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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

大連に滞在中は「流れる星は生きている」と言う本は頭に浮かばなかった。       昭和50年代の海外あちこち記   その28  中国/大連篇その二

2025年07月09日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)大連駅を降りると駅前は大きな放射線状のロータリーになっていました。

他の中国の都市の道路は碁盤の目の設計ですが、この都会は1899年にロシア人によって完成したため、ヨーロッパ式の町作りになっているそうです。

ロシアの後は日本が戦前まで統治していましたから沢山の日本人が住んでいました。

  現在市内人口177万人という大都会です。出張で行った20年前はまだ町全体が暖房用の石炭の煤のせいか、くすんで見えました。

大連港には旧式の港湾クレーンが林立していましたが、大型外航船の数は少なく神戸港やシンガポール港を見た目で見ると寂しい限りです。

旅客船埠頭に立ち、ここと日本の間をどれだけ多くの人達が船で往来したのかと思いながらしばらく立ち尽くしました。

 入札に備えての事前調査で大連機械公司を訪問した訳ですが、沢山の製缶工場や機械工場がある大きな会社でした。

 

2)余談ながら、大連に滞在している時は頭に浮かびませんでしたが、満州からソ連の参戦で脱出した家族の中に新田次郎の家族がいます。

藤原てい作『流れる星は生きている』という本があります。戦後すぐのベストセラー小説です。

夫がソ連の収容所に連行され、27歳の作者は子供三人を連れて満州から脱出せねばならない。

正広六歳、正彦三歳、咲子は生後まだ一ヶ月である――昭和20年8月9日のソ連参戦の夜から昭和21年9月に日本にたどり着くまでの一年におよぶ記録です

作者の夫は「強力伝」「八甲田山死の彷徨」「アラスカ物語」などを書いた新田次郎ですが、この本が出た当時は彼は気象庁勤務の一介の技官でした。

  たまたま藤原ていさんが諏訪二葉女学校で母の数年後輩であり、母はていさんの姉と同級で寄宿舎も一緒だったというご縁で、

この本が家にあり阿智胡地亭は小学生時代に読みました。

昼間は隠れ、夜間だけ歩きに歩いてプサンを目指して移動。毎晩泣く子をしかりつけ、子供の足裏に食い込んだ小石や砂を指でほじくり出すのが日課だった。

沢山の引き上げ日本人が経験した極限状態の逃避行の記録です。

 新田次郎は同じく諏訪の角間新田地区の出身で、角間新田は僕の父の実家から上の方にあり、角間新田の新田をペンネームにしたと聞きました。

新田次郎は気象庁ではノンキャリアであったことと、奥さんが先に世に出たこともバネにして、

官舎で夜こつこつと小説家を目指して習作に励んだと知り合いから聞きました。

 「若き数学者のアメリカ」を書き、 『心は孤独な数学者』などの作者で、最近はエッセイも多い藤原正彦は引き上げ当時3才だった2人の次男です。

また、乳飲み子で背負われて日本に辿り着いた藤原咲子さんが最近「父への恋文」という本を上梓したようです。

  中国、台湾、韓国など乗りこまれた方と乗り込んだ方、いい目にあった方とエライ目にあった方、

一瞬にして攻守ところを変えられて翻弄された一軒一軒のそれぞれの国のそれぞれの家族の歴史。町の歴史。

いつもそんなことを思って出張するわけでは毛頭ありませんが、アジアの国の町で出張の中の休日に町を一人で歩くと、

パリやロンドン、ソルトレイクシテイなどを歩くのとは違う思いが時にはします。

特に大連には旧大和ホテル、満鉄大連本社、その社員の宿舎群、アカシア並木等が残っており、

おいしい肉饅頭をほおばりつつ、当地にご縁のある自分の何人かの知り合いの方のことを思い出しながら歩きました。

 (2003年ごろ記憶をもとに記す。)

 トップの画像はこのサイトから引用。他の画像はネットから引用。

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北京から大連まで中国国鉄の寝台車に乗って移動した。      昭和50年代の海外あちこち記   その27  中国/大連篇その一

2025年07月01日 | 昭和50年代の海外あちこち記

 (画像はネットから引用)

世界銀行の融資で、天津、上海、黄舗の3港の港湾近代化プロジェクトが動き出し、大型港湾クレーン設備を設置する国際入札案件が昭和57年か58年頃ありました。

入札の前に、クレーンの鉄構構造部を中国現地で製作した場合の見積もりを依頼する目的で、会社の製造部の人と大連にある重工会社へ行くことになりました。

1、火車(汽車)の旅

予約していた北京からの飛行機が飛ばなくなり、汽車で行かざるをえなくなりました。

同行の人や商社の人は、ガッカリしていましたがボクは内心喜びました。確か北京から40時間ほどの行程で寝台列車に乗れるからです。

一度中国の長距離列車に乗ってみたいと憧れていました。

1)中国はレールゲージが広軌ですし、機関車は鉄の塊で、山のように大きく、車輌そのものもがっちり鉄と木材で造られており、これぞ「鋼鉄列車」と言う感じです。

車輌の内装は、子供の時に乗った国鉄の窓枠、床、座席全てが木製のあの懐かしい車輌と同じです。アルミを多く使う最近の日本の車輌とは全く違うものでした。

車輌は硬座席と軟座席に分かれており、軟座席が日本のグリーン車でした。

軟座車の乗客は高級軍人の家族らしき一家と出張帰りの東北の省のえらいさんと見える人達でした。

当時、まだ大都市間の高速道路網はなく、飛行機も「中国民航」しかなく、これは軍人と中央、地方官僚の専有物みたいなもんで、

一般庶民の長距離移動は鉄道だけですから、硬座車の混みようは相当なものでした。

2)軟座車には女子服務員が同乗しており、大きなアルミ製のポットにお湯を絶やさず、各自渡された蓋付きの湯飲みが空になる頃、ついでくれます。

  ところで、儒教ベースの中国、韓国では接客業というのは、人間として最低の仕事で誰もが出来たらやりたくない、身を落とした仕事と思って従事していますから、

お客に笑顔や丁寧な対応など普通しませんが、天安門事件以降少しづつ変わったのか、服務員は愛想良く車中を歩いていました。

韓国人や中国人が日本に観光に来て、皆が皆驚くのは、日本のどんな店に入っても「店員や従業員が笑顔で応対してくれる」ことだそうです。

そういえば、初めてこの両国に出張した時の店やホテルの従業員の態度はつっけんどん、無愛想で戸惑いました。

3)食事は食堂車で青島ビールを飲みながら、中華の定食(量が多すぎて食べきれないほど)でしたが、好奇心で、昼時硬座席を覗いてみると、車内販売で弁当を買っています。

中国人は冷えたものは食べ物ではないと思っていますから、車内販売でも熱々の饅頭類を折り箱に入れて売っているようでした。

何でも油でジャーっと言う中華めしの基本は、日本と違って魚でも豚肉でも食材入手から料理するまでに何日もかかり、

高温多湿の国土で食中毒を避ける長年の智恵だろうと思います。

4)車窓から見る風景は北京郊外を出ると単調な農村とえんえんと続く畑だったのでしょう。

残念ながら、いまは殆ど記憶に残る風景はありません。明け方、大連に近づくと工業都市らしく大小の煙突群が見えてきました。

大連は戦前、沢山の日本人が住んでいたところで、かっての日本人の居住区には、まだ日本家屋が残っていると新聞や本で読んでいました。

「アカシヤの大連」という本がベストセラーになった頃だったかもしれません。大連駅は豪壮な駅舎で、駅前は広い広いロータリーになっています。

   本稿は2003年ごろかっての記憶を辿って書きました。

                         

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スパイシーな本格インド料理との長い付き合いの最初の出会いはボンベイから始まった。 昭和50年代の海外あちこち記   その26 インド ボンベイ篇

