2009年3月10日のブログの記事を読まれた高橋弘泰さんからメールを頂きました。その一部をそのまま引用させて頂きます。 B29による焼夷弾ですぐそばが焼かれ、火に追われながら離れた大きな防空壕に逃げたこと。(近くの高射砲陣地からは全く撃ち落せず) 二度とああいうことをどこの国民も味わうことがないように記録に残し始めていますね。」 |
今日は今から89年前の1936年2月26日に、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、 「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件のいわゆる「二・二六事件(ににろくじけん)」が起こった日です。 当時の日本のくにたみの義務として兵隊に取られて、髪もないのに事件にかみました。 いきなり一兵卒で野中大尉の指揮の下で警視庁の襲撃部隊に加わりました。 士気を鼓舞するために、何か一席やれっ!」と、命令した。 この噺はくすぐり沢山で、普段寄席でやるとウケる噺なのに、始めから仕舞いまで、誰もクスリとも笑わなかったそうだ。 射殺された彼らの殆どは東北や九州の農家の二、三男だった。 上官の命令に従っただけで、自分らの何の思想的行動でもなかった彼らは、その後 極秘裏に満州などの激戦の前線部隊に送られ切り込み隊に使われた。 従って兵らの消耗率は高かったと言う。柳家小さんも勿論戦地に送られたうちの一人だった。彼は召集期間を勤め上げ日本へ帰還したが、 暫くすると再召集され今度は仏領インドシナ(現ベトナム)の戦線へだされている。
漢文の素養もある家庭階層出身が殆どで、宴会の高歌放吟にも漢文調の歌を好んだ。 日々をフツーに暮らしたい下々の者のしみじみの目線から見た二・二六事件への思いだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私は反乱兵 五代目柳家小さん 音声記録:五代目柳家小さん226事件を語る - DEEPLY JAPAN (goo.ne.jp) 柳家小さん「226事件を語る」 五代目柳家小さん「穴泥」 クリック⇒ 2・26事件とは?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス |
2月23日はいい天気でした。ハーバーランドに行って出石蕎麦の店で昼めしを食べたあと
映画「オリバーツイスト」(クリック)を見ました。上映時間まで時間があったので少し
ウロウロしました。狙ったトンビがうまく画面に入りました。
六甲山もくっきり見えました。何回来てもモザイクは平日はガラガラのイメージがあったのに、若い人達が多くいて驚きました。
中国語を話すセンスのいい服装のヤングカップルがバギーに可愛い赤ちゃんを乗せていました。香港からの観光客かもと思いました。
JR灘駅から歩いて10数分の所にHAT神戸と言う集合住宅と商業施設の大きな街区が出来ました。
この土地は元は神戸製鋼所の脇浜、岩屋工場や川崎製鉄の葺合工場があったエリアで1998年から供用になっています。
HAT神戸はこちらにも詳しく掲載されています。
ここには兵庫県立美術館があるので時々でかけますが、昨年10月にオープンした
10スクリーンもあるシネコンにはまだ行った事はありませんでした。「博士の愛した数式」を見に行きました。この映画は三ノ宮の映画館でもやっています。
でもHATのシネコンの方が傾斜があって見やすいと次女に聞いたのでこちらに行ってきました。確かに前の人が全然気にならない傾斜がついていました。
上の画像は映画館のあるビルの屋上庭園から海側を見たものです。
映画を見た後、JR灘駅から歩いて3分しか離れていない阪神電車の岩屋駅の前で相方と別れて阪神電車に乗り、
御影駅で下りました。前から気になっていた石柱の写真を撮るためです。
横にこの説明版が出ていました
石柱は阪神御影駅の浜側20mの所に立っています。
自転車置き場の隅にあるので気が付かない人も多いのではないかと思います。
そのあと駅に戻り高架の下をまた20mほど西へ歩くと池が高架の下にあります。
上の写真がそれです。池の前にはこの説明版がありました。
この中にある「嘉納」と言う名前は御影郷の酒造家である白鶴酒造の創業一族である「嘉納家」と関係があるのかもしれません。
講道館の創始者である嘉納治五郎はこの一族の出身です。白鶴酒造とその仲間の酒造会社たちが創立した灘中、灘高の講堂には
「精力善用 自他共栄」と嘉納治五郎が揮毫した額が掲げられているそうです。
その後、駅前のバスターミナルの自噴水の画像を撮ってから山側に5分ほど歩き国道2号線に出ました。
ここにこのあいだ見つけた不思議な銅像があります。
これは路上観察学会が言う“トマソン”かも。この像の対面が東灘警察署ですがそれには関係なさそうだし? どういう理由でこれがここに?
