ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・15

2010-01-31 22:49:06 | Poem
おお泉の口よ、与える者よ、
尽きずに1つのことば、純粋なことばを語る口よ、――
流れる水の容貌によそおわれた
大理石の仮面よ。そして背後には

はるかからくる古水道の由来が。はるかに
墓地のかたえを流れ、アペニンの勾配から
水道はおまえに言葉を運んでくる。水は
やがておまえの顎(おとがい)の黒ずんだ老年をつたい、

前の水盤に落ちてゆく。
これは眠りながら地に当てられた耳。
おまえが物を言いかける、大理石の耳。

大地の耳の一つ。こうして大地は
おのれ自身とのみ語りあう。ふと水甕が漬けられるとき
大地は会話を遮られたかと思う。

 (生野幸吉訳)

 「はるかからくる古水道」はアクヴェドクト。ローマ時代に作られたもの。今なおイタリア、スペイン、フランスなどに残っている。

 「水甕が漬けられる」は「浸けられる」ではないか?



おお 泉の口、与えるもの、口よ、
尽きせずひとつのこと 純粋なことを語っている――
おまえは、流れる水の顔がまとう
大理石の仮面。そして背後には古水道の管の

来し方はるかなつらなり。その水道は遠くより
墓地また墓地のかたわらを通ってアペニンの斜面から、
おまえのおまえが言うための言葉を運んでくる。
それはおまえの顎(あご)の黒ずんだ年暦を伝って

前方の水盤のなかへ注ぎこむ。
これは眠りながら差し出されている耳、
その大理石の耳のなかへ おまえはつねに語りかける。

大地のひとつの耳。大地はそうやって
自分自身とのみ語る。甕が水のなかに入れられると、
大地には話を妨げられたようにおもわれる。

 (田口義弘訳)


 前記の「第二部・14」では「花」の「無音の運動」に触れたのち、この「15」ではふたたび「聴覚」の世界に引き入れられます。

 遠い過去のような場所である、さまざまな墓地のほとりを流れ、アペニン山脈(イタリア)の斜面を下ってくる水は、町々の古水道のはるかな連なりを通って、この古い泉に注がれる。その連続する水音を聴いているのは「大地の耳」としての「泉の水盤」だと。

 大理石の仮面の口から、耳の形をした水盤に絶え間なく注ぎこまれる水ということを思い描くと、一枚の古い写真あるいは絵画を観る思いがします。これはローマあたりにある泉ではないか?

 第1節から第3節まで「おまえ」と呼びかけられているのは「泉の口」であり、第4節には「おまえ」と呼びかけられているものはいないが、「大地」の話を妨げた人に対して語っているのではないか?しかしこの妨げは、すぐに回復してしまうもので重要な存在ではないだろう。

 「14」に続き「15」でも「眠り」がうたわれています。ようやくリルケがこのソネットにおいて繰り返し描き出そうとした世界が見えてきます。「オルフォイス的空間・・・・・・と言えばいいのだろうか?」のなかでは、聴くものは同時に歌うものであり、眠って(あるいは死んで・・・)いるものも同時に聴いているものとなるのだろう。そのようにして「生」と「死」はいつでも統一された世界に在るのだと?

オルフォイスへのソネット第二部・14

2010-01-29 23:01:15 | Poem
見よ 花たちを、この、地上に誠実なものたちを。
私たちは運命の縁から かれらに運命を貸しあたえる――
けれども 誰が知ろう!かれらがその凋衰を悔やむとき、
私たちこそ かれらの悔いとなるべきなのだ。

すべてのものは浮かび漂おうとする。それだのに私たちは重石のように徘徊し、
すべてのもにのしかかる 自らの重みに陶然として。
おお 私たちはなんと物たちを衰えさせる教師なのだろう、
物たちには永遠の幼時が恵まれているのに。

もしもだれかが物たちを親密な眠りのなかへともない
かれらとともに深く眠るなら――おお どんなに軽やかに、
別の仕方で別の日へと目覚めることだろう、共通の深みから。

それとも眠ったままでいられるかもしれぬ。すると物たちは花咲き、
かれらへと転向してきた者を讃えるだろう、いまやかれらとひとしくなり、
草地の風のなかのすべての 静かなきょうだいに近しくなった者を。

 (田口義弘訳)


