前回の「オルフォイスへのソネット第二部・9」の解釈のなかでは、文章の煩雑さを避けるために、書かなかったことを、ここに追記いたします。翻訳者「田口義弘」は、「神」についてのリルケの表現への連想として「マルティーン・ブーバー」の考え方を例に出しています。
(3連目に。)
神ならば。彼は力強く到来して、輝きまさりつつ その力を
あたりにおよぼすことだろう、神的なものらがそうであるように。
大きく安全な船らを吹き揺るがせる風よりもなお強く。
『たしかに神はまったき他者である。だが神はまた、まったき同一者、まったき現前者でもある。たしかに神は、出現し、圧倒する怖るべき神秘である。だが神は私の我よりも私に近い自明なる秘密である。』(←この部分が、田口氏が引用したものです。)
(4連目に。)
しかし彼はまたひそかにそれとなく感知されるのだ、
無限の交合から生まれた 静かに遊んでいるひとりの子供が
沈黙のうちに わたしたちを内部でとらえるように。
『夫が妻を愛し、彼女の生命を自己の現存の中に宿そうとするとき、彼女の眼に宿る〈なんじ〉に、永遠の〈なんじ〉の光が映るのを見出すだろう。』(「我と汝・対話」より。←ここの文章は、わたくしが手持ちの本から探したもので、自己流引用です。あしからず。)
(3連目に。)
神ならば。彼は力強く到来して、輝きまさりつつ その力を
あたりにおよぼすことだろう、神的なものらがそうであるように。
大きく安全な船らを吹き揺るがせる風よりもなお強く。
『たしかに神はまったき他者である。だが神はまた、まったき同一者、まったき現前者でもある。たしかに神は、出現し、圧倒する怖るべき神秘である。だが神は私の我よりも私に近い自明なる秘密である。』(←この部分が、田口氏が引用したものです。)
(4連目に。)
しかし彼はまたひそかにそれとなく感知されるのだ、
無限の交合から生まれた 静かに遊んでいるひとりの子供が
沈黙のうちに わたしたちを内部でとらえるように。
『夫が妻を愛し、彼女の生命を自己の現存の中に宿そうとするとき、彼女の眼に宿る〈なんじ〉に、永遠の〈なんじ〉の光が映るのを見出すだろう。』(「我と汝・対話」より。←ここの文章は、わたくしが手持ちの本から探したもので、自己流引用です。あしからず。)
今、職場書斎の昼休みを利用して、悲歌5番の最後の連を読んでみましたが、確かにPaarung、パールングは、男女一対のことが意識にあるので、交合という訳を否定することはできませんね。
この悲歌の5番の最後の連は、花々と娘を歌うときとは違って、全然エロティックではありません。むしろ思弁的で、冷静な言葉が並んでいると思います。
田口さんが、マルティン・ブーバーを引用したのは、一対の男女ということからですね。それも、こうして考えるとわかるような気がします。汝と我が男女であるという場合の解釈です。
引用としては、Akiさんの引用の方が現実味があって、いいなあ。本当に、そうである。
しかし、男女は宇宙の一対なのだ。
これは恋において一層そうでありましょう。
夫婦においてやいかに。今日も寒さが厳しい。
>男女は宇宙の一対なのだ。
この言葉に尽きますね。
ここまで読んできて、改めて思いますが、リルケの悲歌とソネットとは、あちこちでリンケージしているのですね。いや、リルケの詩全体に言えることかもしれません。
本当に寒いです。お風邪をひかぬように。