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図書館の帰り歩いていける範囲にセブンイレブンが4店あるが、家に一番近い店の酒の棚を覗いたらジンの「ボンベイサファイヤ」があった。
トニックウォーター2本と合わせるとかなりの重さだった。ビニール袋が破れては困るので抱きかかえて家まで帰った。
夏にジントニックはよく合う。
誕生日祝いに孫にもらった「オカキーあられ」をつまみにして飲もう。
それにしても自分が本当にヤーサンになるまで生きるとは思わなかった。
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図書館の帰り歩いていける範囲にセブンイレブンが4店あるが、家に一番近い店の酒の棚を覗いたらジンの「ボンベイサファイヤ」があった。
トニックウォーター2本と合わせるとかなりの重さだった。ビニール袋が破れては困るので抱きかかえて家まで帰った。
夏にジントニックはよく合う。
誕生日祝いに孫にもらった「オカキーあられ」をつまみにして飲もう。
それにしても自分が本当にヤーサンになるまで生きるとは思わなかった。
繰り返される悪夢「やめたはずなのにまだ裁判官をやっている」…日本の裁判所がもつ「非人間的な」キャリアシステムとは(瀬木 比呂志) | 現代新書 | 講談社
引用⇒ 裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか?
ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、
信頼できると考えているのではないだろうか。
残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。
とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、
多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。
裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、
「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。
日本のキャリアシステムは、本当に問題が大きい。
一言でいえば、非人間的なシステムである。
その構成員には、本当の意味での基本的人権がない。集会結社の自由や表現の自由はもちろん、学問の自由にも、思想および良心の自由にも、大きな制約が伴う。
日本国憲法第13条には、「すべて国民は、個人として尊重される」とあるが、裁判官は、一握りのトップを除いては、個人としてほとんど全く尊重されていない。
虚心にその実態を見据えれば、人間というよりも、むしろ制度の奴隷、精神的収容所の囚人に近く、抑圧も非常に大きい。
第3章でも述べたことであるが、その構成員が精神的奴隷に近い境遇にありながら、どうして、人々の権利や自由を守ることができようか?
みずからの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか?
相撲の番付表にも似た微細な格付けのあるヒエラルキー的官僚システムは、戦前のような半全体主義体制下の裁判所であればともかく、
本来、民主制下の裁判所にふさわしいものでは全くない。
大学に移った最初の年、半年余りの間、私の悪夢の定番は、「やめたはずなのになぜかまだ裁判官をやっている」というものだった。
夢の中で、私は、あの見慣れた建物、清掃が行き届いているのにいつもなぜか薄汚れて見え、採光がよいはずの場所でもなぜか薄暗く感じられる建物の一つの中にいて、
机の上には古い訴訟記録があって、私は、その場所に縛り付けられたように動けないのである。
ある弁護士の後輩が、「でも、逆よりいいじゃないですか?」と言ったが、確かに、「夢の中ではやめていたのに覚めたらまだやっている」というのだったら、
生きる気力を失ったかもしれない。笑えない冗談である。
東京新聞朝刊↑
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【検証】12万人殺害「東京大空襲」指揮の米軍司令官に良心の呵責はあったか 鈴木冬悠人:NHKグローバルメディアサービス報道番組部ディレクター
2023.3.10 4:15 ダイヤモンドオンライン
東京大空襲を指揮したのは当時38歳だったカーチス・ルメイ。1945年3月10日の深夜、米軍のB-29による爆撃で、
一夜にして12万人の命が失われたと言われている(正確な数字はいまだに判明していない)。
非人道的な人物として語られることの多いルメイだが、実際、東京大空襲にどのような感情を抱いていたのだろうか。
上官に当たる空軍の父と称されるヘンリー・アーノルドからのプレッシャーはいかほどだったのか。検証していく。
1945年3月9日の夕方。325機のB-29が出撃準備をしていた。より多くの爆弾を積むため、機関銃などの戦闘火器はすべて取り外された。
一機当たりの平均爆弾搭載量は、通常の3倍にもなった。あわせて1600トンを超える焼夷弾が積み込まれ、過去最大の空爆作戦が行われようとしていた。
標的は、東京の市街地。アーノルドらが水面下で準備してきた焼夷弾空爆計画が、ついに実行されることになる。
ルメイは、この空爆作戦を実行するにあたり、誰の許可も取ろうとしなかったという。
航空軍の命運を賭けた空爆作戦。ルメイは、1人で責任を背負い込んだ。過去に例がない300機を超える大規模な攻撃。搭乗員たちは緊張と不安を抱えていた。
低空飛行の戦術は、諸刃の剣だった。特に、ヨーロッパでの空爆作戦を経験していた隊員にとっては、低空飛行でドイツ空軍の餌食となった記憶を思い起こさせた
。今回の作戦も、うまくいく保証はない。それでもルメイは作戦を決行する。
午後6時15分。B-29が一機、また一機と飛び立っていった。先頭を飛んで目標に指示弾を投下する爆撃先導機には、最も優秀で経験豊富なメンバーを配置した。
ルメイは、士気を向上させるために目標上空まで部下を率いようとしたが、機密保持のために認められなかった。
万が一にも撃墜されて、捕虜になることを防ぐことが優先された。このとき、ルメイはすでに原爆の概要を聞いていたからだった。
「爆弾投下」の第一報を、グアムの基地で待つことになった。東京到着は、夜中になると見られていた。作戦を中枢で担った参謀や将校たちには、仮眠を取るよう命じた。
だが、ルメイは、眠れなかった。不確定要素が多く、気持ちが落ち着かなかったという。作戦司令室のベンチに腰掛け、そのときを待った。
日付が変わった3月10日午前1時21分。出撃から7時間あまりが経った頃だった。ルメイのもとに、「第一弾を投下した」という報告が入る。東京大空襲が始まったのだ。
東京上空に到達したB-29は、大量の焼夷弾を投下した。その数、32万7000発。夜間空襲にもかかわらず、辺り一帯が昼間のような明るさとなった。
燃え盛る炎は、大量の酸素を飲み込みながら、凄まじい上昇気流を発生させた。爆撃の中心地として狙われた台東区、墨田区、江東区は、たちまち火の海になった
。夜中に突然、地獄にたたき落とされた人々は、炎で焼かれ、窒息して倒れていった。燃え広がる地域に対して、爆撃は2時間半にわたって容赦なく続けられた。
東京の下町に暮らす130万人が、逃げ場のない火の海に包まれた。
「大量の爆弾を投下するときに、わずかでも想像力があることは、不幸なことである。崩れ落ちる1トンものガレキが、ベッドで眠りにつこうとする子どもを下敷きにしたり、
火傷を負って『ママ、ママ』と泣いている3歳の女の子の恐ろしいイメージが頭をよぎってしまうからだ。
だが、正気を保ちたいと思うなら、また、祖国に求められている任務を実行しようと思うならば、そうした想像から目を背けなければならない」
一夜にして、下町の住民のほとんどが被災した。東京大空襲の犠牲者は12万人とも言われているが、今も、正確な数字はわかっていない。
空軍独立という野望を抱いていた航空軍は、太平洋戦争で戦果を上げなければならなかった。ルーズベルト大統領は、
30億ドルという巨額の開発費をかけたB-29が、戦争で決定的な仕事をしたと証明しなければならなかった。国民は、戦争を早く終わらせてほしいと願い
、降伏しない日本に対する強力な攻撃を求めていた。それらの要素すべてが、無差別爆撃へとつながっていった。
東京大空襲がもたらした結果は、すぐにアーノルドのもとに報告された。ルメイは、一報を受けたアーノルドが非常に満足していたため、安堵したと振り返っている。
「アーノルドは、3月10日の空爆のあと、私宛に電報を送ってくれました。彼からの電報には『東京空爆の成功、おめでとう。
この任務で、君たちはどんなことでもやってのける度胸があることを証明した』とありました。私は、空爆後の東京の写真をアーノルドに送り返しました」(肉声テープより)
アメリカ国内にも、東京を火の海にしたことが大々的に伝えられる。新聞の紙面には「記録的な空爆」「東京は焼夷弾で荒廃した」と成果を称える言葉が並んでいた。
ルメイは、東京の被害を記録した写真を見たときの思いを自伝に書き残している。
「東京は跡形もなかった。かつてないほど激しい攻撃だったらしい。私は居心地の悪さを感じていたが、アーノルドは非常に満足していた。
東京への空爆は必要以上だった。もうこれ以上の殺戮行為も次のミッションもしたくなかった」
だが、その後もルメイは焼夷弾による無差別爆撃を続けていく。3月12日には名古屋。13日には大阪。17日には神戸。19日には再び名古屋。
B-29は、次々と大都市を焼き払っていった。これらの焼夷弾爆撃で、さらに1万人以上の命が犠牲となった。
3月10日~19日までにターゲットとなった都市はすべて1943年に作成されていた「日本焼夷弾空爆データ」で計画されていた主要攻撃目標と一致する。
計画に基づいて空爆するならば、まだ広島や福岡などが残されていた。
しかし、立て続けに実行された大都市への焼夷弾爆撃は、19日の名古屋を最後に、突然、パタリと止まる。いったい、何があったのか。