そこからバスに乗り甲南病院の近くで夕暮れの東神戸の海と街と製鉄所の写真を撮りました。
神戸市の中央区下山手通りに兵庫県庁や県警本部の建物があります。
JRの元町駅の山側に歩けば10分もかからず、緑の多いこの官庁街に入ります。
昨日はこの一画にある「パレス神戸」で“NPO法人兵庫経営塾 ” の新春講演会がありました。
地下鉄の県庁前駅で降りて会場に向かうとき、2分ほど寄り道して、同じエリアにある震災10年後に再建された神戸栄光教会と
公開されたときに入館したことがある「兵庫県公館」の前を通りました。幼稚園児たちが写生に来ていました。
講演会のあとの打上げの飲み会に参加されたメンバーの中に、子供の頃、栄光教会の日曜学校に長く通った方がおられました。
神戸の土地に戦前に根を下ろした歴史のある教会のようです。
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2006年10月16日掲載
JR元町駅を山側へ少し歩くと、兵庫県庁の近くに県民会館があります。会館の11階で“NPO法人兵庫経営塾主催の特別講演会”がありました。
講演会が始まる前に、会館の隣にある栄光教会を覗いてみました。
こちらでも故三浦綾子さんのご主人の講演会があるとかで人が沢山並んでいました。
この教会は大震災で崩落してしまったのですが、数年前にほぼ同じ設計コンセプトで再建されました。
経営塾のお仲間のSさんは子供の時にこの教会の日曜学校に毎週通っていたそうです。
県民会館から真下に鐘楼が見え、礼拝の合図か鐘が打ち鳴らされ、美しい鐘の音色を聞く事が出来ました。
JR六甲道駅でスズメの大群を見かけたあと、
神戸元町の風月堂へ朗読を聞きに行きました。
NHKの「ラジオ深夜便」とかいう番組の大阪バージョンのアンカーをしている人が山本周五郎の短編を読みました。
小学生の頃ラジオで「三太物語」や「新諸国物語/笛吹童子や紅孔雀」「ジロリンタン物語」を毎週楽しみに息を詰めて聞いていた頃を思い出しました。
風月堂ホールは地下2階にあって最大150名収容とのことですが、今日は70名ほどの人が来ていました。
聞きながらひさしぶりに背中がゾクゾクしました。ゾクゾクした理由が山本周五郎にあるのか、朗読者にあるのか?その両方だと思いました。
朗読もこの人の域まで行くと現代の最高の講談師だと思いました。
遅ればせながら、毎年初詣に行く地元の氏神さんの弓弦羽Click(ゆずるは)神社に行きました。
茨城県藤代町(現取手市)から昭和62年の八月に神戸に引っ越したあと 昭和63年の正月から毎年お参りしています。
青空のもと、風は冷たくて参拝客はちらほらでした。
この神社は『灘五郷』のうちの『御影郷』の全ての造り酒屋が氏子ですから、奉納の菰樽が沢山並んでいます。
狛犬と今年の絵馬です。
阪神淡路大震災の復興修理の寄進者の名前が出ていました。
神社の隣は、今は香雪美術館になっている朝日新聞社主の元村山邸です。
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2017年5月6日掲載 神戸市御影の「香雪美術館」に「熊井守一展」を観に行きました。
美術館は灘五郷の一つ御影郷の氏神である「弓弦羽神社」のすぐ隣にある。
朝日新聞社の創立者である「村山龍平氏の蒐集品」をベースにした美術館で村山邸の敷地の一角にある。
「長良川」 観た瞬間、自分が絵の中のこの堤に立っているという感覚の不思議な空間にいた。
「寒山拾得」 古来中国日本の多くの文人が描いているが、わたしのイメージに一番合っている寒山拾得像だった。
見慣れた文字が並んでいると無意識にそこに目が行くのが面白い。「かみさま」
熊井守一という画家は極端な寡作作家で、子育ての時期は極貧の生活だった。子供が病気になっても医者に見せる金もなかったそうだ。
熊井夫妻は5人の子供うち3人の子を失っている。私も熊井という画家のことはその話と共に知った。彼は97歳で亡くなった。Wikipedia。
招待された近所の幼稚園児も、船の余りの大きさに声も無く上を見上げて、指定席に向かいます。
神戸市消防団音楽隊は「国歌」から「モスコウ」までレパートリー広く演奏してくれました。