花たちを見よ、この現世に誠実に仕えるものを。
われらは運命のふちから、花に運命を藉(か)す、――
だが、だれが知ろう!花がその凋落を悔いるとき、
かれらの悔いは、われわれの負いめとなる。

物はみな漂うのを好む。そこにわれらは重石のようにうろつき回り、
すべての上にのしかかる、おのれの重さに恍惚として。
おおわれわれは、物を食いつくすなんという教師だろう、
物たちには永遠の幼児期が恵まれているというのに。

かれらを恋おしい眠りへ伴い、抱きしめたまま
深く眠れば、――次の日、共寝の深みから、
人はどんなに軽やかに、別の姿で目ざめることか。

それとも人は眠ったままでいるかもしれぬ。そして花たちは咲き、
今はかれらにひとしくなったこの改心者を讃えるだろう、
牧場の風にそよぐ、すべての静かな姉妹らに等しい者を。

 (生野幸吉訳)


幼年時代を持つということは、
一つの生を生きる前に、
無数の生を生きるということである。


 ・・・・・・という、リルケの言葉を最初に思い出しました。リルケの花たち物たちへの思いは深く、独自の空間世界をつくっているようです。「第8の悲歌」ともおおきく響きあっているようです。


われわれはかつて一度も 一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことはない。



 さらに「時祷書」のなかにも、このソネットによく似た詩があります。


私はいつも警告し、防ごうとする――「近づいてはいけない」と。
物らの歌に聞きいるのが、私はたいへん好きなのだ。
きみたちは物らに触れる――かれらはこわばって沈黙する。
きみたちは物らをみな殺してしまうのだ。



 そうして花々や物たちは純粋な空間に無限に上昇してゆくと・・・。この「上昇=aufgehen」は「咲く」という意味と「消える」という意味もあるらしいのです。このような空間を人間は一日たりとも手にしたことがない。
 それだけではなく、人間は「花々」や「地上に誠実な物たち」の運命を手折り、触れることによって、そのいのちを殺してしまうのだ。それらには「永遠の幼時」が与えられているはずなのに。人間は重い罪を犯し続けている。

 「重石」ではなく、花々や物たちと共に「ただようような関連」のなかで、眠ることができるなら・・・そして豊かな深い眠りをくぐりぬけて、別の朝に目覚めることは可能だろうか?とリルケは問うのだ。
 「眠り」は「死」と兄弟であり、このソネットの終わりには「眠りとしての死」までが語られているのだった。


  「明けきらぬ朝」

ボルゲーゼ美術館展

2010-01-28 02:07:54 | Art
 27日午後、東京都美術館で観てきました。詳細につきましては後回しにして、個人的には、今読み続けている、リルケの「オルフォイスへのソネット第二部・4」に登場する一角獣に、「ラファエロ・サンツィオ」の《一角獣を抱く貴婦人・1505-06年》で再会しました。



 さらに「マルチェッロ・プロヴェンツアーレ」の描いた《オルフォイスの姿のシピオーネ・ボルゲーゼ》でした。なんと楽器は竪琴ではなくてバイオリンです。オルフォイスの音楽によってたくさんの動物たちが集まったというお話はありますが、この絵のなかには、そのお話には登場しない龍と鷲がいます。この龍と鷲はボルゲーゼ家の家紋だそうです。



 そしてまたまた最近読んだ本「つぶて・中沢厚」のなかに書かれていた聖書のなかの「ダヴィテの石投げ」のその後の様子がわかる《ゴリアテの首を持つダヴィテと従兵・作者不詳・17世紀前半》がありました。こういう偶然の出会いがどんなに楽しかったことか・・・。



 「ボルゲーゼ美術館展」の詳細はここをご覧ください。

 ボルゲーゼ枢機卿が収集したものは、ルネサンスからバロックにかけての彫刻と絵画です。さらにローマ市内中心部にあるボルゲーゼ宮に収められていた絵画コレクションの大半が、ここに展示されるようになったのは1891年のことでした。19世紀になるまでコレクション全体は散逸することなく奇跡的にほぼ完全な形で保たれていました。

 しかし1807年にナポレオンの圧力により、ボルゲーゼ家はコレクションから古代彫刻やレリーフを中心に約400点もの作品を売却し、それらは現在ルーヴル美術館の「ボルゲーゼ・コレクション」となっています。