ルメイは、肉声テープの中で、笑いながらその理由を明かしている。
「私たちは、東京を空爆したあと、とにかく可能な限り早く他の都市を爆撃した。
日本軍が低空の対空砲火を準備するなどの対策を考えて反撃してくる前に、徹底的にやりたかったからだ。
だが、爆撃を中止にした。なぜだかわかるか?」
「(インタビュアー)いいえ、わかりません」
「焼夷弾が切れたからだ」
ルメイは10日間にわたる都市への空爆で、焼夷弾192万発を使用。備蓄していた焼夷弾をすべて使い切ってしまったのだ。
ルメイは、兵站を担当していた海軍をけしかけ、焼夷弾の補充を急がせたという。
「私たちは、海軍のニミッツに『これまでの4倍出撃する』と伝え、煽りました。『爆弾がなければ釣りをするしかないが、いいのか』と。
兵站を担当する海軍の人間が、大慌てで準備してくれたので、ほぼ1カ月で補充できた」(肉声テープより)アーノルドからルメイへ
およそひと月後、ルメイは大都市への焼夷弾爆撃を再開する。
なぜ、ルメイは、“これ以上、殺戮行為をしたくない”と感じながらも、焼夷弾爆撃をやめられなかったのか。
伝記作家のウォーレン・コザックさんは、ルメイにはやめることができない、ある理由があったのだという。
「東京大空襲のあと、アーノルドからルメイに送られた“おめでとう。
どんなことでもやってのける度胸がある”という言葉は、額面通りの祝福を意味する言葉ではありませんでした。
それは、ルメイに“他の都市を焼夷弾で攻撃し続けろ”という作戦への青信号、GOサインでした。そのまま作戦を続けろ、大丈夫だという意味だったのです」
東京大空襲の結果こそ、望んでいた戦果だと喜んだアーノルド。日本との戦争で航空軍が存在感を示す方法を、ついに手にしたと考えていた。
このあとアーノルドら航空軍は、B-29を使った焼夷弾による無差別爆撃を戦略の柱に据え、一般市民を犠牲にする非人道的な空爆を繰り返すことになる。
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米軍指揮官カーチス・E・ルメイ将軍の論理(別サイトから転載)
本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、
隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。
木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」
カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。
昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っている。
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。
時の政府にカーチス・E・ルメイ将軍への叙勲を強く押したのは源田実参議院議員だと言われている。
理由は彼がアメリカ政府から受けた勲章のお返しのためだと・・。
源田 実(1904年(明治37年)8月16日~1989年(平成元年)8月15日)は、元日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐。広島県山県郡出身。従三位勲二等旭日重光章。
航空参謀。戦後は空将・航空幕僚長、参議院議員等を務める。
別説
⇒Wikipediaから部分引用。
(昭和37年)8月17日発行の防衛庁訓令第51条「自衛官の階級章の略章に関する訓令」により
統合幕僚会議議長と陸海空各幕僚長は4つ星(又は金帯に線3本)の大将相当の階級章を付けるようになった
源田実は同年、航空自衛隊の創設、日米安保への貢献で、ジョン・F・ケネディアメリカ大統領よりレジオン・オブ・メリット勲章(勲功章)を授与される。
叙勲は行政分野であり唯一の外部機関有識者会議にも源田は入っていない[274]。
叙勲はルメイ来日を契機とした防衛庁の判断に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている[275]。
*勲一等旭日大綬章は天皇陛下が直接本人に渡す勲章なのだが、天皇陛下がルメイ将軍に面接した記録はない。
79年前の今日 1945年3月17日 アメリカ空軍の神戸大空襲で神戸の民間人が焼夷弾絨毯爆撃され多数死んだ日。 - 阿智胡地亭のShot日乗
人はあまりに辛く無惨な体験をすると、脳味噌からその実体験を外そうとする・・らしい。
無意識にそうすることで何とか平時の社会の規範に従って暮らすことが出来るのかも知れない。
半藤さんも女性編集者に再三再四請われて、ようやくこの本を書き下ろす筆を執ったようだ。
彼もまた神戸一中時代の小松左京と同じように、いらんことを仰山言うて当時の配属将校や日本は勝つと信じ込んでいた教師や先輩に
何十回 何百回と数えきれないほどびんたを張られ ボコボコに殴られている。
半藤さんがおぼれ死にかけた平井橋は私のウォーキングコースの一つの中にある。この橋のかかる中川とその周辺を含めて
1945年3月10日夜半の米軍のB29爆撃隊による焼夷弾絨毯攻撃で東京の下町の民間人が2時間ほどで10万人が焼き殺された。
(B29のBは ボーイング社のB)
半藤さんが生き延びたのはほんの紙一重の巡り合わせだった。生き延びたわずかな人の中に半藤一利さんがいてくれたおかげで
いまこの本を読むことが出来る。
東京大空襲 資料
2022年12月8日の本ブログに掲載
→しばらく遠ざかっていた水辺と水鳥を見たくて、歯医者さんの3カ月ごとの口の中のクリーニングが終わってから 久しぶりに旧中川の定点観測ポイントに行きました。
この旧中川の水中で 78年前の昭和20年3月10日の夜半から11日未明にかけてのアメリカ空軍の焼夷弾による民間人無差別殺戮のため約3000人弱が焼け死にか溺死した。
この時東京の墨田区江東区江戸川区など下町の民間日本人はわずか二時間で約10万人が焼き殺された。
半藤一利さんが平井橋から旧中川に飛び込んで浮かび上がったとき 偶然小舟がすぐ横にいて救い上げてくれたが その船がいなければ、
「日本の一番長い日」などの半藤さんの貴重な著作物の数々はこの世に現れなかった。
ロイター通信:[ロンドン 八月23日 ロイター] - 2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、数万人の死者、数百万人の避難民を出し、
世界中に経済危機の種をまいた。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は8月22日、侵攻開始から民間人5587人が死亡し、7890人が負傷したとの推計を発表した。
実際の犠牲者数はさらに多いとされている。 OHCHRによると、死傷者の多くは砲撃やミサイル、空爆などの爆発によって犠牲になったという。引用元。
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被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されている。 爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大したが、これは非戦闘員にも恐怖を与え、国民の戦意を喪失させるのが目的だった。 特に東京は終戦まで約130回の爆撃を受けた。 3月10日の未明に始まった東京大空襲は約300機のB29が深川地区など下町を中心に約2000トンの焼夷弾を投下。 2時間半の爆撃は折からの強風を受けて大火災を引き起こし、およそ40平方キロの市街地が焼失した。 焼失家屋は27万戸、被災者は100万人以上で、死者数はこの1日だけでおよそ10万人と推定されている。東京は終戦までの爆撃で、市街地のほぼ半分が焼失した。」 右盲爆により都内各所より火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分其の他は8時頃迄に鎮火せり。現在迄に判明せる戦巣次の如し。撃墜15機、損害を与へたるもの約50機。 帝都に侵入焼夷弾に依る市街地盲爆を行ひ、その他各10機内外宛を以て干葉、福島、宮城、岩手の各県にも来襲した。 これに依り、東京都内各所には相当の火災を生じ、再び宮城内の宮内省主馬寮附近にも焼夷弾が落下、午前2時35分までに消火したが 都内各町の火災も午前8時頃までには軍、官、民一致の敢闘に依り全く鎮火せしめた。その他各県の被害は盛岡、平附近に若干の損害があつたのみであつた。以下略 戦前から戦後もそして今も、普通の「くにたみ」に対しては、本当のことを隠してウソをついてもいいと考えるエライさん方が、お国の上に居続けるわが日本国。 これは江戸時代から我々列島人の中に住み着く【宿痾】か【痼疾】か、いや島国内で権力を握った階層の知恵なのかも。 虚言を国会の場で吐いた人、吐かせた人。まさか政権交代が列島で起こるとは想像してなかっただけのことですよね。 実はそのこと自体が「アメリカの公文書はでっち上げだ、ウソだ」と言っていることになり、アメリカの苛立ちをかっていたことに気づかなかったことが 前の政権与党と外務省には惜しまれる? |
もはや できあいの思想には倚りかかりたくない もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない もはや できあいの学問には倚りかかりたくない もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある 倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ |
