ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

一日も早く……。

2017-07-31 23:27:51 | Care


歳をとっても、子供たちに迷惑をかけないようにしたいと願っていたが。
夫の脳梗塞とリハビリ入院には、近くに住む娘の協力で、
私1人でなんとかやってきましたが、私のちょっとした不注意から右上腕骨折に。

右上腕固定の身では、ひたすら娘の負担となる。夫の病院にも行けず。
「また、転んだらどうするの。」と、外出の禁止。家事も左手だけでは、わずかしか出来ず。
入浴の介助、入浴後の三角巾とバストバンドの装着。すべて娘の負担となる。
仕事をしている娘の負担はとても大きい。申し訳ない。

一日も早く、この困難な日々を終わらせたい。早く回復したい。
娘があまりにも可哀想だ。

昨日の診察

2017-07-29 11:46:46 | Care
23日の救急外来、24日の診察、そして28日の診察がありました。
そして、8月4日(金)からリハビリが始まります。その後に診察です。
診察の度に、レントゲンを撮ります。

今日は、息子とSちゃん、Y君がじいじのお見舞いに。
その後、こちらにも来てくれました。

娘とともに、今後の相談をしてくれました。
みんな、ありがとうございます。

協力体制が整いました。
Y君も一役買ってくれます。いい子。自慢したい。

数日、元気のなかったじいじの電話の声が明るくなりました。
「リハビリ頑張って、家に帰れたらなんでも助けてやるよ。」と。

さて、どちらが先に回復するか?

子供たち、ご苦労をおかけします。
いつか、思い出話になる時が早く訪れますように。

みんな、優しい。

2017-07-26 15:23:34 | Care
 
左利きの私です。

まずは、娘にありがとうございます。
夫の面会、食事、洗濯、入浴の介助などなど、自然体でやってくれます。

次には、夫のリハビリを担当して下さってる療法士さんにありがとうございます。
私の状況をみて、丁寧なアドバイスを、娘にくださいました。
「固定している右上腕のために、右手がむくみますから、グー&パーをして動かして下さいね。」
とおっしゃってくださいました。
右手のむくみが気になっていましたので、安心しました。
さらに、夫の許可を得たうえで、私の病状をきちんと把握してくださるとのことです。

友人たちの励ましも、ありがとうございます。

今があまり辛くないのは、そのおかげです。

Y君からの「じいじ」へのお手紙はずっと続いています。ありがとう。

正しくは……

2017-07-24 17:25:22 | Care
どうやら「上腕骨近位端骨折」というものらしい。
手術はしない。という方法を選択しました。入院はしません。
転位のない骨折は、保存的治療の適応であり、三角布などで固定し、臥床、起床動作時に肩関節を安定させるため、
バストバンドなど体幹に固定します。固定期間中も手指の腫れを軽減させるため、手指の運動を積極的に行います。
痛み、腫れの軽快に応じて、可動域訓練を開始し、3週間は固定を行うそうです。
その間に、リハビリも行います。

どうにか動くようになれば幸いです。夫の退院の頃に合わせて。
子供たち。よろしくお願いします。

夫婦で、同病院で、それぞれのリハビリです。

なんともはや「夫唱婦随」ですな。

真面目に選挙投票に行って、投票せずに救急車に乗りました。

今後の見通しが少しづつ…

2017-07-22 21:49:13 | Care


本日は、9時半に病院着。娘に同行してもらいました。
ドクター、看護婦さん、リハビリの療法士さん、ケースワーカーさん4人とお話合いをしました。

ドクターの今後の見通しでは、早くて9月末、遅くとも10月末に退院だそうです。
それまでに、家のなかでは、なんとか歩けるだろうとのこと。
ただし、外出には車椅子が必要かもしれないとのこと。

そうなると、ケースワーカーさんの出番です。
家の間取り図は提出しましたが、さらにこまかい点を写真に撮ってほしいとのこと。
玄関の上がり框の段差、トイレの入り口、お風呂場の入り口の段差、浴槽の深さと大きさ、
手すりはあるか?部屋からトイレまでの距離は?
冷蔵庫はどこにあるか?それからなんだっけ???