2025年06月23日 | 昭和50年代の海外あちこち記

ボンベイ(現ムンバイ)には、港湾近代化の第一段階のコンテナターミナルの港湾クレーン商談で何回か行きました。

東京から商社の担当者と、勤務していた会社の技術者チームを組んで行きました。

 設備投資はされるのか この時点では海のものとも山のものともわからない商談ですから、課長クラスなどはどちらの会社からも参加せず、

私をはじめ商社の長谷さんも含めて担当者ばかりのチームです。

 日本からボンベイに行くにはヨーロッパ便のフライトで行きますから、行きも帰りも真夜中の2時頃にしかボンベイ空港に離発着しません。

空港から真夜中、ホテルオベロイにチエックインし簡易ベッドで仮眠しました。

昼前に、商社の現地代理店のオフィスへ行き、ファ○○社の社長ファ○○さんに挨拶をし、彼の行き付けのレストランで昼飯を共にしながら状況の説明を受けました。

  この時の食事がスパイシーなほんまもんのインド料理との阿智胡地亭の長い付き合いの最初の出会いでした。

阿智胡地亭は同行メンバーと違って、出される初めてのメニューのどのインド料理に何の違和感もなく、

全部うまいうまいと おいしく平らげて招待してくれたファ○○社長にすっかり喜んでもらいました。

 身長190cmを越える痩身の彼は、町で見掛けるボンベイ人とは風貌が全く違いました。

あとで長谷さんに聞くと父親の代に宗教的な迫害にあい、パキスタンからインドへ移住したパーシー、パールシー( Parsee)と呼ばれる一族とのことでした。

彼のかもしだす雰囲気は何となく映画「荒野の7人」のジェームス・コバーンに似ていました。

余談ですが、彼の役柄はオリジナルの黒沢映画「七人の侍」では宮口精二がやりました。彼の登場場面は、何度「七人の侍」を見ても息を止めて見入ってしまいます。

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Wikipediaから一部引用。 パールシーパールスィー(ヒンディー語पारसीPārsī)とは、インドに住むゾロアスター教の信者である。

サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドグジャラート地方に退避する集団があり、

現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、

開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。

インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。

インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。

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ファ○○社は長年、日本郵船の現地乙仲をし、港湾局に食い込んでいる会社でした。付き合っているうちにわかってきましたが、

日本郵船NYKのエージェント契約をしているという事に強い誇りを持っており、その延長上でダイヤマークの会社と仕事をすることに誇り持っていました。

NYKという会社の世界ブランド力の一端を垣間見る思いでした。

 お客さんはボンベイ港湾局で、First  Mechanical Engineerという肩書きの個室にいる施設部長が面談の相手でした。

ファ○○さんは必ず同席しましたが、相手の部長もファ○○社が連れてきた商社、メーカーということで安心して面談してくれました。

 二人のやりとりを横で見ていて直感的にこれはベストなエージェントだと思いました。

インドネシアの華僑のエージェントが中央、地方を問わず役人、軍人を水面下で丸抱えしているのと同じ雰囲気を感じたからです。

 

 3回ほど行ったボンベイ で インドの空気に触れ、人に触れ、食べ物に触れ、日本という風土や人間の暮らし方との違いは大きく感じましたが 

一方で「どこの国や土地で生きていても 人間という生物は みなちょぼちょぼ や」と  この地で 実感したのはのちのちに良かった気がします。 

 *画像はいずれも ネットから借用。出張時撮影した画像ではありません。      

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◎阿智胡地亭便り#52 コウベローカル噺④  インド料理を・・   2004.02.24記

 昭和55年ごろ、ボンベイ(ムンバイ)港湾局の施設部長を日本に呼んで四国の工場や神戸港に案内したことがある。

彼は、ベジタリアンの中でも厳密な方の菜食主義者で、東京のレストランで彼のために特注した焼き飯を、

「この焼き飯の前に肉を使った料理に使われたフライパンが、そのまま使われているようだ。米飯に肉の臭いがするから食べられない」と言ったりして、食事では大汗をかいた。

神戸で案内した「ゲイロード」にはさすがにベジタリアンメニューが普通にあって、案内したこちらもも施設部長もホットした。

彼は驚くほど沢山食べた記憶がある。成田到着から何日も、腹を減らしていたのかと、少し気の毒だった。

余談ながら、一緒に泊まった三宮のホテルの朝食で、私が和定食の白飯に生玉子をかけて食べだしたら目を丸くして驚いて見ていた。

聞くと生まれて始めてこういう食べ方を見たという。

後でなんかで読んだのだが、世界中でも、玉子をこうして食べるのは日本だけらしい。

それにしてもベジタリアンは海外に出るのは大変だなと思った。

  原理原則なき民である日本人の中でも、阿智胡地亭は、和洋・中華・印度・朝鮮・蒙古そのほか なんでも、

「うまければどこの料理でもいい」と思っているのだが。

 震災前に三宮の神戸市役所近くにあった「Gay lord(陽気な殿様)」は、当時ロンドンやパリにもチエーン店があって、

長身のインド人給仕頭が黒服に身を固め、広い店を笑顔で仕切っていた。ボーイも皆インド人で、店の雰囲気は高級レストラン風だった。

 

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モルモン教が生まれた街 アメリカのソールトレイクにベトナム難民がいた。     昭和50年代の海外あちこち記   その25  アメリカ・ソールトレイク篇

2025年06月11日 | 昭和50年代の海外あちこち記

昭和58年の秋ごろか、貿易部門から自動倉庫など物流機器や設備の国内営業部門に異動しました。

 販売する機器や設備を学ぶために、アメリカ・ユタ州の州都ソールトレイクにある技術提携先の会社に出張を命じられました。

技術グループの出張に便乗して加えてもらいました。

 