在日米軍:オスプレイ本土訓練通知 「怖い」市民ら不安 知事「いきなりとは何事だ」 /静岡 毎日新聞 2012年11月03日 地方版 御殿場市の米軍キャンプ富士などで今月、米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの低空飛行訓練が行われる計画が2日、東京都内で開かれた全国知事会議の席上明らかになった。初めて知らされた地元の市民からは、「オスプレイは怖い」「絶対安全という確認ができない」などと不安を訴える声が目立った。【樋口淳也、小玉沙織、野島康祐、西嶋正信】 同会議に参加していた川勝平太知事は、東京都内で毎日新聞の取材に応じ、「何の打診もなく、突然のことで驚いている。住民の意向さえも聞かずいきなりとは何事だ」と強く反発した。 御殿場市の若林洋平市長は「耳を疑うもの」と森本敏防衛相の突然の発表を批判し、国に対して発言に関する詳細な説明を要求した。さらに「仮にキャンプ富士への飛行訓練が示された場合は、第10次東富士演習場使用協定にのっとり、(地元)2市1町と(同演習場の)地元権利者団体などと一体となり、協議を進めざるを得ない」と述べた。 オスプレイの飛行訓練について情報収集を進める松井隆・県民生活局長は、「南関東防衛局に問い合わせたが、『本省から情報がない』と言われた。こちらとしては、県民の不安を払拭(ふっしょく)できるよう、国の責任で2市1町と地権者に丁寧な説明をしてもらいたい」と話す。 地元住民は複雑な心境だ。同市西田中の自営業、山崎勝正さん(78)は、「オスプレイは事故を繰り返している。絶対安全だと確認できればいいが、訓練は時期尚早だ」と反対の立場。一方で、同市中山の自営業の男性(64)は、「沖縄以外でも応分の負担を受け入れざるを得ない」と指摘した。 ☆【わが空はわが空ならず秋の空】 旧軍の戦闘機乗りで敗戦後、日本航空のパイロットになった人が詠ったという伝説の俳句。 アメリカの占領状態が67年間続く日本の空。 臥薪嘗胆、捲土重来、次は勝つ、の気概を持つ「官、財、政、学、マスコミ」が戦後67年間の間、この国に存在したことはない。 しかし裏を返せば、この67年間、国家の正規軍が他国民を戦争の名目で殺害したことのない国連加盟国の中の大国は、唯一日本だけである。 国連の常任理事国であるアメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスの五国は1945年以降も、それぞれ国の正規軍がなんらかの名目で、他国民を戦闘で殺してきた。 自国の空と陸を自由にアメリカに使われ、裁判権を渡すなど不平等な地位協定を結んだ吉田茂と、その忍びの者を勤めた白洲次郎は、それらと引き換えに憲法九条を維持し、ならずものの国にならないで来たこの国への自らの働きと貢献を、墓石の下で自負しているだろうか?それとも忸怩たる思いをしているのだろうか? |
2012/11/3 12:02 九州電力は2日、管内の企業や家庭に今冬の節電を要請すると発表した。暖房用の電力需要が見込まれる一方、原子力発電所6基すべてが停止しており、電力供給力が落ちた状態が続いているため。ただ節電が定着してきたうえ、他の電力会社からの電力融通も見込めるため、数値目標は設定しない。今夏、万一の供給不足に備えて準備した計画停電も実施しないとしている。 節電要請期間は12月3日~2013年3月29日(12月31日~1月4日を除く)の平日で、時間帯は午前8時~午後9時。2日、記者会見をした平田宗充取締役は「生活・健康や経済活動に支障のない範囲で節電に協力をお願いしたい」と述べた。九電は火力・水力発電所の補修による停止を暖房用需要が増える冬にしないで済むよう点検時期の前倒しなどで対応している。 今冬の気温が平年並みで推移した場合、2月の最大電力需要は1471万キロワットと想定。昨冬並みの厳しい寒さとなったケースでは1537万キロワットを見込む。一方、最大供給力は1584万キロワットあり、予備率は3.1%を確保できる。他の電力会社も今冬の予備率に余裕があり、さらなる電力融通も見込めるという。 |
≪ブログ初出 2015年12月12日≫
野坂昭如さんが毎月寄稿していた雑誌
週刊「平凡パンチ」創刊号。昭和39(1964)年5月11日号
月刊誌「話の特集」昭和41(1966)年2月創刊
本を読んでもしばらくすると何が書いてあったか忘れてしまう。
でも「その本を読む前のあなたと読んだ後のあなたはどこか違ってる」という言葉を知ってから
忘れてもいいのだと思うようになった。そういう意味で言えば、野坂昭如、庄野潤三、吉村昭、鶴見俊輔、半藤一利、保坂正康、水木しげるさんたちは
明確に何がとは言えないがその存在が私の身中に今も残っているのだろう。
中でも野坂昭如さんは、一時全作を揃えようと古本屋まわりもしたことがある。しかし筆が荒れている時期もあり、売文の著作もあり、それはやめた。
彼の「火垂るの墓」の静かな衝撃は、読んで以降 私の中にずっと残ってこれまで来た。
戦争屋の扇動やプロパガンダが今もこれからもあるだろうが、一般の人間にとって戦争になれば、
自分と家族と知り合いに何が起こるかを、この本はこれからも伝えていく。
☆1991年11月、写真家栗田格さんが野坂昭如さんの自宅で撮影したポートレイトには、
野坂昭如の凄みと生真面目さ、あるいは含羞の硬骨漢が映しだされています。
■ 好色の魂 ■ 水虫魂 ■ マリリン・モンロー・ノー・リターン ■ 騒動師たち ■ とむらい師たち
■骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら) ■ 童女入水(どうじょじゅすい)
などは今も岩波現代文庫「野坂昭如ルネッサンス」で入手できる。
神戸新聞 「正平調」2015/12/11
【野坂昭如さん死去】 それほどに戦争を憎んだ / 自由すぎるおじさん
昭和一桁世代と言われ、浮かぶ顔がいくつもある。父に叔父、小中学校の担任の教師、少年野球の監督も
◆戦場で、空襲の町で死を覚悟し、戦後は飢えの苦しみを味わう。高度成長のさなかも、どこかさめたところがあり、国は信用できないと話す。
子ども心に、大人とは何とややこしく理解し難い存在か、と思った覚えがある
◆今はもういないいくつもの顔が、浮かんでは消えていく。作家の野坂昭如さんの訃報を聞いてから、ずっと。そうか、野坂さんも亡くなったか。
著書の題名になぞらえながら、「野坂昭如・ノー・リターン」とつぶやく
◆三宮、御影、西宮に明石。なじみの土地が登場する「火垂(ほた)るの墓」にはいつも泣かされる。
「お兄ちゃん、どうぞ」「それからおからたいたんもあげましょうね」。こうして主人公の妹節子の言葉を書き写すだけで、涙腺が緩む
◆「ぼくは作中の少年ほど、妹にやさしくなかった」と言いながら、戦時下で亡くした幼い妹のことを何度も書いた。
自らの記憶を風化させないよう、人の経験を聞き体験記を読みあさったと記す。それほどに、戦争を憎んだ
◆「昭和20年6月5日午前7時、神戸市上空高曇り」。空襲で焼け出された日になると毎年、空を見上げたそうだ。
命日となった12月9日午前、神戸市上空は青空が広がった。
2015・12・11
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'12/9/20 原子力規制委員会の発足に合わせ、事務局として安全規制や危機管理の実務を担う原子力規制庁が20日から本格的に業務を始めた。しかし、幹部には経済産業省など原子力を推進する官庁の出身者らが名を連ね、早くも「規制行政の信頼回復には程遠い人事」との指摘が出ている。 経産省審議官から、原発事故などに対応する緊急事態対策監になった安井正也やすい・まさや氏(54)。資源エネルギー庁原子力政策課長だった2004年、原発の使用済み燃料を地中廃棄する費用を試算したのに「試算は存在しない」との国会答弁を作成したとして、厳重注意処分を受けた人物だ。 審議官3人のうち、文部科学省出身の名雪哲夫なゆき・てつお氏(53)は核燃料取扱主任者の資格を持ち、旧科学技術庁の原子力局に勤務した経験がある。桜田道夫さくらだ・みちお氏(53)は東大工学部原子力工学科卒で、エネ庁勤務が長い。住民訴訟に対し、国の立場で原発の安全性を主張した原子力発電訟務室長だったこともある。 残る1人の山本哲也やまもと・てつや氏(52)は経産省原子力安全・保安院から。東京電力福島第1原発事故には首席統括安全審査官として対応した。文科省とともに米国が提供した原発周辺の放射線分布地図を放置した問題で今年6月、「情報が共有されず、住民の避難に活用されなかったのは誠に遺憾だ」と記者会見で謝罪した。 規制庁ナンバー2の次長には、内閣官房原子力安全規制組織等改革準備室長として規制委や規制庁の設立に関わった森本英香もりもと・ひでか氏(55)が就いた。地球温暖化対策で原子力を重視してきた環境省が出身母体だ。 このほか、初代長官には前警視総監の池田克彦いけだ・かつひこ氏(59)が就任。原子力地域安全総括官の黒木慶英くろき・よしひで氏(54)も警察庁出身だ。ともに警備部門の経験が長く危機管理への期待から起用されたが、市民団体関係者からは「デモの規制で本領を発揮するのでは」との皮肉も。 黒木氏は改革準備室副室長として3日、滋賀県の原子力防災専門委員会に招かれた際、規制機関の在り方について「原子力に反対する人も入るのは、日本の場合、考えにくいのでは。一定の結論を導き出す議論ができるのか」と発言。委員から注意を受け、その場で陳謝したばかりだ。 規制委や規制庁の設立経緯に詳しい海渡雄一かいど・ゆういち弁護士は「電力会社のとりこになった規制行政から脱却できる人事とは到底思えない。これで『原発は安全だ』『再稼働を』と言われても立地地域の住民は安心できないだろう」と話している。 |
2012/9/20 18:59 政府は20日、国の基準値(1キログラム当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムを検出したとして、長野県軽井沢町と御代田町で採れる野生のキノコの出荷停止を県に指示した。 市場には流通していない。 厚生労働省によると、東京電力福島第1原発事故に伴う長野県の農林水産物の出荷停止は初めて。 |
報道ステーション 2012.9.20。脱原発を進めているドイツと日本ではどこがどうちがうのか。 ドイツの様々な面を取材。 <textarea class="iframe_tag"></textarea> ドイツが脱原発できたわけ 企業にも大きな変化が‥ 投稿者 tvpickup |
