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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・9

2010-01-12 01:54:51 | Poem
裁く者たちよ 誇らぬがよい、拷問具を使わぬことや
鉄の輪がもはや頸を締めつけないことを。
心は 心はけっして高められていず――それは 意識的な寛容の
痙攣がおまえたちの顔を優しげに歪めているのを見ればわかること。

処刑台は諸時代をとおしてそれが受け取ったものを
返してよこすだけなのだ、子供たちがもう遠く過ぎた誕生日の
玩具をそうするように。純粋で 高い 門のような
開かれた心のなかへ別の仕方で入ってくるであろう、真の寛容の

神ならば。彼は力強く到来して、輝きまさりつつ その力を
あたりにおよぼすことだろう、神的なものらがそうであるように。
大きく安全な船らを吹き揺るがせる風よりもなお強く。

しかし彼はまたひそかにそれとなく感知されるのだ、
無限の交合から生まれた 静かに遊んでいるひとりの子供が
沈黙のうちに わたしたちを内部でとらえるように。

(田口義弘訳)


裁きする人々よ、拷問台が不要になったと誇るのはやめよ、
鉄の輪が、首を締めることもなくなったと。
どれ一つ、どの心一つ高められてはいない――ことさらな
慈悲の痙攣がいっそうやさしげに君らの顔を歪めるだけだ。

時代時代に受けとったものを処刑台は
贈り返すというだけだ。ちょうど子供が、遠い誕生日にもらった玩具を返すように。
まことの慈悲の神ならば、高らかな、
門のように開かれた心のなかへ

別な風にはいってゆくだろう。その神は力に充ちてきたり、
神々のひとりにふさわしく、いやます光の手をもって周囲に拡がるだろう。
大きな安泰な船をゆるがす風にもまさる力だ。

無限の交合(つがい)から生まれ、ひっそりと遊ぶ子のように、
無言のままわたしたちの心をつかむ
ひそやかな、内密の認知さながらに。

(生野幸吉訳)



 実は冒頭の1行目の「拷問」という言葉で、この「9」を跨いでしまおうか、とも思いました。その上失礼ながらこの翻訳はどうにも読みにくいのです。なんとかやってみます。
 まず「処刑台」の比喩として「子供たちがもう遠く過ぎた誕生日の玩具をそうするように。」あるいは「ちょうど子供が、遠い誕生日にもらった玩具を返すように。」と書かれていることは驚異でした。この部分は誤解をせぬようにしたいものです。

 残酷な処刑の「拷問」「鉄の輪」などは、具体的には過去の出来事になったように見えますが、実は人間そのものの内部は、歴史のなかでは変革されたわけではないということ。それとも死刑台が根絶やしにしたはずのさまざまな罪、あるいは裁判官がちょうど玩具を与えるように死刑台に送った罪人たちは、結局姿を変えて今日も存在しているということ。玩具を与えられたのは死刑執行人なのか?
 人間の愚かしさと残酷さは、歴史のなかでその本質は変わらない。神のような高められた精神も、よりよい理性もないのだ。現にリルケの次の時代には、すべての過去の残虐を凌駕するようなことが多数の指導者と群集によって、正当化された口実によって実行されたではないか。


 リルケの「ヘルマン・ポングス」宛ての手紙には「神の慈しみは神の過酷にきわめて言い表しがたく結びついているのですから・・・」と書かれています。あらためて言えば、このソネットのメインとなる思想は「オルフォイス」です。オルフォイスこそが真の優しさの神、あるいは「死」と考えられます。

 最終連の「無限の交合」から生まれた子供とは、無常な生の時間を繰り返し繋ぎ続けたものは、限りない交合から表れる甘やかな子供、その子供が無心にひっそりと遊んでいる時にも「死」はこの上なくやさしくわたくしたちの心に触れると言うのか?