ソールトレイクはその名のとおり「塩の湖」で子供の頃から、映画館で見るニュース映画で車のスピード世界記録をこの「塩湖」で競っているのが、よく放映されたものです。

真っ白な雪煙ならぬ塩煙を巻き上げて時速300km?で走り、車の後部から、パラシュートを膨らませて止まるという車は往時の自分にとっては、夢の中の出来事でした。

1)この町はキリスト教の一分派モルモン教の本拠地で、砂漠の中に人工的に作られた町です。

住民は大半が教徒で酒、たばこ等は基本的に禁止で我がチームは滞在中酒が飲めなくて大変でした。

ロッキー山脈から引いた雪解け水で砂漠の中に緑の市街地が広がっています。

中心地から小一時間山の方に行けば一年中スキーが出来る高地にあります。どこまで行っても清潔な街並みが続き、うろんな下町の繁華街なるものはありません。

  ただ一個所、町外れに何となく懐かしい感じのバラック建の家並みが続く一角がありました。

道路に下水が溢れ、子供が裸足で遊んでいました。ベトナム難民を受け入れたゾーンとのことでした。

ヤキソバのソースの匂いが通りに流れ、腹がグウと鳴りました。ただこのゾーンと市街地との落差は何となく納得出来ませんでした。

2)会社から技提先に研修で派遣された後、アメリカに残る選択をし、会社を退職して技提先に移籍したKさんの自宅に招待されました。

彼は認めれて技術系管理職として働いていました。アメリカの会社で働くのは、評価がはっきりしていてやりやすいと彼は言っていました。

一戸建の家なので芝生をいつもきれいに刈り込んでおかないと、近所中からクレーム受けるのがかなわんと言っていたのが記憶に残ります。

住宅地としての価値が下がらぬよう住民が街並みのメンテに気を使って、日本人の感覚ではおせっかいと思われるけど

「ご近所の中で共に住すむ意識」 がしっかり生きているようでした。

3)日曜日に隣のアリゾナ州のカジノへ繰り出しました。

研修ですでにこの町に滞在経験のある和田さんが国際免許証を準備しており、彼の運転のレンタカーで2時間の行程でした。

その途中、ソールトレイクを通りました。厚く堆積した真っ白な塩の砂漠の上を走ります。前後左右どこを見ても白一色の世界です。

ただ上の空だけが真っ青で自分が地球以外のどこかにいるような不思議な奇妙な世界でした。

4)街中でも空港でも、モタモタした英語で用を足そうとすると、きれいな日本語が返ってくるので何度か驚きましたが、帰りの空港でその訳がわかりました。

モルモン教徒は高校を卒業すると最低一年間は全員が布教活動に従事することになっています。成績のいい人達は海外へ、

まあまあの人達はアメリカ国内の各地へ旅立ちます。空港で涙で抱擁し、別れがたい思いがこちらにも伝わる一団がいました。

両親、兄弟、親戚、友人たちの輪の中に、目を赤くした少年のような初々しい若者がいました。 彼は我々と同じ便で、故郷を離れこれから香港へ向かう青年でした。

JR広島駅や阪急六甲駅の近くで、自転車に乗った黒い背広の若い外人に「チョットイイデスカ、キリスト教ノオハナシガ、シタイノデスガ」と声をかけられると、

ああ、あの若者がここでも頑張っているなとは思いますが、つい邪険に「いま忙しいので」と断ってしまうのも事実です。

それにつけてもイエズス会の宣教師たちが、スペインからこの極東の島々まで布教に来て以来、今に至っても継続するこのキリスト教の布教パワーは、凄いものです。

     ご参考までに、小室直樹著「日本人のための宗教原論」はキリスト教、イスラム教、仏教などのこのあたりを解き明かし、

能天気宗教無知の ボクにとっては 、目からウロコどころではない本でした。

 

  (2003年ごろ記憶を辿って書いた。   画像は全てネットから引用。)

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向田邦子さんが台湾の飛行機事故で亡くなられて一週間後の同便フライトで高雄へ出張した。 昭和50年代の海外あちこち記   その24  台湾/高雄篇     

2025年05月23日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1、台北ー高雄

台北から台湾南部の工業・港湾都市の高雄には汽車(中国語では火車)もありますが、時間がかかるので高雄の「中国鋼鉄公司」へ行くときは飛行機に乗って移動しました。

離陸しすぐ上昇し、水平飛行なしですぐに下降するくらいの感じの飛行です。

 ある出張の一週間前、好きな小説家の向田邦子さんがこのルートで飛び、飛行機の空中分解で満員の乗客とともに亡くなりました。

後で上昇、下降のくり返しから来る機体の金属疲労が原因ではないかと新聞に出ました。一緒に行った人が今回は汽車で行こうと言いましたが、

今まで一週間後に同じ路線の飛行機事故は統計的に起こってないから、飛行機を使っても大丈夫と言いましたが彼は汽車、僕は飛行機と別れて乗りました。

当時「中国鋼鉄公司」の建設工事の最盛期で人の往来も多く 日ごろは、どのフライトもチケットが取れるかどうかいつも満席で大変な頃でしたが

この時に乗ったDC10は乗客が全部で5人か6人でした。

大丈夫とは思うものの着陸するまではさすがに落ち着きませんでした。

           当時から私は「父の詫び状」や「あ、うん」など、毎年恒例の正月の向田さん原作のテレビドラマは欠かさず見ていました。

また向田さんの小説やエッセイはもれなく読んでいました。 向田さんの死は本当に残念でなりません。

2、もう一つ高雄で。

港湾クレーンの件で高雄港に行った帰りに乗ったタクシーが、この国のいつものように飛ばしていました。  小雨がパラついてきて嫌な予感がしました。

向こうから鋼材を積んだ大型トラックがこれまた、飛ばしてくるのが見え、ウインカーを出さずに、タクシーの前で急に曲がりました。

タクシーのドライバーが「アイヤー」と言って、ブレーキを踏みましたが、港への引込線なのか、車輪が濡れたレールの上を走っていたので、

タクシーはスリップしてゆっくりと回転しながらトラックの後ろにはみ出た鋼材の方に近寄りました。ああ自分はこれでオシマイと目をつぶったとき、

鼻の先をトラックが走り抜けました。 反対方向を向いて停まったタクシー運転手はさすがに青い顔をして荒い息をしていましたが、

暫くして車をまわしてホテルに向かいました。ああいう時は床に伏せることも出来ず、ただ迫ってくる激突の瞬間をスローモーションのように待っているだけでした。

今は台湾でも車があんなスピードで走っていないと思いますが日本でも神風タクシーと言われた時代があったように、

モータリゼーションの初期の国はどこも交通ルールはあってないみたいなもので、結構海外出張の中 交通事故にあった日本人も多かったです。

  2002年ごろ記す。画像はいずれもネットから引用。

    追記:創業50周年を迎えた現在の中国鋼鉄CSC高雄製鉄所

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ニューヨークの世界貿易センター第一ビルに初めて一人で行ったときの経験         昭和50年代の海外あちこち記   その23 ニューヨーク篇     

2025年04月16日 | 昭和50年代の海外あちこち記

画像:Wikipedia

昭和50年代に会社のニューヨーク事務所は世界貿易センター第一ビルにありました。

 初めて日本から一人でニューヨーク事務所に行くことになった時、日本を出発前に職場の人から

One World Trade Center]という英語は発音が難しいから、タクシーによく別の場所に連れて行かれる、

「ワンワールド トレードセンター」とカタカナ英語で何遍言っても通じないよ、メモに書いておいてメモを見せたらいい」と

アドバイスを受けていたのでメモを準備してタクシーに乗りました。

 長いフライトの後ニューヨークに着き、空港のタクシー乗り場に並び、赤ら顔の大柄な白人のドライバーのタクシーに乗りました。

駄目もとで、とりあえずメモを見せず、思い切り大きな声を出して発音し、行き先を告げると

運転手は聞き返しもせず、うなずいて車をスタートさせました。車は高速をぐんぐんスピードを上げて走ります。

 どきどきし、心中不安で一杯のまま、通じてるんやろうなと体を固くし、見た目は平然を装って乗っていると 写真で見た高層のツインビルが見えてきました。

ほんとうにホッとしました。ビルのエントランスに着いて 料金を払いトランクを出してもらうと汗びっしょりでした。

  ニューヨーク事務所駐在の方に 後で夕食の時、この話をしたら、一発で通じてここへ辿り着いたとは凄いよと言ってもらい、ひそかに心中ヤッタと思いました。

人間いくつになっても おだててもらうほうが けなされるよりうれしいし自信になるものですね。

  2000年10月ごろ記す。

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2001年10 月 追記

現実が人の想像を越えました。まさかニューヨークの世界貿易センターがテロ行為で消滅するとは・・・・。

*それにしても我々日本人は Kamikaze AttackSuicide Bombing(今回の事件のCNNの報道で盛んにこれらの用語が使われていた)で

 人類が近代におおっぴらかつ大規模に実行に移したことがない行為を先駆けてやり、

結果として(そういうことも出来るんや)と人に気づかせ、その考え方と行動実績を他国に輸出したことになりました。

 今もコップの中で身内で喧嘩しているあいだに、知らないうちに海外世間様から嫉妬をかったり、爪弾きされてUnited Nationsから、

この地球上では異質な奴らやから、次は「日本はいてまえ」と生物化学兵器かなんかで抹殺されんようにと祈るのみです。(もちろん冗談ですが)