 それでも現在のボルゲーゼ美術館には、様々な名作が収められており、世界で最も著名な個人コレクションとされています。


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの《シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像・1632年》


サンドロ・ボッティチェリの《聖母子、洗礼者ヨハネと天使・1488年》



 あらゆる芸術は、人々の暮らしと共に「戦争」による「略奪」「侵略」の歴史なのです。この「痛み」と共にそれらを観るのもまた人間なのでした。

オルフォイスへのソネット第二部・13

2010-01-25 20:56:54 | Poem
あらゆる別離に先んじよ、別離がちょうど今
過ぎてゆく冬に似て、君の背後にあるかのように。
いくたの冬、その一つこそ、限りない冬であり、
その冬を凌ぐなら、君の心は総じて耐え忍ぶ力を得よう。

つねにオイリュディーケのなかに死してあれ――、さらに歌いつつくだりゆけ。
さらに賛めつつ純粋の聯間(れんかん)のうちにもどりゆけ。
ここ、地上の消えゆく者らの間、傾きの国のなかで、
ひびきとともに身を打ち砕く、鳴りひびくグラスとなれ。

在れよ、――そして同時に非在の条件を知れ、
君の心の切々たる振動の限りない根拠を知れ、
この一度しかない存在に、あますなく振動をとげんがため。

充溢した自然の、用いられた貯えにも、鈍く黙した
貯えにも、――それら言いしれぬ総計に
歓呼して君を加算せよ、そして数を絶すよ。

 (生野幸吉訳)


すべての別離に先立って在れ、あたかもそれが
いま過ぎてゆく冬さながら、おまえの背後にあるかのように。
なぜなら もろもろの冬のうちのひとつこそ限りない冬、
その冬を凌ぎつつ おまえの心は総じて堪えとおすのだから。

つねにオイリュディケのうちに死んで在れ、いよいよ歌いつつ昇り、
いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。
ここ 消えゆく者たちのあいだ、傾きの国にあって、
響きつつすでに砕いた鳴りひびく玻璃で在れ。

在れ――そして同時に非在の条件を知れ、
おまえの心の切実な限りない根底をこそ、
このただ一度の生においてその振動を完全になしとげるため。

ゆたかな自然のすでに用いられた貯えと
鈍く無言な貯え、またその言い表わせぬ総計に、
歓呼しつつおまえ自身を数えいれ そして数を消し去れ。

 (田口義弘訳)


いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。

 後期のリルケにとって深い意味を担うものは「関連」だと思われます。リルケは「所有」の代わりに「関連」を学びとることに言及しているようです。「関連」とは、存在者同士が「利用」から開放されて、ただ本質的存在として照応しあい、さらに時間と空間からも自由な内的状況でしょう。これは「星座」に例えることもできようか?
 こうして「純粋な関連」とは、死者たちの世界、あるいは眠りや夢の世界に似たものとなるのでしょうが、それは「オイリュディケ」の死にゆだねられている?

 このソネットでは「在れ」という命令形が3度記されています。これは「非在」を認識しつつ「存在」する者のみが知る精神の振動の振り幅にも思えます。玻璃が砕けるような痛ましい振動の・・・。自然の豊かさのなかでは、人間は数値化される存在にはならないのですから。


  *     *     *


 ここまで読んできましたが、お2人の翻訳とさまざまな歴史的証言の正確さについては、頭が下がる思いです。このお2人の「注解」なしでは、これらのソネットを読むことはできなかったことでせう。いやいやまだまだ理解したとは言えないことでせう。しかししかし大変失礼ながら、ドイツ語を日本語の詩として置き換えることの困難さが見えてきます。翻訳された日本語が硬質すぎるのです。(←生意気で申し訳ありませぬ。)
 「オルフォイス」も男性、詩人も男性、翻訳者も男性、読むわたくしは一応「女性←あんまりお利巧ではないわたくし・・・。」です。この距離がなかなか埋まりません。最後まで多分この気分を引きずってゆくのかもしれません。ああ~。

オルフォイスへのソネット第二部・12(続)

2010-01-23 16:03:34 | Poem
変身を欲せよ。おお、つねに炎に感激せよ、
その炎のなかで変容を誇るかに物は君から遠のく。
地上を統(す)べる、かの企図画的な精神は
図形の高揚する弧のうちで、回転点をなによりも愛している。

閉ざして停滞するものは、すでに凝固のうちにいる。
みすぼらしい灰いろの保護色をよそい、身を安全と妄想するのか?
待て、遠くから最も固い何者かが、硬(こわ)ばることを警めている。
災いなるかな――、不在のハンマーが振りあげられる!