手順に従ってきびきびと多くの作業員が動き、巨体を支えていた添え木を3段階で外していき、それが完了したことが確認されたあと、
造船所長がおごそかに船主に「進水準備が完了しました」と告げると、船主令室がナイフで一気にロープを切断しました。
その瞬間、「シャンパン」が割れ、巨体は音も無く、船台をするすると滑り出すと“くす玉”が割れました。
船体が船台を完全に離れた瞬間、錨が落とされ水しぶきが上がりました。
船は安定した状態で、タグボートで神戸港の所定の位置に移動していきました。これから2月末まで艤装をおこない、そのあと船主に引き渡されるそうです。
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上の画像は:
ばら積運搬船“SANTA ISABELLA”主要目
2005年 12月16日進水
船主 FOREVER SHIPPING,S.A
船級 日本海事協会
船籍 パナマ
全長 約189.90メートル
長さ(垂直間長) 185.00メートル
幅 (型) 32.26メートル
深さ (型) 17.80メートル
総トン数 約31,000トン
載貨重量 約55,500トン
連続最大出力 8,200kw×110回転
定員 25名
という船の、12月16日に川崎造船神戸工場でおこなわれた進水式の模様です。
進水式見学2回目の今回は、式台の上の船主や造船所長、日本海事協会支部長
などの隣のブースで、セレモニーの全容を見せてもらいました。
☆今日の神戸新聞に写真つきで掲載された記事によると、「船体が海へ動き出すと、会場に招かれた市民ら約1,000人から
歓声と拍手が沸き上がった。同社が建造する同型シリーズの7隻目。穀類、石炭、鉱石などを約5万5千5百トンまで積める。
船首は水の少ない形状で、燃料を節約できるほか、4基のクレーンを船上に備え、荷役設備が無い港湾でも積み下ろし作業が出来る。・・」
とありました。
この船の[排水量]は世界最大の戦艦といわれた「戦艦大和」にほぼ匹敵するという安田さんのお話も事前に聞いていましたが、
身近に見るとまあなんとも魂消る巨船でありました。
そしてこの船体を構成する大小さまざまな船殻(ブロック)を巨人の手のように吊り上げ、組み立てる多数の大型ドックサイドクレーンが
自分に縁があったメーカー製であるのも個人的に嬉しいことでした。
安田健二さん今回も本当にお世話になりました。ご一緒した清水さん、吉村さん有難うございました。
日本晴れの青空のもと、電子製品にはない、鉄の大きな塊(ドンガラ)の婉然たる美しさをあらためて感じました。
実は、その中には、ドンガラをたった25名で操船できる最新・最新鋭の電子機器も多く装備されているのですが。
式のあいだ、自分も新入社員時代の数年、四国で勤務した鉄を加工する製造現場の機械油や溶接の煙などの
何ともいえない懐かしい匂いが鼻腔をくすぐって、嬉しかったです。
先週の金曜日に 六甲道の文化センターの「朗読講習」5回目が終わり、今回の初歩講習はあと一回になりました。
来年の1月から「実習コース」になりますが、それらを卒業して実際に活動をしているグループがいくつかあるそうです。
既に活動しているグループの交流会がありますが、希望者は見学できますよとの、先生のお話があったので行ってきました。
今日は家を出ると駅までの道筋は身体が飛ばされるような強い風が吹いており、阪急御影駅のプラットホームも強風にさらされていました。
場所はJR神戸駅前の湊川神社の境内にある「楠公会館」でした。私は三ノ宮から高速神戸駅のルートを使いました。
駅を上がるとすぐ湊川神社です。
6グループの発表は経験年数の差で多少の違いはありましたが、演者自身がみな楽しそうにやっていたのが印象に残ります。
3ヶ月先の結果は別にして、講習をもうワンクール受けてみようかなと思いました。
終わってから、淀川長治さんが幼児時代から親に連れられて通ったという新開地に行き、
「岱風(たいふう)句抄」の全句を冊子の掲載順に並べ替えて保存しました。
最初の六句です。
春寒う 市立てる町の 人出哉
溝幾筋にして 桃李園 長閑
庭隅の残雪や 松の葉の こぼれ
街道埃 軽く吹き居り 木の実植ゆ