*ところでUnited Nations は直訳すれば連合国なのにわが国では何故{国際連合/国連}とお上や新聞は訳すのでしょう。

海外社会では第二次世界大戦で日,独、伊の枢軸3国に対し、共に戦った国々の事をUnited Nationsと言っているのであって、

原語にはどこにも国際なんぞという意味はありません。

また、United Nationsの敵国条項にはまだこの日本を含むこの3国の名前が残っているそうです

こういう英語から日本語への翻訳における言葉のまやかしが(事実の隠蔽が)敗戦国日本の色んなことに続いています。

*それがいいかわるいかは置いて言えば、どんな行為にもその理由とか原因があるはず。

太平洋戦争の日本とアメリカ(を含む諸国)との戦争も。今回のNYの21世紀の戦争/テロも。

 ここまで悲惨な被害者が出てしまうと、今回のテロの根がイスラエル建国にさかのぼるらしいということは欧米大手メデイヤはもう書けないでしょう。

戦時中のNHKや朝日新聞や読売新聞が先頭になって「鬼畜米英打倒、神国日本、神州不滅」を言い、この流れに反する日本人は「非国民」と弾圧されていたそうですから。

アメリカは何故こういう目にあったかということは、よくわかっている・・かも。しかし決してそれを公にはしないよう報道管制がしかれているようです。
 
 NYの貿易センタービルはあの60人は同時に楽に乗れる高速エレベーターと、トイレに行くにも鍵をもらっていちいち鍵を開けて入らないといけない

治安の悪さの記憶しかありませんがあのビルに勤務している人もろともに崩壊させるなんて、信じられません。
 
自分が属している集団の為には、個の命は犠牲になってもいいという考えは、人間の種としての本能に組み込まれていることなのでしょうか?

それともその集団がなす後天的な刷り込みなのでしょうか?

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北京と天津を鉄道で何度も往復した。          昭和50年代の海外あちこち記   その22    

2025年03月07日 | 昭和50年代の海外あちこち記

画像はほぼ当時の北京駅    ネットサイトから引用。

1)北京と天津の往来

昭和50年代当時 北京から天津へはまだ高速道路がなかったので、ほとんど列車で行き来しました。

北京と天津の間は125㎞ほどです。

 北京郊外に出ると見渡す限りトウモロコシ畑がどこまでも延々と広がっていました。

途中の農家は電線が引かれている様子もなく、家も粘土で出来ています。

こうして何千年もこの地に住んでいる人達がここで生きてきたのだなと思いました。

  北京市域の城壁の中に住む人と域外の人は同じ国ながら生活ぶりが全く違います。

域外や地方の人達は都会に出たくとも、人口抑制のために政府が住民登録の移動を禁じているから、

不法滞在の扱いになりあちこちにスラムが出来て色々問題が出ている時でした。

沿岸部と内陸の貧富の差が広がる一方の最近は、大量の地方出身者が戦後まもない日本と同じで、

職を求め続々と都会地へ移動し、どう対応するかが中央政府の大きな課題のようです。

 あるとき旧正月の時期にぶつかり、大きな荷物を持って故郷に帰る人たちで北京駅は大混雑でした。

夕暮れ、駅の構内も構外も、薄暗い電燈の下に沢山の人達が横になったり膝を抱えたりして居て、歩くのもままならないほどです。

汽車の切符が取れるまでこうして過ごすと聞きました。

帰郷する人に加えて住むところの無い人が駅で暮らしているから国の中央駅とは思えない雰囲気でした。

東京のラッシュアワーの凄さが日本でも一部の特殊な地方性の現れと同じで、北京駅の周囲は異常に思えましたが、

東京での会社勤めで経験したラッシュアワーと同じで、北京人にとっては嫌も応も無い当たり前のことの様でした。

 2)天津新港は北京の外港になります。ボクが好きな天津甘栗は天津で取れるのではなく天津から船積みされるので、

日本で天津甘栗と言われていると聞きました。つまり天津は貿易港で東京にとっての横浜にあたります。

港の港湾クレーンはどれもソ連の図面で製作された旧式のポートークレーンばかりでした

連と中国が国交断絶の時に何万人と家族とともに派遣されていた各分野のソ連の技術者が、仕事を放り出して、

技術資料、図面を残らずもって突然本国へ引き上げたために、どれだけ中国人の技術屋が苦労したかという話しを何度か聞かされました。

国境を接した大国どうしの中国人のロシア人に対する屈折した思いの一端を聞かされた思いでした。

    (2002年ごろ当時を思い出して記し、友人知人へメールで送った。)

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スコットランドのグラスゴーで見た倒産した造船所の跡と中華レストランの香港から来たボーイたち。     昭和50年代の海外あちこち記   その21  

2025年02月19日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)ある国際入札案件のコンサルタントがグラスゴーにある会社だったので、応札技術仕様の確認のため事業部の技術者チームとスコットランドに行きました。

グラスゴーでホテルからコンサルの事務所まで海岸沿いをタクシーで走りました。20分ほど走る間、高い塀で囲まれた工場がず~っと続きました。

塀の上から造船用と思えるタワークレーンが幽霊のように数十台も見えました。

 タクシーの運転手にこれは何ですか?と聞いたら、

「日本の造船会社が安値で船の注文を全部取っていくので潰れてしまった造船所さ、俺もここに勤続24年だったけど。

会社はクレーンを解体する金もないからそのままだよ」と言われ、その後、車の中はシーンと沈黙のままコンサルに着きました。

 

2)仕事が終わって夜、同行の人達とグラスゴーで一番と言われる中華料理の店に行きました。

確か中国本土が各国との公式国交回復の前の時期で、近くの席に黒っぽい人民服に身を固めた中国本土の政府幹部らしい集団が話もせず黙々と食事をしていました。

 異様な感じでした。

ナイフとフォークを使い、西洋皿で中華を食べさせる西洋レストラン式の中華料理店は後にも先にも初めての経験でしたが、

  ネットから引用の参考画像。当時の写真ではありません。

10人以上いるボーイは全員中国人で、聞くと3年契約で香港のコック・ボーイ派遣会社から来ているとのことでした。

 こんな遠くまで出稼ぎとは中国人はタフな連中やなとそのとき思いましたが、その後 アメリカに出張したとき、

ロスアンジェルスの日本料理屋で着物姿の仲居の女性と話をしたら 名古屋の板前・仲居派遣会社から何年か契約で来ていると聞き、

日本人も同じなんやと思いました。その頃急激な円高傾向の時期でドル払いの契約で来ているので

「なんしにアメリカまで出稼ぎに来たんやろ、これなら日本で働いていた方がまだましやったに」と彼女は嘆いていました。

 グラスゴーの造船所跡に関するサイト

画像引用元

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パリのタクシーの助手席に乗っている大型犬と パリのタクシー運転手のプロ意識        昭和50年代の海外あちこち記   その20    