泉となってそそぐものだけ、認識は認知する。
そして嬉々として認識はかれを伴(つ)れ、はれやかな創造物の間をみちびく。
しばしば発端とともに終わり、終結とともに始まる創造の。

すべての幸福な空間は別離の子か孫であり、
かれらはその空間を驚嘆しつつ通ってゆく。そして変身したダフネは
わが身を月桂樹のように感じてから、君が風に変わることを願っている。

 (生野幸吉訳)


「第二部・12」を理解するために、生野幸吉訳を追加しました。


図形の高揚する弧のうちで、回転点をなによりも愛している。

 オルフォイスの世界の連関(ベツーク)は、純粋な図形(フィグール)となって見られる。「第一部・11&12」にはこのような関連があるようです。

(11の4連目)
星と星との結び合い、それは眼のまどわしなのだ。
とはいえ今しばらくは、図形を信ずることを
よろこびとせよ。それで足りよう。

(12の1連目)
われらを結びたがる精霊に幸あれ。
まこと、われらはさまざまな図形に生きる。
そしてわれらは真の一日と並び、
時計は小きざみの足であゆんでいる。


泉となってそそぐものだけ、認識は認知する。

 「認識」あるいは「承認」でもよいが、これは神の承認ではないようです。
 

  *    *    *


 昨夜は、この詩篇に悩みつつベッドに潜り込み、気分を変えようと「ヴァレリー」(・・・・・・と言っても、この詩人からリルケは大きな影響を受けていますが・・・。)の詩集を読んでいましたら、なんとも驚きました。まるでわたくしの迷い児のような気分を導くかのようにこの詩に出会いました。これもソネットだということも嬉しい一致でした。


オルフェー   ポールヴァレリー・旧詩帖より

天人花の木叢の下に、オルフェーを俺は心に構成する、
驚異の人だ・・・・・・純粋な虚空円形劇場から 火が落下する。
火は 禿山を 荘厳な戦捷牌の相(すがた)に変え、
其処から 神の鳴り響く行為(しわざ)が天に立ち昇る。

若しこの神が歌うなら、絶対至上の風景を崩壊させる。
太陽は 不動の石の運動の恐怖を眺める。
未だ嘗つて聞かぬ嘆きが、聖殿の 諧調的な
黄金の 燦々と耀く高い光の壁を 喚起する。

神は歌ふ、光の眩い天空の縁に坐って、オルフェーは。
巌は 動き、よろめいて、妖精と化した石は 一々(ひとつびとつ)
碧空に向かって熱に浮かされて 新しい重さを感じる。

半(なかば)裸体の大寺院の夕暮が 光の飛躍を水に涵(ひた)して、
神その人は、金色の光の中で、竪琴の上に、偉大な
賛美歌の無限の霊に我とわが身を序列して融合させる。


 「虚空円形劇場」とは青空のこと。「火」とは太陽の光。

オルフォイスへのソネット第二部・12

2010-01-22 21:42:16 | Poem
        

変容を欲せよ。おお 炎に魅せられて在れ、
その炎のなかで物は 誇りやかに変容しつつ おまえから去ってゆく。
地上のものを支配しているあの構想する精神は、
昂揚した図形の曲線の 何よりもその転回点を愛する。

身を閉ざして留まろうとするものはすでに硬直した存在だ。
目立たぬ灰色の保護のもとで それは自分の身が安全だと思いこんでいるのか?
待て、もっとも硬いものが遠くから硬いものを警めている。
おお 不在の槌が振りあげられている!

