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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

小説『火垂るの墓』  野坂昭如さんの あとがき。       映画「火垂るの墓」は、本日 日本テレビ系「金曜ロードショー」で午後九時から放送

2025年08月15日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 
君たちの生まれる前、戦争があった。
 
たくさんの人が死んだ。
 
そして、日本は、もう二度と戦争をしないと決めた。
 
だが今、戦争を迎え入れつつある。いつ戦争に巻き込まれてもおかしくない状態なのだ。
 
君たちはこれをどう考える。
 
君たちの周りには食べ物が溢れている。
 
けれど、そのほとんどが、輸入の産物。
 
戦争が起きれば、食べ物は入ってこなくなる。
 
そうなれば、たちまち日本国中、餓死して当然。
 
ぼくが子供の頃、この国は農業が盛んだった。
 
身近に、作る人の努力を感じることができた。
.
物を食べる時、作った人や、その収穫物に感謝する気持ちがあったし、大地の恩、水、天の恵みを有難く思っていた。
 
「いただきます」という言葉には、そういった気持ち、すべてが込められていた。
 
食べ物を大事にしてください。
 
戦争中、そして戦後、餓えて死ぬ人を何人も見た。
 
戦争は嫌だ。戦争は決してしてはいけない。
 
君たちに同じ思いをさせたくいない。
 
君たちが大人になる頃、戦争を経験したぼくたちはもういないだろう。
 
この本を読んで、戦争を考えて下さい。
 
戦争について、語りあって下さい。語り合うことが大事です。
 
そして、ここに書かれなかった戦争の真実を、君たちの力で自分のものにしてください。
 
* 野坂昭如『火垂るの墓』 あとがきより
 
「火垂るの墓を歩く会」に参加しました。その1
「火垂るの墓を歩く会」に参加しました。その2
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映画「父と暮らせば」  「夕凪の街 桜の国」   今から80年前の今日広島の街で アメリカが使った核兵器が殺戮した人間たちの二つの話

