2007年10月8日
「あんた、あたしのそばから離れちゃならん、ていま考えよったとやろ?」
「うむ」
「今まで通りで、よかよ。病気じゃなかけん。あんまりやさしくさるっと、子がびっくりするけん」
「わかった」
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「あんた、今度は仕事のことね?」
「お前、俺の頭ん中が、見えちょっとか?」
「そりゃ、女房やけんね」
「恐ろしか。ほかのおなごに懸想でもしよったら、それもお見通しか?」
「あんた、守り刀、持っとろうが。延寿国村とかいう銘刀。あれでこうたい」
「おお、考えただけでも、身が竦みよる」
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「俺はおまえの亭主じゃけんな」
「だから、どうした?」
「殺しちゃいかんとよ」
「殺ろさん程度にやる。もう二度と、ほかの女に目ばむけん、と身に沁みる程度に」
「まだ、やってもおらん。賭場がひとつ増えちょるけん、俺は多忙なんよ」
◎ なんと小気味のいい会話なんだと思う。自分ではもう使えないが、小学校に上がる半年前から3年生を終るまで九州の若松で毎日、耳にした物言いとアクセントが今も好きだ。
東京でも大阪でも、お客さんで北九州出身の方がいると商談をするのが楽しみだった。今も居酒屋なんぞで、どこかで少しでも九州の物言いが聞こえると、つい耳をすませてしまう。
それを言い出せば、伊予の物言いも、安芸の物言いも、伊勢の物言いも、みな耳をすませてしまうのだが・・・
堺屋太一の朝刊小説「チンギス・ハン」が終った後、北方謙三の「望郷の道」が始まった。
以前にもまして日経の朝刊を開くのが楽しみだ。読んでいるあいだ中、九州弁にどっぷり漬かる事が出来るからだ。
(今も自分の中で「なしてね」とか「なんがなし」という北九州弁がふと口をついて出てくる。
若松市立島郷小学校に入学して突然北九州弁だけの学校世界に放り込まれた自分は、もうその記憶はないが必死になってこの北九州弁を身に着けたのだろうと思う。
昭和24年当時の同級の小学生も先生方も当然ながら共通語を喋るような人は誰もいなかったから。
両親は九州若松にいても三重県四日市にいても神戸に住んでも、最後まで関東圏の言葉しか喋れなかったがこんな子供の苦労もついぞ知らなかったようだ。今回追記)
註:望郷の道(61)から地の文章を除き、会話文のみを引用。