月島のもんじゃ焼きの店「はざま」で生まれてはじめて食べた「もんじゃ焼き」はおいしかったです。
2005年10月31日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
月島へ初めて行って「もんじゃ焼き」と言うものを食べてみました。有楽町線で月島駅で降りて7番口を上がると、“もんじゃ焼き案内所”なるものが出ていました。
神戸の北野の異人館の案内所の事がピーンときました。確か月島では昔からのもんじゃ焼きの店と外部資本の促成もんじゃ焼きの店の熾烈な抗争があったことを思いだしました。
この案内所では地図だけもらって、案内所のお姉さんが「お勧めの店です」と言う店は外すことにしました。
この案内所は新興の外部資本が組んで作っている案内所に違いないと思ったからです。
月曜日の今日は、裏通りの老舗の店は休みの店が多かったのですが、幸い一軒開けている店がありました。「はざま」です。
店の中は、お世辞にもきれいとは言えず、昔の横丁の近所の子供たちが来る一銭お好み焼き屋という感じでした。
壁には沢山の色紙が張ってあり、中に「八千草薫」さんの色紙があるのを見つけて嬉しくなりました。
生まれて初めての「もんじゃ」なので店の男性に、焼いてもらいました。やはりうまく焼く手順と言うのがあるもんだと分かりました。
すぐ自己流でやりたいタチですが、反省しました。
焼いてもらいながら話をすると、開店は昭和25年とのことで、老舗の店でした。「表通りの店とは出来が違うんだ」と言うと、
そうなんですよと誇らしげな返事が返ってきました。
今は新興の店も組合に参加させたそうですが、いい加減な儲け優先の連中が月島へ入り込み、シャッターを下ろして廃業した店を安く借りて、
流行の「もんじゃ」で稼ごうとしたそうですが、地元のモンジャの店が、彼らのあまりにひどい「もんじゃといえないもんじゃ」でのぶったくり商法に、
待ったをかけ、伝統の「もんじゃ」のレシピを守らせるようにした経緯があると読んだ事があります。
相方の話では、テレビで見た、新興勢力と対峙した老舗グループの代表の女将さんが、この店の女将に似ていたとのことです。確かに気風のいい女性でした。
旨いものを初めての土地で食べるための、いつもの時間をかけたぐるぐる回りの偵察、鼻利かせタイムの甲斐があって、結果的に、
裏通りの本格派のこの店にめぐり合ってハッピーでした。
サイドオーダーの「マグロステーキ」や「レバカツもんじゃ」も飛び切りの旨さでした。
1、北方謙三が日経朝刊に連載している「望郷の道」は今、台湾を舞台にして物語が進んでいる。
先日から文中に「打狗」という地名が表れた。(タークヮオ)とカナが振ってある。その町の台湾に於ける位置の説明と、
読みから現在の「高雄」の旧名らしいとわかった。
「高雄」は標準語(マンダリン)では「カオシュン」と発音する。
中国鋼鉄の製鉄所建設当時、出来の悪い新人輸出部員としてよく出張した「高雄」は、昔からの地名だと思っていたがどうもそうではないらしい。
調べるとこういう経過を辿って「高雄」になったことがわかった。
「高雄は、寿山(万寿山、または打鼓山、あるいは打狗山。日本時代の名称は高雄山)というテーブル状の大きな台地(標高200m)の
ふもとに位置する港である。海からの目当てになる山と、旗津という名の砂州に保護された潟は、古くから良港として知られていた。
17世紀に打狗(台湾語ではターカウと呼ばれた)という小さな村から発展し、都市へと成長した。
ターカウとは、原住民平埔族マカタウ族の集落タアカウ社の名称に由来し、そのマカタウ族の言語で「竹林」を意味する言葉であった。
1624年にオランダは、この場所に砦を築いたが、1661年に漢人によって駆逐された(鄭成功を参照)。
1684年に打狗は鳳山県と改名され、台湾府の一部として取り扱われた。1880年代に打狗は開港した。
1895年に下関条約により日本に台湾が割譲されると、日本は海軍の南方方面での補給港を確保すべく打狗開発を進めた。
地名に関しても1920年に打狗と発音が近い高雄(歴史的仮名遣はたかをと表記)に改称した。
戦後台湾を支配した国民党でも高雄の表記を継承し現在に至っている。
しかし現地の台湾語での会話の中では現在も旧称のターガウと称されることもある。」