2025年08月06日 | 音楽・絵画・映画・文芸

阿智胡地亭便り#74「映画 父と暮らせば  宮沢りえと役者の力」    2005年1月31日「阿智胡地亭の非日乗]に掲載。 

神戸朝日ビルデイングの地下にある映画館に「父と暮らせば」という映画を見に行きました。


ピカの爆風で倒れた屋根の下に父親が埋まり、猛火が迫る中、彼を必死で救おうとして逃げない20歳の娘を叱咤して、逃げさせた父親。

傷ついた父親を見殺しにして自分だけが助かったと自分を責め続ける娘。


うちはしあわせになったらいけんのじゃ」と彼女のセリフにありました。
 
そのシーンを見ると同時に、10年前に神戸のあちこちで同じような目にあった人が沢山いたことが頭に浮かびました。

元々がもう何度も上演された舞台劇の映画化であるということや、出演者がほぼ親子二人だけと言うこともあり、

セリフは一つ一つが長くて緊張感がありました。それを宮沢りえは美津江という役柄の人に成り切って喋りました。

スクリーンの上には美津江しかおらず、宮沢りえはどこにもいませんでした。

映画が始まってすぐに、私の前から俳優そのものは消えて、今このような人達が目の前にいると思って見ていました。

勿論プロデユーサーと監督がいなければ、また原作と脚本がなければ映画は出来ませんが、引き込まれる映画や舞台には

役者の力も本当に大きいと強く思いました。

広島で勤務していたある夏の暑い日に、たまたま通りかかったビルの壁に銅板がはめ込まれているのに気付き、何気なく読んだら、

「この場所の真上560mの高さで原子爆弾が炸裂しました」と書いてありました。思わず青い空を見上げました。

「その瞬間、爆心地の温度は太陽の表面温度6,000度の2倍の12、000度になりました」とも。

声高に言うこともなく、何も押し付けることもない。ただ自分と同じような人たちがあの瞬間まで生きていて死んだ。

そしてその経験を伝えずにまだ生きている人もいることを映像で伝える。映画というメデイアも凄いけど、

そのことを全身で伝えきる役者というのも凄い職業だなあ、そしてあの役柄になりきった宮沢りえという役者は、どうやったらあんなことが出来るのだろうと思いました。


今回見た映画の主演女優は宮沢りえでした。「たそがれ清兵衛」という映画を見てから、彼女はタレントではなく役者だと思うようになっていました。

そして今回「父と暮らせば」の彼女を見て、前よりもっと強く、この人は凄い役者になっていると思いました。

「たそがれ清兵衛」を見た後、彼女の事はそれまでは、芸能三面記事的なことしか知らなかったなあと思いました。

それはリエママと言われている母親のいうままに操られているタレントであるとか、何かのストレスで大痩せしたとかいうようなことです。

「たそがれ清兵衛」での彼女は役に成り切っていて、その役柄の人間そのものがスクリーン上で動いていました。

吉永小百合という映画女優は随分息が長い女優さんですが、彼女はどんな役を演じても、スクリーンに映っているのはやはり吉永小百合です。

しかし宮沢りえはスクリーン上で宮沢りえではなく、その役柄の人でした。

「いい映画だったから、見て来たら」と相方に言われて、「父と暮らせば」という映画を殆ど予備知識がないままに見に行きました。

登場人物はたった3人で、父親役の原田芳雄とその娘の役の宮沢りえ、もう一人大学助手役の浅野忠信という俳優さんでした。

時代と場所の設定は昭和23年の広島市内です。

映画の初めから終わりまで父娘のセリフは、全部広島弁と言うことは事前に聞いていました。広島言葉も私が好きなことを知っているので、

そのこともこの映画を薦めてくれた理由の一つのようでした。たった3年間広島で単身生活をしただけの私の耳ですから、

判別能力は大したことはありませんが、私には役者の使う広島言葉は何の違和感もなく、広島に生まれ育った人が終始喋っているように思えました。

アクセントも、そしてセリフにはもっと重要だと思うリズムも完璧でした。

(最後に流れるクレジットタイトルで確認したら、広島方言指導になんと3人の人の名前が出ていました。

監督がセリフ回しに完璧を期し、役者もそれに応えたなと思いました。)

  解説  引用元父と暮せば(予告)


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2007年08月09日(木)[阿智胡地亭の非日乗]に掲載。

映画「夕凪の街 桜の国」

相方に誘われて「夕凪の街 桜の国」を見ました。

遠い昔の出来事ではなく、いまこの同じ時間を生きている人にも原爆のことはつながっている・・・そのことをこんなに自然に教えてくれる。

黒木和雄監督の映画「父と暮らせば」で印象が残る「うちは幸せになってはいけんのじゃ」という言葉がこの映画にも出てきてドキッとしました。

真の被害者が我が身を責め、ケロイドの残る身を人から異形の人と差別され、人の目の立たない裏通りで生をつなぎ、やがてこの世から姿を消していく。

生きた証もなく。


それらのことを加害国に気を遣ってか、見てみない振りしてきた62年間。

映画が終わって、本屋で原作の漫画を買いました。 自分が知らないだけで世にスグレモノは仰山おられる・・ とまたまた思いました。

嬉しい?

十年たったけど 原爆を落とした人は私を見て「やった!またひとり殺せた」 とちゃんと思うてくれとる?

こんな言葉を考えつく作者の[こうの史代]さんとはどんな人でしょうか。

名前を見てふと、代々歴史を語り継ぐということからつけたペンネームかと思いました。


広島という所は凄い漫画家を生んだものですね。

前段と後段のそれぞれのヒロインを演じた麻生久美子、田中麗奈さん、それ以外の出演者も肩に力をいれず、

淡々とありのままに映画の中で生きていました。

10数年前、わずか3年間とはいえ自分が住んだことがある広島の街の言葉がスクリーンに流れ、戦争当時と現代の広島の街並みが映る。

漫画が原作の映画かと軽く見ていましたが、今や小説では描けないものを漫画家が表現してくれることがあると知りました。

誘ってくれなかったら見なかったかも知れないけど、今年これまでに見た映画の中ではBESTの映画でした。

8月6日が、今日9日が、それぞれ広島と長崎に62年前 アメリカという国が、人類の上に史上初めて核兵器という大量無差別殺戮爆弾を落とした日です。

この映画は62年が経過したからこそ出来た映画だと思いました。

次の62年やそれ以上をこれから生きるであろう、今年地球上に生を受けた人類の赤ん坊を守るのは自分たちしかいない。

 映画を見終わった時そう思いました。

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本日追記

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図書館から借りている本 「テクノ封建制」「恋しくて」「日本社会のしくみ」    どこまで読めるか読んでみないとわからないけど・・・

