阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

2020年秋   信州諏訪を訪ねた小旅行   「鎌倉住人の諏訪の旅 アルバムシリーズ」 その一 諏訪湖   

2020年11月30日 | 七里ヶ浜写真館

上諏訪の湖畔から下諏訪、岡谷方面を望む☝

コロナ禍が起きる昨年まで月に一度は三人会で美術館巡りしていたメンバーの一人である鎌倉在住の田中さんが11月半ばに信州諏訪の旅を楽しんできました。

 写真シリーズ第一回は諏訪湖です。阿智胡地亭が自分のルーツの地、「諏訪」を最近訪ねたのは10年も前なのでしみじみと懐かしく画像を楽しんでいます。

 朝の諏訪湖

夕暮れ時の諏訪湖

 

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「諏訪式」の本    11月14日付週刊新潮 書評

2020年11月30日 | 乱読は楽しい
諏訪人の子として生まれながら 諏訪から遠く離れた西国が出生地となり 西国のあちこちで育った流れ者の我が身としては 
 
自分がどんな土地に起源があってこの世にいるのか気になり 「諏訪」の文字があるとつい目がいってしまう。

「ただならぬ場所」諏訪 小倉さん本刊行  長野日報  2020年10月25日 6時00分

作家・映画プロデューサーの小倉美惠子さん(57)=川崎市=が、諏訪地方の風土や産業、文化を丹念な取材で掘り起こしたノンフィクション「諏訪式。」を刊行した。9年を費やして「ただならぬ場所」諏訪の魅力をまとめた本書が、全国で話題になっている。

諏訪との縁はなかったが、諏訪信仰にまつわる甲賀三郎伝説をモチーフにしたノンフィクション映画「ものがたりをめぐる物語」を撮影することになったのがきっかけで、諏訪を訪れるようになった。

2011年に取材を開始。膨大な資料を前に途方に暮れていた際、長野日報社刊で同社の伴在賢時郎・元特別編集委員らが企画取材に携わった「諏訪マジカルヒストリーツアー」を手にし、同書にヒントを得て、情報誌「そもそも」に連載した。「諏訪式。」はその原稿に加筆し、全4章から構成される。

話は、明治期の諏訪で製糸業からものづくりが勃興する場面から始まる。昭和に至るまで、東洋バルヴや諏訪精工舎(現セイコーエプソン)など諏訪の産業へと受け継がれる特性を探っている。岩波書店創業者の岩波茂雄とアララギ派の歌人・島木赤彦の2人を中心に、作家や出版人たちの多彩なネットワークを描いている。

物語の後半は、広大な空間を生んでいる諏訪湖を中心とする風土と、そこで培われた科学的な態度が語られる。彼らを通して、近代の形成期に自分たちの持ち味を生かし、環境の変化に立ち向かっていった「軸足のある人」の姿が浮かび上がってくる。

豊富な史料から、当時の人々の息遣いが伝わってきて、タイムスリップした気分が楽しめる。小倉さんが訪問先で出会った人から受けた印象と川崎市で見た風景とを重ね合わせた思いが、随所に柔らかいタッチで記された紀行文のような文体も魅力的な作品となっている。

小倉さんは執筆していた頃を、都会の目まぐるしい時の流れから「タイムカプセルのように守られていた幸せな時間」だったと振り返る。諏訪で出会った人たちは「自分の地域を知ろうとする人に、丁寧に教えてくれる気さくな人たちだった」とも話す。刊行されると全国の小さな書店などからも反響があり、「諏訪スタイルが全国の人にも響いているのではないか」と寄せた。

四六判、262ページ。価格は1800円(税別)。

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亀戸の回転すし「銚子丸」の北寄貝はなかなか旨かった。

2020年11月29日 | 食べる飲む

店の帰りには大型水鳥の楽園の中を歩いて帰ったが、店の中ではおいしい寿司を堪能した。

例のごとくサービスのアラ汁は2杯のみほし、全国チエーンの有名回転すし店より寿司ネタに付加価値をつけざるを得ないローカルチエーンの店に入る

利点を十分活用して、回転すし店といってもなかなかレベルの高い寿司の味を楽しんだ。

 