オルフォイスへのソネット第二部・8

2010-01-09 21:30:39 | Poem
 「ソネット第二部・5、6、7」の「花」シリーズはすでに書きましたので、「8」に飛びます。順不同で申し訳ありません。(←と言っても読者はいるのかなぁ。笑)ここでは「幼年期」が書かれています。そこで思い出す「リルケ」の言葉ががあります。『パリの手紙』より・・・・・・。

幼年時代を持つということは、
一つの生を生きる前に、
無数の生を生きるということである。



 さて本文に入ります。


都会のあちこちに散在する公園で かつて幼時に
ともに遊んだおまえたち 数すくない友だちよ、
私たちは姿を見つけあい ためらいつつたがいを好きになり、
そして言葉の帯をくわえた仔羊のように

黙ったまま語りあったものだ。私たちが愉しんでいるようなときも、
だれのものでもそれはなかった。だれのものだったのだろう?
そしてなんとそれは 歩いてゆくすべての人びとのあいだで
また長い年月の不安のなかで 霧散してしまったことだろう。

馬車は私たちのまわりをよそよそしく旋転して通りすぎ、
家々は私たちのまわりに力強く、しかし不真実に立ちならび――そしてどれも
ついに私たちは知らなかった。いっさいのなかで何が真実だったろう?

何ものも。ただボールだけ。ボールの描くみごとな弧線だけ。
子供たちもそうではなかった・・・・・・だがひとりの子が、
ああ ひとりのはかない子が、落ちてくるボールの下に歩みよったのだ。 
      
    (エーゴン・フォン・リルケの想い出に)  (田口義弘訳)


 「エーゴン・フォン・リルケ」とは、リルケの2歳年上の従兄、わずか7歳で夭逝しています。また「マルテの手記」のなかに登場する、子供のままに死んでしまった「エーリク・ブラーエ」も、ここで思い出されますね。

 ここでさらにもう1編の詩を紹介します。「形象詩集」に収められている「幼年時代」です。

幼年時代    上村弘雄訳

(前略)

そしてこんな遊びをする 穏やかにたそがれてゆく公園で
ボール投げ 輪投げ 輪廻しなど
ときおり大人たちに触る
鬼ごっこで心せくままやみくもに 荒々しく
しかし夕べにはおとなしく 小さなかたい足取りで
かたく手を握られて家路につく――
おお ますます遠のいてゆく理解
おお 不安 おお 重荷。

(後略)

 リルケの父親は元軍人。母親は結婚後まもなく女児を設けたが早くに亡くなり、その後一人息子のリルケ(ルネ)が生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが9歳のとき母は父のもとを去っている。母は娘を切望していたことからリルケを5歳まで女の子として育てた。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった。
 1886年に10歳のリルケはザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に入学。1890年にヴァイスキルヒェンの士官学校に入れられたが、1891年6月についに病弱を理由に中途退学している。

 こうした幼年期の体験が、リルケに大きな影響を与えたことは想像できる。心の傷のような・・・・・・。「幼年期を運命によって取り消されぬように。」と深く願うリルケの内面が見えてきます。


そして言葉の帯をくわえた仔羊のように


 これは、画家「アーダム・エルスナー」の描いた「エジプトに逃れたおりの憩い」という絵画に登場する仔羊のことで「銘帯」には「見よ。神の仔羊」と記されているのです。エジプトに逃れたのはおそらくキリストだろう?

 
何ものも。ただボールだけ。ボールの描くみごとな弧線だけ。


 ボールの描いた弧線は、宇宙のさまざまな見えぬ法則が描き出す美しいもの。この弧線だけは、偶然の侵害を受けることなく描かれた。その落ちてくるボールに歩みよる夭折の少年の姿が美しく活写されています。ひとつの弧線によって結ばれた2人の少年たちよ。

オルフォイスへのソネット第二部・4

2010-01-07 23:21:30 | Poem
おお これは存在しない獣。
人びとは実際には知らぬまま それでもやはりこの獣を
――その歩み そのたたずまい そのうなじ、
またその静かなまなざしの光までを――愛してきた。

なるほど存在してはいなかった。だが人びとが愛したから生じたのだ、
1頭の純粋な獣が。人びとはいつも空間をあけておいた。
そしてその澄んだ 取っておかれた空間のなかで、
それは軽やかに頭をもたげ そしてほとんど

存在する必要がなかった。人びとは穀物ではなく
いつもただ存在の可能性だけでそれをはぐくんだ。
そしてその可能性がこの獣に強い力をあたえ、

それは自分のなかから額に角を作りあげたのだ。1本の角を。
ひとりの処女のところへそれは白い姿で近寄ってきた――
するとそれは銀の鏡の、そして 彼女の内部にあった。

