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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

御影公会堂と野坂昭如 御影高校

2010年02月16日 | 神戸あちこち
野坂昭如の小説「火垂るの墓」に出てくる“御影公会堂”は国道2号線に面して、今も健在です。
その昔、東灘区の成人式がここでありました。私は転校したとき、校区外の芦屋市にある高校に越境入学したので、知った人が誰もいない式に出ました。なんで出たんやろか?
 野坂が育った養家「張満谷」家は、公会堂から歩いて5分ほどの神戸市灘区中郷町にありました。彼の家は米軍の焼夷弾絨毯爆撃にあい、爆弾の直撃を受けた養父の死体は跡形もなく消えました。いま中郷町はマンションなど集合住宅の町になっています。橋の下を流れる石屋川が灘区と東灘区の境界です。

公会堂から東に5分ほど歩いた所に「御影高校」があります。この高校の卒業生には土井たか子、紫苑ゆう、矢田現神戸市長などがいます。

野坂昭如作・オンライン小説『いつもいろんな犬といっしょ』から部分引用。

ぼくの育った神戸市東の外れ、この地域は、今、感傷的に、美しく思い返す、黄金時代のありきたりを超えて、住みやすい地域だった。15分歩けば、六甲山山麓に至り、10分で、文字通り白砂青松、泳ぐ者の影が海底にうつる清らかな海。山際の至るところに自噴の泉があり、当時の、市の東を限る石屋川の水は豊か。

この川上に水車小屋5軒、川床の石をはぐと、小さなカニがあわてて横走りに逃げ出す、山道を辿れば池、外国人の飼う毛の長い犬がよく泳いでいた。木々の葉末は、陽光、またその池の面照り返しを浴びいつもキラキラ光っていた。水から上った犬の、身震いして飛び散る水も光っていた。

山際に私鉄として、いちばんスピードの早い阪急電車、犬を連れて乗れた。時に犬だけ、御影から芦屋まで、無賃を申し訳なく思うのか、常にドアのそば。創設者小林一三は、しゃれた車両ながら、ブレーキの際、飛び散る鉄粉の汚れを考えて、車体はチョコレート色。ひきかえ、神戸市市電は、スマートな薄緑。

阪急の南に、省線、さらに阪神国道を走る単両の電車、海岸近くに阪神電鉄。南北2,3キロの間に4本が走る。六甲道駅から、灘を経て三宮駅、駅の西、南北に一直線の筋が、山際にある塔を持つホテルにちなみ、トアロードと呼ばれ、俳人西東三鬼が、奇妙な連中と過ごし、途中のレストラン「ハイウェイ」は谷崎の御贔屓西洋料理屋。

扇型の防波堤を持つ、神戸港は、ヨーロッパ航路の拠点港、三宮駅を南へ降りると百貨店そごう、その先きまっすぐな道の果てに、時計台を持つ税関が見える。神戸の子供は、埠頭、保税倉庫、上屋、税関の役割をよく心得、たいてい5色のテープの端を持ち、汽笛と共に、いつ動いたとも判らぬ巨大な船の、いつしか防波堤近くで、船体を横に向け、さらに、せまい堤と堤の間を抜けて、彼方へ消える、埠頭近くに、5色のテープが波につれ上下、しみじみ人の別れを経験した覚えがある。

もっとも、この一抹のわびしさは、そごうの手前、市電の曲がり角にある「ユーハイム」から、左へ入って百貨店大丸、境内に映画館や安直な食いもの屋が並ぶ生田神社へ、親の足が向けば、たちまち失せる。まっすぐ阪急の終点、駅ビルでもいい、ここの2階はゲームセンター、大阪の本店同様、名物カレーライス、映画館もあった。

元町通りの手前が大丸、西の終りに三越デパート、この間、6丁が神戸の繁華街元町、万国旗と、セーラー服の外人の似合う商店街、鈴蘭燈が名物。書店、古本屋の多い街並み、もちろん、ヨーロッパ直伝の洋品、当時でいう唐物屋、日本でいちばん早くアチラのファッション、と当時はいわない。

ただ洋服をテーラーと子供も呼んだ。猫の目の如く、女物がどうだったか知らない。生地すべて英国製。三越から省線を越えて、戦時下、もてはやされた湊川神社。この西に、少年と縁のない吉原、島原と並ぶ三大遊廓福原。さらに西が、大興行街「新開地」。

六甲道駅を東へ辿れば、御影、住吉、芦屋、この山際から国道まで、まず高級住宅地、特に阪急より上の住吉、阪急から国道までの芦屋は、到底、田園調布の比じゃない。1軒敷地300坪。

東西に走る4本の電車と、湊川、生田川、大石川、石屋川、住吉川、夙川と南北を流れるほゞ直線の川で、神戸市と、今でいう衛星都市は画然と分たれ、東の大川、武庫川で、神戸は限られる、向こう側は、大阪圏。

武庫川と、六甲山地、東の外れに宝塚、武庫川の海へ注ぐ少し西に、甲子園球場、オリンピック用プール、そして数十面のテニスコート、後、予科練の訓練場、滑走路になったらしい。阪神パーク。

小林一三の開いた宝塚は、本来は温泉。温泉の湯槽のフタの上で始まっったタカラヅカは、昭和に入って「少女歌劇」全国に知られ、大劇場完成、付帯して動物園、遊園地、川向こうに以前からの三業地。少し歩けば清荒神、年寄りはここへ詣で、女たち少女歌劇、子供は動物園遊園地、それぞれ楽しんで、夕刻、料理屋で御飯。ぼくの場合、宝塚、西宮北口、阪急六甲で帰宅するのだが、1時間かゝらなかった。