紙鳶糸のもつれる 夕雨落ちて
夕暮るゝ 丘にさえずり 移りせり
♪ 句抄の中に
蛙鳴くや 末の児が 夕餉をせまる
と言う句があります。この夕餉(ゆうげ-夕ご飯)を迫った末の児は、自分の父親のことなんだろうか、
それとも三男の父と10歳違いで産まれた四男の叔父のことだろうかとふと考えます。
Click⇒岱風句抄
祖父の岱風は 諏訪藩が廃藩置県で無くなってから、「家のなりわい」の花火製造販売業をある事情で廃業し、しばらく足袋屋をしていたようです。 その店で縫製を修業し、洋服仕立ての技術を身につけて上諏訪に帰りました。そしてテーラーメードの店、「ハナビヤ洋服店」を開業しました。 彼は大工の棟梁だった親友の妹と結婚し、四人の男子を縫い針の稼ぎで育て、それぞれ教育を受けさせました。 いつも傍らに小さな手帳をおき、浮かぶままに俳句を書きつけていたと聞きます。
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☆新居浜市の響灘の住人こと「上出拓郎」さんから“猛暑の妄想”という一文を寄せていただきました。 一読後、より暑くなるか、涼しくなるかはあなた次第です。 ☝響灘 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー トップの写真はwebから引用。 次のエントリーも上出拓郎さんから頂きました。 天体力学が思想家に与えた負の影響、あるいは格差問題の本質 - 阿智胡地亭のShot日乗 安芸の軍勢の焼き討ちから再び芽生えた新居浜市の一宮神社の楠の大木 2010年の今日8月10日に掲載 - 阿智胡地亭のShot日乗 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 長らく闘病中と伺っていた上出拓郎さんが2024年10月17日に新居浜市でお亡くなりになりました。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。 1966年に初めてお会いして以来お付き合いを頂き 2005年頃からはずっとメールやfacebookなどで週一回ほどの交信を続けていました。 ここ2年ほどは残念ながらご病気でやりとりが かないませんでした。
長いご交誼の中で上出さんの中国からの引き揚げ体験など、幼児からの個人史や母上の句集なども折に触れて知りました。 新居浜に行くたびに必ず上出さんは松岡さんとお二人で時間を空けて下さいました。
自分が貿易部にいた時は 当時ニューヨーク支店におられた上出さんに、ニューヨークのこぶりなロシア料理店でロシア民謡とウオッカをたっぷりとか・・ 森哲雄さんに続いての長いご厚誼をいただいた方のご逝去はまことに残念です。 いろんな思い出が頭の中を巡ります。 上出さんは にこやかな表面の中に曲がったことは大嫌い、人間としてやらないといけないことはやりとげるという面も持つ厳しい人でした。 そして人にはやさしい目を向け 飲み助とのお酒の付き合いが大好きな・・・。 しかし私は時にこの人は いざとなったら裂ぱくの気合を持ってことに当る人だなと時々むけられる鋭いまなこから感じる人でした。 これまで多くの先輩方の存在のおかげになってきましたが上出さんはその中の大きなお一人でした。 ありがとうございました。 合掌 JPS61255793A - 高速スクリユ−プレスの駆動装置 - Google Patents パワージェネレータによる成形装置の駆動 | 文献情報 | J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター
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映画はどんな映画でも「ある意図を伝える、伝えたい」ということで製作される。そういう意味では“中立公正な新聞・テレビ”がこの世に存在しないのと同じく、 映画は全てバイアスがかかって偏見に満ちていると言える。例えば娯楽映画でも何らかの意図がなく、俳優のギャグだけに頼る映画は、面白くないし客を呼べない。 少なくともこの映画は、最初から多くの客を呼べる面白い映画ではない。 以降は弁護士として過ごす)2007年2月に袴田巌」は無罪だと発言したことをベースにして製作された。 つまり死刑判決を下した裁判官自らが、後に「実は被告は罪を犯した真犯人ではない」と発言した、いわゆる「袴田死刑囚冤罪事件」を映画化したものだ。 おそらくこの映画を製作した“高橋伴明”監督の製作意図に賛同して出演したような気がする。 最も大杉漣のように高橋監督とはピンク映画時代からの戦友と言う縁で出た俳優もいる。 同年8月18日に逮捕され、以来一度も拘束を解かれることなく、裁判で死刑判決を受け、30歳当時から74歳の今年まで44年間、死刑囚として刑務所に収監されている。 獄中の袴田は、毎朝、刑務官の足音に恐怖しているうちに(三人の足音がすれば、それは死刑の執行を意味する)拘禁症がすすんで、ついに精神に異常をきたした。 今日も尚、彼は死刑を執行されずに刑務所の独房で人生を送っている。 映画感想ここまで ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- |
◎ 最新の判決では、最高裁が2008年に特別抗告を棄却している。
死刑判決を出すのは、裁判所であるが、実際の執行命令書に署名するのは国会議員から任命された法務大臣だ。
一人の人間を精神異常に追い込むほどの44年という長期間、死刑を執行しないというのは酷いことだと思う。
法務大臣在任中、死刑執行に多くの署名をして朝日新聞に死刑執行人と書かれた鳩山邦夫元大臣も、同じく在任時代に何人かの死刑執行をした森英介元大臣も、
袴田死刑囚の死刑執行書に署名していない。映画をみているうちに司法当局が,これまで時の法務大臣に袴田死刑囚の死刑執行署名を求めない理由は何か?と考えてしまった。
(刑事訴訟法によれば、死刑執行の命令は判決が確定してから6か月以内に行わなければならないが、再審請求などの期間はこれに含まれない。)
☆事件が起きて捜査を担当する警察の前線の初動の視点が狂うと冤罪が起きる。最初が肝腎だが、警察もいつも初動捜査に万全であることはない。
時間がたてばたつほど真犯人捜査は困難になり、そうなれば、警察は当初の予断に基づくシナリオにしがみつくしかない。
一警官から最高裁判所の判事まで、その職についている公務員の面々が、「人を裁いて死にいたらしめる」ことの意味を、ほとんど考えていない・・。
彼らにとっては、事件や公判は、片付けなければならない毎日の仕事で、それをこなしていくだけだ。
しかし、この組織の裁きは「私刑」ではなく、「国家刑」だから、もし冤罪で死刑になった場合は、例え無実であってもくにたみが任せた司法専門職の人たちに、
容疑者は公的に殺されたことになる。そしてこの公的殺人は、携わった誰も殺人罪の咎を受けることは無い。
「お上のやることに間違いはない(官の無謬性)」のであり、いや、それに守られて「間違ってもそれはなかったことにする」にいたる・・。
一人のくにたみとしては、こんな映画は戦前には検閲でとても上映できんかった、こんな映画が製作されて公表されるだけでも一歩前進かなあと思うしかない。
熊本元判事は、退官後に自責の念から、自殺を図るまで追い詰められ、奥さんと女の子二人の家族と離縁するまでになっている。
高橋監督は袴田巌の、そしてもう一人熊本典道の人生を、彼の目を通したドラマで記録に残し、日本の司法制度に携わっているお役人さまたちに迫っている。
チョー真面目な映画ではあるが、さすがテダレ(手練)の高橋監督!要所要所で法曹ムラの住人たちをおちょくるシーンを挿入して笑わせてくれる。
冤罪を司法が起こすと、真犯人は追い詰められることなく逃げ切ることが出来る。
人が自分の身代わりで死刑になろうとも、名乗りを上げることはない人間がいる。この人間の心の闇も恐ろしい。
(7月21日大阪・十三「第7芸術劇場」にて中村隆次さんと観る)
映画『BOX 袴田事件 命とは』予告編
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袴田さんの再審開始が確定、無罪の公算強まる 検察側が特別抗告を断念 1966年一家殺害 死刑事件で5例目
2016年4月20日 イタチが走った!