'12/9/19 革新的エネルギー・環境戦略が19日、閣議決定に盛り込まれたことを受けて、枝野幸男経産相は、閣議後の会見で、中国電力上関原子力発電所(山口県上関町)など着工前の原発について、建設を認めない方針を明らかにした。 枝野経産相は「原発の新増設はしない」などと掲げた革新的エネルギー・環境戦略を挙げ、「新たな建設の許可を与えることは原則に反する」と強調。計画段階の原発について事業者側が許可を申請した場合も、認めない考えを明らかにした。 経産省は2013年度の概算要求で立地自治体への交付金を従来通りの基準で計上しているが「建設前の原発にもいろんなプロセスや状況がある。交付金などは今後、精査する必要がある」とした。 |
2012年9月19日 夕刊 平野達男復興相は十九日午前の記者会見で、高速増殖原型炉「もんじゅ」などを運営する独立行政法人・日本原子力研究開発機構(原子力機構)が政府の二〇一二年度予算の復興特別会計に、核融合エネルギーの研究費四十二億円を計上していた問題について、東日本大震災の復興予算の使い方としては不適切だったとの考えを示した。「増税をして財源を確保したものの使い道としてはいかがなものか」と述べた。 さらに、原子力機構を所管する文部科学省が一三年度予算案の復興特別会計でも、四十八億円の研究費を概算要求していることについて「真に震災の復旧復興に結び付くもので予算編成をしなくてはいけない。(復興特別会計からの計上は)かなり難しい」と、計上は認められないとの考えを明らかにした。 原子力機構に対しては、政府が一二年度予算の復興特別会計から百億円超を支出。うち四十二億円は核融合エネルギーの実用化を目指して日本や欧州連合(EU)、米国、中国など七カ国・地域が進める国際熱核融合実験炉(ITER)の関連研究費に充てられていた。 |
2012年9月20日 9月19日、中国政府は当初、反日デモを容認する姿勢を取ってきたが、その方針は結果的に、新指導部に影響が跳ね返ってくるリスクがある。写真は北京の日本大使館前で18日に行われたデモ(2012年 ロイター/David Gray) [北京 19日 ロイター] 日本政府による尖閣諸島(中国名・釣魚島)の国有化に端を発した中国の反日デモ。中国政府は当初デモを容認する姿勢を取ってきたが、その方針は結果的に、胡錦濤政権から権力を引き継ぐ新指導部に影響が跳ね返ってくるリスクがある。 尖閣問題をめぐる大規模な反日デモは、中国政府が日本に対して弱腰だとの批判も含まれており、10年に1度の権力移行を目前に控えた新指導部には強硬姿勢で外交に臨むよう圧力がかかっている。 中国の次期最高指導者と目されている習近平国家副主席は、療養中だったとされる2週間は姿を見せず、数日前になって公務に復帰した。現在、習氏を含む指導部には、対日強硬路線を求める世論から耳をそむけようとしているとの批判が高まるリスクもある。 「政府は軟弱すぎると感じている。だから、われわれの考えを示したい」。北京の日本大使館前のデモに参加した食品販売業者のZhang Xinさん(25)は怒りを吐露。「中国は強国としての要求を行うべきだ。今の政府には失望を感じる。民主的とは言えず、われわれの声を聞き入れてくれない」と不満を口にした。 反日デモで盛り上がった愛国心は、共産党には心強さと同時に憂慮すべき意味合いも含まれる。それは、デモ参加者が中国政府の領有権の主張を熱狂的に支持している一方、指導部にはその主張を行動に移す力がないと公に訴えようとする参加者が多いからだ。 また今回の反日デモでは、中華人民共和国建国の父とされる毛沢東の肖像画が多く掲げられた。毛沢東の肖像画は、日本政府の尖閣国有化について公にコメントを発表していない胡錦濤国家主席ら現指導部に向けた非難としても利用された。 海産物の販売員Shi Leiさん(25)は「毛沢東は新中国の最初のリーダーで、外国人に厳しく対応する策を知っていた。もし彼が生きていれば、今ごろ戦争になっていた。胡錦濤らは日本の挑発を前にして役立たずで軟弱だ」と痛烈批判。 会社員のChi Lixinさん(29)も「毛沢東は日本と戦い勝利した英雄だ。今の指導部は平和外交しか口にせず、ただ見ているだけ。われわれの領土を手放そうとしている」と語気を強めた。 <愛国心と不満> 愛国心と不満が入り混じった感情は、北京や上海、広州など多くの都市に広がった。これに対し、当局は反日行動が反政府デモに発展するのを防ぐため、数千人の警官や武装警官を配備。北京の日本大使館前では19日までに、警察がデモの封じ込めに乗り出した。 政治コメンテーターのLi Weidong氏は、「もちろん日本との問題は存在する。ただ、政府はそれを国内の不満のガス抜きに利用している」と指摘。「政府は不満の度合いを見計らっている。統制不能にはしたくない」と語った。 中国政治の専門家は、習氏ら新指導部が直面するリスクについて、長い目でみておく必要があると口をそろえる。 中国政府は早ければ来月に行われる共産党大会での指導部交代を最優先。しかし、その権力移行はスキャンダルなどで揺らいだ上、政府は予想外の経済成長の減速にも苦慮している。 そんな中、日中関係の不安定化は不確実性が増すことにつながる。強硬路線を求める世論に押されれば、中国指導部が弱腰批判を受けずに妥協点を探ることは一段と難しくなる。 米カリフォルニア大学のスーザン・シャーク教授は「誰だって日本に弱腰だとは思われたくない。皆が出世を競っており、弱腰だとの評判は将来にとって決していいことではない」と説明した。 たとえ日中の軍事衝突の可能性は低いとしても、中国側に妥協を探る外交の余地は狭まっており、領有権問題を早期に片付けるための選択肢も少なくなっている。 <歴史の新局面> 日本を研究する中国の専門家は、この先「大変な時期」が訪れると予測する。 「われわれは新たなステージに突入した」。こう話すのは北京・清華大学のLiu Jiangyong教授。「これまで中国政府は領土問題を脇に置き、2国間関係の発展に努力してきたが、その時代は終わった。歴史の新たな局面を迎え、日本の(尖閣)国有化も不可避だった」と分析する。 胡氏のポストを引き継ぐ習氏にとっては特に、この新たな局面は対応が難しいかもしれない。習氏は、過去の指導者らの影響力が色濃く残った状況においても、権威の確立に努めなければならない。また、胡氏よりも自己主張が強く機敏なリーダーになることへの期待感も高い。 中国のアナリストや西側の外交官らは、習氏は強硬派ではないとの見方を示す。しかし、尖閣諸島の奪還を目指す活動家らは、習氏はリスクを冒してでも対日政策で前政権より強硬な姿勢を見せなくてはならないと主張する。 中国民間保釣連合会の代表で活動家のTong Zeng氏は、今年7月に習氏が行った演説を引き合いに出す。習氏は清華大学での演説で、中国は「国家主権と領土保全を断固として主張する立場に基づき、近隣諸国との関係と地域の安全を守っていく」(新華社)と訴えた。 Tong氏にはその演説が、尖閣諸島などの領土問題で習氏が強硬路線にかじを切るシグナルに映ったという。Tong氏は「習氏が最高指導者になれば、政府はこの問題に対して新たな政策を打ち出すだろう」と期待を込め、「国民は釣魚島を守ることに圧倒的多数で賛成だ。だからこそ、政府はこの問題に注力していくはずだ」と強調した。 |
上杉隆の東京脱力メールマガジン 「──と見られる」「──と思われる」 これらは、日本の新聞のみで確認される珍奇な表現の一例だ。 まず主語がない。いったい誰が見るのか、思うのか、わからないところがいっぱいで、そうした意味で読者の好奇心を脱力的に刺激してくれる。 「見られる」「思われる」という受身形の表現からも、「見て」、「思っている」のが記者でないことだけは確かだ。では、いったい誰が……? 深まる謎の中、いつものように私はこう考えた。 ひとりの記者が万人の意見を代表できるわけはないし、ましてや新聞にそのような全知全能の能力があるわけでもない。 そもそも、日本国がそんな大きな仕事を新聞に負託した覚えはないはずだ。では、いったい…。 そう、これは「神の視点」に違いない。思えば、日本の有名な新聞には「天声人語」という神をも恐れぬコラムだってあるではないか。やはり、だからだろうか、日本の新聞はいつもそうした「神の技」によって書かれているのだろう。 〈日本と中国の間で行われている新聞記者交流について、中国側から「同行する人をさくことができないため、延期したい」との連絡が13日、日本新聞協会にあった。尖閣諸島の国有化が影響したと見られる〉(9月14日付け「朝日新聞」) 社会面のベタ記事だが、この記事を読んで最初に思ったのは「朝日新聞は大丈夫か?」ということに尽きる。 なにしろ、日本新聞協会というほとんど身内に対する連絡にも関わらず、その先の追加取材の跡がまったく見られないのだ。 ──影響した見られると結んでいるが、なぜその先を取材しないのだろうか。だいたい、いったい誰が見ているのか。 新聞は楽しい。いつだって「先行きは不透明だ」し、こんな短い記事でも「議論を呼びそう」なのだから。 ☆日本の新聞についての我が思いを共有する人が自分の周囲でも増えている感じがする。 誰のために自分たちが存在しているのかを考え直さない大手新聞、テレビの最近の購読数や視聴率の漸減傾向は、読者はオタクらが考えるほどバカではないことを示していると思うんですが。 |
アメリカ一極から多極化へ世界秩序が変わろうとする中、アメリカに従属し、あらゆる価値感情を蒸発させてきた日本人は自立することが出来るのか。
文学を通して戦後私たちが失ってきたものと残されたものを確認し、精神的な自立への足がかりを探る。第一部では太宰治から島田雅彦まで、
戦後の代表的な文学を時系列で振り返り、日本人の精神が堕落していった経過を忖度なく語った「クライテリオンメンバー」による座談会を収録。
第二部では戦後の文学批評を振り返って日本人に残された自然的な精神の在処を探った文芸批評家・浜崎洋介の論考を収録。
文芸誌には絶対に載らない、ド直球の文学論!