中でも北寄貝は初めて頼んだがこれには唸った。

 

店へは旧中川にかかる京葉道路の橋を越えてしばらく歩かなければならないが古希を過ぎた二人には適度な運動になる。

店内は安全対策がきちんと取られていて、いつものように従業員の自然体の接客態度が気持ちよかった。

 1126 ウオーキング   歩行数  6847歩  歩行距離 4.2㎞

 

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鴨が泳ぐ  旧中川で   動画

2020年11月28日 | 身辺あれこれ

2020 11 26旧中川の鴨

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新型コロナウイルス 感染症非専門医から見る医療の現状  (テレビや大新聞の報道と違う角度からお医者さんが見た現状)

2020年11月28日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・ 

全国の新型コロナウイルス重症者数が400人を超え過去最多となり、医療崩壊や、緊急事態宣言という声のトーンが日に日に大きくなっているのを感じています。

私の視点では、全国での重症者数が435人というのは1億人単位の国家規模で考えれば、まだまだ緊急事態宣言などを出すような状況ではないです。日本国内で他の病気で発生している重症者の数と比べれば、これも桁違いで少ないからです。

100万人都市を例に考えれば、1つの100万人都市に4人程度の重症者数となりますから、常識的に考えれば十分対応可能な規模と思います。

現在国が準備している重症者用のベッドは2000程度ですから、それが現在も大きくは増えていないとすると、現在の使用率は約2割強程度となります。しかし、重症者数が1000を超えてくると新型コロナ用の重症ベッドは半数以上が埋まってくる計算となり、一部地域によっては準備した重症ベッドが溢れ、県外への搬送が必要な事態となりうるでしょう。

連日、新型コロナのことばかり報道されているので、あたかもこの400や500という数字が夏場の150と比べて、増えているように感じる方が多いのですが、この冬に差し掛かる時期というのはあらゆる疾患の重症者が続々と病院に運び込まれる季節です。

特に血圧と連動する血管系の疾患、脳卒中や心筋梗塞などの重症者は増えますし、冬場の環境と免疫の低下による肺炎などの感染症も例年増加します。

たとえば、私の専門である脳卒中を例にしますと、私の勤務先の病院では11月の頭くらいまでは50床程度の急性期病棟の6割程度くらいしか埋まらない日も多々ありました。
それが、先週から今週にかけて、どっと一気に満床です。しかも脳卒中は意識障害や、永続的な半身麻痺などの後遺症を残し、中には数日で亡くなるような重篤の方もいますので、多くは重症ということになります。

新型コロナでは人工呼吸器が話題になりますが、脳卒中でも重篤であれば発症後直ちに呼吸不全をきたして人工呼吸が必要になりますし、麻痺による嚥下障害から誤嚥による肺炎を引き起こし、状況によっては肺全体の機能不全からの人工呼吸となります。現にこの1週間で当科に搬送された脳卒中患者のうち3名が人工呼吸器が必要となりました。

脳卒中という病気だけを見ても、この1-2週間で私の勤務する病院だけで重症者が30人以上増えています。全国規模で言えば、数千~数万の単位の重症者が増えているでしょう。

感染症である新型コロナウイルスと、非感染症である脳卒中などを比較するのはおかしな話ではありますが、重症度や重い後遺症を残すという点や、治療が必要な期間や長期のリハビリを要する点で医療への圧迫もひけをとりません。

私が言いたかったのは、そういった他の疾患の重症者が、国の規模で言えば万の単位で増えるのがこの時期であるということです。コロナで取り沙汰される全国で数百~千程度の重症者数というのは、これら他のメジャーな疾患と比べればずっと規模は小さいということを認識いただければと思い、比較させていただきました。

さて、医療崩壊という言葉が躍る中、現在11月28日に私の眼から見た医療の状況についてお伝えしたいと思います。これは後にも述べますが、私の勤務している病院はコロナ入院患者の入院はありません。正確には、いざ患者が増えれば入院の受け入れを行政に対して標榜してはおりますが、要請がないというのが現状です。

 全文はこちら

 

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大型の水鳥が人と共存する旧中川の水辺    東京駅から35分の距離にある自然