2025年02月09日 | 昭和50年代の海外あちこち記

パリのタクシーの助手 

ロンドンのヒースロー空港とパリのシャルル・ドゴール空港の間は一時間ごとにシャットル便が飛んでおり、

予約無しでも来た順で乗ることが出来ます。

思ったより早くヒースロー空港に着いたので予定より一便早い飛行機でパリのシャルル・ドゴール空港に着きました。

 課長が先にパリに日本から着いており、ウィーンのホテルで日本からの課長の電話で聞いたパリのホテルの住所をメモしてあり、

それをタクシーの運転手に見せて課長のいるホテルに向かいました。

  乗ったタクシーの助手席には大きなコリー犬が乗っていてギョッとしました。 

空港から走り出すと沢山のタクシーが助手席に色んな大型犬を乗せてるのが見えました。

タクシー強盗が多く運転手がよく殺されるので、強盗除けに助手席に犬を乗せていると聞きましたが、

乗っている犬はおとなしくきちんと 座っているので、長年、動物の扱いに慣れている連中は違うなと思いました。

 空港から出ると日本のアルミサッシメーカーが「YKK」という看板を出している大きな工場が見えました。

あちこち国の空港近くの工業団地に当時から「YKK」は進出していました。 

パリのタクシー運転手のプロ意識 

パリの中心街に着きましたが、課長が予約したホテルがメモの住所に見つかりません。

運転手はぐるぐる廻った後、住所の近くの大ホテルに入ってフロントに聞いてくれました。

その後目指すホテルを見つけてくれましたが、大通りから一筋入った裏通りに面した宿屋のような小さなホテルでした。

彼の分かりにくい英語の説明では、住所の番地が一つ違っていたそうです。

 ロンドンの箱型タクシーの運転手もそうでしたが、このパリのタクシーも意地でも客をちゃんと行き先に届けるという意志が背中に漂っており、

この中年の運転手についチップを沢山はずんでしまいました。ホテルはトイレが共同でバスなしのBアンドBホテルした。

課長は町に出たのか外出でした。チエックインして部屋に入りホットしていると課長が帰ってきましたが、

一応飛行機の時間を連絡していたので、空港へ迎えに来てくれたそうです。こちらが一つ早い便に乗ったので行き違いになりました。

ウイーンで日本から電話を受け、ロンドンで同行の技術屋さんを日本への飛行機で送り、その後パリへ廻ったので 、

あいつ一人でちゃんと来よるかなと心配されていたみたいです。有り難くお迎えのお礼を申し上げました。 

  翌朝、ホテルのクロワッサンとカフェオレだけの朝食は、パンはこんなにおいしかったんだと

神戸を離れてから「山崎製パン」のパンで萎えていた舌が感激していました。 

フランスのもう一つの顔は警察国家? 

休日にシャンゼリゼを凱旋門の方へ歩いている時、突然大量の警官隊が現れ、大通りの両側にびっしり展開しました。

車輌も通行止めになりました。写真を撮りに車道に出たアメリカ人観光 客が 無表情の警官に邪険に歩道に押いやられています。 

何事!!と見ていると黒塗りの大型車が何台も猛スピードで白バイの先導で飛ばしていきました。大統領のお通りでした。

(シャンゼリゼ通りの真ん中辺あたりの公園の向こうはエリゼ宮という大統領官邸がある)

空にはいつのまにか武装ヘリも飛んでいました。華やかなシャンゼリゼの空気が一瞬にして変わりました。

あの落差の激しさは凄かった。映画「ジャッカルの日」の一場面を目の当たりにしたような気持ちです。

映画だけでなく、実際いつも暗殺に備えた厳重な警備を布いていたようです。 

パリ警視庁の建物に連れ込まれたまま、ついに出てこない政治犯や外国人容疑者が毎年何人もいると読んだことがありましたが、

ヨーロッパの他の国に比べてもフランスの支配体制維持のシステムはしっかり保持されているという話は、

本当だと屋台で買ったアイスクリームを食べながら思いました。 

      1977年頃の体験  2002年記

 海外あちこち記全篇はこちら。click

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丑三つ時のインドネシアの首都・ジャカルタで 深夜に警察官からタクシーの検問を受ける。        昭和50年代の海外あちこち記 その19       

2025年01月18日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)インドネシアの首都ジャカルタの外港はタンジュン・プリオークと言います。ここに、ある港湾荷役設備を輸出しました。

設備を納入した数年後、新たに別の荷役用特殊車輌の国際入札がありました。入札結果は11番札でしたが、

前回も起用した現地エージェントが優れものなのであきらめず営業を続けることになりました。

  必ず落札して発注書をもらうまで ジャカルタに張り付いて下さいとH課長から指示が出たのでジャカルタに前後3ヶ月間出張しました。

昭和55年ごろのことです。

2)滞在中のある晩ホテルの部屋の電話が鳴りました。目を覚まして時計を見ると夜の11時を過ぎています。中国系インドネシア人のエージェント、Tさんでした。

今からお客さんとレストランシアターへ行くので同行してくれと言います。有無を言わせない口調でロビーでお客さんと一緒に待っているからと言います。

慌てて着替えてロビーにおりました。 食事の後、さえないショーを見たり、間延びしたゴゴーダンスに付き合ったりしましたが、

さすがに午前2時頃眠くなり、先に1人で帰ることを了解してもらいました。

3)タクシーがホテルまでの道筋の真ん中あたりに来たとき警察の検問の灯りが見えました。自分はあせってパスポートを探しましたが、

ホテルのセイフテイボックスに預けたままでエージェントに急かされたので持出していませんでした。

  日本の大手商社マンが警察とのトラブルで1ヶ月ブタ箱にほうり込まれ、数日前に出てきた時には全身皮膚病にかかっていたという話を聞いたばかりです。

全身が冷たくなっていくのがわかりました。自分を説明するものが何もありません。

警察官の振る赤い懐中電灯でタクシーが止まり、警官がインドネシア語で何か言っていますが少しもわかりません。

警官の顔がだんだん険しくなっていくような気がしてもうあかんと思ったとき、ふとポケットに固いものがあるのに気がつきました。

ホテルのルームキーでした。あわてて出てきたのでフロントに置かずそのまま持出したようです。

それを取り出して顔の前で必死にかざし、このホテルの日本人の宿泊客だと吠えました。

苦笑いをした警官から「行け」と合図が出てタクシーが走り出しました。ほっとして思わずタクシーのシートに倒れ込みそうになりました。

4)結果からすると、夜遊びをして帰る華僑から袖の下をとって小遣い稼ぎをする検問だったようですが、そんなことはその時は思いもよらず、

ただただパスポートを持ってないことを咎められると恐れおののきました。

なんせ真夜中の2時過ぎにジャカルタ郊外で他に誰もいなくてたった1人ですから。

それ以降は深夜の営業活動は勘弁させてもらいました。 いくつもある「よくあの場面を切り抜けた」経験のトップクラスの思い出の一つです。

 その後いろんな経緯がありましたが、幸いこの商談は落札になり発注書をもらいました。当時の裏のあるインドネシア商談だからかもしれませんね。


画像は全てネットから引用。出張当時に自分で撮影したものではありません。

  ( 2002年、2003年ごろメールで知人友人に発信した「海外あちこち記」から。)

       阿智胡地亭のエッセィサイト

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インド・ムンバイの昼時の弁当配達やパーシーのこと   昭和50年代の海外あちこち記 その18