泉となって自らを注ぐ者、彼を認識は認知する。
そしてそれは陶然と彼をみちびくのだ、しばしば開始とともに終わり
終局とともに始まるはれやかな創造物のあいだを。

すべての幸福な空間は別離の子か孫であり、
その空間を人びとは驚嘆しつつ通り抜ける。そして変容したダフネは
自らを月桂樹と感じていらい願っているのだ、おまえが風に変じることを。

 (田口義弘訳)


 これは手を焼く詩編ですねぇ。1連は「炎」、2連は「土」、3連は「水」、4連は「風」について書かれているのですが、連から連への意識の流れと展開の時に、渡る架け橋が見えにくい。
 さらに、過去のソネットと重複するテーマがそこここに見え隠れするのですが、この「第二部・12」のソネットに与えようとしたテーマには、過去からの変容を試みているようです。

 ギリシャ神話の「ダフネ」は「河の神」の娘。彼女はキューピットに「人を嫌う矢」を受けて、「アポロン」は「恋の矢」を受ける。そのために「ダフネ」は「アポロン」に恋されてしまうのだが、「ダフネ」はそれを拒み続け、逃げまどい、最後に父親に助けを乞うと、父親は娘を「月桂樹」に変身させて「アポロン」の手から守る。「アポロン」はその樹の枝を頭に飾り、悲恋の思い出とする。
 この神話は、3連の「水」に「河の神」、4連の「風」に「ダフネ」と関連付けていいのだろうか?

おまえが風に変じることを。

 この「おまえ」はリルケではないか?


変容を欲せよ。おお 炎に魅せられて在れ、
その炎のなかで物は 誇りやかに変容しつつ おまえから去ってゆく。
地上のものを支配しているあの構想する精神は、
昂揚した図形の曲線の 何よりもその転回点を愛する。


この1連を読むと思い出す「速水御舟」の絵画がある。

    

オルフォイスへのソネット第二部・11

2010-01-19 23:33:33 | Poem
多くの、死の、おだやかに配列された規則がうまれた、
たえず圧制を続ける人間よ、おまえがあくまで狩猟に執するようになってから。
だが罠や網よりも、おまえをわたしはよく知っている、
カルスト台地の空洞に張り下される帆布のひとすじを。

おまえは、平和をことほぐ合図のように、ひっそりと
卸された。けれども、やおら、下僕がおまえのふちを捩じると、
――洞のなかから永劫の夜が、あおじろい、よろめく鳩の
ひとつかみを光へ投げる・・・・・・
        だがこれはやはり正しいのだ。

よい潮どきと迅速にことを仕上げる、
ぬかりない猟師たちはさておき、
観客もまた、憐憫のといきはつかぬがよい。

殺すものも、わたしたちのうつろいやまぬ悲嘆の姿のひとつ。・・・・・・
快活な精神のうちにあっては、
わたしたちの身に起こるすべてが純粋なのだ。

 (生野幸吉訳)


死の、かずかずの、平静にきめられた規則が成り立った、
征服のわざを続ける人間よ、おまえが狩を慣わしとするようになってから。
だが 罠や網よりもよく私はおまえを知っているのだ、細長い帆布よ、
カルスト台地の洞穴のなかへ垂らして使われるものよ。

平和を祝う合図のようにおまえはそっと
中へおろされた。しかしやがてつと 下僕がおまえをよじると
――洞穴のなかから 暗闇が投げ出したのだ、一握りの蒼白い
よろめく鳩らを光のなかへ・・・・・・
               だが正しいのだ これもまた。

観ている者らからも あらゆる憐憫の吐息は遠くあるがいい、
ことがらの時機をすかさず察知し
油断なく敏腕にやりとげる猟師からのみならず。

殺すころは私たちのさまよう悲嘆のひとつのすがた・・・・・・
はれやかな精神のなかでは 純粋なのだ、
この私たちから生ずる出来事は。

 (田口義弘訳)


 このソネットには「おまえ」が3度でてきますが、「1」は人間、「2、3」は「帆布」のことを指しています。この「帆布」を「田口義弘」は「よじる」と訳し、「生野幸吉」は「捩(ね)じる」と訳しています。


 1911年10月、当時「ドゥイノ」に滞在中のリルケは、そこから近いトリエステ北方のヴィラ・オピチーナにある標高350メートルほどのカルスト台地で行われる「鳩狩」の見学に誘われて行ったのであろうと思われます。そこにある洞窟(日本で言えば、山口県の秋吉町一帯にある石灰岩台地にある鍾乳洞。)で古来からの習慣によって行われる「鳩狩」である。

 このソネットは、その「鳩狩」の行事を観た折に書かれたものと思われます。ここには狩猟の起源、人間の本来ある「飢え」による衝動、そこから起こる権力衝動に至るまでの肯定が書かれています。