2016年4月20日 庭で撮影。 場所が神戸市東部の六甲山の麓のせいか あちこちの家の天井や納屋にイタチが棲みついているようだ。
室津へは10数年ほど前、神戸に戻って暫くして日帰りで行ったことがありますが、今回はガイドブックで見つけた「きむら」という旅館に一泊の予約をしました。
この旅館は竹久夢二や谷崎潤一郎が滞在し創作や執筆をしたと紹介されていましたが、いまは町中から出て高台へ移転しています。
宿の一角に夢二の絵が沢山掛けられていました。
竹久夢二はここからそう遠くない岡山県の邑久郡の出身です。(このことは大阪勤務の時、仕事で邑久のヤンマー造船所へ行った時に知りました)
室津は江戸時代、参勤交代の西国大名が参勤交代のため瀬戸内海を船で移動するときの船本陣があった自然の良港です。
宿に車をおいて部屋で一休みしました。 部屋からは、港と小さな湾を囲んだ平地にぎっしり立ち並んだ家々と漁船の群れが真下に見えました。
その後、宿のある高台から港までおりて町に入りました。町には昔の本陣と脇本陣だった建物が二つだけ保存され、博物館になっておりよく維持されていました。
江戸時代、北海道、秋田、酒田などと交易をした北回船の胴元達もこの地にいたり、本陣もいくつもあったりで、
室津は近隣では飛びぬけて富裕な土地柄だったため、姫路藩が飛び地として所有、支配していました。
姫路の殿様や上級武士はここの金持ち連中から毎年盆正月に借金しては踏み倒し、その代償として苗字帯刀、駕籠使用の許可などで、
商人のご機嫌を取っていたような説明があり、思わず笑ってしまいました。
ロシア宮廷も清朝も江戸幕藩体制も末期になると人間のやることは皆同じで、経済が商業資本に実質的に、押さえられています。
脇本陣の家は革細工の煙草入れの製造元でもあり、当時から大阪船場に販売の店を持っていたそうです。
今に続く姫路の革産業は歴史があるんやなあと思ったことと、この豊野家の「豊」という字は姫路藩の筆頭家老である「豊田」氏から使用を許され、
名乗ったという説明で、そう言えば、元の勤務先で知っているあの方も姫路西高の出身だったなあとフト頭に浮かびました。
◎江戸時代、参勤交代の西国大名の往来で栄えた頃、「室津千軒」と言われたという町中を歩くと今は全くの漁師町ですが、
立派なお寺やソテツの群生がある岬の丘に結構大きな「賀茂神社」があり、長年旦那衆がいたところだと実感します。
余談ながら加茂、鴨、賀茂と漢字は色々ですが、古代、海洋民族の「KAMO族」が南洋から日本に、次々と数多く漂着し各地の海辺に定住したり、
魚を追い、川を溯って山国へ移動して住みついたりしたため「賀茂川」や「賀茂」という地名は全国各地に数知れません。
また賀茂神社は京都の下賀茂、上賀茂神社のように日本の神社の中でも相当古い神社のようです。
京都の下賀茂神社にお参りした時、その建築物が、高床式で柱と屋根だけのマレーシア、サラワクやフィリピンの家と殆ど同じ形式なのに驚きました。
とても寒い京都の気候から生まれた構造物ではありません。また祭られている神様は当然「水」の神様です。
◎魚中心の夕食を旅館なので部屋に運んで来てくれ、ゆっくりおいしく食べました。
食事の後、ロビーの夢二のコレクションを見て早めに休みました。
何となく外が騒がしいので目が覚め、時計を見ると明け方の5時半でした。窓を開けるとドッドドッドとエンジンを轟かせ漁船が次々と港を出て行くところでした。
真っ暗闇の中をマストに赤と緑のランプをつけ、前だけを照らして同じ間隔を取って出港していきます。小さな漁船が100艘ほども一列縦隊で出て行くのを始めて見ました。
思わず最後の一艘が出て行くまで見てしまいました。朝食の時にいいものを見たと宿の女性に言ったところ、
彼女には毎朝の出来事らしく、なんでそんなものが珍しいのかという顔をされてしまいました。
③港で干物を買って、赤穂御崎を目指しました。カーブの多い海岸線に沿って走っていくと、建造中の大きな自動車専用船が何ばいか見えてきました。
いつしか相生市に入っていました。
船が建造されていたのはIHIの相生造船所でした。本館と思える建物やドックを過ぎると、中国から江戸時代?に移入された「ペーロン船」の競争会場が現れ、
赤と金を多用した中国風の記念館があって、テレビでしか見たことがない場所に突然紛れ込みました。
車で移動すると時々こういう思いがけない楽しみがあります。
赤穂御崎でゆっくり海を眺めたあと、山陽自動車道の赤穂ICで高速に乗り、
帰りは2時間ほどで家に帰り着きました。走行距離計は242kmでした。
2002年3月記。画像は全てネットから蒐集。