いよいよ、本格的な身障者扱いである。

そのうち、家までいらして、改善点を指摘してくださるそうです。
もうすべて、その道のプロに考えていただくしかありません。
それに従って、我々夫婦の生活が新展開されるわけです。

本に埋もれた夫の書斎に介護ベットが入り、その周囲をケアしてくださる方々が動ける空間をつくり……。
夫が一番嫌う「書斎への介入」を余儀なくされます。
そのために、まずは帰宅後、娘が中心になって、本の整理が始まりました。
棄てるわけにはいかないので(ものすごく怒るので……。)

さてさて、帰宅後の夫がどういう反応をするのか?

「居間(兼食堂)にベッドを置くのはどうか?」と夫から電話。
書斎をいじられたくないがための苦肉の策ですなぁ。

早寝早起きの夫が居間(兼食堂)にいつもいられたら、ノイローゼになるわ。
「書斎が一番好きだったところでしょ?」と反論。

本日ここまで。

昨日はお休み

2017-07-21 11:47:59 | Care


夫が入院してから、カメラを持ったのは一回のみです。しかも19日の「ヘクソカズラ」でした(笑)。
(過去の写真を使っています。画面が寂しくないように。)

昨日は、お休みがとれた娘が夫の病院に行ってくれました。
暑いなかを、本当にありがとう。感謝します。

昨日の夫からの電話は頻繁。
「娘に電話してもいいか?」
「もう少し、寝かせてあげなさい。何の用があるの?」
「何時にくるのか?」
「いつものシャトルバスの時間です。」

シャトルバスの時刻表を、いつも手の届く場所においてあるじゃないか。

「朝、手がしびれる。看護婦さんに温めてもらうと治る。」
これについては、ドクターよりお話があって、脳梗塞の症状の一つであるとのこと。
処方もしてくださったとのこと。

「家に帰ってから、君が毎回湯を沸かして、タオルを温めるのは大変だから、
 柔らかいあんかを買おう。」と言う。
「そういうことが起きなくなってから退院です。」と申し上げる。
看護婦さんのやって下さる、様々な大変なお仕事は妻にできることと出来ないことがあります。
そのためのリハビリ科の入院なのですよ。

看護婦さん、療法士さん、ケースワーカーさん、本当にありがとうございます。
そして、いつも協力体制にある娘に感謝します。

介護保険

2017-07-19 21:00:23 | Care


本日、病院のケースワーカーさんにお会いしました。
丁寧に、優しく教えて頂きましたが、なにせ、初めてのことで全部覚えきれませんでした。
ケースワーカーさんは、「いつも病院におりますので、連絡を下さいね。」とまたまた優しい。

しかしながら、回復にゆるゆると向かっているのですが、
予備知識として、土壇場であわてないように、知っておくべきでしょうね。
最悪の状況を想定するか?あるいは、楽観的になるか?どちらとも言えない今、
知識としてきちんと知っておくべきでしょうね。

再度、状況の整理。

6月7日~9日   カテーテル検査
6月21日~22日  カテーテル治療

6月26日   救急車にて「脳外科」に入院。脳梗塞とのことです。
7月13日   介護タクシーというものに乗って、別の病院の「リハビリ科」に転院。目下ひたすらリハビリです。

本日は、カテーテル治療の診断書の申請に行って、それから夫の病院へ。
ついに「介護保険」にまで辿り着いた。多忙な夏である。倒れそうだ。

陽の沈む海へ

2017-07-17 14:07:28 | Care


昨日は、息子一家がお見舞いに。
Y君は元気がありません。じいじの様子が不安なのでしょう。


夫のリハビリの成果はわずかづつですが、悪い方向にはいっていません。
本人も本気で頑張っています。
自力で生活できないことは、本人も避けたいことでしょう。
そのことは、順調ではありますが、予想外の状況が起きています。
本やCDを届けたり、精神面での協力にも関わらず、
本人が最も望んでいることは、なるべく長い時間(できれば毎日)わたしがそばにいることでした。