2025年07月17日 | 音楽・絵画・映画・文芸

テクノ封建制 書評 内田樹 ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』書評 - 内田樹の研究室

世の中にはお金の話になるといきなり頭の回転がよくなる人と、そうでない人がいる。私は足し算の時でも「円」がつくと、たちまち計数能力が低下するという「経済に弱い人」である。だから、経済の本は読んで「理解できた」と思ったことがない。『資本論』も数式が出てくる頁は全部飛ばして、「資本の原初的蓄積」から読み出したくらいである。そんな私でもこの本はすらすらと最後まで読めた。
 著者バルファキスは2015年のギリシャの経済危機の時に財務大臣を務めた財政の専門家である。貨幣や金融の本質を熟知している人が非専門家にもわかるように、ほんとうに噛んで含めるように資本主義の次のフェーズであるテクノ封建制の実相を明らかにしている。まことに親切な本である。私は親切な人の話は信用する。
 どなたも「ビッグテック」のことはご存じだろう。「資本主義から抜け出してまったくあたらしい支配階級になる力」(79頁)を手に入れた超富裕層の人々のことである。彼らの下に世界中の富が流れ込む仕組みをバルファキスは「テクノ封建制」と呼ぶ。「資本主義が変異して最終的に行き着いた姿」(80頁)である。かつては資本家がプロレタリアートの労働力から剰余価値を収奪していたが、今は違う。資本家は「クラウド領主」というものになった。
 彼らの封土は地上にはない。雲の上にある。領主たちは中世の封建制のときにそうであったように「地代(レント)」を土地を耕す農奴たちから徴収する。今でも肥沃な土壌や鉱物資源を埋蔵する土地を持つ地主の懐にはレントが流れ込む。寝ている間にも金持ちになる。その実体的な土地の代わりにクラウド領主たちは雲の上に封土を所有している。
 最初はここでもスティーブ・ジョズだった。彼はiPhoneを市場に投入した時に世界最初の「クラウド領主」になった。彼は社外の開発者たちにアップルのソフトウェアを無料で使わせて開発したアプリケーションを「アップルストア」で販売するという全く新しいアイディアを思いついた。他の携帯メーカー(ノキアやブラックベリーやソニー)は自社ストアを開発しなかった。できなかった。アップルがすでに市場を独占していたからである。同じアイディアでグーグルもグーグルプレイでアップルと封土を二分した。

「アップルとグーグルはタダで働いてくれるサードパーティ開発者が生み出す売り上げから一定割合をピンハネすることで富を積み上げた。これは利潤ではない。クラウド・レントであり、デジタル版の地代なのだ。」(165-6頁

私たちはあらゆる日常の営みを通じて「クラウド領主」たちに「クラウド・レント」を払い続けている。

「アレクサやSiriは、僕たちの質問に答えても手数料はもらえない。フェイスブック、ツイッター、TikTok,インスタグラム、ユーチューブ、ワッツアップも同じで、その目的は利潤じゃない。僕たちの関心を引きつけ、それを変えることだ。」(170頁)

 領主たちも封土をめぐって戦っている。けれども、それはより安価で、より質の高い商品を提供して、マーケットシェアを高めるための闘いではない。「これまでとは違うオンライン経験を探していたクラウド農奴に対して、移住したくなるような新しいクラウド封土を提供」するための戦いなのだ(172頁)。自分たちが立ち上げたクラウド封土に多くのクラウド農奴を呼び込み、彼らから日々レントを徴収するビジネスモデルに成功したクラウド領主たちは、今や使用価値の高い製品を創り出している企業家たちを「クラウド封臣」として従え、彼らからもレントを徴収している。

「封建制から資本主義へという『大転換』が起きたのは、レントに代わって利潤が社会経済システムの原動力になったからだ。だからこそ、それを資本主義と呼ぶことは、たとえば市場封建制と呼ぶよりもはるかに有用で意義があった。ゆえに、今、社会経済システムが利潤ではなくレントで動かされる時代になったという基本的事実に基づいて、新しい名前でそれを呼ぶことが求められている。(...)レントが主役として戻ってきた現実を表すには、「テクノ封建制」という言葉以上にふさわしいものはない。」(172―173頁)

 バルファキスはこのあと領主たちはますます富裕になり、農奴たちはますます困窮する暗鬱な未来を予測している。その未来をどう変えたらいいのか。もちろん革命によるしかない。「新しいコモンズの再構築」(261頁)である。最後にバルファキスは『共産党宣言』を踏まえた堂々たるアジテーションで本書を締めている。

「テクノ封建制のもとでは、人間はもはや自己の心身さえ所有していない。資本を持たない労働者は就業時間中はクラウド・プロレタリアートになり、それ以外の時間にはクラウド農奴になっている。(...)クラウド資本は僕たちの脳内資産を奪い取る。人間が自己の頭と心を所有するためには、クラウド資本を集合的に所有しなければならない。(...)バンコクのクラウド農奴よ、クラウド・プロレタリアートよ、クラウド封臣よ、団結せよ!心の鎖以外に失うものはなにもない!」(263頁)

