の500ccクラスチャンピオンを皮切りに67年から73年まで連続6連勝。

また並行して参戦していた350ccクラスでも、

68年から75年まで8連勝という記録を打ち立てています。

初期は母国イタリアのMVアグスタチームに所属していたが、

74年にヤマハに移籍、日本のメーカーで始めて優勝をもたらした人物でもあります。

正直、ボク世代で言うと、かなり過去の人になるのですが、

名前だけは知っていました。

だから今回はボクの記憶というより調べて知ったことが多いです。

で、この「ジャコモ・アゴスチーニ」選手はまだ発展途上にあったレースマシンを、

誰よりも上手くセットアップし、

確実なライディングで圧勝というレースが多かったようです。

現役引退後は自身のチームを結成し監督を務めたり、

WGP、モトGPの運営にも関わっていたようです。

今のような飛躍的な進歩の中でのレースと違い、

マシンもカラダを動かすスペースが少なく、タイヤのグリップ性能も低かった時代、

これだけの速さを見せつけたのは間違いなく偉業と言えそうですが、

時の流れと共にその雄姿も忘れかけられるのが実情で、

もっと深く突き詰めたたいのですが、いくら調べても分からなかったりします。

そこがちょっともどかしいですね。




マックス・ビアッジ。(番外編vol.334)

2013年09月10日 09時20分35秒 | Weblog
昨年、現役引退を表明したイタリア人の「マックス・ビアッジ」選手ですよ。

本格的なWGP参戦は93年からでロスマンズ・カネモト・ホンダチーム在籍。

チームメイトに青木宣篤選手がいました。

翌年、94年はホンダからアプリリアに移籍。

94年、95年、96年と250ccクラスでワールドチャンピオンを獲得し、

さらにホンダに移籍した97年シーズンも250ccクラスチャンピオンになっています。

98年から500ccクラスにステップアップし、その年ミックドゥーハンに次ぐ2位を獲得。

その後も毎年、2位か3位を獲得しながら、07年から世界スーパーバイク選手権に参戦します。

参戦初年度から総合3位を獲得し、10年、12年と2回チャンピオンに輝いています。

今年、現役を引退した「マックス・ビアッジ」選手ですが、

その速さは最後まで素晴らしいものでした。

人物的には気難しいようで、マスコミから悪い評価を受けていました。

特にロッシ選手とは確執があったようで、いろいろなシーンで対立してることが、

見て伺えました。

現在42歳となった「マックス・ビアッジ」選手ですが、

今後、どのようなカタチでレース界に関わっていくのか楽しみです。


アレックス・バロス。(番外編vol.333)

2013年09月09日 09時19分05秒 | Weblog
ブラジル出身のWGP、モトGPライダーだった「アレックス・バロス」選手ですよ。

とにかく現役期間が長くデビューは86年の80ccクラスから。

88年に250ccクラスに昇格し、90年から最高峰の500ccクラスに参戦します。

当初、カジバから出場していましたが、93年にスズキワークス入りを果たし、

シュワンツ選手のチームメイトになります。

95年からホンダに移籍しそのまま01年までWGPで活躍。

02年からモトGPに変わってからもホンダで参戦し、

4ストマシンになって早々2勝します。

最終的には07年まで現役を続け20年以上走り続けた選手なんですよね。

残念ながらワールドチャンピオンには1度もなれませんでしたが、

印象に強く残っています。

とにかくどこのサーキットでも速く、常に上位を走る選手だったですね。

また、強烈な突っ込みが得意でオーバーテイクも多かったです。

特にモトGP時代はバレンティーノロッシ選手を脅かす存在で、

激しいデットヒートを沢山見せてくれました。

ボクが峠を走ってた時代から返り咲きを果たした今の時代までずっと現役で、

同世代としてとても嬉しい選手です。

ライダーの顔意外でも、確か温泉好きということで有名だったですね!


フランコ・ウンチーニ。(番外編vol.332)

2013年09月06日 09時14分23秒 | Weblog
76年からイタリアのチーム、アエルマッキワークスからWGPへ参戦した、

イタリア人ライダー「フランコ・ウンチーニ」選手ですよ。

スズキワークスに移籍し82年にWGP500ccクラスチャンピオンに輝いています。

しかし、翌年83年の第8戦オランダGPで転倒しコース中央に投げ出され、

コース外に逃れようとしたところを後続の新人だったワイン・ガードナー選手と接触。

ヘルメットが吹き飛び「フランコ・ウンチーニ」選手は意識不明で病院に搬送され、

ガードナーも負傷リタイアしてしまいます。

このアクシデントによりチャンピオンライダーとしてシーズンを戦うことが

出来なくなっていまったんですよね。

ただし、事故直後は生死を危ぶまれましたが、

無事生還出来たことに関してはラッキーでした。

心機一転、85年シーズンを戦いますが結果は思わしくなく、

このシーズンを持って引退を表明。

その後はチーム監督や解説者として現在も活躍しています。

「フランコ・ウンチーニ」選手の走りは計算高く、頭脳プレイにたけていました。

レース全体をイメージし総合的に速く走ることが出来た選手でしたね。

ただ、ライディングスタイルとしては、ケニーロバーツ選手が考案した、

ハングオンスタイルやスペンサー選手のようなスライド走法ではなく、

古いスタイルだったこともあり、新しく登場する若い選手の走りに勝てないと

早く見切った感もあったように思えます。

それよりもボク的にはどうしても名前の「ウンチ…」いや「ウンチーニ」が

インパクトがあって忘れられないんですよね。(笑)