 ここはわたくしの想像ですが、洞穴に帆布を垂らして洞内に暗闇をつくり、その闇に驚いた白い鳩が、下僕がねじる(よじる)帆布の隙間から、光を求めて飛び出す、その瞬間に猟師が撃つ。この殺戮は瞬時にやり遂げられて、鳩の苦痛はほとんどないだろう?狩猟とはこうして人間の永い歴史のなかで繰り返されてきた最低限の殺戮であって、戦争のような殺戮とは全く意味が異なる。

 第1次大戦後のリルケが、1919年夏にソリオで書いた、ある手紙のなかには「人間が自分自身の残酷を弁護するために、自然のなかの残酷を引き合いに出すことをやめられるなら!」と記されています。そうしてリルケは批判を受けながらも、この「鳩狩」を賛美したのだ。

 第1次大戦、そしてリルケの死後に起きたナチス・ドイツによって行われた大量殺戮が野蛮なものであって、カルスト台地の「鳩狩」はこうした人間の野蛮性とは対立するものだと言える?他者の生命を殺さずに自らの生命を維持できない自然的存在の人間には、自然の豊かさと寛容の内部で犯される殺戮は許されるのだと?死に向けられた運命をもつ我々ゆえに?

オルフォイスへのソネット第二部・10

2010-01-16 22:27:17 | Poem
すべての獲得されたものを機械は脅かす、
それが服従するかわりに 不遜にも精神の場を占めるかぎりは。
みごとな手のひとしお美しいためらいが もう誇らかに輝かぬようにと
さらに決然たる構築のために 機械はより強烈に石を切る。

いずこでも機械は引っ込んでいず、私たちは一度たりともそれから逃れえず、
そしてそれは静かな工場で油をさされ 分に応じて働いているのではない。
機械は生命なのだ――それは生を最上になしとげられると思いこみ、
同一の決意をもって整え 、作り、そして破壊する。

だが私たちにとって存在はなおも魔力のうちにあり、あまたの地点で
それはまだほとばしる源泉――そして 跪き感嘆せぬ者には触れられぬ
純粋な諸力のなすひとつのたわむれなのだ。

なおも言葉は言いえないものとの接触から出発し・・・・・
そして音楽はたえず新たに もっとも慄えやすい石を積み、
用いることのできぬ空間に その神聖な家を建てている。

(田口義弘訳)


 これはすでに繰り返された「機械文明」への批判のうちの1編と言えましょう。「第一部・18」では「聴く力はそこなわれています。」と主に訴えかけ、「第一部・22」においては少年たちに「飛行の試みに心をうばわれないように。」と。さらに「23」「24」へとそれは続いています。ここにきて、その批判は再開します。より強い意志をもって・・・。

 この時代はおそらくヨーロッパ全体の経済状態が急速に様変わりして、生産体制もひとの手から、機械へと移行した時代ではないだろうか?科学の進歩には後退はないのだ。


機械は生命なのだ――

 ヨハネによる福音書第14章6節などにある、キリストの言葉「私は生命である。」と対比させてみますと、これはキリストの言葉を反語的に表現したのではないか?

 また、前半の1連と2連、後半の3連と4連は、対比がみられます。後半では「オルフォイス」を呼び出し、言葉と音楽の世界の再構築を試み、「もっとも慄えやすい石を積み」「神聖な家を建てている」のです。

つぶて  中沢厚

2010-01-16 01:57:50 | Book
 この本を読むきっかけとなったのは、中沢新一の「僕の叔父さん 網野善彦・2004年・集英社新書」を読んだ後のことでした。もちろんこの本の登場人物の中心は新一の叔父「網野善彦」ですが、中沢厚は新一の父親です。

 まず、哲学者であり宗教学者の中沢新一を育てた親族を記してみませう。すべて山梨県出身者であることにも注目して下さい。父親の中沢厚は1914年生まれ。在野の民俗学者、コミュニストである。農山村の民俗調査を続け、道祖神研究をはじめとして、「石投げ」「つぶて」などの独特な研究に生涯をかけた学者です。叔父の中沢護人も「鉄の歴史家」と言われた在野の研究者です。そして中沢新一が五歳の時に、父中沢厚の妹の真知子叔母の婚約者として登場するのが、この本のタイトルとなっている歴史学者「網野善彦」というわけです。