恋しくて

村上春樹が選んで訳した9編のラブ・ストーリー + 書き下ろし短編小説

マイリー・メロイ 「愛し合う二人に代わって」
デヴィッド・クレーンズ 「テレサ」
トバイアス・ウルフ 「二人の少年と、一人の少女」
ぺーター・シュタム 「甘い夢を」
ローレン・グロフ 「L・デバードとアリエット」
リュドミラ・ぺトルシェフスカヤ 「薄暗い運命」
アリス・マンロー 「ジャック・ランダ・ホテル」
ジム・シェパード 「恋と水素」
リチャード・フォード 「モントリオールの恋人」
村上春樹 「恋するザムザ」(書き下ろし)

日本社会のしくみ

“約26%”にとっては「変わらなかった時代」

――平成から、令和の時代になって半年が経ちました。平成の間は契約社員や派遣社員が増えたり、地方では、商店街がなくなってショッピングモールが出来たりといった変化がありましたが、社会が大きく変わったということでしょうか。

「どのポジションから見るかによって、全然見え方の違う30年」だったと思いますね。日本社会の約26%に当たる、大企業の正社員や官庁勤めの人から見れば、「変わらなかった時代」。ただ、それ以外の人たちにとってみれば、かなり大きな変化があった時代だと思います。

最近書いた『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』という本で、私は現代日本での生き方を「大企業型」「地元型」「残余型」の3つの類型に分けて説明しました。

「大企業型」は、毎年、賃金が年功序列で上がっていく人たち。大学を出て大企業の正社員や官僚になった人などが代表です。

「地元型」は、地元にとどまっている人。地元の学校を卒業して、農業や自営業、地方公務員、建設業などで働いている人が多いです。

「大企業型」は、所得は多いものの、長時間労働や通勤時間が長く、地域社会につながりが薄い人が多い。

「地元型」は、所得は比較的少ないものの、地域コミュニティーを担い、持ち家や田んぼがあったり、人間関係が豊かだったりします。

ただ、平成の時代に増加してきたのが、所得も低く、人間関係も希薄という「残余型」。都市部の非正規労働者などがその象徴です。


これらの3つの類型を先行研究などをもとに2017年のデータで推計したところ、「大企業型」が約26%、「地元型」が約36%、「残余型」が約38%となりました。

続き⇒小熊英二さん「もうもたない!? 社会のしくみを変えるには」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB

 

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 「ネットフリックス(Netflix)」が、スタジオジブリ作品「火垂るの墓」を7月15日から日本で配信することを発表した

2025年07月08日 | 音楽・絵画・映画・文芸

 「ネットフリックス(Netflix)」が、スタジオジブリ作品「火垂るの墓」を7月15日から日本で配信することを発表した。

スタジオジブリの作品が日本で配信されるのは、今回が初めてとなる。

 ネットフリックスは、世界中の多くの視聴者に日本発の幅広いアニメ作品のラインナップを拡大する継続的な取り組みの一環として、

2024年9月16日から、日本を除く190以上の国や地域で「火垂るの墓」を独占配信

配信初週にネットフリックス週間グローバルTOP10(映画・非英語部門)で第7位にランクインするなど注目を集めた。

 今回の発表に際し、映画の著作権を持ち、原作小説を刊行している新潮社コンテンツ事業室の矢代新一郎室長は「夏が来る度に見ようと思う、

そして誰か大切な人に勧めたくなる。今や、世界中でそんな評価を得ているようです。あの日から80年も経つのに、

未だ戦火がやまない時代にあって、国籍、人種、民族問わず多くの方々の心にじわりと染み渡っていることを、嬉しく思います」とコメントを寄せ

ネットフリックスコンテンツ部門 バイス・プレジデントの坂本和隆は「ネットフリックスは2020年からスタジオジブリ作品を世界に届けておりますが、

昨年の9月から新たに世界配信がスタートしたこの火垂るの墓が再び大きな反響を頂いたことに、改めて作品の力を感じ、また感銘を受けました。

世界での評価はもちろん、この不朽の名作を日本の視聴者のみなさんにこそ、ぜひ観ていただきたいと考えておりましたので、

今回の日本で初の配信が叶ったことを本当に嬉しく思っています。

これを機に、ぜひこの夏、日本のご家庭でご鑑賞いただき、会話が広がっていくことを願っています」と話した。

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詩「けっこん」        せきぐち ひでひこ(7歳)

