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伊藤真一。(番外編vol.331)

2013年09月05日 08時53分15秒 | Weblog
88年から国際A級に昇格と共にホンダワークス入りを果たした

シンデレラボーイと言われた「伊藤真一」選手ですよ。

当初は速さこそあったものの転倒も多く両極端な印象が強かったですが、

90年代に入ってからは安定した速さを見せて、

全日本ロードレース選手権・GP500クラスで優勝をします。

93年からはWGP500ccクラスにフル参戦を果たし、

優勝こそなかったものの95年シーズンでは総合5位を獲得します。

97年から全日本ロードレース選手権、スーパーバイククラスに戻り、

98年にチャンピオンを獲得。

その後、JSB1000クラスになってからも05年、06年と連続チャンピオンを獲得するなど、

40歳を超えても、なおその速さを見せつけてくれています。

「伊藤真一」選手の走りは天性の素質からくるものが大きく、

自身でもどうして速いのか?ちゃんと気がついていないあたりが特徴です。(笑)

とにかくすべてがかみ合えば誰も追従出来ないほど速く、

年齢を思わせない走りは後輩選手も頭が上がらないようです。

鈴鹿8時間耐久レースでの優勝回数が4回と最多優勝を果たしており、

国内では最速の1人と言えます。

性格的には、スマップの稲垣吾郎さんのような紳士的な振る舞いがウザく見られてしまい、

若かった時代、同世代選手からあまり良いように思われていなかったようですが、

今は後輩選手から尊敬される人になってるようです。

ボクと同世代の選手ですし、今なお現役を貫いている姿は鐘鋳しますね。







本間利彦。(番外編vol.330)

2013年09月04日 10時36分16秒 | Weblog
とにかくセンセーショナルな登場を果たした「本間利彦」選手ですよ。

86年の全日本ロードレース国際A級250ccクラスでデビューレースにして、

プライベートチームでの参戦にもかかわらずワークスライダーを押しのけ優勝。

無名でしたし、ほとんど何もスポンサーらしきカラーリングがなされていない、

白いTZ250が印象的でした。

翌年87年にヤマハワークス入りを果たし、

全日本ロードレース選手権GP250ccで総合3位を獲得。

さらに88年は250ccクラスチャンピオンを果たし日本最速を手にいれます。

国内では圧倒的な速さを誇っており、本人は世界を狙っていたようですが、

フル参戦出来るヤマハの受け入れチームがなかったため、

翌年89年も全日本ロードレース選手権GP250ccクラスに出場することに。

残念ながら途中ケガなどによりチャンピオンは逃したものの総合で2位。

で、今度こそと、90年のWGP250ccクラスへのステップアップを狙いますが、

またまたチーム体制が出来ないことにより断念。

変わりに全日本ロードレース選手権GP500ccに参戦することになります。

最終的にはスポット参戦が数回あっただけで、

世界でのフル参戦を果たすことなく現役を引退してしまいます。

最高潮の時は間違いなく世界で通用するだけのものを持っていた「本間利彦」選手でしたが、

ある意味不運だった気がしますね。

TVインタビューで常に笑顔で答えていたのが印象的でした。



アレックス・クリビーレ。(番外編vol.329)

2013年09月03日 09時05分31秒 | Weblog
スペイン、カタルーニャ州出身のWGPライダー「アレックス・クリビーレ」選手ですよ。

87年にWGP80ccクラスにて初参戦を果たし、

89年には125ccクラスでシリーズチャンピオンを獲得。

その後、250ccクラス、500ccクラスとステップアップし、

95年からレプソルホンダでマイケルドゥーハン選手のサポート役として起用されます。

マイケルドゥーハン選手がシーズン途中でケガをしたため、

99年に500ccクラスで見事ワールドチャンピオンを獲得。

この時代は日本人ライダーの活躍もめざましく、

同じチームメイトに岡田忠之選手などもいました。

最大のライバルはスズキのケニー・ロバーツ・ジュニア選手で、

「アレックス・クリビーレ」選手とケニー・ロバーツ・ジュニア選手の

一騎打ちというシーンを多く見ることがありましたね。

彼のライディングは基本に忠実で、確実性の高さと安定した速さが特徴でした。

勝てるチームに在籍していたことも上げられますが、

ケガが少なかったことを考えるとマシンコントロールに優れていたことも伺えます。

スペインではイタリアやイギリス同様にオートバイ人気が高く、

日本と比べても販売台数など圧倒的です。

現在もそれは変わらずスペインGPはいつも超満員。

そんな中、当時、唯一チャンピオンに輝いた「アレックス・クリビーレ」選手は

英雄であり祖国の誇りでもありました。

残念ながら00年から瞬間的に意識を失う「原因不明の症状」に悩まされて、

01年シーズンをもって引退してしまいます。

まだまだいけた選手だったので残念でしたね。


平忠彦。(番外編vol.328)

2013年09月02日 08時54分47秒 | Weblog
80年代の日本人ライダーで忘れてはならない存在の1人「平忠彦」選手ですよ。

83年から85年の3年連続全日本ロードレース選手権500ccチャンピオンです。

当時、国内では圧倒的に速かった「平忠彦」選手で、

とにかくファンが多かったですね。

86年にマールボロ・ヤマハ・アゴスティーニから250ccクラスにフル参戦し、

最終戦のサンマリノGPで壮絶な激戦の末、優勝しています。

また80年代中盤で引退してしまった片山敬済選手を失い、

この時代の日本人ライダーは世界に通用する選手がほとんどいなく、

唯一「平忠彦」選手が期待の人材となります。

しかし結果的には87年のWGP500ccクラスで総合6位というのが最高で、

海外では、けして成功した選手という訳ではありません。

要因としては転倒が多く、ケガでシーズンを戦えなかったことが上げられます。

しかしながら、国内での人気は常に高く、

ヘルメットや鈴鹿8時間耐久レースでメインスポンサーだったTECH21カラーは

当時かなり人気だったため、レプリカが沢山売れていました。

「平忠彦」選手はルックスが良く、長身だったので女性からの支持も多かったですね。

また90年の鈴鹿8時間耐久レースは念願の優勝を果たし高い賞賛を浴びます。

バイクレースの人気が最盛期であり印象強く刻まれた時代でしたね。

現役としては91年シーズンまでで、翌年92年に正式に引退を発表。

以降は「TAIRA Racing」の運営と「YSPレーシングチームウィズTRC」のチーム監督として、

全日本ロードレース選手権JSB1000クラスや鈴鹿8時間耐久レースに携わっています。

物静かな性格ですが、バイクが大好きで人一倍闘争心が高く、

才能のあふれた選手だったですね!