太宰治、三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹、村上龍、高橋源一郎、島田雅彦……。
あらゆる価値感情を蒸発させてきた戦後日本人の精神史を代表的文学作品、文学批評から読み解く。多極化する世界で、アメリカに甘えてきた日本人は自立できるのか。
日本人の真価を問う
もしも今の日本人が皆、どうしようもない隷属状況に日本が置かれていることを、過不足なく、冷静に認識、把握しているのなら、こんな文学はゴミ箱に捨てればいい」/藤井聡
第一章 「平和」への戸惑い 太宰治「トカトントン」/大岡昇平「生きている俘虜」
なぜ、今、「対米従属文学論」なのか
「トカトントン」と、戦後日本
思想と実生活
文学と社会科学
極限状態から「生きている俘虜」へ
「俘虜収容所」としての戦後日本
戦後的ニヒリズムの乗り越え方
「八月十五日」との対峙
第二章 「戦後的日常」への頽落──「第三の新人」をめぐって
小島信夫『アメリカン・スクール』/安岡章太郎「ガラスの靴」
「第三の新人」と小島信夫
戦後日本人の三つの類型
「自由」ではない日本人
〈二者関係=閉域空間〉からの脱出
戦後文学と「リアリズムの罠」
アメリカ的自由への憧れと不安
「空白」としての戦後空間
「パブリック」なものの欠如
「べき論」を語らないという欺瞞
「軟文学」を超えて
第三章 「戦後的日常」の拒絶 三島由紀夫『真夏の死』/『憂国』
三島由紀夫を貫く二つのモチーフ
「戦後的日常」と「死」
戦前と戦後をどう繋ぐのか ──八月十五日で「待つ」ということ
三島由紀夫の「リアリズム」
『真夏の死』の「比喩」 ──戦後日本の〈国民/国家〉
再び、八月十五日で「待つ」ということ
「戦後」へのアンチテーゼ
三島由紀夫の「大義」が向かう先
理想の「夫婦」のかたち
三島由紀夫の〈絵空事=ロマンティシズム〉
三島文学の「世界性」と「普遍性」
三島由紀夫と「保守思想」 ──天皇と国語について
三島由紀夫の大東亜代理戦争 ──つづく「近代の超克」の思想戦
第四章 戦後的ニヒリズムへの「監禁」 大江健三郎「後退的青年研究所」/「セヴンティーン」
大江健三郎のイメージ・ギャップ
アメリカに飼われる日本 ──「後退青年」の憂鬱
「出口なし」における実存的不安
「完全に負ける」ということ ──六〇年安保の意味
天皇と憲法 ──大江健三郎の漂流
敗北の敗北のまた敗北 ──戦後的ニヒリズムの完成
大江健三郎=藤井聡説? ──「中二病」の普遍性
思わず「右翼」のなかに入り込む大江健三郎
大江健三郎の「頭でっかち」なところ
俯瞰と身体の回路の不在 ──どんづまり感
「プライベート」から外に出られないということ
戦後知識人と大江健三郎
第五章 戦後的ニヒリズムの臨界値 開高健『輝ける闇』/村上龍『限りなく透明に近いブルー』
開高健の「転機」 ──ベトナムと『輝ける闇』
ベトナムの分かり難さと、「傍観者」のあやふやさ
「戦後空間」への抵抗のヌルさ ──「大学生」としての開高健?
「生の実感」を求めて ──ベトナムとアウトドア
大東亜代理戦争としてのベトナム戦争 ──戦後日本人の国際感覚の欠如
「小説」のヌルさと「批評」の覚悟 ──無意識と意識とのトレードオフ
高度成長後の「ブルー」
「戦争小説」としての『限りなく透明に近いブルー』 ──青春の破壊願望
「ポストモダン的虛構」の拒絶 ──村上龍のエネルギー
高度成長後の『悪の華』 ──善/悪が逆転した時代の「戦い方」
一九七二年という転換点 ──「ニヒリズム」の臨界値
「破壊願望」は「保守思想」に接続できるのか ──「成熟」への問い
第六章 高度成長後の風景 村上春樹『風の歌を聴け』/田中康夫『なんとなく、クリスタル』
「透明」に向かう八〇年代文学
村上春樹という「逃げ場所」 ──初恋の「気分」について
村上春樹と「伝達」の問題 ──都市生活者の自意識について
「破壊願望」からの解放 ──〈諦め〉の受け入れ方
「葛藤」を回避する文学 ──「近代」が終わった後の世界
「相対主義」とは違う「無常」 ──ポストモダン的「冷笑」ではなく
「一人」であることの自覚 ──村上春樹の「一匹と九十九匹」
「ニヒリズム」との付き合い方 ──「無常」を表現するという「希望」
『なんとなく、クリスタル』は文学なのか? ──全否定に次ぐ全否定
「従属」ではなく「所属」 ──八〇年代の日米関係
消費する若者たち ──「なんとなく、ネオリベ」の世代
小説の終わりと、ポスト・モダン批評 ──高橋源一郎のヒドさ
『俘虜記』から『なんとなく、クリスタル』へ ──戦後三十年の断絶
第七章 「国土の荒廃」を読む 石牟礼道子『苦海浄土─わが水俣病』/富岡多恵子『波うつ土地』
戦後日本における「母の崩壊」というモチーフ
近代資本主義という名の「受苦」 ──「鎮魂」としての文学
「業」としての文学 ──「水俣」を記憶する言葉
「魂」の実在を記録するということ ──「死者の民主主義」について
共同体の分裂と国家への情念 ──加害/被害を超えたものの手応え
「民衆の生き方」 ──資本主義化=世俗化する世界への抵抗
「文学」の使命 ──「国民的受苦」を引き受けること
「現代の男ども」に対する女の「復讐」
「女」に気が遣えない「日本の男」
八〇年代消費文化とニュータウンの風景
波うつ「大地」を安定させること、治めること ──築土工木の思想
「土建屋の男」が象徴するもの ──ナショナリズムの回路
第八章 「ポスト・モダン」の頽落を超えて 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』/島田雅彦『優しいサヨクのための喜遊曲』
「近代文学の終わり」と「ポストモダニズム」
『さようなら、ギャングたち』が書かれた時代
「政治と文学」という主題の終わり
これは「追い詰められた結果」なのか、単なる「言葉遊び」なのか
「テクスト」だけで立っていない『さようなら、ギャングたち』
幼児退行する文学 ──「政治」という「地」を失った文学
ポストモダンの「左旋回」 ──「虛構」に逃げ込んでいく「サヨク」
凡庸すぎて、付き合っていられない「青春日記」
八〇年代サヨクの「虛構性」 ──生活と何の関係もない運動
「ポストモダン」か「オウム」か、という二者択一のグロテスク
「子宮回帰願望」から「オタク」へ ──「反出生主義」のメンタリティ
果たして「文学」は再生するのか? ──「ポスト・モダン」を超えて
「自由」な文学論に向けて
村上春樹のエッセイは週刊朝日に連載当時 毎週面白く読んでいた。
しかし小説は「ノルウェイの森」を 当時同じ職場の吉田さんに勧められて借りて読んでも 最後まで面白いと思わず返却した。
それ以来 彼の社会に対するいろんな発言は逃さずキャッチしてきたが小説には手がでなかった。
村上春樹という小説家が 高校を卒業するまで暮らした空間は「西宮・芦屋・東神戸のいわゆる❝阪神間❞」で
自分が高校、大学時代を暮らした空間であることは知っていた。
その村上春樹が世に出た作品が「風の歌を聴け」で、小説の場がその❝阪神間❞であることを知って どんな本か急に興味が出て図書館から借り出して読み始めた。
最初の数ページでああこらあかんヮと感じた。著者は日本の文学書ではなく 若い時から英米の小説をずっと沢山読んできた人だと思った。
そのせいか、翻訳本の匂いのする自分にはなじめない文体の本だった。表現に洒落た比喩や例えが多すぎて すぐには内容に入っていけない。
しかし文章は読んだことのない気持ちのいいテンポですすみそのまま読み進めた。
特に自分も高校生時代によく聞いた日本で最初の「ラジオ神戸の電リク」らしきものが 出てきて小説の骨の一つに使われてるのも面白く思った。
村上春樹が過ごした阪神間での月日とは7年の違いもあるが、同じ阪神間で過ごしても 彼の五感が感じて作った世界と自分のそれは当然ながら
全く違っていてまるで重なることはない。(彼が通った芦屋市立の中学や 兵庫県立高校は自分も暮らした阪神間にあった)
80歳を過ぎている自分にはまことに不思議な内容の1997年7月発行の本だったが、村上春樹が処女作に(自分の1970年の夏を描いた世界)にいつのまにか
じわっと入り込んいた。次はどう展開するかが読めないし予定調和はないのがいい。彼の本をもう一冊図書館で借りて読んでみようという気になって読み終えた。
◎群像新人文学賞受賞 サイトから引用:
1970年夏、あの日の風は、ものうく、ほろ苦く通りすぎていった。僕たちの夢は、もう戻りはしない──。
青春の生のかけらを、乾いた都会的な感覚で捉えた、新鋭、爽やかなデビュー!