2025年04月14日 | 音楽・絵画・映画・文芸
けっこん 


                               せきぐち ひでひこ(7歳)

おとうさんとおかあさんと

れんあいけっこんしたそうや

おとうさんはまじめやで

いままでげっきゅうぶくろも

いっかいもふうをあけずに

もってかえってくれるねんて

おかあさんがおとうさんをすきになったのは

おとうさんから

ぼくはあなたがじんせいこうろのとうだいや

というてがみがきました

それでけっこんしたそうな

だからぼくはとうだいのこどもです



・灰谷健次郎・鹿島和夫・岸本進一・東条安希子編『たいようのおなら』(1980・サンリード)所収

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「戦争が廊下の奥に立ってゐた」             渡邊白泉

2025年03月30日 | 音楽・絵画・映画・文芸

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」

「銃後といふ不思議な町を丘で見た」

「玉音を理解せし者前に出よ

 

 Click⇒ 第二百四十夜 渡辺白泉の「戦争」の句 – Miho Haiku Note

戦争が廊下の奥に立つてゐた〜戦後の渡邊白泉〜 齊藤しじみ - KAIGEN  海原

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太田南畝/ 蜀山人と便々館湖鯉鮒 の 狂歌

2025年03月18日 | 音楽・絵画・映画・文芸

太田南畝(おおたなんぽ)の辞世の句

今日までは 人のことだと おもうたに

俺が死ぬとは こいつはたまらん

便々館湖鯉鮒べんべんかん こりふ)の狂歌

三度たく 米さへこはし やわらかし

おもふままには ならぬ世の中

 

大田南畝 - Wikipedia

便々館湖鯉鮒(べんべんかん こりふ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 

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「明日戦争がはじまる」    「忘れないで」     宮尾節子

2025年02月15日 | 音楽・絵画・映画・文芸

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

じゅんび

ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------

宮尾節子 - Wikipedia

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詩 「弔詞」               石垣 りん

2025年01月18日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 
                         石垣 りん(1920~2004東京生まれ)

――職場新聞に掲載された105名の戦没者名簿に寄せて――

ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。

   ああ あなたでしたね。
   あなたも死んだのでしたね。

   活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。
   悲惨にとぢられたひとりの人生。

   たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。
   一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、
   ドブの中で死んでいた、私の仲間。

   あなたはいま、
   どのような眠りを、
   眠っているのだろうか。
   そして私はどのように、さめているというのか?

   死者の記憶が遠ざかるとき、
   同じ速度で、死は私たちに近づく。
   戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、
   覚えている人も職場に少ない。

   死者は静かに立ちあがる。
   さみしい笑顔で、
   この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発とうとしている。

   私は呼びかける。
   西脇さん、
   水町さん、
   みんな、ここへ戻って下さい。
   どのようにして戦争にまきこまれ、
   どのようにして
   死なねばならなかったか。
   語って下さい。

   戦争の記憶が遠ざかるとき、
   戦争がまた
   私たちに近づく。
   そうでなければ良い。

   八月十五日。
   眠っているのは私たち。   
   苦しみにさめているのは
   あなたたち。
   行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。 


――詩集「表札など・1968年・思潮社刊」より――
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詩      「表札」    「くらし」         石垣りん

2025年01月15日 | 音楽・絵画・映画・文芸
「表札」

自分の住むところには

自分で表札を出すにかぎる。


自分の寝泊りする場所に

他人がかけてくれる表札は

いつもろくなことはない。


病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と

様が付いた。


旅館に泊まつても

部屋の外に名前は出ないが

やがて焼場の鑵(かま)にはいると

とじた扉の上に

石垣りん殿と札が下がるだろう

そのとき私はこばめるか?


様も

殿も

付いてはいけない、


自分の住む所には

自分の手で表札をかけるに限る。


精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。



「くらし」

食わずには生きてゆけない。

メシを

野菜を

肉を

空気を

光を

水を

親を

きょうだいを

師を

金もこころも

食わずには生きてこれなかつた。

ふくれた腹をかかえ

口をぬぐえば

台所に散らばつている

にんじんのしつぽ

鳥の骨

父のはらわた

四十の日暮れ

私の目にはじめてあふれる獣の涙

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「現代詩の入り口」30 ― 詩にとってのメッセージ性とは何か、を考えたかったら石垣りんの詩を読んでみよう|松下 育男

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恋歌 「葉 月」 阪田 寛夫

2024年12月30日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 

                        