2020年11月27日 | 身辺あれこれ

図書館の帰りに回転寿司の「銚子丸」に寄った。そのランチタイムを楽しんだ後、いつものように旧中川の遊歩道を歩いて帰った。

 全く人を恐れない鳥たちを立ち止まってゆっくり鑑賞した。☝アオサギ。

小サギ

アオサギ

川鵜はふれあい橋のてっぺんが定位置らしい。

1126 ウオーキング   歩行数  6847歩  歩行距離 4.2㎞

 

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改築100周年「平温泉」 諏訪最古の共同浴場      長野日報

2020年11月26日 | 諏訪便り

改築100周年を迎えた平温泉の男子浴場☝

諏訪市小和田の温泉共同浴場「平温泉」を管理する平温泉組合(鉄羅康夫組合長)は23日、同温泉の改築100周年記念式典を隣接する市総合福祉センター「湯小路いきいき元気館」で開いた。記念事業で製作した温泉熱利用の電飾看板に点灯するなどして、温泉の恵みに感謝するとともに、歴史ある温泉文化の継承と発展に向けて決意を新たにした。

平温泉は組合員専用の共同浴場で、江戸時代から庶民に親しまれた。1921(大正10)年築の建物は和洋折衷の木造2階建てで、市内最古の共同浴場とされる。現在の組合員は約180人。10月は1日当たり53人が入浴した。

式典に先立ち、組合役員ら約30人が参列して男子浴場で神事が行われ、八剱神社の宮坂清宮司が祝詞を奏上し、組合役員や来賓が玉串をささげた。鉄羅組合長(76)は式典で、改築時に思いをはせて「今や平温泉はランドマークとして輝いている。先人の努力を大切に、組合と建物を守っていく」と決意を述べた。来賓の金子ゆかり市長と宮坂宮司、平温泉に配湯する湯小路統合温泉組合の岩波政雄組合長が祝辞を寄せた。

温泉熱を利用して点灯した電飾看板

電飾看板は、平温泉の改築100周年を知って「見過ごすわけにはいかない」と考えた鉄羅組合長が理事会に諮り、機械設計士の小酒井正浩さん(76)=同市岡村=に依頼。60度の温泉と25度の水道水の温度差を利用して発電する装置と電飾看板を4カ月かけて製作した。

記念撮影の後、浴場入り口に掲げた電飾看板に点灯すると、350個のLED(発光ダイオード)電球がともり「祝平温泉百周年」の文字が浮かび上がった。参加者からは拍手が湧き起こり、笑顔が広がっていた。

この日は浴場2階の部屋が公開され、改築時の写真や新聞記事、小川平吉(射山)が当時揮毫した「八百万神共笑」の額装、新旧の組合員証、風呂おけなどが展示された。10月に募った記念事業の寄付には164人から170万円が寄せられた。記念の手拭いや記念グッズ、記念誌の作製に役立てるという。

 ◎阿智胡地亭は小中学生の時の夏休みに、当時住んでいた三重県四日市から小和田の北小路の伯父の家に泊まりに行き 地区の共同温泉をあちこちいとこたちと入った記憶があるので

間違いなくこの「平温泉」にも浸かったと思う。諏訪便りに再々登場する「八剱神社」は小和田地区の氏神さまで高島城が築城されるときに諏訪湖の中にあった

高島という島から現在の小和田の地に移築された。阿智胡地亭の本家が所属する「マキ=Clan」の社も小さな4本の御柱を立てて八剱神社の境内にある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小和田地区はもともと今の高島城のあるあたり、つまり当時諏訪湖中の島状の場所に暮らしていた人たちが、16世紀末ころの高島城築城の際に移転してできた村です。
移転と引き換えに、諏訪湖での漁業権や八劔神社による御神渡りの認定やそれにまつわる神事、記録や諏訪大社を通じての宮内庁への報告などの数々の特権を今も持ち、そして大工や職人を多く抱える村でした。  引用元

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街にはもうクリスマスツリー     錦糸町南口 楽天地ビル前のパルコにて

2020年11月26日 | 東京あちこち

街は以前と変わらず普通に賑わっていたそうです。もちろん街ゆく人たちは皆しっかりマスクしていたそうです。

  Shot by MM

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亀戸の町蕎麦屋さんで軽く蕎麦をたぐった。   亀戸中央公園に山茶花を見に行ってきた その2