──吉行淳之介の評価
この新人の作品は、近来の収穫である。これまでわが国の若者の文学では、「20歳(とか、17歳)の周囲」というような作品がたびたび書かれてきたが、
そのようなものとして読んでみれば、出色である。乾いた軽快な感じの底に、内面に向ける眼があり、
主人公はそういう眼をすぐに外にむけてノンシャランな態度を取ってみせる。
そこのところを厭味にならずに伝えているのは、したたかな芸である。しかし、ただ芸だけではなく、そこには作者の芯のある人間性も加わってきているようにおもえる。
そこを私は評価する。
◎印南 敦史さんの読後感 こちら
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◎電話でリクエスト?若い人は「何のこと?」とお思いでしょうが、インターネットも携帯電話もなかった時代、ラジオが若者たちの情報伝達手段でした。
メールなどという便利なモノがなかった時代、オッチャンたちは(オバチャンたちも)、心に秘めた淡い思いを、『電リク』のメッセージに託したものです。
日本で最初の『電話リクエスト(通称・電リク)』は、ラジオ神戸(現ラジオ関西)が開局した昭和27年のクリスマス・イヴに、オン・エアーされました。
初代のディスクジョッキーは小山美智子さん。2005年発行の「天満人」第4号で、小山美智子さんに当時のお話を伺いました。
小山さんは、大正9年のお生まれで、ラジオ神戸の第一期アナウンサーでした。
日本で最初の『電話リクエスト』
小山美智子 ラジオ神戸は、開局の年(昭和27年)に、民放ではじめて『プロ野球中継』を放送しています。旺文社の『大学受験講座』もスタートさせました。
他に『クラシック登龍門』やラジオドラマの『少年ターザンは行く』など、人気番組が次々と誕生しました。
そして、クリスマス・イヴには、ラジオ神戸を代表する看板番組の『電話リクエスト』がはじまったんです。
『電話リクエスト』(通称・電リク)は、ラジオ神戸が日本で最初にはじめたのよ。
電話リクエストは、当時のアメリカで人気のあった番組でした。それをラジオ神戸でもやろうと提言なさったのは高橋太一郎とおっしゃる方でした。
高橋さんは犬を連れて役員室の中を歩くような、とてもユニークな方でしたが、アメリカ帰りだったんです。その高橋さんの提言に役員が賛同したわけね。
その後、末広光夫さんが加わって番組がはじまることになりました。末広さんはジャズ評論家の油井正一さんに師事をして、ジャズ、ポピュラーには詳しかったんです。
初代のディスクジョッキーは私がやることになりました。
電話リクエストの第一回放送は、昭和27年(1952)の12月24日。「クリスマス・テレホンリクエスト」のタイトルで、
深夜の午前1時から5時までの4時間放送することが決まりました。
アメリカで人気があるとは言っても、日本では始めての試みで、しかも深夜のの放送でしたから、番組がスタートしてもリクエストの電話がかかってくるかどうか、
とても心配でした。電話がなかった時のことを考えて、レコードを5、6枚用意して、オンエアーの瞬間を迎えました。
日本で最初の『電リク』の記念すべき第一曲目は、
ロイ・エルドリッチの『スターダスト』でした。
番組がはじまれば、心配どころやなかったですね。電話は鳴りっ放しで、リクエスト曲を整理するのに、局中がてんてこ舞いになりました。
結局、深夜の生放送であるにもかかわらず、リクエストは2000通を超えたんです。番組は大成功でした。
ラストナンバーに、レス・バクスター楽団の『恋人よさようなら』が流れて、日本初の『電話リクエスト』は無事に終了しました。
第1回目の放送で流れた1曲目の『スターダスト』と、ラストの『恋人よさようなら』は、結局、その後の『電リク』のオープニングとエンディングのテーマ曲になりました。
『恋人よさようなら』で番組が終り、すがすがしい気分で帰途についた時に、早朝のパン屋さんの店先に香っていたパンを焼く匂いが、今でも忘れられません。
クリスマス・イヴの放送が大成功したので、一週間後の大晦日の深夜に第2回の「テレホンリクエスト」をやることが決まりました。
年が明けると『電リク』は毎週土曜日の深夜番組としてレギュラー化することになりました。一躍、“電リクのラジオ神戸”と言われるほどの看板番組になっちゃったんです。
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【冒頭30分】浜崎洋介×與那覇潤「日本人にとって村上春樹とは何か」
「稼ぎ頭」次々出荷停止 放射線基準値 漁業にジワリ 関係者からは焦りといらだち 2012.4.15 21:42 MSN産経ニュース 食品中の放射性物質の新基準値施行から半月。数値の厳格化により出荷停止となる品目が相次ぐ中、その影響は海産物にも及んでいる。政府は12日の仙台湾のスズキに続いて、13日には茨城沖のシロメバルも出荷停止を指示した。海産物の出荷停止は昨年4月の福島県のコウナゴ(イカナゴの稚魚)以来1年ぶりで、漁業関係者からは焦りといらだちが聞こえてくる。 「スズキは仙台湾沖の定置網漁で、4月から夏にかけての稼ぎ頭。これがまったくダメとなると、漁業関係者の受けるダメージは大きい」。宮城県漁協の担当者は出荷停止をこう嘆く。 全文はこちら |
仙谷氏 大飯原発巡る判断に理解を 4月15日 19時12分 NHKニュース 民主党の仙谷政策調査会長代行は、徳島市での会合で挨拶し、野田政権が、関西電力大飯原子力発電所の安全性を最終的に確認し、運転再開の必要性があると判断したことについて、「脱原発依存が実現するまで、真っ暗な中で生活する訳にはいかない」と述べ、理解を求めました。 この中で、仙谷政策調査会長代行は「私や枝野経済産業大臣は、脱原発依存をどのような期間にどう実現するか、理念や理想は持っている。脱原発依存は、国民とよく議論し、専門家の意見を聞きながら、普遍性を持った立場から実行していく」と述べました。 そのうえで、仙谷氏は「脱原発依存が実現するまで、われわれが真っ暗な中で生活するわけにはいかない。理念や理想の社会はそんなに簡単にできるものではない」と述べ、野田政権が、大飯原子力発電所の安全性を最終的に確認し、運転再開の必要性があると判断したことについて、理解を求めました。 ☆少なくともこういう発言を報道するメディアがあるのはありがたい。枝野経産相の発言と行動を見ていると、何となくそうなんだろうなぁと思えるが実効を伴って欲しい。 |
2012年04月08日(日)
大メディア「合意のでっちあげ」に騙されるな 一部引用・・ 菅首相が打ち出した消費増税路線が、参院選の大敗北で国民に否定されたにもかかわらず、野田首相は「政治生命を賭ける」という思いつめようで、勝栄二郎財務省のみごとな手綱さばきに走らされている。 在任中の短期業績だけにしか興味のない経済界のトップ、そこから資金を得ているシンクタンクのテレビ御用達研究員らが大応援団を編成、財務省記者クラブでのレクによって洗脳されたマスコミが盲信してつくり上げようとしているのが「社会保障と税の一体改革」という共同幻想である。 国の借金と家計の借金を、同じ次元で考えるよう読者、視聴者を誘導し危機感をあおるというのは、ノーム・チョムスキーの言う「合意のでっちあげ」である。そもそも、家計には、紙幣を印刷できる中央銀行は存在しない。 そうやって財務省の機嫌をとり、消費増税の例外ワクに新聞を入れてもらおうなどと姑息なことを考え、記者クラブ利権につかりながら、年収2000万円もの記者をかかえる大新聞が、公務員の給料を云々するのもいささか偽善めいているといえないか。 それよりも、小沢一郎が主張しているように、税金の恩恵に人一倍浴してきた団体や個人の既得権構造を解体し、予算をごっそり組み替えていくのが肝心だろう。 「社会の木鐸」であろうとするなら、まず新聞自らが、再販制という価格カルテルや電波利権を破壊するべきではないか。 もっとも「社会の木鐸」なる言葉も、メディアやそれに毒された専門家の欺瞞性を多くの人が知ってしまった今となっては、もはや死語であるに違いない。 全文はこちら |
震災1年、沿岸部の産後うつ深刻 東北大病院・菅原教授調査 2012年04月15日日曜日 河北新報 東日本大震災前後に宮城県沿岸部で出産した母親のうち、2割以上に産後うつの疑いがあることが、東北大病院産科長の菅原準一教授の調査で分かった。震災から1年余りが経過した今も、大きなストレスや不安を抱えながら子育てする母親が多いとみられる。菅原教授は「復興を担う若い世代が危険な状態にある」と指摘している。 調査は宮城県内の津波被害を受けた沿岸市町村に住み、昨年2~10月に出産した女性に調査票を配布し、683人から3月までに回答を得た。 調査結果によると、「津波から逃げた」「家が被害を受けた」など、何らかの津波被害に遭った人が全体の28%に上った。指定避難場所や実家などに避難した女性は68%を占めた。 産後うつの疑いを30点満点で得点化する「エジンバラ産後うつ病質問票(EPDS)」の回答では、うつの疑いがある9点以上は21.5%に達し、通常の調査の10~15パーセント程度を大きく上回った。 うつは通常、産後2~3カ月が発症のピークといわれ、今回の対象者は産後半年ほどが経過したにもかかわらず、深刻な状態で推移している。 9点以上の女性と被災体験との相関関係を分析したところ、津波被災があった人は28.7%で、無かった人の18.1%を10ポイント余り上回った。 東北大は今月、先端医療による被災地支援などを狙う東北メディカル・メガバンク機構を開設した。機構の地域医療支援部門を担当する菅原教授は「母親たちが抱える悩みに耳を傾ける必要がある。うつの疑いのある妊産婦に臨床心理士や保健師と面談してもらい、改善したい」と話している。 研究成果は15日に神戸市で開かれる日本産科婦人科学会で発表される。 |