こんやは二時間も待ったのに

なんで来てくれなんだのか

おれはほんまにつらい

あんまりつらいから

関西線にとびこんで死にたいわ

そやけどあんたをうらみはせんで

あんたはやさしいて

ええひとやから

ころしたりせえへん

死ぬのんはわしの方や

あんたは心がまっすぐして

おれは大まがり

さりながら

わいのむねに穴あいて

風がすかすか抜けよんねん

つべとうて

くるしいて

まるでろうやにほりこまれて

電気ぱちんと消されたみたいや

ほんまに切ない  お月さん

----お月さん やて

あほうなこと云いました

さいなら わしゃもうあかん

死なんでおれへん

電車がええのや

ガーッときたら

ギョギョッと首がこんころぶわ

そやけど

むかしから

女に二時間待たされたからて

死んだ男がおるやろか

それを思うと恥ずかしい

   ---詩集『わたしの動物園』

*阪田 寛夫は童謡「サッちゃん」の作者でもある詩人。

こんなに さむい

おてんき つくって

かみさまって

やなひとね

   「カミサマ」 こんな愉快な歌もある。

宝塚歌劇団のトップスターだった大浦みずきは次女。

☆茨木のり子著「詩のこころを読む」岩波ジュニア新書p53・54から引用

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[わたしが一番きれいだったとき]      茨木のり子

2024年12月27日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった 

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね
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河合曽良の俳句      奥の細道を芭蕉翁のお供をして歩いた曽良も俳人。    

2024年12月12日 | 音楽・絵画・映画・文芸

病僧の 庭はく梅の さかり哉 

行き行きて 倒れ伏すとも萩の原

侘しさや 大晦日の 油売り 

終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山 

春に我 乞食やめても つくしかな

河合曾良 - Wikipedia

 芭蕉の奥の細道の旅のお供に最初に決まっていた弟子ではなく、代わりに曽良が選ばれた史実から 

曽良は幕府の奥州査察の密命を帯びた芭蕉の警護に選ばれた侍だったという説がある。

 阿智胡地亭は 諏訪に行ったあるとき 信州諏訪出身の曽良の彼の二つ目の墓を従兄に連れられてお参りしたことがある。

本来の曽良の墓は亡くなった壱岐の島にあるが ⇒ 史跡について | 壱岐市勝本浦ご案内

 後に生地の諏訪のお寺にも墓が作られた。  ⇒ 諏訪⑤正願寺と曽良の墓 | ここはいいところ

 諏訪地方では町人職人など町方の暮らしにも俳句が定着しており 諏訪の祖父は近所の仲間たちと月に何日か日を決めて 自分の仕立て屋の二階など持ち回りで句会をやっていたそうだ。

 昭和33年発行 祖父の俳句集「岱風句抄」から 六句 - 阿智胡地亭のShot日乗

松尾芭蕉は忍者だった?/ホームメイト

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詩『 汲む~Y.Yに 』 作:茨木のり子

2024年12月11日 | 音楽・絵画・映画・文芸

 汲む~Y.Yに  

             茨木のり子

 大人になるというのは

 すれっからしになることだと

 思い込んでいた少女の頃

 立ち居振舞の美しい

 発音の正確な

 素敵な女のひとと会いました

 

 そのひとは

 私の背のびを見すかしたように

 なにげない話に言いました

 

 初々しさが大切なの

 人に対しても世の中に対しても

 人を人とも思わなくなったとき

 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを

 隠そうとしても 隠せなくなった人を

 何人も見ました

 

 私はどきんとし

 そして深く悟りました

 

 大人になっても

 どぎまぎしたって いいんだな

 ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

 失語症 なめらかでないしぐさ

 子供の悪態にさえ傷ついてしまう

 頼りない生牡蠣のような感受性

 それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

 

 老いても咲きたての薔薇 柔らかく

 外にむかってひらかれるのこそ 難しい

 あらゆる仕事

 すべてのいい仕事の核には

 震える弱いアンテナが隠されている きっと

 