昨日は、共に病院に同行してくれた娘に助言されていました。
「お母さんの苦労もわかってあげなさい。暑いなか毎日ここに通うだけではなく、
家に帰れば、病院や保険関係の雑多な仕事もあるし、
諸々の雑用がたくさんあるのだから。」
そして、今日は娘が病院に行ってくれています。久しぶりのお休みです。ありがとう。

そういえば、それは義父母と同じ風景でした。
入院先の義父の病室で、義母は共にいて、帰宅できませんでした。
今ならば、病院側がおそらく許可しないでしょうが、あの時代は許されたのですね。
そのような義父母をモデルにこんな詩を書いていました。


   陽の沈む海へ
 

  ここは山にかこまれた小さな村
  「陽の入る村」と呼ばれています
  山ひとつ越えると そこには
  「陽の沈む海」がありました

  その海から
  魚売りの行商は一日おきにやってきました
  帰りには
  村に一軒きりの薬屋の品物を
  海辺の村へ運びました

  その薬屋のおばあさんは
  村人の持ってくる
  大根や豆や薪の代わりに
  風邪や腹痛や化膿止めの薬を渡しました
  それが荒縄やあけびであっても
  薬は交換されました
  けれども おじいさんは
  わがままな村長のおくさんのお金と
  栄養剤を交換しませんでした

  おじいさんは
  自分の病気を治せないとわかった日から
  おばあさんを片時もはなさず
  一九六日を共に過ごして
  木苺の実る日に逝かれました

  それから おばあさんは
  長く暑い夏をきちんと生きて
  柿の実の色づいた朝に逝かれました

  たくさんの村人に見送られ
  二人の魂は行商の背に揺られながら
  「陽の沈む海」へ運ばれました
  村をかこむ山々の木々は
  秋風のなかに立ち尽くしています
  数日ののちには こらえきれずに
  赤く泣きはらすことでしょう

  木々が泣きつくしたら
  小さな村の冬のはじまりです
  山のむこうの
  潮騒の音がかすかに聴こえる季節です


  (詩集・河辺の家より)


河辺の家

2017-07-16 21:59:31 | Care


夫の入院先へ通いながら、しきりに思い出す自作の詩があります。
恥ずかしながら、ここに掲載します。

私の介護の事始めはこれだったのでしょう。
   

   河辺の家

   写真の家の南側には
   五つの大きな二重窓が並んでいた

   凍結を解かれたスンガリー河が
   音をたてて流れる つかの間の夏
   若かった母がその窓を開けると
   朝のまぶしい光とかわいた風が
   父とわたしのまわりをめぐったのだろうか

   占領国の子として そこに産まれ
   敗戦国の子として そこを追われた
   その家は いつも
   記憶の届かないところに佇んでいた

   おだやかに川の流れる町が
   やがてわたしたちの住処となった
   重い雨戸を戸袋にしまいおえると
   戦後の貧しい朝が訪れた

   すもも つるばら ほおずき みょうが
   板塀に貼りついた蝉のぬけがら
   ラジオ 卓袱台のうえの薬瓶
   点在する記憶をたぐってゆくと
   夏風邪をひいた小さなわたしが眠っている
   水仕事のあとの母の手が
   時折わたしのまどろみのなかにさし入れられ
   そして立ち去っていった
   夕暮れると父は鳴かない鈴虫を連れ帰った

   一九九五年 晩夏
   川辺の古い家
   わたしのととのえた夕餉は
   老いたちちははの
   口腔の奥にあるふるさとに届かない
   食べ残しの多い食卓をかたづけて
   小さな軽いちゃわんを洗うとき
   窓の外はすっかり闇夜

   わたしのうしろにいる子供たちよ
   わたしの前にはもう誰もいません
   ちちははは
   小さなわたしも 写真の家もすりぬけていって
   それぞれのふるさとを思って
   まどろんでいます