2020年11月25日 | 東京あちこち

一画にツワブキの群生している所があった。

まだまだ歩けるというので亀戸中央公園を突っ切って亀戸水神駅を越えて蔵前橋通りを梅屋敷まで歩くことにした。

建物の外壁のプラントデイスプレイ

亀戸大根の料理で知られる「升本」の店の前を通った。

梅屋敷の対面、蔵前橋通りに面して蕎麦屋があった。夕食には少し早い時間だったが店に入ってみた。

私は天せいろ、あいかたは鴨せいろをオーダー。

「町中華」と同じような「町蕎麦屋」のレベルの味だった。

鍋焼きうどんや丼物のメニューも豊富で 町の蕎麦屋さんとして地域で頑張っているお店のようだった。

 

 

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三島由紀夫という人の死にざまが長年不可解だったがようやく理解可能な説に出会った。   引用文はいずれも東京新聞から

2020年11月25日 | SNS・既存メディアからの引用記事

 三島が亡くなってもう50年だという。自分が関心を持った人の出身地を知りたがるのは昔からの自分の癖だが、三島の祖父は兵庫県の加古川の農家から東京に出た人で、

「盾の会」の学生長であり 三島と死を共にした森田必勝は三重県の四日市で生まれ育った人間だ。三島の死を 阿智胡地亭が長年信頼している保阪正康さんが語った記事があった。

 これを読んでそういう見方もあるのかと思って納得もしたが、自分とは遠い世間に住んだ男で、いい気なもんだという思いも消えない。

「戦後の空間への激しい嫌悪感で事件を起こした」 三島由紀夫自決50年 保阪正康さんに聞く

2020年11月24日 05時50分  

 1970年11月、作家三島由紀夫が自ら率いた民兵組織「楯の会」メンバーと東京都新宿区の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(当時、現防衛省)に乱入、自決し、25日で50年を迎える。自決直前の演説で改憲と自衛隊の決起を呼びかけ、「天皇陛下万歳」と結んだ三島は何を残したのか。事件に関する著作があり、近現代史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康さん(80)に聞いた。(聞き手・荘加卓嗣)
陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で演説する三島由紀夫=1970年11月

陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で演説する三島由紀夫=1970年11月

 

三島事件 1970年11月25日、「潮騒」などの作品で人気作家だった三島由紀夫(1925~70年)と、三島が結成した民兵組織「楯の会」メンバー4人が陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入し、益田兼利・東部方面総監を人質に立てこもった。三島は自衛隊員を集めてバルコニーから演説し、決起を訴えた後、楯の会学生長の森田必勝とともに割腹自殺した。

◆歴史観の飛躍

 ―三島は自衛隊に「日本を守るとは天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ること」と訴えかけた。
 「編集者だった昭和40年代初め、職場を訪ねてきた三島さんに何回か会っている。雑談しているとクラシック音楽から学生運動のセクトまで何でも知っている不思議な人だった」
保阪正康さん

保阪正康さん

 「戦時中の軍部は神武天皇の神話を持ち出し、軍隊が『皇軍』として天皇に仕えるのは日本の伝統だと唱えた。しかし約700年の武家政権下で武士はそれぞれの主君に仕えていた。当時の軍部は日本の歴史総体を捉えているとは言えない認識だが、三島さんの主張はこれに重なる。あれほど森羅万象知っているのに、この辺の歴史観になると、飛躍して現実的でない。三島さんに共感する隊員もいただろうが、多数派にはならなかった」