 (田口義弘訳)


おお、これは現実には存在しない獣。
ひとびとはこれを知らず、それでもやはり
――そのさまよう姿、その歩みぶり その頸を、
そのしずかな瞳のかがやきすらを、愛した。

たしかに存在はしなかった。しかし人々はこれを愛したから、
純粋の獣が生まれた。人々はいつも余白を残しておいた。
そしてその透明な、取っておかれた空間で
獣は軽やかに首をあげ、そしてほとんど、

存在する必要さえなかった。人々は穀物では養わず、
いつも存在の可能性だけでこれを育てた。
可能性こそ獣に大いに力をあたえ、

ために獣の額から角が生まれた。ひとふりの角が。
ひとりの処女(おとめ)のかたわらに、それはしろじろと寄った――
そして銀(しろがね)の鏡のなかに、そして処女のうちに、まことの存在を得たのだった。

 (生野幸吉訳)


 「マルテの手記」に書かれているように、リルケはパリのクリュニ美術館で観た「貴婦人と一角獣」と題されたゴブラン織りのタペストリーによって「一角獣」の姿を初めて観ているのです。
 また「新詩集」のなかには「一角獣」という詩も書かれています。さらに同詩集のなかに「ピエタ」という詩もあって、ここでも「一角獣」は登場しています。リルケにとってはそれは清らかな驚きとなったのでしょう。

一角獣  塚越敏訳

(前略)

象牙の脚立のような脚は
かろやかな均衡をえて 動いた。
白い輝きが浄福にあふれて獣皮をすべった。
その動物の静かな明るい額のうえには
月光を浴びた塔のように 角が明るく立っていた。
歩むその一歩は 角を直立させるためであった。

(中略→終連)

像という像をおのれの空間に投げ入れ
青い伝説の圏を閉じるのであった。


 「一角獣」は凶暴な力の象徴とされ、猟師はこれに近づくことはできない。しかし清らかな処女を慕う性格を持ち合わせているために、「純潔」の象徴とされている架空の生きもの。また、マリアの清らかさに魅せられた雌山羊が交合することなしに胎内に宿した子山羊が「一角獣」だという説もあります。体の色が「白」だということも含めて、「純潔」の象徴となります。

 実在しない「一角獣」・・・・・・しかし人々はいつも「一角獣」のために「空間」をあけておいただけであり、食物を捧げるわけでもなく、存在する可能性を信じることで、その存在をはぐくんだということでしょう。
 
 この「ソネット・4」は「ソネット・3」の「鏡」の延長線上にあって、銀の鏡のなかにいる処女の内部空間に「一角獣」は存在しているということでせう。

オルフォイスへのソネット第二部・3

2010-01-06 11:57:12 | Poem
鏡よ、おまえたちの真の姿の消息を
描いた者はついぞいない。
篩の目だけでみたされた
時の間隙よ。

空ろな広間をはやくも浪費するおまえたち、――
たそがれてくると、森のように広くなるおまえたち・・・・・・
するとシャンデリアが十六枝角の鹿のように
おまえたちの不可侵の世界にはいってゆく。

ときとしておまえたちは絵でいっぱいだ。
そのいくたりかは、おまえたちの内部にはいったかに見え――
また別の人たちを、おまえたちは憚るようにやりすごす。

だがいちばん美しい人は、そのままのこっているだろう。
鏡のなかで、その控えめな顔に
明澄な、呪を解かれたナルシスがとけいるまでは。

 (生野幸吉訳)


 この「鏡」は、日常の調度品として存在しているものではない。鏡に映るものは篩にかけられて(つまり、不純物を除く、濾過的な機能を持っているものとしての比喩。)純化させられたものでなくてはならないという、リルケ自身の内面と言えばいいのか?現実にある鏡から、想像上の鏡の世界を仮構したものであり、またこの鏡が映すものを変化させてゆく作用すらある。

 2連では、おそらくバロック様式の城館に見られるような、壁面全体が鏡となっている広間が想像される。まだ夜会が始まる前の人気のない場所である。鏡と鏡とが互いに映しあう時、すべてが幾層倍にも映しだされるのです。
 現代の女性の鏡の具体的な例をあげれば、三面鏡の世界が繰り広げる映像の際限もない奥行を考えてみるのもいいだろう。やがて広間は人々で賑わい、鏡は絵で満たされる時を迎える。


