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一日一句(3197)







ゆく川の流れは絶えず櫻かな






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一日一句(3196)








咲き初めて枝垂櫻は妖しかな






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往還日誌(132)







■3月17日、日曜日、雨。6時起床、ルソーの『社会契約論』を原文で読む会の準備。

午前中、読書会。ルソーの専門家のN先生にいろいろルソーの「一般意志」について聞く。この概念の分かりにくさは、これがdiscriptive(記述的)な概念ではなく、normative(規範的)な概念であることなんだろう。要するに、こういう種類の概念の取り扱いに普通は慣れていない。

科学に接する場合、自然科学であろうと、人文科学であろうと、社会科学であろうと、マックス・ヴェーバーの理念型のような、モデル構築を行い、歴史的現実との差異を説明するための道具的で記述的な概念は、わかりやすい。

ルソーの「一般意志」は、歴史的現実の説明のための記述的な概念ではなく、そうであるべき概念である。このため、それは、理論の前提に置かれ、現実批判の原理的な根拠となる。

したがって、ルソーの「一般意志」は、熟議民主主義の理論家たちのような、討議によって合意に達するというベクトルとは異なっている。「一般意志」は、理論的な前提なのである。

このとき、2つの点が重要で、一つは、それが「意志」(volonté)であること、二つは、それが「一般的」(générale)であること、である。意志であることの意味は、それが行動を前提にするということである。一般的であるということは、それが、部分的ではない、あるいは特殊的ではない、ということである。

そして、「一般意志」とは、言い換えると、「人民全体の意志」(la volonté du corps du pueple)である。このとき、フランス語の人民という言葉をルソーはpuepleと表記しているところが、一つのみそで、これは、pueplesという複数形になっていないのである。

pueplesとなっていると、たとえば、les peuples du Afrique(アフリカの諸民族)のように、アフリカ大陸内の異なる複数の民族集団をあらわし、個別性が出てくるが、la volonté du corps du puepleのle puepleは、個別概念ではなく、普遍概念、あるいは、全体概念なのである。これは、集合名詞で「人民全体」を表す。それが「事実的に」諸民族からなっているという面を概念化しない。そうではなく「規範的」に、あるいは「理念的」に、人民全体をさすのである。

ここから、たとえば、「国家利権村」という私が考えた概念――税金や企業利益を媒介として、それを相互に利権とする官僚・政治家・軍産複合体・資源企業・金融企業・情報企業・コーポレートメディア、御用学者などの一部利権集団が「国家」を騙って出てくる現象――で、現存国家を批判する場合、それが、人民の一部の意志のみを体現したもので、人民全体の意志ではないと、現存国家を批判できるための、「原理的な根拠」をルソーの「一般意志」は提供するのである。

これは、私の「社会操作論」の柱の一つで、ルソーの「一般意志」は、その原理的な根拠となる。

現代において、「民主主義」は、国家と結んだ大企業や支配エリートが利益を拡大するための、一つの操作手段として使用されている。そのもっとも、極端な形が、良いもの、民衆主体のものとされている「カラー革命」(典型例が、ユーロマイダン・「クーデター」)である。これは、入念にプロットを国家機関と経済セクターが練って、諜報機関や軍等を活用し内政干渉して行うものである。

こうした操作手段としての民主主義を解体して、本来の民主主義に戻すための批判的な原理論がルソーの「一般意志」には含まれている。

操作を批判して、これをひとつずつ解体していけば、自動的に、本来の民主主義が、現れるとは思っていない。

これは必要条件にすぎない。しかも、この批判作業は、相当な劣勢と危険を強いられる。しかも、常に「操作的反動」がある。

操作は、支配集団の既得権益と関り、そもそも、現存社会全体の再生産メカニズムと関わっているからだ。

ここから、先は、まだ、思索と理論化が必要だろう。

とくに、関心を持っているのは、熟議民主主義的な系譜でとらえたときの「オープンダイアローグ」。この、統合失調症で劇的な治療効果をあげている手法は、狂気・正気の枠を取り払って、「人民」の概念を「事実的に」拡張し、普遍化を志向している。狂気を社会に包摂できれば、その他のdiscriminationも包摂できる。

「一般意志」は、演繹的なベクトルによる批判作業と帰納的なベクトルによる実践作業がありえるのではないか。

この帰納的側面が恐らく、社会運動などとも関わる局面であるだろう。

午後、散歩に出る。

一条戻橋の河津櫻をめざした。

途中、烏丸今出川の「京麺」で京黒麺を食する。豚骨ラーメンを出すのだが、スタッフ全員が元気な中国人であるところが、日本の今を反映している。その向かいの「天一」は、2023年9月20日をもって、人手不足で休業に入った。

「美味しかったよ」とスタッフに言うと、元気よく出口まで見送ってくれた。

一条戻橋の河津櫻は、もう満開はすぎて、緑の葉が出てきている。

多くの人がスマホで撮っていた。雨は、4時には上がった。

堀川通りを南下して大垣書店へ入り、雑誌の定期購読を申し込む。ここは、コミックと文庫と絵本で、品数は少ない。ただ、落ち着けそうなカフェが隣接している。

詩集と科学史の文庫を購う。

きのうは、0時には入眠できたので、時間を有効に使えた。このパターンが、京都ではいいように思った。

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一日一句(3195)







咲く前の花美しきしだれかな






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一日一句(3194)







まぼろしの花をつけたるしだれかな






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一日一句(3193)







東山高く笑うて何か言ふ






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一日一句(3192)







晴明が戯れに成す櫻かな


一条戻橋の河津櫻が満開と聞きて






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一日一句(3191)







光悦の茶碗は加賀の春日かな






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一日一句(3190)







マスクして佐保姫たちは出かけたり






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一日一句(3189)







三月の夜塔ひとつ高くあり






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