2024年12月28日 | 昭和50年代の海外あちこち記

2002年、2003年ごろメールで知人友人に発信した「海外あちこち記」から。

昭和50年代中頃、港湾荷役設備の商談でムンバイ当時のボンベイへ3、4回行きました。

日本から出るとボンベイには夜中の3時頃到着します。大きなビルが立ち並ぶ海岸線をホテルまで車で走るのですが、

街灯の下ごとに新聞をかぶった人達がえんえんと寝ています。同行したM商事の長谷さんに聞くと最下層のカーストの家族だということでした。

一年中、零度以下になることはないのですが、時々温度が下がることもあり、そんな日の朝はボンベイ市の清掃局のトラックが一家全員の凍死者の死体を回収に回るんだと。

「そんなアホな」と言うと「連中はいつも生存ぎりぎりの物しか食べられないので、いつも栄養失調であり、冬期にはよくあること」と言います。
 
街並みはヨーロッパの大都会並ですが、通りは子供の乞食が群れていて、彼らに付きまとわれて歩くことも出来ません。

インドに行くと人間も動物の一つの種類だと実感するとは聞いていましたが何日か過ごすと凍死者の話もほんとかなと思えるようになりました。
 
同時代にこの地球に生まれて、命の価値がこんなに違う・・・。インドに行くと人は皆、哲学者になるといいますが、

インドに生まれると輪廻の思想でもなければ日々生きていけないかも知れません。
 
一国にしてそのまま一つの宇宙であるインド・・、零の概念を人類で初めて考えついたインド人、

今、世界のIT関連のソフト開発を支えている優秀なインド人達。そして仏陀の生まれた国。
 
大好きなインド料理を堪能した後、無思想の日本人サラリーマンであるボクは混乱したまま数日後、神田の雀荘「椿」でポン・チーに興じるのでした。




1)ムンバイでは昼前になると毎日、筒型をしたスズ製の容器の吊り輪に棒に通して、肩に沢山容器を担いだ人達がビルに入ってきます。

大きなビルにも小さなビルにも続々とやってきます。これはサラリーマンの弁当です。各人の家で作られたばかりの暖かい弁当を、

運び屋が契約した家ごとに回って集め、それをご主人の勤め先の会社まで届けると言う仕組みです。よくはわからないそうですが、

ボンベイは人口が1200万人の大都会ですから(そのうちスラムに500万人が住む)沢山のサラリーマンや大きな店の店員がおり、

ここに届けるのと食べた後の容器の回収で昼時は大混雑でした。2段重ねの入れ物の一つはライスやナンでもう一つはカレーなどの汁物だとのことでした。

何と贅沢な人達でしょう。会社で家と同じ物を毎日食べるなんて・・・その一方、昼食の運び屋という仕事をする人達があんなにいるなんて思いもよりませんでした。


2)ホテルを一歩出るとあっと言う間に30人位の子供の乞食に取り囲まれます。男の子も女の子もいます。

口々にテンパイ、テンパイ??と言いながら手を出してきます。とっくに忘れていたけれど、子供の時の自分と同じ年頃の戦災孤児の姿を思い出しました。

東京から同行したM商事の長谷さんから可哀相と思うだろうけど、この乞食集団の一人に一ルピーでも渡すと、

明日から集中的に狙われて囲まれるからみんなも困る。

絶対に渡さないでくれと言われていたので早足で通りを渡りましたが、私にとっては毎朝のストレスでした。

それぞれの集団に親方がいて、朝、乞食衣装を貸して夜鵜匠のように金を取り上げると言っていましたが真偽のほどはわかりません。

このカーストの子供は生きるために、五体満足に生まれながら、同情を買う為に親に不具にされることもあるなどという話も聞きましたが、

当地にいる間はそうかも知れんなと思っていました。

今思い出しても見た瞬間にこちらの身体が固まるような姿の乞食が沢山いましたので。



3)郊外に大きな洗濯場があるというので見に連れていってもらいました。

橋の欄干から下を見ると広大な広さのエリアに、段々に水が流れる洗濯場があって、屈強な男達が何百人も、

白い布に石鹸をつけて石に叩き付けて洗っていました。こういう場所がいくつもあり、商売は繁昌していると聞き、

この暑さだから毎日着替えるとなると膨大な仕事量だろうと納得しました。


4)大きな敷地を取った豪壮な屋敷がいくつも並ぶところを車で通りすぎたので、聞くとそこは「パーシー」が住む住宅街でした。

「パーシー」は昔のペルシャ、今のイランから ある時期にインドに移住した当時の貴族階級でいまだにインド人とは通婚せず、

純血を維持しているとのことです。インドの有力財閥「タタ」(タタ製鉄などのオーナー)はこのパーシーの一族です。

 ところで日産の社長のゴーンさんの両親はレバノン人でブラジルへ移民で行き、ゴーンさんはブラジル国籍ですが、

彼は学校はフランスの最高学府の一つの理工科学院?を出てルノーに入社しました。 レバノン、シリア、イランなどはインドアーリア族で、

広くいえばアングロサクソンやラテン系民族と親戚みたいなものです。 インドの最高カーストのバラモンもその一つの集団ですが

ボンベイの町で見かけるずんぐりむっくりの庶民の体つきや顔つきは、原住系の非アーリア系ドラビタ族の血を引いているのか、

ボクによく似ており何とも言えない不可思議な思いをしました。

   この日本列島では昔のボートピープルで大陸や半島各地から、流れついた当時の先進文化を持ったと言うか、

人殺しに効率のいい鉄製の武器を持った連中に、原住系の親玉クラスは蹂躪、虐殺され、大半の原住民は下層に取り込まれましたが、

歴史というのは勝者の歴史ですから、いつのまにか血塗られた歴史は人の記憶から消され、古来から単一民族の国という事になってしまいました。


(ただ最近、古事記や日本書紀の文間から、抹殺出来なかったもう一つの歴史が沢山見つかってきています。

また、埋められた銅鐸が人の住まない谷間から道路工事や造成地工事でブルドーザーの歯先にひっかかって、

襲撃されてあわてて隠されたままの形で1500年後にあちこちで見つかったりしていますが)

それに比べ、陸続きの地域というのは、次から次へとニューエントリーして来た連中を止められずに、先祖の生きるか死ぬかの戦いの記憶を持ちながら、

いま同じ時空で異民族どうしで折り合いをつけたり、つけられなかったりしながら息をしながら生きているということでしょうか。

ほんま大陸に住む連中は、えらいことやと思いませんか。


* 画像は全てインターネットから借用。阿智胡地亭がムンバイに行った当時に撮影したものではありません。

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昭和50年代の日本の商社各社のジャカルタ支店では関西弁が共通のビジネス語だった。       昭和50年代の海外あちこち記  その17

2024年11月29日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)ジャカルタの中心にあるホテルの部屋から下を見ると、バトミントンコートが何面も見えます。

毎週日曜日には、朝早くから若い男女が全面で一日中試合をしていました。インドネシアのバドミントンが、オリンピックで何回も連続して、

金メダルを取るほどの国民的スポーツであることを、ジャカルタに行ってはじめて知りました。コートの周りも応援団か見物人か沢山の人が出ていました。

2)昼飯は商社の連中とホテルの中華ランチや、日本人がやっている餃子からウドンや親子丼まである日本めし屋へ行きましたが、

オフィスのOL達は高層ビルの下に、昼時に何台も来る屋台で、広い大きな葉っぱにライスやバナナをヤシ油で揚げたものや、

色んなおかずを載せてもらい、木の下のベンチでうまそうに食べていました。

一回やってみたいと言いましたが、腹を下す覚悟ならどうぞと誰も一緒に付き合ってくれませんでした。

 (昼飯といえばロンドンやニューヨークで日本商社に勤務している土地っ子OLが昼にどういう物を食べるのか、

見るともなく見ましたが、紙袋からサンドイッチやクッキーを出して食べている人が殆どで、外に食べに出る人はいないようでした。

いずこも女性は堅実だなーと思いました)

3) 商社も単身駐在社員のために部屋数の多い、大きな屋敷を借り上げ 日本食を作るインドネシア人の住み込みのコックを何人かおいていました。

また食堂の一隅に大きな本棚があり、帰国時や出張者が置いていくライブラリーめいたものがあるので、

一ヶ月近い出張時には時折晩に日本飯をご馳走になりに行って、本を借りてホテルに帰りました。

 入札商談ごとに扱いを依頼する商社が違って、結局別々にM物産さん、M商事さん、N・Iwaiさんの3社のお世話になりましたが、それぞれ現地支店の雰囲気が違いました。

ただ、どの商社の支店も日本人は全員が関西弁で喋っており中にはちょっと変な関西弁の方が何人もいたので、

関西のご出身ですかと聞くと、いや私は日本では東京以外知りませんが、東南アジアのどの国の支店でも、昔から関西弁が社内ビジネス語になっているので、

当地へ来て関西弁をいやでも覚えざるを得ませんでしたと、いまいましそうに言う人が何人もいて、思わず笑ってしまいました。

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ところで、欧州やアメリカの駐在員も赴任して数年は、ほとんどの人が任地の土地の悪口を言いますが、

ジャカルタの各社の駐在員もビジネス習慣の違いや国情にいらだつらしく、口を揃えて陰でこう言っていました。

「インドネシアは、人はオラン米はナシ魚はイカン」オランはオランウータンが森の人という意味のように

インドネシア語で「人」という意味です。また、ナシは近頃日本でもインドネシア風焼き飯をナシゴレンと言うように

「お米」のことです。(麺類はミーなので焼きソバはミーゴレンと言います)

