裁く者たちよ 誇らぬがよい、拷問具を使わぬことや
鉄の輪がもはや頸を締めつけないことを。
心は 心はけっして高められていず――それは 意識的な寛容の
痙攣がおまえたちの顔を優しげに歪めているのを見ればわかること。
処刑台は諸時代をとおしてそれが受け取ったものを
返してよこすだけなのだ、子供たちがもう遠く過ぎた誕生日の
玩具をそうするように。純粋で 高い 門のような
開かれた心のなかへ別の仕方で入ってくるであろう、真の寛容の
神ならば。彼は力強く到来して、輝きまさりつつ その力を
あたりにおよぼすことだろう、神的なものらがそうであるように。
大きく安全な船らを吹き揺るがせる風よりもなお強く。
しかし彼はまたひそかにそれとなく感知されるのだ、
無限の交合から生まれた 静かに遊んでいるひとりの子供が
沈黙のうちに わたしたちを内部でとらえるように。
(田口義弘訳)
裁きする人々よ、拷問台が不要になったと誇るのはやめよ、
鉄の輪が、首を締めることもなくなったと。
どれ一つ、どの心一つ高められてはいない――ことさらな
慈悲の痙攣がいっそうやさしげに君らの顔を歪めるだけだ。
時代時代に受けとったものを処刑台は
贈り返すというだけだ。ちょうど子供が、遠い誕生日にもらった玩具を返すように。
まことの慈悲の神ならば、高らかな、
門のように開かれた心のなかへ
別な風にはいってゆくだろう。その神は力に充ちてきたり、
神々のひとりにふさわしく、いやます光の手をもって周囲に拡がるだろう。
大きな安泰な船をゆるがす風にもまさる力だ。
無限の交合(つがい)から生まれ、ひっそりと遊ぶ子のように、
無言のままわたしたちの心をつかむ
ひそやかな、内密の認知さながらに。
(生野幸吉訳)
実は冒頭の1行目の「拷問」という言葉で、この「9」を跨いでしまおうか、とも思いました。その上失礼ながらこの翻訳はどうにも読みにくいのです。なんとかやってみます。
まず「処刑台」の比喩として「子供たちがもう遠く過ぎた誕生日の玩具をそうするように。」あるいは「ちょうど子供が、遠い誕生日にもらった玩具を返すように。」と書かれていることは驚異でした。この部分は誤解をせぬようにしたいものです。
残酷な処刑の「拷問」「鉄の輪」などは、具体的には過去の出来事になったように見えますが、実は人間そのものの内部は、歴史のなかでは変革されたわけではないということ。それとも死刑台が根絶やしにしたはずのさまざまな罪、あるいは裁判官がちょうど玩具を与えるように死刑台に送った罪人たちは、結局姿を変えて今日も存在しているということ。玩具を与えられたのは死刑執行人なのか?
人間の愚かしさと残酷さは、歴史のなかでその本質は変わらない。神のような高められた精神も、よりよい理性もないのだ。現にリルケの次の時代には、すべての過去の残虐を凌駕するようなことが多数の指導者と群集によって、正当化された口実によって実行されたではないか。
リルケの「ヘルマン・ポングス」宛ての手紙には「神の慈しみは神の過酷にきわめて言い表しがたく結びついているのですから・・・」と書かれています。あらためて言えば、このソネットのメインとなる思想は「オルフォイス」です。オルフォイスこそが真の優しさの神、あるいは「死」と考えられます。
最終連の「無限の交合」から生まれた子供とは、無常な生の時間を繰り返し繋ぎ続けたものは、限りない交合から表れる甘やかな子供、その子供が無心にひっそりと遊んでいる時にも「死」はこの上なくやさしくわたくしたちの心に触れると言うのか?
鉄の輪がもはや頸を締めつけないことを。
心は 心はけっして高められていず――それは 意識的な寛容の
痙攣がおまえたちの顔を優しげに歪めているのを見ればわかること。
処刑台は諸時代をとおしてそれが受け取ったものを
返してよこすだけなのだ、子供たちがもう遠く過ぎた誕生日の
玩具をそうするように。純粋で 高い 門のような
開かれた心のなかへ別の仕方で入ってくるであろう、真の寛容の
神ならば。彼は力強く到来して、輝きまさりつつ その力を
あたりにおよぼすことだろう、神的なものらがそうであるように。
大きく安全な船らを吹き揺るがせる風よりもなお強く。
しかし彼はまたひそかにそれとなく感知されるのだ、
無限の交合から生まれた 静かに遊んでいるひとりの子供が
沈黙のうちに わたしたちを内部でとらえるように。
(田口義弘訳)
裁きする人々よ、拷問台が不要になったと誇るのはやめよ、
鉄の輪が、首を締めることもなくなったと。
どれ一つ、どの心一つ高められてはいない――ことさらな
慈悲の痙攣がいっそうやさしげに君らの顔を歪めるだけだ。
時代時代に受けとったものを処刑台は
贈り返すというだけだ。ちょうど子供が、遠い誕生日にもらった玩具を返すように。
まことの慈悲の神ならば、高らかな、
門のように開かれた心のなかへ
別な風にはいってゆくだろう。その神は力に充ちてきたり、
神々のひとりにふさわしく、いやます光の手をもって周囲に拡がるだろう。
大きな安泰な船をゆるがす風にもまさる力だ。
無限の交合(つがい)から生まれ、ひっそりと遊ぶ子のように、
無言のままわたしたちの心をつかむ
ひそやかな、内密の認知さながらに。
(生野幸吉訳)
実は冒頭の1行目の「拷問」という言葉で、この「9」を跨いでしまおうか、とも思いました。その上失礼ながらこの翻訳はどうにも読みにくいのです。なんとかやってみます。
まず「処刑台」の比喩として「子供たちがもう遠く過ぎた誕生日の玩具をそうするように。」あるいは「ちょうど子供が、遠い誕生日にもらった玩具を返すように。」と書かれていることは驚異でした。この部分は誤解をせぬようにしたいものです。
残酷な処刑の「拷問」「鉄の輪」などは、具体的には過去の出来事になったように見えますが、実は人間そのものの内部は、歴史のなかでは変革されたわけではないということ。それとも死刑台が根絶やしにしたはずのさまざまな罪、あるいは裁判官がちょうど玩具を与えるように死刑台に送った罪人たちは、結局姿を変えて今日も存在しているということ。玩具を与えられたのは死刑執行人なのか?
人間の愚かしさと残酷さは、歴史のなかでその本質は変わらない。神のような高められた精神も、よりよい理性もないのだ。現にリルケの次の時代には、すべての過去の残虐を凌駕するようなことが多数の指導者と群集によって、正当化された口実によって実行されたではないか。
リルケの「ヘルマン・ポングス」宛ての手紙には「神の慈しみは神の過酷にきわめて言い表しがたく結びついているのですから・・・」と書かれています。あらためて言えば、このソネットのメインとなる思想は「オルフォイス」です。オルフォイスこそが真の優しさの神、あるいは「死」と考えられます。
最終連の「無限の交合」から生まれた子供とは、無常な生の時間を繰り返し繋ぎ続けたものは、限りない交合から表れる甘やかな子供、その子供が無心にひっそりと遊んでいる時にも「死」はこの上なくやさしくわたくしたちの心に触れると言うのか?