維新の会 衆院選で民主と対決方針 4月15日 5時3分 NHKニュース 大阪市の橋下市長が率いる大阪維新の会は、14日開いた幹部会合で、関西電力大飯原子力発電所について、運転再開の必要性があると判断した野田政権とは相いれないとして、民主党との対決姿勢を鮮明にして次の衆議院選挙に臨む方針を確認しました。 野田政権が、関西電力大飯原子力発電所の安全性を最終的に確認して運転再開の必要性があると判断したことについて、13日、大阪市の橋下市長は記者団に対し、「こんな再稼働を許してはいけない。ストップをかけるなら、国民が民主党政権を倒すしかない。次の衆議院選挙で民主党政権に代わってもらう」と述べました。 代表を務める橋下市長の発言を受けて、大阪維新の会は、14日、幹事長の松井大阪府知事や政務調査会長の浅田大阪府議会議長ら幹部が集まり、今後の方針を協議しました。 この中で、出席者からは「原発の運転再開に踏み切ろうとする野田政権の対応は拙速で、大きな問題がある」として、橋下市長の発言を支持する意見が相次ぎました。 そして、原発の運転再開を巡る野田政権の対応は大阪維新の会の考え方と相いれず、この問題を衆議院選挙の主要な争点にすべきだとして、民主党との対決姿勢を鮮明にして次の衆議院選挙に臨む方針を確認しました。 ☆橋下徹の面魂を見るだけで安倍、福田、麻生のお坊ちゃま三政治家と違うなぁと感じる。政治家は手練手管、権謀術数を次々繰り出して、自分が描く政策や国家を実現していい。 しかし、この人は中央官僚団から見ると体制改革を図る実に危険な人物である。 これからも大本営報道部本社東京大手メディアは、官僚団の意を受けて、橋下市長に警戒のバイアスをかけてその線で報道していくのだろう。それがいつまで持つことやら?? |
夢砕く再編に憤り 帰還困難区域の佐山さん (2012年4月15日 福島民友ニュース) 16日に実施される南相馬市の避難区域再編で、同市小高区金谷の会社員佐山梅雄さん(54)方は、5年間帰還が認められない「帰還困難区域」となる。母ヒサさん(77)と共に同市鹿島区の仮設住宅で、自宅に帰る日を夢見てきた佐山さん。 再び長期間の避難生活を強いられることになるが、政府からは帰還の時期や、賠償を含めた生活の維持、再建に向けた支援策も示されず、5年後の帰還は見通せない。 佐山さんは、生まれ育った故郷への思いを胸にしまい込み、不安を隠せないまま16日の区域再編を迎える。 「少しずつ家を片付けながら、大好きな草花を育てるつもりでした」。佐山さんにとって「帰宅に向けた吉兆」のはずだった避難区域再編は、自宅に5年以上戻れないと通告する悲報となった。 「(帰還困難区域への指定は)想像もできなかった。除染もせずに『線量が高いから戻れません』では納得できない」。あまりにつらい現実に、佐山さんは政府、東京電力への憤りを隠せない。 |
被災5社が結集し新会社 山田の水産加工業 (2012/04/15) 岩手日報 各社の顧客管理を一本化して同町内の直売所やネット上で5事業者の商品を販売するほか、新商品開発にも取り組む。震災前は競合していた町内企業が、被災を機に結集し、山田の魅力を県内外に発信する。 社名の五篤丸には、「火鉢の五徳のように山田を支えていくという思いと5人の新たな船出」との意味を込めた。 発起人は川石社長(48)と、木村商店の木村トシ社長(67)、佐野魚店の佐野隆行さん(33)、尾半(びはん)加工センターの間瀬慶蔵さん(34)、おみなやの升屋聡代表(37)で、店舗が津波で被災するなどした町内事業者だ。 新会社の主な事業は、木村商店のいか徳利や川石水産のホタテグラタンなど各社商品のネット販売や直売所の販売、全国でのイベント販売で、本年度の売り上げ目標は6千万円。 間瀬さんは「各社それぞれに良いところがある。つながりを大事にしてがんばりたい」と意気込み、川石社長は「1人よりも5人の知恵だ。自分たちの頑張りが、山田のPRにもつながる」と力を込める。 2012年4月16日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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第4章 「国谷裕子」さん から一部引用
いまと対峙するプロフェッショナル。まつろわぬ、その矜持に訊く。戦争、歴史、マイノリティ、芸能、文学、ジャーナリズム…最前線で闘う9人の肉声。
第1章 李琴峰―負の歴史を記録するということ
第2章 中島岳志―「永遠の微調整」としての保守をよみがえらせる
第3章 松尾貴史―批評性のある面白おかしい芸能へ
第4章 国谷裕子―権力に対峙するジャーナリズム
第5章 指宿昭一―ウィシュマさんを殺害した国家の欺瞞
第6章 奈倉有里―世界には決定的に文学が不足している
第7章 斎藤幸平―資本主義でない世界を徹底して考える
第8章 栗原俊雄―戦後補償問題を報道=運動する
第9章 金英丸―日韓関係において真の謝罪とは何か
横田 喬 (作家)
大震災1年:3歳児「ほうしゃのう、こわい」 外遊び数日おき--福島 毎日新聞 2012年3月5日 東京朝刊 被ばくの不安から、多数の親子が県外に避難している福島県。避難した親子も、残る道を選んだ親子も苦悩の日々が続いている。【井上英介】 「じいじ、ほうしゃのうこわいからかえろうよ」。放射線量が高い福島県伊達市。原発事故から間もないころ、初孫の菅野優花ちゃん(3)を散歩に連れ出した祖父の均さん(61)はこう言われた。 ままごとセットや人形の家など優花ちゃんの玩具は、茶の間の窓際に置かれている。家の中で一番線量が低いからだ。「いつも一人でおとなしく遊んでいます」。祖母の智子さん(53)が言う。母の美雪さん(27)は近くの薬局に勤務。均さんは昨年春に高校教員を退職し、農業に専念する。 智子さんは今も悔やんでいる。「家に一人で残すわけにもいかなかった」。物資不足が心配で、原発事故からしばらく、買い出しに優花ちゃんを連れ歩いた。放射性ヨウ素が一帯に降り注いでいたことを後で知った。 周囲の子を持つ世帯は次々と避難し、この春、優花ちゃんと一緒に近くの幼稚園に通い始める子は13人から2人に減った。「避難すれば仕事を失う」。美雪さんは何カ月も迷った末に残ることを決めた。外遊びは数日おきに玄関先で20分ほど。「原発事故からしばらく、美雪の顔つきは変わっていた」と智子さんは振り返る。 均さんは「放射能という言葉を優花はすぐに覚えた」。外に出たがる孫のためにアニメを一日中流す衛星放送に加入した。智子さんはやむを得ず外へ連れ出す時、背におぶう。地面に下ろすと土や草花に触ろうとする。そのたびに「だめよ」と小さな手をつかむ。 事故後、炊飯器で2種類のコメを炊くようになった。以前は均さんが収穫するコメをみんなで食べていた。昨年秋の新米から放射性セシウムは検出されなかったが、美雪さんは原発からより離れた喜多方産のコメを娘に与えている。地場の果物や野菜も厳禁。優花ちゃんは近所に自生する山菜のタラの芽の天ぷらが大好物だ。「たべたいよお」。孫にせがまれるたびに、智子さんは切なくなる。 ◇幼い子にがん保険も 「子育て仲間が何人も去った」と美雪さんは言う。福島市北沢又の吉田裕子さん(29)もその一人。同じ日、同じ病院で出産したのがきっかけで親しくなった。吉田さんが昨年9月、3歳と1歳の娘を連れ山形市へ避難する際、我が子が放射線を浴びる不安を互いに語り合った。 吉田さんは仕事のある夫を福島に残し、見知らぬ土地で子育てをする。アパートの家賃は2年間山形市が負担するが、生活費は自己負担。3年前に建てた家のローンもあり楽ではない。「2年後、マイホームに戻っていいものか。放射線の影響は素人には判断できない。将来を思うと憂鬱です」。周囲では親が幼い子にがん保険を掛ける動きもある。 美雪さんは「今の生活なら娘は大丈夫」と腹をくくっている。それでも我が子に将来、何かあったら……。心の底からくつろげる瞬間は永遠に訪れないかもしれない。 「やっぱり外で遊びたいよね」。そう話しかけると、優花ちゃんは笑顔で言った。「ううん。ゆうかはおもちゃがたくさんあるから、うちであそぶよ」 ◇悩み明かせず孤立 支援の輪、拡大が急務 被ばくへの不安を抱えながら暮らす親子への支援の輪が広がっているが、質も量も十分ではない。 「育児だけでも大変なのに、見えない放射線のため衣食住の一つ一つを全て考えなければならなくなった。疲れ切った母親が多い」と、日本助産師会福島県支部の石田登喜子副支部長は言う。原発事故直後、助産師仲間に声を掛け、母子の訪問活動を始めた。線量の低い同県会津若松市の民家を借り、出産間もない母子の一時避難所も開設した。 「親は放射線のリスクに向き合い、地元に残る残らないも含めて自ら生き方を決めなければならない。生き方を指示はできないが、悩みを受け止め、納得できる結論を出せるよう寄り添いたい」。だが、助産師だけではとても追いつかない。 石田さんは「出産直後は気を張っているが、数カ月して疲れがどっとくる。訪問先にうつうつとした親が多く、虐待や育児放棄が今後増えかねない」と懸念している。 福島の子供を一時的に県外へ出す「保養」の取り組みも全国に広がる。その一つ、東京都練馬区の市民グループ「福島こども保養プロジェクト@練馬」は福島県内の親子8組を昨夏の1週間、埼玉・秩父でのキャンプに招待した。「放射性物質を少しでも体外へ出してほしい」と事務局の竹内尚代(ひさよ)さん(67)は狙いを語る。福島県外に出ることで累積被ばく線量の増加も抑えられる。 ただ、親の一人の言葉が今も気になっている。「内緒で来た。『保養に行く』と周囲には言えない」。竹内さんは「放射線の不安を話せない空気が福島に広がっているのでは。参加者は苦悩を語り合い関係を深めた。親子を孤立から救い出すためにも保養の取り組みは必要だ」と話す。 |