◆戦後に嫌悪感

 ―事件は戦後25年の年に起き、それから50年たった。
 
「今思うのは、三島さんには2つの顔があったということ。1つは文学者で、もうひとつは思想家、政治指導者であり右派的な活動家。あの死は何だったのか―という問いには、50年たっても答えはない。この50年間、『文学者としての自己表現じゃないか』とか、『あのような行動を起こすために文学をやったのではないか』という議論もあったが、僕は2つの自分を使い分けたんじゃないかと思う」
 ―事件は50年前の出来事だが、それ以上に昔に感じる。
 「三島さんは大正14年生まれで、昭和20年が20歳。人格形成の時期が軍事主導の時代と重なる。大日本帝国最後の、日本は神の国だという狂信的ともいえる時代。作家として当初は表に出していないが、事件の4、5年前から政治運動に入っていったのは結局、出自の中の20年への回帰現象でしょう」
 「彼は『戦後社会に鼻をつまんで生きてきた』と語った。戦後の空間を全否定し、激しい嫌悪感を持って事件を起こした。『(自分の気持ちを世間に)分かってほしくない』と彼の方から線引き(自決)をしたんだと思う。事件を肯定するのは難しい。私たちは冷徹に見ていいんだと思う」

◆補助線引いた

 ―三島は「ここで立ち上がらなければ、憲法改正はないし、永久にアメリカの軍隊になってしまう」とも訴えた。実際その後、自衛隊は米軍との一体化が進んでいる。
 「三島さんが教えてくれたのではないが、(反米から親米に転じたような)この国の無原則、いいかげんさは感じる。戦後がらりと変わった社会のイデオロギーとか生活空間の常識に対し、『かつてはこうだったのではないか』と(世間に考えを促す)補助線を引いたような気はする」

ほさか・まさやす 1939年、札幌市生まれ。同志社大卒。多くの関係者を取材する実証的な手法で昭和史を研究し、2004年に菊池寛賞。著書に「昭和陸軍の研究」「三島由紀夫と楯の会事件」など。

 

三島由紀夫と会わないかん」 事件から半世紀 介錯人の兄語る 

2020年11月17日 06時00分

必勝の遺影の前で手を合わせる治さん。隣には三島由紀夫の写真が並んでいる=いずれも三重県四日市市で

必勝の遺影の前で手を合わせる治さん。隣には三島由紀夫の写真が並んでいる=いずれも三重県四日市市で

 作家の三島由紀夫らが陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)で自決した「三島事件」から、25日で50年になる。三島を介錯かいしゃくした後、自決した「楯の会」学生長、森田必勝まさかつ=当時(25)=の兄治さん(91)=三重県四日市市=は弟の墓に通い、冥福を祈り続けてきた。政治的な思想は交わらなかったが、肉親の情は今も変わらない。(佐藤大)
由紀夫らが陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)で自決した「三島事件」から、25日で50年になる。三島を介錯かいしゃくした後、自決した「楯の会」学生長、森田必勝まさかつ=当時(25)=の兄治さん(91)=三重県四日市市=は弟の墓に通い、冥福を祈り続けてきた。政治的な思想は交わらなかったが、肉親の情は今も変わらない。(佐藤大)
 「その日、どこに立ち寄ったのかはっきりしないんです」。必勝が遺したという事件前日の1970年11月24日付中日新聞の三重県版を見ながら、治さんは半世紀前の記憶をたどり始めた。
 当時の新聞は必勝の死後、「楯の会」メンバーから受け取った遺品の中にあり、23日付の東京新聞など在京紙も含まれていた。事件は25日に起きたことから、とんぼ返りで故郷の四日市に戻ったとみられる。しかし、実家には立ち寄らなかった。「墓参りをして帰ったのでは。私に会うと、感情があらわになったり、乱れたりすると思ったのでしょうか」
事件の日に着ていた楯の会の制服など必勝の遺品。ズボンなどに血痕が残っている

事件の日に着ていた楯の会の制服など必勝の遺品。ズボンなどに血痕が残っている

大学で三島と出会う

 必勝は2歳半で父、3歳で母を亡くし、16歳年上の治さんは親代わりだった。性格は真っすぐで快活。政治的関心が強く、自民党重鎮だった河野一郎衆院議員に弟子入りを志願したこともあった。早稲田大学で民族運動に身を投じ、三島と知り合う。
 70年夏に帰省したが、とりとめのない話を交わしただけで、異変に気付かなかった。ただ「三島さんと会わないかん」という理由で、早めに東京に戻ったことは覚えている。