飼犬と電話と「女中」の数が世帯に比しいちばん多いのが芦屋市といわれていたが、新興住宅地、六甲道駅近辺にも、他にくらべ、この贅沢三点セットは珍しくなかった。

永手町から、昭和11年暮、省線南側中郷町へ引越し、設備の整った成徳小学校へぼくを通わせるため、北向きのやはり2軒長屋だったが、後の隣組20数軒でいうと、3軒に1軒電話と犬、女中は3軒に2軒。中郷町の犬たちは住いを有し、つながれていた。

ベルは以前のまま。雑種じゃなく、由緒正しい犬もいたはずだが、犬種を覚えていない。セーターに、ホームスパンのスカートの美少女が悠然と歩を進めるシェパードをつれて、よく夕刻近くを歩いていた。ベルを伴い、これにぶつかると立止って見送るしかないが、純血種を求める気持はまったくない。ベルは海を嫌った。



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元町の「金時食堂」

2010年02月14日 | 食べる飲む
知合いの間では「ゴールデンタイム」とも呼ばれる定食屋兼居酒屋の「金時食堂」。JR元町駅から歩いて3分の所にこんな店があるとは、地元の人でも知らない人が多い。朝10時からずっと大衆食堂なれど、朝から閉店まで居酒屋でもある。私はここでメシを食ったことはないが、お皿に乗って並んでいる多種多様なおかずはツマミとして楽しんでいる。高野豆腐の卵トジ250円などが私の定番だが、おでんも旨い。夕方6時までは日本酒一合も、芋焼酎お湯割り一杯も10%割引の270円。最近は女性の姿も多い。午後2時過ぎの店はさすがにお客は少ない。

JR元町駅東口。食堂はここからまっすぐ元町商店街に続く横丁にあります。
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元町から新開地へウォーキング

2010年02月05日 | 神戸あちこち
元町のシネ・リーブルで映画「カティンの森」を見たあと、思い立って新開地まで歩きました。
ひさしぶりに「トシヤ」で、神戸でもこの店にしかない(おそらく日本でも他の店にはない特製の)日本そばで作る「ソバ焼き」と「豚汁」を食べました。それぞれ500円と200円。

食べた後、新開地の通りをぶらぶら上がって、多聞通りを湊川神社の前を通って元町商店街まで歩き、商店街の途中から栄町通りに出て播磨屋の「おかきbar」で無料のコーヒーとおかきを頂き、結局三宮まで歩きました。この記事をUPする時点で朝からの歩数計は16813歩になっています。






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神戸元町から新開地へウォーキング    今から10年前の今日のShot日乗

2010年02月05日 | 神戸あちこち

元町のシネ・リーブルで映画「カティンの森」を見たあと、思い立って新開地まで歩きました。
ひさしぶりに*「トシヤ」で、神戸でもこの店にしかない(おそらく日本でも他の店にはない特製の)日本そばで作る「ソバ焼き」と「豚汁」を食べました。それぞれ500円と200円。

食べた後、新開地の通りをぶらぶら上がって、多聞通りを湊川神社の前を通って元町商店街まで歩き、商店街の途中から栄町通りに出て播磨屋の「おかきbar」で無料のコーヒーとおかきを頂き、結局三宮まで歩きました。この記事をUPする時点で朝からの歩数計は16813歩になっています。







*トシヤ2017年2月28日に後継者なく閉店。⇒こちら

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「ごもっとも、ごもっとも 」の豆まき

2010年02月03日 | 身辺あれこれ
今年も家内安全を願って節分の行事をしました。家族全員で「鬼は外、福は内、ごもっともごもっと」と言いながら家中をねりあるいて豆を蒔きました。フライパンで焼いた「いわし」はジェノベーゼソースで。自家製の恵方まきと一緒に食べました。



(以下は2002年に「小和田満」の筆名で投稿し、幸い入選して5月27日の「神戸新聞文芸欄」に掲載されたエッセイです。)
   「ごもっとも、ごもっとも」
 今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、大声で「鬼は外福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。親の勤務地に付いてまわって転校した九州若松でも、尼崎の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。

酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶとそれに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で囃やさないといけないのだが友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。そんな時、父は後ろを振り向いて「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。
そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。
もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。
そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が「ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)

今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何いうてるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。

震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の「ごもっとも」の発声回数が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。

亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、北小路地区では江戸時代以前の昔から、こういう風に言っていたのではないかと思う。
先祖は諏訪氏が高島城を築城する時に、(諏訪湖の高島という島から)立ち退きを命じられ、近くに集団移転させられた島民の一族だと言っていたから、もともと古くから住みついていた住民だと思う。

今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスではとっくに廃れた習慣がアメリカで残っているのと同じように諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、老年に差しかかってはいるが声は若い「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。

注;高島城の築城は秀吉の配下で当時諏訪を支配していた日根野氏が行ったと、後日教示を受けたが、上記文は掲載されたままとして訂正していない。 


ごもっともごもっとも
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雨の宝塚市街ー宝塚動物霊園から

2010年02月02日 | 関西あちこち

宝塚動物霊園に亡くなった犬のパティを車で連れて行き、葬送してきました。パティを可愛がってくれたタロ-も、宝塚市の高台にあるこの霊園の共同墓地に12年前から眠っています。





 

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