『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部引用
一言で言えば、字ズラがよくないとしたかして「打狗」を嫌った日本の役人が発音の似た「高雄」という字を当てたのだった。
そして次に高雄を中国人が中国語では「カオシュン」と読むようになったということだ。
2、地名の変遷はいくつもあるが、例えば、ご存知「コチカメ」の面白いポリスボックスがある?東京の「亀有」は、
もともと「亀なし」と言う地名だった。湿地帯で亀が多数群をなしていたから「亀成し」。
(山成す国である「やまなし県」と同じ用法)
ところが「なし」は「無し」に通じるということで、それを忌み言葉として「梨」を「有の実」と大奥の女房連中が言い換えたように
「かめなし」と言う地名が「亀有」に言い換えられた。
3、広島市内に江戸時代、上級武士の屋敷が立ち並び、現在は中央官庁の出先機関が多くある「白島」という一帯がある。
「白島」は「はくしま」と発音する。
広島で入居した単身者用マンションは白島にあったが、広島に行くまでにその住所を見て「しろしま」だと思っていた。
広島駅でタクシーに乗り「しろしま」へお願いしますとドライバーに言ったが通じない。しかし彼はすぐ「はくしま」ですねと言ってくれた。
不思議に思ってなぜ「はくしま」と重箱読みをするのか聞いたら、年配のそのドライバーは物知りの人で次のように説明してくれた。
♪江戸時代は水路で隔たれた島じゃった所に、武士の屋敷群があって、その島を「箱島」ゆぅた。それがだんだん埋めたてられて地続きになり、
人が島ゆぅて思わなくなったんじゃ。
ほいで箱ゆう字画の多い字の代わりに音の似た「白」ゆぅ文字をあてることがおゆぅなり、いつか 「箱島」ゆぅて誰も書かなくなったんじゃ。
今は正式な町名も白島じゃけぇ。♪
私は勉強してきた広島弁で言いました。「ありがとの、ほんにみやすい説明じゃった。」(みやすい)はこの場合(わかりやすい)という意味です。
(みやすい)は英語のeasyとほぼ同じ意味です。
なお「ありがと」はあに強勢を置かず、がに強勢を置かないと広島弁にはなりません。
「自動ドア人に貧富の差をつけず」 内藤凡柳
「四、五年は死ねぬ洋服誂える」 博多成光
「命まで賭けた女てこれかいな」 松江梅里
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」 鶴 彬
「愛されて巡査で終わる桃の村」 摂津明治
「れんげ菜の花この世の旅もあと少し」 時実新子
☆いずれも田辺聖子さんのセレクションから。
ある日、田圃で中国人が脱水症状で倒れた。彼らに「健康を考慮し、明日からは10時間以上の作業を禁ずる」と告げた翌日、雇い主が田圃に行ってみたが、誰もいない。慌てて宿舎に駆けつけると、彼らは荷物をまとめて立ち去るところだった。
「毎日10時間しか働けないなんて、時間のムダだ」と、口々に言う。雇い主は、「中国人は疲れることを知らない。気が狂っている」と呆れ返る。
かくして同書は、「中国人がいないとイタリアの米作りは成り立たなくなってしまった」と嘆く。
「中国人って1カ所には留まらない」
農業に次いで、大理石の石工、ゴミ処理工場労働者、ソファー・皮革・衣料職人、バー、レストラン、床屋、中国産品の雑貨商などが中国人に依存するようになり、中国人はミラノを「イタリアにおける中国人の首都」にして、ありとあらゆる産業を蚕食していった。
その大部分は浙江省や福建省の出身者で、多くは非合法でイタリア入りしている。教育程度は他国からの移民に比較して低く、それゆえイタリア社会に同化し難い。
苦労をものともせず、倹約に努めるという「美徳」を備えてはいるものの、それ以外に目立つことといえば博打、脱税、密輸、黒社会との繋がりなど……。どれもこれも、胸を張って誇れるビジネスではない。文化程度の低さは、勢い生きるためには手段を選ばないことに繋がる。
画像クリックで本文に飛びます。イタリア「新型コロナ危機」と中国人「歴史的大移動」の相関関係 - 樋泉克夫 #BLOGOS https://t.co/J1EK2hwwHm
— achikochitei (@achikochitei1) March 18, 2020