ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

サクラ・サク

2017-03-30 16:27:07 | Stroll
今日は穏やかで暖かい一日でした。
桜の御機嫌伺いに……。咲きはじめました。








 レンギョウ


 ミツマタ

下を見れば、春のお知らせが咲いていました。


 オオイヌノフグリ


 ジシバリ


 レンゲ


 ヒメオドリコソウ


びろう樹の下の死時計 (工作者宣言・谷川雁)

2017-03-27 22:06:51 | Book

テレビで「びろう」と言う樹木の紹介をしていました。その時何故か谷川雁を思い出しました。本の名前すら憶えていない。我が古きメモを探し出して、ようやくたどり着きました。

これは、谷川雁の「工作者宣言」の最後に収録されているものです。ちなみにこの本は、発刊は昭和34年、文庫版で130円です。よくぞご無事で……。

これは「臥蛇島―がじゃしま」への紀行文です。「臥蛇島」は鹿児島県鹿児島郡十島村、東シナ海にあるトカラ列島の一つで、昭和45年からは無人島となっています。昭和34年(この本の発刊年。)14戸60人の暮らす「臥蛇島」へ谷川雁は訪れているわけです。月に一回不定期な汽船が通うだけのこの島に降りた途端に、死時計のように時間は茫洋とひろがるだけ。そこは極小の極限の寡黙な人間世界であった。約1ヶ月後にこの「臥蛇島」から帰った谷川は逆説のように「漂着」という言葉でそれを表現した。

「臥蛇島」の「食物」と「言葉」について少しだけ書いてみます。
このエッセーのなかで、わたしはふたたび「蘇鉄粥」という言葉に出会った。「どがき」「どうがき粥」あるいは「なりがい」とも読むらしい。土地によってはまた別の読み方もあるやもしれぬ。

蘇鉄の幹と赤い実は澱粉質を含んでいるが、有毒なフォルムアルデヒドも含んでいるので、よく水にさらして澱粉質だけを採って、粥や団子や味噌として食したそうです。これは飢饉の時や、島の食糧が尽きて他島から食糧が運ばれてくるのを待つまでの非常食としてあったようです。この毒抜きが不充分な場合、それによって命をおとした人もいたようです。これは、沖縄に限らず、瀬戸内、奄美諸島、そしてこの「臥蛇島」にもあったのです。

さて当時の「臥蛇島」は灯台があるということが唯一の現金収入、あとは漁業、自然なままの林業、牛や山羊の牧場主なき牧畜(つまり、島全体が放牧場なのです。)そして収穫の乏しい農業と採取で人々の暮らしは成り立っていました。テレビは学校に1台あるだけ、そこはある意味での「コミューン」だったのかもしれません。しかしこう定義するのは外部の人間であり島民ではない。ここで谷川雁の言葉を引用すれば「そこで私たちは日本現代文明に対する黙々たる判決文を読むことができる。」のである。一つの文明国家の法律など及ばない未開の地域というものは必ず存在する。そこでは収穫された食糧は平等に分配され、老いた者や、男手を失った母子は壮健な働き手によって守られているのだ。そして大自然の掟に従順であることによって、そのコミューンは「文明の進歩」とは異なる独自の世界が成り立っている。おそらく「貧しさ」という言葉すら存在しないのだろう。これは「他者」との比較によって生まれる言葉だと思う。

ところで話は少し飛ぶが、ある詩人から、チベットの奥地の山村には「寂しい」という言葉がない、とうかがったことがある。「寂しい」とは文明社会が生んだ言葉なのだろう。人間が初めて発した言葉とはなんだったのか、というところまで想いは飛んでしまいそうだ。ちなみに「臥蛇島」の言葉はT音が未熟で「美しい」は「うちゅくしい」となり、「水」は「みじゅ」と発音されていたとのこと。

以上です。

映画『新地町の漁師たち』

2017-03-20 16:21:38 | Movie
映画『新地町の漁師たち』予告編(劇場版)



ドキュメント映画・新地町の漁師たち

監督・制作 山田徹

2011年3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波と、その後の余震によって大規模地震災害となった。この震災によって福島第一原子力発電所事故が起こった。これによって福島の漁師たちの生活は一変する。
 
このドキュメント映画の舞台は、3.11後の福島県新地町の漁村である。
再生不可能とまで言われた福島の海。その海を生きる漁師たちの姿を追っている。

漁村の伝統祭事を映しながら、映画は「地下水バイパス計画」(汚染水対策)を巡る交渉シーンへと向かう。廃炉行程を一刻も早く進めるために、漁業者から計画容認を得たい国と東京電力……。

津波と原子力災害によって生じた様々な軋轢や葛藤の中で生きる福島県漁業者たちの交渉の記録である。観終わってからも、言葉がない。
生活の保障があっても、彼等漁師の海と生き生きとした魚たちとの会話はいつ戻るのか?

新地町は父の生れ故郷。病気の末期になって「どうしても帰りたい。」と思う故郷であった。
この映画の舞台となった「釣師浜漁港」に隣接する「釣師浜海水浴場」は子供時代に父と遊んだ海だった。

戦争中の暮しの記録・保存版  暮しの手帖編

2017-03-11 21:47:07 | Book




昭和48年8月10日発行 第5刷  850円
発行者 大橋鎮子
発行所 暮しの手帖社

これは、昭和43年8月、「暮しの手帖・96号」の全ページをあてて、読者の戦争体験を募集して、特集号としたもので、いつもなら80万部の購読者であるが、この号はさらに10万部を追加するほどの売れ行きだったそうです。それを「保存版」として5年後に改めて、一冊の本にしたものです。さらに申し上げれば、亡き我が母の本棚にあったものを形見として、私が今日まで大事に持っていたものです。今後もさらに。

何の特集かと言えば、読者より募った、あらゆる角度からの「暮しのなかでの戦争体験」を特集したものです。学者や作家が書いたものではありません。文章を稚拙と言うではない。これらの手記を書かれた方々のすべてに言えることは、伝えることへの真剣さに加えて、読む方々への誠実さと真面目さに心を打たれます。

空襲、子供の疎開生活、悲惨な食糧と日用品の事情、家を失った家族たち、家族を失った人々、酷悪な交通事情、まだまだ書ききれないほどの声が聞こえてきます。たくさんの市井の人々が命を落とし、あるいは命の危険にさらされ、こんな事が二度と起きてはならないと言う声が輪唱のように聞こえてきます。戦争がどれほど愚かなことかを、一冊全体から聞こえてきます。

あの戦争を国家とか軍部とかによる歴史の一部と捉えるのではなく、それらに翻弄され、命も幸福も自ら守れなかった人々こそが、歴史なのではないか?

この特集を企画した「暮しの手帖社」と、それに応えて投稿された方々に、改めてお礼を申し上げます。戦後20数年後とは、人々がやっと戦後を乗り越え、生き抜いてこられて、戦争体験を言葉にできる時でもあったのでしょう。セピア色になってしまったこの本を、今後も大事に致します。