母親らが食品の放射性物質測定 神奈川に「市民測定所」
2012年3月5日 12時03分 東京新聞 食品に含まれる放射性物質の量を市民の手で測定し、安全を確かめようと、幼い子どもを持つ神奈川県内の母親らが5日、「横浜市民測定所」を横浜市磯子区と相模原市南区の2カ所にオープンした。 市民団体「横浜の子どもたちを放射能から守る会」の有志ら約30人がボランティアで運営。カンパで購入した約130万円の測定器を1台ずつ用意し、ヨウ素やセシウムを測定する。 測定所のホームページ上で予約が必要。検体は郵送のみで受け付ける。代金は1検体3千~5千円で、検査後約10日で結果のデータを郵送する。 年会費1万円を払って会員になると、すべての検査結果が閲覧できる。(共同) |
20120305 震災1年 原発4.5km大混乱の中、闘った病院 モーニングバードより。まもなく震災から1年たつ被災地の素顔を紹介する週の1日目。 福島第一原発からすぐの大熊町に双葉病院がある。こちらは震災直後に患者を置き去りにしてみんなが逃げたと報道をされたが、その真相は。この病院を通じて事故直後にどんな混乱があったのかを伝える。また原発20km圏、警戒区域との境界にある広野町では避難準備区域が解除されて半年が過ぎようとしているが、町に戻った人は1割にも満たない。 20120305 震災1年 原発4.5km大混乱の中、闘っ... 投稿者 PMG5 |
政府有識者会議の議事録なし 秘密保全法案を提言 2012/03/05 14:09 【共同通信】 藤村修官房長官は5日午前の記者会見で、外交や防衛に関する重要情報を漏らした公務員らに対する厳罰化を提言した政府の「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」の議事録が作成されていないことを明らかにした。 提言は、政府が今国会提出を目指す秘密保全法案のたたき台となっており、法案の策定経緯が不透明との批判が広がる可能性がある。 公文書管理法は法案の制定過程を検証できるよう、重要会議などの「決定や了解、経緯」の文書化を政府機関に求めている。藤村氏は「公開の議事要旨と配布資料で会議の経緯は十分把握できる。必ずしも法に抵触しない」と述べた。 ☆公文書管理法が出来ても、官僚が密室でことを決める従来のやり方を続けるために、運用上で都合よく料理している。今回のことが黙認されて実績になることを官僚群は狙っている。 民主党の藤村官房長官さん、あなたはこの国を変えよういう意思はどうしたのですか。こんなことを言っているようでは官僚の代弁者か太鼓持ちにすぎないではないですか。 |
脱原発デモ、「ジモト化」のきざし?――全国各地に分散
一部引用・・ 脱原発を求める人々のデモが全国各地に拡散している。大都市で行われる数万人規模の「巨大デモ」こそ回数は減ったが、地域レベルの草の根デモは、今や毎週末に必ずどこかで行われている状況だ。 ■原動力は「有象無象」と「ジモト」 2月19日の「脱原発杉並デモ」=高円寺付近で 2月19日に杉並区内で行われた脱原発デモには5~6千人が参加。人数こそ昨年4月10日の同高円寺での「原発やめろデモ」の約3分の1にとどまったものの、集会やデモの雰囲気は脱原発気運の退潮を全く感じさせなかった。 中略 東電原発事故を通じて「原発は地域と相容れない」ことが明らかとなった。モラルハザードで安全軽視に陥った原発がひとたび事故を起こせば、周辺住民は避難を強いられ、コミュニティは崩壊する。城南信用金庫が脱原発の旗幟を鮮明にした理由も、まさにそこにある。 そして「原発やめろデモ」などの一連の街頭デモは、言いたいことがあれば空気を読まずに声に出していいし、またそうするべきだということを社会に示した。そのことに気付いた人々が、各自のジモトで声を上げている。今や脱原発は、人々の生活を左右する切実な問題なのだ。(オルタナ編集委員=斉藤円華)2012年3月2日 全文はこちら |
人はあまりに辛く無惨な体験をすると、脳味噌からその実体験を外そうとする・・らしい。
無意識にそうすることで何とか平時の社会の規範に従って暮らすことが出来るのかも知れない。
半藤さんも女性編集者に再三再四請われて、ようやくこの本を書き下ろす筆を執ったようだ。
彼もまた神戸一中時代の小松左京と同じように、いらんことを仰山言うて当時の配属将校や日本は勝つと信じ込んでいた教師や先輩に
何十回 何百回と数えきれないほどびんたを張られ ボコボコに殴られている。
半藤さんがおぼれ死にかけた平井橋は私のウォーキングコースの一つの中にある。この橋のかかる中川とその周辺を含めて
1945年3月10日夜半の米軍のB29爆撃隊による焼夷弾絨毯攻撃で東京の下町の民間人が2時間ほどで10万人が焼き殺された。
(B29のBは ボーイング社のB)
半藤さんが生き延びたのはほんの紙一重の巡り合わせだった。生き延びたわずかな人の中に半藤一利さんがいてくれたおかげで
いまこの本を読むことが出来る。
東京大空襲 資料
2022年12月8日の本ブログに掲載
→しばらく遠ざかっていた水辺と水鳥を見たくて、歯医者さんの3カ月ごとの口の中のクリーニングが終わってから 久しぶりに旧中川の定点観測ポイントに行きました。
この旧中川の水中で 78年前の昭和20年3月10日の夜半から11日未明にかけてのアメリカ空軍の焼夷弾による民間人無差別殺戮のため約3000人弱が焼け死にか溺死した。
この時東京の墨田区江東区江戸川区など下町の民間日本人はわずか二時間で約10万人が焼き殺された。
半藤一利さんが平井橋から旧中川に飛び込んで浮かび上がったとき 偶然小舟がすぐ横にいて救い上げてくれたが その船がいなければ、
「日本の一番長い日」などの半藤さんの貴重な著作物の数々はこの世に現れなかった。
ロイター通信:[ロンドン 八月23日 ロイター] - 2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、数万人の死者、数百万人の避難民を出し、
世界中に経済危機の種をまいた。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は8月22日、侵攻開始から民間人5587人が死亡し、7890人が負傷したとの推計を発表した。
実際の犠牲者数はさらに多いとされている。 OHCHRによると、死傷者の多くは砲撃やミサイル、空爆などの爆発によって犠牲になったという。引用元。
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被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されている。 爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大したが、これは非戦闘員にも恐怖を与え、国民の戦意を喪失させるのが目的だった。 特に東京は終戦まで約130回の爆撃を受けた。 3月10日の未明に始まった東京大空襲は約300機のB29が深川地区など下町を中心に約2000トンの焼夷弾を投下。 2時間半の爆撃は折からの強風を受けて大火災を引き起こし、およそ40平方キロの市街地が焼失した。 焼失家屋は27万戸、被災者は100万人以上で、死者数はこの1日だけでおよそ10万人と推定されている。東京は終戦までの爆撃で、市街地のほぼ半分が焼失した。」 右盲爆により都内各所より火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分其の他は8時頃迄に鎮火せり。現在迄に判明せる戦巣次の如し。撃墜15機、損害を与へたるもの約50機。 帝都に侵入焼夷弾に依る市街地盲爆を行ひ、その他各10機内外宛を以て干葉、福島、宮城、岩手の各県にも来襲した。 これに依り、東京都内各所には相当の火災を生じ、再び宮城内の宮内省主馬寮附近にも焼夷弾が落下、午前2時35分までに消火したが 都内各町の火災も午前8時頃までには軍、官、民一致の敢闘に依り全く鎮火せしめた。その他各県の被害は盛岡、平附近に若干の損害があつたのみであつた。以下略 戦前から戦後もそして今も、普通の「くにたみ」に対しては、本当のことを隠してウソをついてもいいと考えるエライさん方が、お国の上に居続けるわが日本国。 これは江戸時代から我々列島人の中に住み着く【宿痾】か【痼疾】か、いや島国内で権力を握った階層の知恵なのかも。 虚言を国会の場で吐いた人、吐かせた人。まさか政権交代が列島で起こるとは想像してなかっただけのことですよね。 実はそのこと自体が「アメリカの公文書はでっち上げだ、ウソだ」と言っていることになり、アメリカの苛立ちをかっていたことに気づかなかったことが 前の政権与党と外務省には惜しまれる? |