普通は西京焼きなどで美味しく食べている「さわら」。鮮度がよくないと刺身には出来ないし、なおかつ身割れをしがちなので、
捌きにもウデが要るという「さわら」の刺身。とろっと口の中で融けました。5人いたのに気がつくと1人で三分の二を食べてしまっていました・・。
松岡・上出両先輩、長谷川・志風両同輩、スミマセンでした。
こちらは新居浜での名称で「パッチンえび」。クセがなくこれまたいくらでも食べられました。
いずれも新居浜の割烹“丹羽”にて。
翌日は新居浜駅からJRの特急で大洲市に向かい、大洲から車で、西予市宇和町へ行きました。
大洲にはまず特急で松山まで行き、松山で宇和島行きの別の特急に乗換です。
昭和40年代のはじめ、新入社員として 早朝はじめて降り立って以来、新居浜駅とは長い縁が出来ました。
明治の鉄道導入時代に絹織物で栄華を誇っていた茨城県の龍ヶ崎市(かって住んでいた北相馬郡藤代町の隣の市)は、
線路敷設そのものを忌避したため、常磐線が通らない町になりました。新居浜には予讃線が通っていますが、
新居浜駅は町の中心を遠く離れた辺鄙な場所に作られています。機関車の大騒音と煤煙を嫌い、
当時の町の有力者が町の中心地に停車場を作らせなかったケースが全国で多数散見されます。
新居浜もその例に洩れません。時の支配層に、進取の気性は不要どころか邪魔物でしかないのかも・・・
その日の夕方には高松に着きました。黒田屋でザルうどんを食べ、(300円というのが嬉しい)待っている間に、
讃岐のどこのうどん屋にも1年中あるオデンを食べました。種類に関係なく串一本100円。さらっとしながらコクがあって旨いおでんでした。
翌日の夕方乗った高松と岡山を結ぶ快速・マリンライナーは53分間で両駅を結びます。
一言でいえば、当時の日本人として河内寅次郎という人は、家作という贅沢の中でも最高の贅沢を享受したという感じを受けました。にしても欧州の石造りの豪華絢爛な大建築ではなく、このような自然のなかに紛れてしまうような(西洋の建築から見れば桂離宮と同じく、小屋にすぎないという概念のもの)建物が、日本の大金持ちが目指す最終の別荘のカタチというのも、極東の列島に住む人間らしくていいもんだと思いました。
ただ、侘び?寂び?それが何か?とも、半分くらい思ったのも事実です。

建物の内部は撮影禁止でしたが、こちらのサイトには詳しい画像が多数ありますのでご参考まで。山荘からの見晴らしです。



林芙美子の手紙全文と、解説。

手紙の最後の部分の林芙美子の筆跡の石碑。

Iさん、出勤前に駅に寄っていただき恐縮です。
森光子さんが公演を続けている「放浪記」の原作者ー林芙美子!
彼女は周桑郡の血が体内を流れている半分東予の女なんよね。
若いときはカフェの女給さんやったり、作家になってからは1人でシベリヤ鉄道に乗ってパリまで行ったり、従軍記者やったり、明るくてタフな女性でしたが、若いときから頑張って生きた無理が祟ってか、50歳前に急死したのは惜しまれてならんです。「花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりき」は彼女の句らしいです。
websiteから:壬生川は愛媛県中東部、西条(さいじょう)市の一地区。旧壬生川町。燧灘(ひうちなだ)に面し、江戸初期からの港町。松山藩の新田開発に伴って新川を改修して港がつくられ、蔵米積出しでにぎわった。卸・小売業が多く商業の中心地区であるが、現在、JR予讃線壬生川駅前地区に商業の中心が移りつつある。図書館を併設した東予郷土館がある。
この家は宇和島・伊達藩時代からの街道筋に面した大きなお屋敷(元々は商家?)です。歴史的な価値があると思いました。( 律令時代からの伊予国宇和郡の呼称といわれていた宇和町(地区)は、宇和島藩の純農村地帯にある在郷町(ざいごまち=近世の農村に成立した町で、農村にありながらも、城下町に似て一定の商業活動の許された村をいう。)として発展・・全文はこちらのサイト)
裏口も頑丈な造りになっています。

友人はこの家の17代目として当地で生まれ、宇和高校を卒業するまでこの家で育ちました。上記サイトに記載されていますが、宇和町の中心地卯之町には明治15年に開校した「開明小学校」が保存されていて、松本の「開智学校」と姉妹館の提携があります。宇和の地も信州と同じで昔から教育を大切にした土地だと知りました。
母屋から庭を隔てて立つ離れも大きな建物でした。

表の道から家の正面を斜めから見ました。

1996年の6月に亡くなった友人は、この家のま裏にある菩提寺・大梅寺の墓地の中の、
一族の大きな墓所の1画にご両親と共に眠っています。
彼の、時に含羞の色を浮かべる男らしい笑顔を忘れることはありません。
友人の奥さんに勧められた宇和町の中心地、卯之町の山田屋の饅頭を買って帰りました。自然食材だけで作られた伝統の薄皮饅頭の上品な甘さを堪能しました。家族にも大好評でした。


愛媛県西予市宇和町東多田はここに位置します。
このあたりは昭和36年3月に神戸から高知経由で足摺岬へ一人旅をして、宇和島廻りで帰神した時以来ですから、48年ぶりの南四国でした。

ポインターは大梅寺の山門の位置を指します。