だがいちばん美しい人は、そのままのこっているだろう。


・・・というのは、人間(女性かな?)の美しさや醜さを選別しているわけではないだろう。このソネットには、実は友人の女性画家「パウル・ベッカー」の死を悼んで書かれた「鎮魂歌」が背景にあります。


そしてついに自分自身をあなたは1個の果実のように
見なし、着衣のなかから自分を引き出し
鏡の前に連れてゆき ただ凝視だけを遺してそのなかへゆだねた。
鏡の前に大きく残った凝視は、それほどまでに好奇心もなく、
所有もない 真に貧しいものになり、
もはやあなた自身を欲せぬ――聖なるものだった。
あのようなあなたをぼくはとどめておきたい、
あなたがあなたをあらゆるものから放って鏡のなか深く置いた
そのようにして。・・・・・・



 さらに「ヴァレリー」の長編詩「ナルシス断章」の独訳をしていることも、最後に突然「ナルシス」を登場させたことの意味もわかってきます。また「マルテの手記」にも「鏡」の場面があります。「鏡」というテーマは繰り返し「ソネット」以外にも書いています。これは「鏡」に限ったことではなく、リルケの創作活動全体の特色で、1つのテーマを追いつつ、繰り返しその度に意識は昇降し、広がりをもってくるように思われます。



 《田口義弘訳を追記します。》

鏡よ、まだ深く知って書きしるした者はいない、
おまえたちが本質において何であるかを。
おまえたち 時と時とのあわいの空間よ、
篩の目ばかりでみたされているような。

おまえたち まだ人のいない広間の浪費者よ、
たそがれどきには連なる森のように奥深いものたち・・・・・・
しかしあの枝型燈火(シャンデリア)は十六枝角の鹿のように通っていくのだ、
おまえたちの踏みこみえない領域を。

時おりおまえたちは絵にみちている。
いくたりかはおまえたちの内部に入ったようだが――
そのほかの者をおまえたちは臆してただ前を通らせるだけ。

だがいちばん美しいひとはとどまるだろう、
おまえたちの奥で、そこに容れられた彼女の頬のなかに
澄んだ 解かれたナルシスがしみこんでゆくまで。


 「ナルシス」とは、水に映る我が姿に恋をして、ニンフのエコーの愛も受け入れず、ついには水に溺れて「水仙の花」になったというギリシャ神話に出てくる美青年、ということは当然ご存知だろう。最後の1行にある「呪を解かれたナルシス」、「澄んだ 解かれたナルシス」というのは、「水仙の花」からふたたび青年の姿に戻って、鏡のなかにいる「1番美しいひと」の顔あるいは頬にしみこんでゆくということではないだろうか?「ナルシス」と「水鏡」とのリンケージと考えたらどうだろうか?

リンゴ   まど・みちお

2010-01-04 15:27:21 | Poem
リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにもない

ああ ここで
あることと
ないこととが
まぶしいように
ぴったりだ


 3日夜、NHKスペシャル「まど・みちお百歳の詩」を観ました。眠かったのに、観ているうちに眠気が吹き飛んだ。「百歳」ですよ。それなのに毎日車椅子で屋上から空を見たり、小さな生き物や自然の恵みを見たり、水辺を見たり、興味は際限もなく、日々は驚きに満ちていました。谷川俊太郎が少しだけ登場して、インタビューに答えて「まど。みちお」の仕事について語っていましたが、その比喩として出されたものは、以前朝日新聞でも語っていた「ウイリアム・ブレイク」のこの詩でした。


一粒の砂に 世界を見
一輪の野の花に 天国を見る


 かつて日本人初の「国際アンデルセン賞」を受賞した記念に出版された「まど・みちお全詩集 1993年第8刷」を久しぶりに開く機会となりました。


ぞうさん
ぞうさん
おはながながいのね
そうよ
かあさんもながいのよ

 
 この「ぞうさん」の童謡ばかりが一人歩きしている感のある「まど・みちお」ではありますが、この詩人の仕事はこういうものばかりではない。上記の「リンゴ」は「リルケ」がさぞや驚くだろうと思いました。「オルフォイスへのソネット第二部・1」の第1連と響きあっていませんか?