おわかりのように「魚」のインドネシア語はイカンです。

 メーカの一出張者の分際で「そんなことはないでしょう」とも言えず、いつも黙って聞いていました。

皆さんインドネシアに溶け込むというよりオフィスと宿舎を往復して3、4年の任期を過ごす人が大半に見えました。

まあ一年中、短パンとTシャツとゴム草履があれば暮らせる土地柄ですから、高温多湿でクーラーがなければ過ごせず、

四季のある日本に早く戻りたいというのが、かなりの人の本音のようでした。

 

 (画像はネットから借用したものでやや古い年代の画像ですが昭和50年代のものではありません。)

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オーストリアのリンツにある「エンジニアリング会社」に行った。ウイーンの森に下草は生えてなかった。     昭和50年代の海外あちこち記  その16

2024年11月14日 | 昭和50年代の海外あちこち記

(1977年10月入国)

オーストリアのリンツに本社がある鉄鋼&エンジニアリング会社のフェストに設計責任者の伴さんと二人で出張しました。

韓国の製鉄会社のある設備案件に応札した結果、最終選考(ショートリスト)の数社に残ったので技術応札仕様書の説明を求められたのです。

技術条件に関する交渉のとっかかりなので、本件のパートナーの商社の同行はなくメーカーの我々だけの出張でした。

リンツの空港で伴さんのトランクがその日のうちに受取れず、調査を頼んで結局、翌日の便で途中経由したロンドンのヒースロー空港から到着しました。

 遅れて着いたトランクはバールでこじ開けられ、中を荒らされ鍵も壊されていました。

当時、日本からの手荷物がヒースローでの積み替え時に、軒並みこじ開けられ中の現金が抜かれていた頃でした。


 日本のツアーの人たちがまだトランクの表に大きくローマ字で名前を書いたり、荷物の中に現金を入れていると思われていた昭和52、3年頃の話です。

トランクの中身は技術資料だけで金目のものはなく、実害はなかったけど不愉快なことでした。

伴さんのトランクは買い替えたばかりの新品で、私のはもう何年も使い古し、宿泊したインドやインドネシアのホテルのベルボーイが

宣伝の為に勝手に貼るホテルラベルがべたべた貼られた年代物だったのが、日本人の物とおもわれず、彼らの目をつける対象外になったのかもしれません。


 打合わせが終って、リンツのホテルの近くの食堂で、夕食にウインナーシュニツエルを食べてうまかった話はだいぶ前に書いたことがありますが、

この本場の子牛のカツレツはパリっと仕上がっていて本当にうまかったです。

その後、日本のレストランでメニューにウインナーシュニツエルがあれば必ずオーダーしますが、同じ味に巡り合ったことがありません。

向こうでは普通の(おばんざい)でしょうから、何と言う事はない「土地の料理」がうまさにつながっているのかも知れません。


仕事が終ってウイーンに出ました。路面電車の走る薄暮の町を歩き、ここで中華メシでなくともと思ったが、

英語が通じるかどうかわからん肩の凝るレストランを避けて、ヨーロッパのどこの国にもある支那飯屋に入りました。

店の女の子は東洋人のバイトの子で、聞くと声楽の勉強で当地に留学している日本人でした。


定番の焼き飯とヤキソバをオーダーし、結構本場の味付けのうまいものでした。

ヨーロッパでも、どこも支那飯屋のコックは中国人のオヤジだからまず間違いはありません。

 
余談ながら、このあいだ日経の夕刊の「旅は未知連れ」というコラムにウイーンの「スシ」店のことが出ていました。

90年代に日本人の経営ではない「スシ」店が現れ、数年にして20を越す店がひしめくようになったとある。

20数年前には、ウイーンの町には日本飯屋はあったかもしれないが、寿司屋はなかった。

ヘルシーがキーワードとは言えここまで世界を席巻するとは驚くが、これも寿司ロボット、回転すしベルトのハイテク装備の開発、輸出がバックにあってこそらしい。


北陸地方のみにいくつかあるこれらのメーカーは商売運営のソフト込みで世界に回転寿司ビジネスをいまだに売り込み中らしい。

 ロンドン、パリ、モスコーなどの寿司レストランの経営者は中国人か韓国人が殆どのようですが。


 ウイーンには当時の私の勤務先からJETROに出向していた竹ノ内さんが駐在されていました。

日本から連絡しお願いしていたこともあり、翌日の日曜日に車で市内を案内して頂いた。

 
    印象に残っているのは;

「ウイーンの森」の大木がどこまでも連なるその下の地面に雑草が全くといっていいほどないこと。ずうっと土が見えている。

緯度が高いので太陽光のエネルギーが日本なんかと比較にならないほど弱くて、夏でも雑草が生えないのではないかとの説明だった。一口に森といっても、全然違った。 

オモテは音楽の都ではあるが、実際は東西の情報戦の最前線であると聞いた事。ベルリンの壁が崩される日が来るなどと誰も想像だにしていなかった頃で

ここに住む西側、東側の各国の人間は表面の職業はいろいろだが、殆どCIAなど全世界の国のインテリジェンス関連の人間だと聞いた。


 お上りさんとしては当然、映画「第三の男」で(オーソン・ウェルズ扮する)ハリーの愛人の女性がチターの演奏をバックにコツコツと歩み去った

枯れ葉の積もった並木道にも連れて行ってもらったはずだが、こちらはあまり覚えていない。 

後はまあ、オーストリア帝国時代の宮殿や大聖堂などヨーロッパの一つの貴族文明の拠点を示す凄い建築物と庭園があったと思いますが、

8年間の貿易部所属時の海外出張で撮った写真類は、この20数年間段ボール箱に全て放り来んだままで整理してないので、全てはおぼろげな記憶であります。
                   2002年頃 記。

画像は全てネットから借用。出張時に撮影したものではありません。

リンツ Wikipediaから部分引用

ドナウ川沿いに位置する商工業都市。近隣の都市としては、約70キロ北西にドイツのパッサウ、150キロ東にウィーンが位置している。 

歴史

 古代ローマ帝国によって設けられた砦がリンツの起源である。8世紀末にLinzeという名称が史料に現れる。13世紀に都市特権を得た。15世紀には神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の居城がおかれた。18世紀後半に司教座がおかれ、学問・芸術の中心地として発展していった。1882年にドイツ系民族主義運動の綱領が発表され、1926年にオーストリア社会民主党党大会が開催された地として知られている(リンツ綱領 (1926年) 参照)。第二次世界大戦中のナチス統治時代には、ヒトラーの故郷に近かったことから、巨大な美術館を建設する計画などがあったとされる。また、ヒトラーは大戦勝利後にリンツの街を都市改造し、「ヒトラポリス」に改名する計画を建てており、巨大なリンツの模型を作らせて総統地下壕でも飽かずに見ていたという。第二次世界大戦後はウィーンとドイツのミュンヘンをつなぐ結節点として、工業が飛躍的に発展を遂げる。

 

 

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モスクワ空港の通関で係官とカレンダーの引っ張り合い。 昭和50年代の海外あちこち記 その15

2024年10月27日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)ソ連がイルクーツク港などの港湾荷役設備を、日本の円借款で買い付ける商談が昭和50年代中頃にいくつかありました。

商社経由の引合いに見積を出しておくと、ソ連の運輸省から仕様説明に来いと呼び出しがかかることがあります。

設計課の技術屋さんと商社の人で4、5人のチームを組んでモスクワへ何度か行きました。 


 モスクワへの飛行機はソ連の国営アエロフロートだとメンテが悪く、機内の冷たい風がいつも首もとに流れ、

機内食も塩味が濃いのでJALが取れるとほっとしたものです。成田からの飛行機の眼下に何時間見ても変化がない

シベリアの広大な赤茶けた泥地に、アムール川(黒竜江)がのたうつ情景は何度見てもあきることはありませんでした。

 井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」という大黒屋光太夫を主人公にした小説で、彼ら一行が サンクトペテルブルグの宮廷まで