「必勝がニュースに出ている」

 治さんが事件を知ったのは、必勝の高校の同級生から勤務先の中学校にかかってきた電話だった。「必勝がニュースに出ている」。三島と一緒に亡くなったという。混乱する頭で地元の四日市南署に尋ねたが情報はなく、三重県警本部に連絡を取り、事態を把握した。急きょ上京し、遺体と対面。楯の会メンバーが号泣する横で、涙をこらえた。
 治さんは26年間の中学教諭勤務を経て県議に転身し、6期務めて副議長にもなった。非武装中立、憲法9条堅持の立場を貫いた。「軍備拡大の時代ではないというのが私の認識」
 それゆえに、改憲や自衛隊の国軍化などを主張した弟と議論がかみ合うことはなかった。ただ「人それぞれの考えがあり、弟なりの信念を拒絶、拒否はしなかった」と振り返る。

「命を受けて」ではなかったのでは

 歴史的には必勝が三島に殉じたという評価が根強いが、「三島さんといろいろ話し合い、最後の行動に入ったんだと。対等とは言わないが、三島さんの命を受けて、ということではなかったのでは」と、弟も主体的に動いたと信じる。
 足腰の衰えで、数年前から毎日の墓通いは難しくなった。あの世に呼ばれたら、やりたいことがある。「国を憂えての行動だったと私は理解しましたけど、本心どうなんや、と本人に詰めてみたい。三島さんとも話をしてみたいですね。天国か地獄かは知りませんけど、話ができれば、ね」

 三島事件 1970年11月25日、三島由紀夫と、三島が結成した民兵組織「楯の会」メンバー4人が陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で、益田兼利・東部方面総監を人質に立てこもった。自衛隊員を集め、2階バルコニーからの演説を要求。自衛隊に決起を訴えた後、三島と森田が割腹自殺した。事件の約1年半前、三島が東大全共闘のメンバーと激論を交わした映像を基に、ドキュメンタリー映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」が今年全国公開され、話題となった。必勝は三島の護衛役として会場にいた。

ドナルド・キーンさんと三島由紀夫 「事件」から50年 交流の軌跡 たどる 北区・中央図書館で企画展

2020年11月20日 06時42分
 
1964年虎ノ門福田家にて対談するドナルド・キーンさん(左)と三島由紀夫(中央公論新社提供)

1964年虎ノ門福田家にて対談するドナルド・キーンさん(左)と三島由紀夫(中央公論新社提供)

 作家三島由紀夫らが陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(新宿区)で割腹自殺した「三島事件」から二十五日で五十年。昨年二月に死去した日本文学研究者、ドナルド・キーンさんと三島の交流を紹介する企画展が、北区立中央図書館(十条台一)で開催されている。二人は一九五〇年代に出会って親交を深め、キーンさんは三島作品を英訳するなどして世界に紹介した。十二月二十八日まで。 (砂上麻子)
 四十年以上区内に住んでいたキーンさんは、北区名誉区民。「三島事件」から五十年を期に、一般財団法人「ドナルド・キーン記念財団」と北区が共催で企画した。
 会場には、キーンさんが新潮社の雑誌「波」で連載した三島に関する自筆原稿や、キーンさんと三島の写真や手紙を展示。中には、自決後にキーンさんに届いた三島からの最後の手紙(複写)もあり、二人の親交の深さを物語っている。
企画展では三島由紀夫からドナルド・キーンさんに贈られた本などを展示=北区で

企画展では三島由紀夫からドナルド・キーンさんに贈られた本などを展示=北区で

 財団の代表理事でキーンさんの養子のキーン誠己(せいき)さんは「二十五日は親友だった三島さんの没後五十年に当たります。この偉大な作家に関する企画をメインに据えることは、泉下(せんか)の父もさぞ喜んでくれるのではないかと存じます」とコメントを寄せている。
 入場無料。開館時間は、月〜土曜日午前九時〜午後八時(日曜、祝日、十二月二十八日は午後五時)。二十六、三十、十二月七、二十一日は休館。
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小学校の校内美術展に少年たちが出展した作品  その2

2020年11月24日 | 身辺あれこれ

小学4年生 将来なりたい人  ☝

小学6年生 自分だけの家

小学一年生 ボク                 シャトルバード

 

