ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・14

2010-01-29 23:01:15 | Poem
見よ 花たちを、この、地上に誠実なものたちを。
私たちは運命の縁から かれらに運命を貸しあたえる――
けれども 誰が知ろう!かれらがその凋衰を悔やむとき、
私たちこそ かれらの悔いとなるべきなのだ。

すべてのものは浮かび漂おうとする。それだのに私たちは重石のように徘徊し、
すべてのもにのしかかる 自らの重みに陶然として。
おお 私たちはなんと物たちを衰えさせる教師なのだろう、
物たちには永遠の幼時が恵まれているのに。

もしもだれかが物たちを親密な眠りのなかへともない
かれらとともに深く眠るなら――おお どんなに軽やかに、
別の仕方で別の日へと目覚めることだろう、共通の深みから。

それとも眠ったままでいられるかもしれぬ。すると物たちは花咲き、
かれらへと転向してきた者を讃えるだろう、いまやかれらとひとしくなり、
草地の風のなかのすべての 静かなきょうだいに近しくなった者を。

 (田口義弘訳)


花たちを見よ、この現世に誠実に仕えるものを。
われらは運命のふちから、花に運命を藉(か)す、――
だが、だれが知ろう!花がその凋落を悔いるとき、
かれらの悔いは、われわれの負いめとなる。

物はみな漂うのを好む。そこにわれらは重石のようにうろつき回り、
すべての上にのしかかる、おのれの重さに恍惚として。
おおわれわれは、物を食いつくすなんという教師だろう、
物たちには永遠の幼児期が恵まれているというのに。

かれらを恋おしい眠りへ伴い、抱きしめたまま
深く眠れば、――次の日、共寝の深みから、
人はどんなに軽やかに、別の姿で目ざめることか。

それとも人は眠ったままでいるかもしれぬ。そして花たちは咲き、
今はかれらにひとしくなったこの改心者を讃えるだろう、
牧場の風にそよぐ、すべての静かな姉妹らに等しい者を。

 (生野幸吉訳)


幼年時代を持つということは、
一つの生を生きる前に、
無数の生を生きるということである。


 ・・・・・・という、リルケの言葉を最初に思い出しました。リルケの花たち物たちへの思いは深く、独自の空間世界をつくっているようです。「第8の悲歌」ともおおきく響きあっているようです。


われわれはかつて一度も 一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことはない。



 さらに「時祷書」のなかにも、このソネットによく似た詩があります。


私はいつも警告し、防ごうとする――「近づいてはいけない」と。
物らの歌に聞きいるのが、私はたいへん好きなのだ。
きみたちは物らに触れる――かれらはこわばって沈黙する。
きみたちは物らをみな殺してしまうのだ。



 そうして花々や物たちは純粋な空間に無限に上昇してゆくと・・・。この「上昇=aufgehen」は「咲く」という意味と「消える」という意味もあるらしいのです。このような空間を人間は一日たりとも手にしたことがない。
 それだけではなく、人間は「花々」や「地上に誠実な物たち」の運命を手折り、触れることによって、そのいのちを殺してしまうのだ。それらには「永遠の幼時」が与えられているはずなのに。人間は重い罪を犯し続けている。

 「重石」ではなく、花々や物たちと共に「ただようような関連」のなかで、眠ることができるなら・・・そして豊かな深い眠りをくぐりぬけて、別の朝に目覚めることは可能だろうか?とリルケは問うのだ。
 「眠り」は「死」と兄弟であり、このソネットの終わりには「眠りとしての死」までが語られているのだった。


  「明けきらぬ朝」