 この「つぶて」論考の発端となった中沢厚の意外な視点について。
 1968年1月、佐世保港にアメリカの原子空母「エンタープライズ」が給油のため入港する。それを阻止しようとした「反代々木系」の学生たちはヘルメット、角棒、旗竿を持って機動隊に激突、そして彼等のとった行動は「投石」であった。機動隊はおおいにたじろいだ。
 このテレビ報道を食い入るように観ていた父親の厚が息子の新一に語ったことは、父親の少年期に、笛吹川の対岸の上万力村や正徳寺村の子供たちと、こちら側の神内川村の子供たちとの「投石合戦」の思い出だった。

「やあい、やい、万力のがきども石投げこう」
「神内川のがきども、石投げこう」

・・・・・・という言葉の応酬のあとで、投石具「石ぶん」によって、笛吹川両岸の少年たちの対戦がはじまる。さらに、厚の父親毅一も明治29年12歳の時に、「投石」のために額に大怪我をしていて、その傷跡は厚の記憶にもある。一生涯消えない傷跡だったが、その理由を父親は言わなかったそうです。

 「投石」という人類の源初的な行動を、中沢厚はそこに感じとったのではないか?原初の人間から引き継がれている行為は、現代の人間たちに内在されていたということだろうか?中沢厚の「つぶて」の研究はそこから出発したらしいのです。

 森という立体構造の世界に生きていた猿が、2足歩行の人間となった時、人間は森を出て、草原で生きることになる。身の危険からの逃げ場や隠れ場を失った人間が身近にあった「石」を武器としたり、狩猟の道具としたことは容易に想像ができます。さらに「石」は長い人間の歴史のなかでは、洋の東西を問わず、祝事、武器、拷問、呪術、願い事、また多くの子供たちのちょっと危険で乱暴な遊び道具だった。


ちいさな鉱物学者ワルター・フォン・ゲーテのための子もり唄  ゲーテ

いろいろな小石はおもしろいものだ。
投げてみたり、こぼしてみたり。
子どもの手にはね返るのは
つぶ石、豆石、玉石など。
  (大山定一訳・抜粋)


 ギリシャ神話、聖書(ダビテの石投げなど・・・)をはじめとして、アルキメデスの投石機などなど、世界中で「石」が武器である時代は長い。これらについて書いてゆけばきりがないようだ。

  *   *   *

 網野善彦は若き日の中沢新一にこのように語っています。『貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まない土地だと言われてきたけれども、そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始、未開の精神性のおもかげが、生き残ることができたともいえるなあ。貧しいということは、偉大なことでもあるのさ。』と・・・・・・。この中沢厚の「つぶて」は網野善彦の著書『蒙古襲来』に引き継がれる。

 (1996年・第3刷・法政大学出版局刊・「ものと人間の文化史44」)

オルフォイスへのソネット第二部・9(続)

2010-01-12 22:32:05 | Poem
 前回の「オルフォイスへのソネット第二部・9」の解釈のなかでは、文章の煩雑さを避けるために、書かなかったことを、ここに追記いたします。翻訳者「田口義弘」は、「神」についてのリルケの表現への連想として「マルティーン・ブーバー」の考え方を例に出しています。


(3連目に。)
神ならば。彼は力強く到来して、輝きまさりつつ その力を
あたりにおよぼすことだろう、神的なものらがそうであるように。
大きく安全な船らを吹き揺るがせる風よりもなお強く。


 『たしかに神はまったき他者である。だが神はまた、まったき同一者、まったき現前者でもある。たしかに神は、出現し、圧倒する怖るべき神秘である。だが神は私のよりも私に近い自明なる秘密である。』(←この部分が、田口氏が引用したものです。)



(4連目に。)
しかし彼はまたひそかにそれとなく感知されるのだ、
無限の交合から生まれた 静かに遊んでいるひとりの子供が
沈黙のうちに わたしたちを内部でとらえるように。


 『夫が妻を愛し、彼女の生命を自己の現存の中に宿そうとするとき、彼女の眼に宿る〈なんじ〉に、永遠の〈なんじ〉の光が映るのを見出すだろう。』(「我と汝・対話」より。←ここの文章は、わたくしが手持ちの本から探したもので、自己流引用です。あしからず。)