神戸の造船所を出たあと、夜、友人たちとの飲み会があるので大阪へ出ました。神戸から大阪まで新快速に乗れば25分ほどですから、電車に乗っている時間は、東京で言えば神田から新宿へ移動するくらいのものです。飲み会までに時間があったので、通算16年間勤務地だった淀屋橋で散髪をして、久しぶりに中之島(クリック)の「大阪市立東洋陶器美術館」(クリック)に入りました。
企画展は朝鮮の「梅瓶」をやっていました。その展示室に入ると、韓国のご婦人が3人熱心に一つ一つを鑑賞していました。韓国の工芸品を韓国語のBGMを聞きながら見るなんて偶然ながら楽しいなと思いました。
この美術館はもとの「安宅コレクション」を収蔵品の核としている日本でも有数の東洋陶器専門美術館ですが、市立のお陰でワンコイン500円で入場出来るのもありがたいことです。4,5百年前の制作者たちの作品から放射されるエネルギーを受けて、館を出るときは、美術館を出るときはいつものことながら今回もぐったり疲れました。
外に出ると水上バスが橋の下を通りました。


美術館の前は中央公会堂で、

その隣は府立中之島図書館ですがこの図書館の画像は、行きに淀屋橋の上から撮ったショットです。
企画展は朝鮮の「梅瓶」をやっていました。その展示室に入ると、韓国のご婦人が3人熱心に一つ一つを鑑賞していました。韓国の工芸品を韓国語のBGMを聞きながら見るなんて偶然ながら楽しいなと思いました。
この美術館はもとの「安宅コレクション」を収蔵品の核としている日本でも有数の東洋陶器専門美術館ですが、市立のお陰でワンコイン500円で入場出来るのもありがたいことです。4,5百年前の制作者たちの作品から放射されるエネルギーを受けて、館を出るときは、美術館を出るときはいつものことながら今回もぐったり疲れました。
外に出ると水上バスが橋の下を通りました。


美術館の前は中央公会堂で、

その隣は府立中之島図書館ですがこの図書館の画像は、行きに淀屋橋の上から撮ったショットです。

上は割れた瞬間のシャンパン。下は船首に取り付けられた支綱がカットされる寸前のシャンパンボトル。

割れた後の状態。

1月26日。神戸の川崎造船で、総トン数:約31,000トン、載貨重量:約55,000トン、全長:約189.9m、船級:日本海事協会の「ばら積み運搬船」が進水しました。船主は日本の船会社ですが、デンマークの会社が傭船社らしく、駐日デンマーク大使夫人が支綱をカットしました。
進水式の見学はこれで4回目になりますがいつも心が躍ります。この日は晴天で穏やかな日和のなか、人間が作った大きな鉄鋼構造物が静かに滑り出し、海に浮かぶのを見てあらためて感激しました。

特に今回はその昔、ドックサイトの造船用クレーンを納入した会社の営業担当だったH・Tさんも同行し、二人で長く苦しかった造船不況の時代を話したりして、お互い感無量でした。
今回は4度目の正直で、ナイフで支綱がカットされシャンパンが割れる瞬間を、撮影することが出来たのも嬉しいことでした。
見学にあたってまたまたお世話になったHalimaoさん、有り難うございました。
注)ばら積運搬船とは穀物や石炭、鉄鉱石など、荷姿がばらばらで一定していない貨物を積む船のことを言います。
2月3日追記
トラックバックの欄の「進水式に行ってきました」をクリックしてください。
式台からこの進水式を見学した方の多数の画像と船が進水していく
動画を見る事が出来ます。

割れた後の状態。

1月26日。神戸の川崎造船で、総トン数:約31,000トン、載貨重量:約55,000トン、全長:約189.9m、船級:日本海事協会の「ばら積み運搬船」が進水しました。船主は日本の船会社ですが、デンマークの会社が傭船社らしく、駐日デンマーク大使夫人が支綱をカットしました。
進水式の見学はこれで4回目になりますがいつも心が躍ります。この日は晴天で穏やかな日和のなか、人間が作った大きな鉄鋼構造物が静かに滑り出し、海に浮かぶのを見てあらためて感激しました。