この原野を沿海州から横切っていったことを読んでいたのでその上空をあっと言う間に移動するのは不謹慎な感じがしました。 


 仕事で行くようになる10年ほど前に、私的なことで3日程、モスクワに滞在したことがありましたが、ビジネスで行くとなると、

パスポートチエックの高い窓口から、こちらを見下ろすウブ毛が光る若い係官の無機質、無表情の顔に出会った時から、

早くも共産国に来たと何となく緊張します。

2)昭和50年代半ばのあの頃、通関では日本から持ち込むお客さんへの手土産が、いくつか必ず検査官に抜かれるので、

目減りする分だけ余分に持っていかないといけませんでした。特にクリスマス前の日本のカレンダーは、その品質から装飾用や贈答品として

人気が高いとのことで、トランクを開けるとカレンダーだけ探され、いつもより多く抜かれるので女の検査官と渡せ、渡さぬと

両端を引っ張りあいになったこともあります。


      鼻薬というか、アンダーテーブルというかは別として、このような検査官の行為は、マルクス・レーニン主義とは関係ない

封建社会ルーツ社会の宿痾であり、また潤滑油でもあるみたいです。 

 公務員の清廉さで言えば、交通違反の現場で警官が現金を受けとって違反者を見逃すということがない、世界でも数少ない国である日本は、

例え警察の上層部が捜査報償費の名目でやりたい放題でも、現場の警察官は現金の受取りをしない伝統を(当たり前のことですが)

ずっと続けて欲しいと念じるのみです。 ところでジャカルタ篇でも触れましたが、召し上げた現金や品物は個人で

ポケットに入れるのではなく組織でプールしておき、年末やお祭りの時に役所の安月給を補う為に役職に応じて組織内で

皆で配分すると聞きましたので念のため。


 3)ホテルにつくと各フロアーのエレベーターの前にフロントがあり、24時間人が詰めていて出入りをチエックしています。

フロントの人はこんなに肥ってもいいのかというオバサンが多かったです。(このフロアーシステムは中国でも昭和57、8年頃までの

北京飯店や友誼賓館でも同じでした。)パスポートをフロントに渡してからチエックインの手続きをし、半日くらいして返されます。

パスポートを持っていかれるというのは何度経験しても手元に戻るまで落ち着かないものです。 

どこの国でも荷物の整理が済むと誰かの部屋に集まり、最初は商社の担当駐在員からその国の仕事の心得のオリエンテーションが

あるのは同じですが、ソ連の場合は内容がかなり違いました。

(1)商談が始まると、どの部屋で内部打ち合せしても盗聴装置があるから、肝腎な話は筆談ですること。

    どうしても話しをして相談したいときは屋外に出てすること。

(2)最終の原価表は常に身につけて置くこと。部屋のトランクの中に鍵をかけて置いておいてもハウスキーピングの時に全部開けて見られるからと。


(3)ホテルから歩いては出ないで欲しいが、もし歩いて道路を渡る場合は青信号でも十分注意すること。

車は党の幹部など特権階級の乗り物だから一般人民をひき殺しても殆ど罪にならないので、専属運転手は猛スピードで飛ばしているからなどなど。


 日本の全国紙や「リーダーズダイジェスト」という昭和20、30年代のアメリカの反共宣伝月刊誌で共産国のイメージを

たっぷりインプットされている若手貿易マンにとっては、さもありなんと素直に納得でした。

   ソ連邦が崩壊したいまのロシアの事情はどうなのか大いに興味があります・・。

2000年代初め頃に記す。

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モスクワで横断歩道を渡るのは命がけだった。 昭和50年代の海外あちこち記 その14   (本編のみ昭和50年代ではなく昭和47年9月の体験)

2024年10月03日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)休日に高台にあるモスクワ大学の正門に連れていってもらいました。ここからは首都モスクワが眼下に一望できます。

森と河とネギ坊主の教会のクラッシクな大都会の中に、帝政ロシア時代以降、共産党政権下で建設された威圧的なだけで美しくない壮大な官公庁ビルも沢山見えます。

 この高台へ次から次へと、式を終えたばかりに見えるウエデイングドレスの花嫁と花婿が友人達と車で上がってきて、何枚もモスクワの町をバックに写真を撮ります。

はしゃいだり、ふざけたり本当に楽しそうでした。

人前結婚式の後、ここで写真を撮ってから、役所へ結婚届を出しに行くというのが、当時のカップルのお決まりのコースで若いモスコビッチ(モスクワっ子)が

早くあそこで写真をとりたいと憧れていると聞きました。

2)訪問先への行き帰りは、商社の車で移動しましたが、この車が猛スピードで街中を飛ばします。大通りを横断する人は命懸けで渡るし、

乗ってるこちらも生きた心地がしないほどです。助手席に乗ったベテランの商社駐在員が大声のロシア語でロシア人運転手を叱りつけると

ようやく速度を落としますが、次に乗る時は又同じことで、前以上に怒鳴って何とか平常の速度に戻ります。

 あまり同じ事が繰り返されるので、その支店次長である大堀さんに運転手を毎回こんなに怒鳴らんといかんのですかと聞きました。

彼の答えによると、オフィスの事務員から運転手まで全てソ連邦外務省に申請してその部局に登録している人間が派遣されてくる。

必ず雇用するように義務づけられているので断る訳にはいかない。

 また当然ながら、その中に諜報部門の人間(エージェント)も送りこまれ紛れ込んでいる。

社会福祉政策の故か殆どが戦傷者の退役兵だが、無学文盲に近いのもいてその場合は社用車の運転にしか使いようが無いのが派遣されてくる。

 しかし彼らには軍用車を運転する感覚しかない。

色々やってみたが、この連中はまあ犬が悪さをした時と同じで、その場で怒らないとわからない、と言いました。

 どうみても立派な顔立ちの白人を犬呼ばわりして叱り付けるとは、何と言うことやと顔に出たのでしょう。

彼からすぐに言われました。

 この国は日本と違って社会階層差がきついんですよ、連中も社会的に生まれた時からずうっとそういう扱いをされているから そういうもんだとしか思ってない。

 この運転手に、このご主人様はいくら猛スピードで飛ばしても怒らないと一回思われたら、命がいくつあってもたまらないと言われてしまいました。

3)当方は九州若松で、ギブミーチョコレートとアメリカ占領軍のジープを追いかけた最後の世代ですから、

白人と見ると無意識に一歩引くという「擦り込み」をされてしまっていたなーと思いました。

その商社のモスコウ支店の次長さんは、ソ連の中央官庁の幹部役人の前でも、いつも背筋を伸ばし、愛想笑い一つ浮かべず堂々と振る舞っていました。

こういう社会主義国家の首都で単身赴任を続け、貿易ビジネスをやっている日本人がいるんやなと実地に知りました。

 今思えば商社マンの中に、社会主義国ビジネス専門に携わるプロフェッショナルの分野があった時代かも知れません。

出会いとは面白いもので、この商社の次長さんとは、5年ほどたったあと、北京で中国支店長として駐在されている時にもお会いしました。 

 私は機械メーカーの営業部門の社員として幾つもの大手商社の、個性豊かな商社マンたちと国内外のあちこちで仕事を一緒にさせてもらいましたが、

モスクワで出会った大堀さんは、今でも忘れられない方々の中のお一人です。

 今思えば彼らは皆、プロの「仕事師」でした。

彼らの世代が去ったのちに増えたのは、「サラリーマン商社マン」でしたが、それは日本が豊かになったことの現れ、またその証明かもしれません。

 

 (画像は全てネットから借用。昭和47年当時現地で撮影したものではありません)
 
 (本編は1972年・昭和47年9月に私的な理由で突然モスクワに行くことになった時の見聞に基ずく)
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