呼吸よ 眼に見えぬ詩!
たえず 私自身の存在と
純粋に交換される世界空間。そのなかで
私が律動しつつ生成する対重。


 しかも「まど・みちお」はわかりやすい言葉でこうした「世界空間」を書くのでした。詩作はこのようでありたいと切望しました。「地球の用事」「れんしゅう」「深い夜」などなど紹介したい詩はたくさんあるのですが、今回は省略します。

  *   *   *

 「まど・みちお」には別の局面もあります。彼は戦時中に「戦争協力詩」を2編書いたことを隠すことなく「全集」に収めています。「戦争協力詩」を書いた後に、彼は招集を受けて戦争に駆り出されて、そこで戦争のむごさを見たのです。そしてこの全集をまとめるにあたり、この2編を出版社などに協力をお願いして、探していただいて、意識的に隠すことなく収録したのです。自らの恥を謝罪すらなさっています。

オルフォイスへのソネット第二部・1

2010-01-02 21:05:27 | Poem
呼吸よ 眼に見えぬ詩!
たえず 私自身の存在と
純粋に交換される世界空間。そのなかで
私が律動しつつ生成する対重。

ただひとつの波、
私はその徐々の海。
あらゆる可能な海のうちの最も倹約の海――
空間の獲得。

空間のこれらの場所のどれほど多くが
すでに私の内部に存在していたことか。
風たちは私の息子のようだ。

私を覚えているか、空気よ かつて私の場所にみたされているものよ。
かつての 私の言葉のなめらかな樹皮、
まるみ、そして葉よ。

 (田口義弘訳)


呼吸よ、眼に見えぬ詩よ!
たえず 自分自身の存在を
きよらかに交換される世界空間よ。リズムをもって
わたしが生きる平衡よ。

ゆるやかに動く大海であるわたしの
唯一の波。
考えられるすべての海のうち、最も倹しく貯える海、
空間の獲得よ。

空間のこれらの箇所のどれほど多くが
以前からわたしのなかにあったことか。あの風もこの風も
まるでわたしの息子のようだ。

大気よ、わたしを見分けられるか?かつてわたしのものだった場所でいっぱいの大気よ、
わたしに言葉のかつての滑らかな樹皮、
円み、そうして葉である大気よ。

 (生野幸吉訳)


 「オルフォイスへのソネット第二部・2」について、先に書いてしまいましたが、ここで改めて「1」に戻り「呼吸」について考えてみます。「呼吸」というごく無意識な人間の存在保証に過ぎないものに、リルケはここに生きる根本と共に、言語もまたこの空気を介して発せられるものと考えます。
 しかし「悲歌」ではそれには消滅の因子も隠れていることを書いています。その無常も含めて、リルケはたたえようとしています。それが「オルフォイス」世界へのリンケージでしょうか?

 古代ギリシャ哲学では「プネウマ」とは「息」や「風」のことで、人間の生命の原理を示しています。聖書では「プネウマ」は精神生命の原理、あるいは「霊」のことを言います。

 「アナクシメネス」が残したと言われる「空気である我々の魂が、我々を統一して保つように、気息(プネウマ)と空気が世界を包みこんでいる。」という言葉の断片が、後の哲学者や詩人たちに受け継げられたであろうと想像しても許されるのではないのか?

 青年期に出会った「ロダン」について、リルケが1907年に行った講演のなかで、「ロダン」が新しい作品を制作することを「空間の獲得」と言っています。

 さらに、リルケの詩集「時祷(←旧字が出ません。)書」のなかにはこう書かれています。


なぜなら私たちはただ外皮や葉であるにすぎない。
人みながその内部にもつ大いなる死は、
すべてがそのまわりをめぐる果実なのだ。



 リルケの著書には「ドゥイノの悲歌」「マルテの手記」あるいは過去の詩集などに繰り返し同じ意味を持った言葉が表れます。それらの集大成として、ほぼ同じ時期に書かれたこの「オルフォイスへのソネット」と「ドゥイノの悲歌」に最終的に集約されたものと思われます。