特に今回はその昔、ドックサイトの造船用クレーンを納入した会社の営業担当だったH・Tさんも同行し、二人で長く苦しかった造船不況の時代を話したりして、お互い感無量でした。
今回は4度目の正直で、ナイフで支綱がカットされシャンパンが割れる瞬間を、撮影することが出来たのも嬉しいことでした。
見学にあたってまたまたお世話になったHalimaoさん、有り難うございました。
注)ばら積運搬船とは穀物や石炭、鉄鉱石など、荷姿がばらばらで一定していない貨物を積む船のことを言います。
2月3日追記
トラックバックの欄の「進水式に行ってきました」をクリックしてください。
式台からこの進水式を見学した方の多数の画像と船が進水していく
動画を見る事が出来ます。
画家のムムリクさんが「ムムリクのART日記」を12月24日から書かれています。
ムムリクさんのHP(クリック)から入ってください。
こんな素晴らしい絵をぞくぞくWEB上で見てもいいのかなあと恐ろしくもあり、また嬉しくなります。
長らくお世話になった大切な先輩が急に亡くなられ、千葉県南柏の告別式に参列しました。
式場で久しぶりにお会いした旧知の方々とも別れ、亡くなられた興津さんとのほぼ40年近い年月を思い返しながら品川駅経由羽田空港に向かいました。
朝の東京への交通手段は多少遅れても欠航はない新幹線にし、夕方の帰神は羽田・神戸空港間の普通チケット1万円に惹かれてスカイマークを選択しました。
京浜急行のホームに分単位で入構する電車を見て、おもわず掲示板を見上げ、ラッシュの緊密なダイヤ構成に驚きました。
いったんことがあれば平常ダイヤに戻すのは神技でないと出来ないのでは?
JR側の品川駅コンコースでは商売上手のJR東海が物産展をやってました。
JR各社が固定資産税を優遇してもらい、本来は国民共有の構内でいろんな商売するのを見るのは民業を圧迫していて愉快なものではありません。
新年に神戸市灘区にお住まいのK・O先輩から頂いたメールに嬉しい画像が添付されていました。
「ところで、昨秋、餘部鉄橋に行ってきました。
今年、コンクリの橋になるとか新聞で知り、急に行きたくなりました。
この写真の光景は、もう見納めです」とのことです。
O先輩、貴重な画像を有り難うございました。素晴らしいアングルで撮影されましたね。
学生時代にこの鉄橋の上を走る列車に乗ったような記憶があるのですが往時茫々ではあります。

参考;兵庫県香住町(現、香美町)から兵庫県浜坂町(現、新温泉町)付近の日本海沿いは厳しい山岳地形であり、当初より線路の敷設については必然的に山間部を通す必要があった。
しかし、余部集落付近については、特に地形の特殊性から、集落を見下ろす形で京都方面、鳥取方面より伸びてきた線路を、集落を跨ぐ形で繋がねばならず、当時の鉄道院技師、古川晴一により、アメリカ人技師の意見を取り入れてトレッスル橋と呼ばれる方式にて建設が始まった。橋脚の鋼材は、アメリカンブリッジ社のペンコイド工場より九州の門司港経由にて余部沖に運ばれ、1910年(明治43年)8月に陸揚げされた。完成までには33万円を超える巨額と、延べ25万人を超える人員を投入し、また大変危険な工事であったため、作業員には2万円もの保険が掛けられていた。
この橋の建設は山陰本線建設において西隣の桃観トンネル(桃観峠大隧道)に次ぐ難工事であり、この橋と桃観トンネルの完成により京都駅から出雲今市駅(現・出雲市駅)までが全通となった。完成より90年を超えた現在でも、トレッスル橋としては国内最大であり、初期の鉄道建築としても、高い存在意義を有している。
1911年(明治44年)、「鉄道唱歌」に倣って作成された「山陰鉄道唱歌」(作詞:岩田勝市、作曲:田村虎蔵)では、「山より山にかけ渡し み空の虹か桟(かけはし)か 百有余尺の中空に 雲をつらぬく鉄の橋」と歌われた。
1927年3月7日の北丹後地震では橋桁が落下し、山陰本線が一時不通となっている。
この記事はこちらからの引用です。詳細は引用先でお読みください。
「ところで、昨秋、餘部鉄橋に行ってきました。
今年、コンクリの橋になるとか新聞で知り、急に行きたくなりました。
この写真の光景は、もう見納めです」とのことです。
O先輩、貴重な画像を有り難うございました。素晴らしいアングルで撮影されましたね。
学生時代にこの鉄橋の上を走る列車に乗ったような記憶があるのですが往時茫々ではあります。

参考;兵庫県香住町(現、香美町)から兵庫県浜坂町(現、新温泉町)付近の日本海沿いは厳しい山岳地形であり、当初より線路の敷設については必然的に山間部を通す必要があった。
しかし、余部集落付近については、特に地形の特殊性から、集落を見下ろす形で京都方面、鳥取方面より伸びてきた線路を、集落を跨ぐ形で繋がねばならず、当時の鉄道院技師、古川晴一により、アメリカ人技師の意見を取り入れてトレッスル橋と呼ばれる方式にて建設が始まった。橋脚の鋼材は、アメリカンブリッジ社のペンコイド工場より九州の門司港経由にて余部沖に運ばれ、1910年(明治43年)8月に陸揚げされた。完成までには33万円を超える巨額と、延べ25万人を超える人員を投入し、また大変危険な工事であったため、作業員には2万円もの保険が掛けられていた。
この橋の建設は山陰本線建設において西隣の桃観トンネル(桃観峠大隧道)に次ぐ難工事であり、この橋と桃観トンネルの完成により京都駅から出雲今市駅(現・出雲市駅)までが全通となった。完成より90年を超えた現在でも、トレッスル橋としては国内最大であり、初期の鉄道建築としても、高い存在意義を有している。
1911年(明治44年)、「鉄道唱歌」に倣って作成された「山陰鉄道唱歌」(作詞:岩田勝市、作曲:田村虎蔵)では、「山より山にかけ渡し み空の虹か桟(かけはし)か 百有余尺の中空に 雲をつらぬく鉄の橋」と歌われた。
1927年3月7日の北丹後地震では橋桁が落下し、山陰本線が一時不通となっている。
この記事はこちらからの引用です。詳細は引用先でお読みください。