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亀戸中央公園に山茶花を見に行ってきた

2020年11月23日 | 東京あちこち

亀戸中央公園には多数の種類の山茶花が植えられている。あいかたの希望で見に行った。

 公園にいく途中の小学校の校庭の柿の木に柿がぎっしりなっていた。誰も採ろうとしないのでたわんだ枝が可哀そうだ。にしても校庭に柿の木とは珍しい。

ふれあい橋を渡ってスカイツリーを見て公園に向かう。

 

1122 ウオーキング  歩行数 7261歩    歩行距離  4.5㎞  公園の後亀戸の街まで歩いて蕎麦屋に入ったので距離が伸びた。

 

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小学校の校内美術展に少年たちが出展した作品  その1

2020年11月22日 | 身辺あれこれ

小学校の講堂に観に行きました。3人それぞれの個性の作品を制作していました。

☝ 小学6年生 「鮭」 吊るされた本物の鮭を題材に描いたそうです。

☟ 小学4年生  「白いオオカミ」

小学1年生 「花」

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諏訪の浮き城・高島城の北向き天守を上手く撮る方法 気まぐれ城散歩・諏訪高島城(前編)

2020年11月21日 | 諏訪便り

全文はこちら

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PCR陽性者と感染者と患者の概念を明確に説明する論考    野村慶太郎さんのFacebookから引用

2020年11月21日 | SNS・既存メディアからの引用記事

https://www.facebook.com/keitaro.nomura/posts/3267942543267390から引用     本エントリーは上出さんのfacebookにより教唆を受けました


日本が完全にオカシイ。もうヤバイぐらいに変だ。
小池百合子女王の街・東京では連日数百人の「PCR陽性者」が発見されて、感染者が全国に広がっているような報道だが、チョイ待てや。


ウチは菌の専門企業なので昔から菌の種類を判別するのにしょっちゅうPCR検査を使ってきたし、PCRを普段から使う医療関係者なら知っている常識だが、

あれは「感染者数」じゃなくて「陽性者数」だ。いいか、ど素人のテレビコメンテーターども。
決して「感染者」ではない。あくまでも「陽性者」である。
その中には「感染」に至っていない「曝露者」が大勢いる。
コロナウィルスが細胞に侵入したら「感染」なのだが、その前に、ほとんどが自然免疫で処理されてしまう。

更に「感染」しても普通はT細胞が細胞ごと破壊する。だから、ここまで「曝露者」と「感染者」の98%が「自然免疫」で片付いてしまう。
今の統計を正確に読み込むと分かるけど、「PCR陽性者」(曝露者+感染者)のうち約98%が、無症状か風邪程度で治っている。
国による違いがあるがコロナは「日本人の場合」、曝露力は強いが、感染力が弱いから、重症者も死亡者も大変少ない。


1、陽性反応者
単にウイルスが「曝露」(ばくろ・体の中に入る)しただけで、「感染」(細胞の中に入って増殖する)には至っていない人。
免疫にやっつけられて破壊されたウイルスの残骸が出てきただけの人


2、感染者
ウイルスが細胞内に侵入した人。無自覚、無症状多数。


3、患者
発症してる人。


そして死亡者は全然増えていない。
なのになんでこんなの国を挙げて第二波だの緊急事態宣言だのと騒いどるんだ?
なんでNHKも保健所までただの陽性者を「感染者」と呼んだり「患者」と呼んだりするんだ?
一体どうしてしまったのだ?日本は。
ノーベル賞の山中伸弥先生まで出てきて「厳重警戒」だの「元の生活にはもう戻れない」だのwithコロナだのアフターコロナの「時代」だの、

なんかもう人生がめっちゃ変わるかのような報道合戦だが…山中先生…どうしちゃったの?
ワシ大ファンだったのに…。
コロナ、日本は絶対もうすぐ終わるぞ?
まるでマスコミが大騒ぎして煽って第二次世界大戦に突入していった頃の日本に戻ってないか?
日本人、テレビの見過ぎでバカになったのか?

  野村慶太郎さん こちら⇒https://www.facebook.com/keitaro.nomura

   09月13日追記 本ブログでは「いいね」が一番多い記事なので8月4日掲載の記事を再掲載。

      11月21日追記 9月13日に再掲載した記事だが現在もアクセスされる方が多いのであらためて掲載。

コメント (2)
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