 わたくしも

 かつてのあの人と同じくらいの年になりました

 たちかえり

 今もときどきその意味を

 ひっそりと汲むことがあるのです

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 青梅街道
 
              茨木のり子

 内藤新宿より青梅まで

 直として通ずるならむ青梅街道

 馬糞のかわりに排気ガス

 いきもきらずに連なれり

 刻を争い血走りしてハンドル握る者たちは

 けさつかた がばと跳起顔洗いたるや

 ぐずぐず絆創膏はがすごとくに床離れたるや

   くるみ洋半紙
   東洋合板
   北の誉
   丸井クレジット 
   竹春生コン
   あけぼのパン

 街道の一点にバス待つと佇めば

 あまたの中小企業名

 にわかに新鮮に眼底を擦過

 必死の紋どころ

 はたしていくとせののちにまで

 保ちうるやを危ぶみつ

 さつきついたち鯉のぼり

 あっけらかんと風を呑み

 欅の新芽は 梢に泡だち

 清涼の抹茶 天に喫するは誰(た)ぞ

 かつて幕末に生きし者 誰一人として現存せず

 たったいま産声をあげたる者も

 八十年ののちには引潮のごとくに連れ去られむ

 さればこそ

 今を生きて脈うつ者

 不意にいとおし 声たてて

   鉄砲寿司
   柿沼商事
   アロベビー
   佐々木ガラス
   宇田川木材
   一声舎
   ファーマシイグループ定期便
   月島発条
   えとせとら

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吉良町の宮崎医院と詩人茨木のり子さん - 阿智胡地亭のShot日乗

茨木のり子の伝記「清冽」を読んでいます。    2011年02月13日(日)「阿智胡地亭の非日乗」掲載 - 阿智胡地亭のShot日乗

さくら      茨木のり子 - 阿智胡地亭のShot日乗

    「癖」      詩集「自分の感受性くらい」から  茨木のり子 - 阿智胡地亭のShot日乗

自分の感受性くらい     茨木のり子詩集「自分の感受性くらい」から - 阿智胡地亭のShot日乗

 

 

 

 

 

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小沢昭一さんが12年前の今日 2012年12月10日に亡くなった。  

2024年12月10日 | 音楽・絵画・映画・文芸

長年 フアンだった小沢昭一さんが亡くなった。寂しい。click☟

小沢昭一の「わた史発掘 戦争を知っている子供たち」を読んでいます。 - 阿智胡地亭のShot日乗

「道楽と仕事」について。小沢昭一の「道楽三昧―遊びつづけて八十年」を読んだ - 阿智胡地亭のShot日乗

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小沢昭一  Wikipediaから引用 画像引用元。

来歴・人物

小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は

日本の俳優、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇俳優協会会長。俳号は小沢変哲。劇団「しゃぼん玉座」主宰。見世物学会顧問。


東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現在の京王線代田橋付近)生まれ[1]。

父は現在の長野県長野市の出身で、新潟県高田市(現・上越市)で写真屋修行時代に結婚し東京に出てきた[1]。

昭一2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し[1]、4歳のときに蒲田に移り住む。

「当時の蒲田は、松竹映画の撮影所があるモダンな街で、また寄席もあり、その独特の雰囲気がのちの小沢の後の活動に影響を与えた。

旧制麻布中学を経て海軍兵学校第78期生として1945年4月に入校(第703分隊)するが、終戦の為に退校。早稲田大学文学部仏文科卒。

麻布中学の門をたたく前は、府立一中受験で失敗しているが、口頭試問の控え室で水晶の標本を面白半分で頭にのせて割ってしまったためだと自嘲気味に述べている[2]。

同中学時代から、演芸評論家・作家である正岡容の知遇を得て弟子になる。桂米朝、大西信行、加藤武らとは正岡門下の兄弟弟子の関係。

さらに、大西信行、加藤武らと演劇部を立ち上げた。

また、フランキー堺、仲谷昇とも同級だった。早大在学中にはやはり、大西信行、加藤武らと共に、日本で初めての学校での落語研究会

厳密には、名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした)を創設する。

1949年、大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。卒業後、俳優座公演で初舞台をふむ。

1960年には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。1966年に新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞した(俳優小劇場はのち、1971年に解散)。

以降、舞台、ラジオ、映画、テレビなどで芸能活動を行う。1966年のNHKのラジオドラマ「ゆびぶえ」など優れた作品を残している。

映画俳優としては、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で、1954年に映画デビュー。今村が、日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約をした。

ここで、小沢の心酔することになる川島雄三と出会う。

川島の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、わき役ながらその存在感を示した。

その後、今村の『エロ事師たちより・人類学入門』で主役を務め、1966年「キネマ旬報」の主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得した。

しかしながら、小沢は川島雄三に傾倒するところがあり、日本経済新聞に掲載された『焼け跡派のこころ』(2004年連載)では、

川島監督に演技開眼してもらったと述べている。

なお、プログラム・ピクチャーにも多数出演しているが、怪しいなまりの言葉を話す「中国人役」などが多かった

個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演している。

1973年には、現在も続く人気番組、TBSラジオの『小沢昭一の小沢昭一的こころ』を放送開始。

また、1969年、不惑の年に、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、またもともと落語好きだったこともあり、

「芸能の原点」を求めて日本の伝統的な芸能に憧れを抱き、著書『私は河原乞食・考』を刊行。

また、この年から、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学して、郡司正勝教授のもとに5年間通い、芸能史の研究を行った。

その流れで、放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述を行うようになる。1971年には全国を廻って収集した音源を元に制作した

レコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。

続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作する。

また他にも、古くからの芸能の研究活動のため、1975年から研究誌「季刊藝能東西」を創刊・編集。

またその雑誌を刊行する出版社「あたらしい芸能研究室」も創立。

「藝能東西」以外にも、芸能関係の書籍を刊行し、2001年まで出版社として活動した(現在は「しゃぼん玉座」の付属機関として小沢関係のCD等を企画)。

また、小沢自身も、伝統芸能や、ストリップなどの猥雑な芸能を、取材・研究した本を、刊行し続けることになる。

また、その「芸能史研究の実践活動」として、1975年から1980年まで劇団「芸能座」を主宰。

1982年には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、現在も活動を行っている。

「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年から18年間続け、公演660回を数えた。

他に野坂昭如、永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況であった

(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。

小沢はまた、俳人でもあり、「小沢変哲」という俳号を持っている。1969年に入船亭扇橋を宗匠にして、永六輔、江國滋酔郎らと共に「やなぎ句会」を発足。

句集など俳句関連の出版物もある。

父が修業した新潟の写真館の建物が収蔵されていることから、博物館明治村の村長も務めている。

1994年に紫綬褒章、1999年に坪内逍遥大賞、2001年に勲四等旭日小綬章及び徳川夢声市民賞、2003年に東京都功労者。

2004年に早稲田大学芸術功労者。2005年に朝日賞。元放送大学客員教授。2008年したまちコメディ映画祭in台東において、『第1回コメディ栄誉賞』を受賞。

☆日本の滅びゆく大道芸を、重いテープレコーダーを持って日本各地に探索・記録した。この人はそれらをまとめて文献や映画、ビデオに残している。

日本の大衆あるいは民衆芸能史の恩人という一面を持っている

添田唖蝉坊・金々節 / 土取利行(唄・演奏)

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Wikipediaから引用☟

小沢昭一の小沢昭一的こころは、1973年(昭和48年)1月8日に開始した小沢昭一のモノローグ冠番組。長寿番組の一つ。

テレコムサウンズ(現・TBSプロネックス)の制作で、TBSラジオをキーステーションに、JRN加盟各局で平日にネットされ、放送時間は全国各地で異なる。

概要 [編集]『森繁の重役読本』(1962年(昭和37年)3月~1969年(昭和44年)4月)の後継番組として企画された[3]。

小沢が“口演”と称し、週代わりのテーマ(「○○について考える」)に沿って、軽妙な話術で物語る。扱うテーマは時事問題から下ネタまで幅広く、永年の固定ファンが多い。

2011年(平成23年)5月13日に放送10,000回を迎えた。毎週月曜日に翌週分の収録が行われていた。

「宮坂さん」なる架空の人物が、概ねストーリーの主人公を務める[4]。番組初期には「昭和ヒトケタ」の働き盛り、かつ悲哀漂うサラリーマンの設定[5]が多かった宮坂さんも、

小沢が年輪を重ねるに従い「宮坂お父さん」「宮坂薬局店長の宮坂さん」等、第一線から退いた事を伺わせる表現が用いられるようになった。

坂本勝正プロデューサーを揶揄した「能天気プロデューサー」、宮坂さん行きつけのバーの「れいこママ」と「詩人のヒモ(タロウ)」、子供「とおる」「ななえ」等、

固有名詞を持つ脇役も登場するが、宮坂夫人は「奥方」或いは「お前」で特に名は無かったが、2010年(平成22年)5月19日放送分で夫の宮坂さんに「アリコ」とよばれ、

ナレーションで「有子(ユウコ)」という名前であることが明かされた。ナレーションも含め、これら全員を小沢が独演する。

猛妻の尻に敷かれ子供らに疎んじられる「中年男の悲哀」を基本に、「愚痴を交え、斜に構えた蘊蓄を世事に傾ける」

「落ちと言った落ちが無い(その都度テーマを変え、次回に期待を抱かせつつ延々と続く)」路線は、前身の『森繁の重役読本』からそっくり承継されたものであった[3]。



 ◎小沢昭一さんは、映画「幕末太陽伝」の予告編にはわずかしか顔を見せないが、

昭和32年制作のこの映画(シネマ旬報・歴代日本映画第4位)の頃から、芸達者な俳優として知られていた。

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