ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展

2011-03-18 00:50:01 | Art
11日以来の東日本大地震のため、備忘録として書いておく気分も吹っ飛んでしまったのですが、
10日には渋谷で、映画「ブンミおじさんの森」を観た後で、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムにて、この美術展にも行ってきたのです。


詳細はフェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展をご覧ください。


もう書く気分ではないのですが、一応備忘録として。これらの作品はドイツのフランクフルトの「シュテーデル美術館」所蔵のものです。

このオランダの地理学者の時代には、地球に内包されている恐ろしい力をどこまで知っていたのだろうか?
この思慮深い表情は、夢みるような表情にも見える。
未知のものへ、思いを馳せているような、美しい表情だった。

大地震の前日に、渋谷の町を楽しんだということも、いつかなつかしく思い出せる日があるように、ここに一枚の絵画を残しておこう。


ブンミおじさんの森

2011-03-12 00:00:35 | Movie
ブンミおじさんの森』 予告編


監督・脚本・製作:アピチャッポン・ウィーラセタクン
製作:サイモン・フィールド、キース・グリフィス、シャルル・ド・モー、アピチャッホン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディープロム
編集:リー・チャタメイティクン
音響:清水宏一作品データ

原題:Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives
製作国:2010年イギリス・タイ・ドイツ・フランス・スペイン合作映画

上映館の渋谷の「シネマライズ」はわかりにくい場所にあって、ネットで地図をプリントして持っていっても、わからない。
2度も道を訊ねて、やっと辿りつきました。
小さな地味は映画館でした。座席も半分くらいしか埋まっていませんでした。
あれほど話題になっているのに、不思議でした。平日の昼間だからかな?

この映画は、第63回カンヌ映画祭でタイ映画に初のパルムドール賞をもたらした話題作です。

感想と詳細は後ほど。眠い。


《追記》

ストーリーに関してましては「ブンミおじさんの森・オフィシャルサイト」をご覧下さい。
今日の大地震で、いろいろな思いが吹っ飛びました。子供や孫の心配で時間を費やしましたので、もう書けません。
なんとこの日(あ。もう12日ですね。この日とは11日です。)が孫の誕生日だったのです。わすれることのない記憶となるでせう。
気象庁始まって以来の大規模地震だったということも。

ただ一言だけ。
死者と生者との境界はありません。
これは素朴な民族ならば、どなたでも自然に内包された考え方です。
「死」というものは、生まれ出た母胎にもう一度還ることではないでしょうか?
「死」というものは平等に人間に訪れる。死者はいつでも生者のそばにいるのですから。

人間は空と大地をどこで区切りますか?
それは不可能なことでしょう。「生」と「死」も同じこと。
だから真実愛した者の死を取り立てて、美化したりすることはしたくはない。
生きている間に愛し、偽りなくかかわったのだとしたら、静かに「死」を受け入れることはできるはず。

わさお

2011-03-06 22:50:29 | Movie
映画『わさお』予告編


映画『わさお』メイキング映像


監督:錦織良成
脚本:小林弘利
撮影:柳田裕男

《キャスト》】

セツ子:薬師丸ひろ子
主人公の秋田犬:きくやわさお (本人ではなく本犬が演じている。)


またまた「犬」の映画ですまぬ(^^)。

「わさお」は、青森県鯵ヶ沢町のイカ焼き店に実在する秋田犬で、ライオンのようなふさふさの白い体毛と個性的な顔立ちで大人気となった実在の犬です。
この実話をベースに映画化したもの。


ある日わさわさとした白い長い毛に覆われた大きな野良犬の秋田犬が、海辺の町「鯵ヶ沢町」の「いか焼き屋」の「セツ子」の前に現れる。
その時期、山には熊がいるという情報が流れ、農家は被害を受けていた。

捨て犬を引き取っては育てているセツ子は、この個性的な顔をしている秋田犬を「わさお」と名付けて育てることにするが、
いくら愛情を注いでも「わさお」に懐く様子はない。


「わさお」には、もう一つの過去がある。
子犬の時「しろ」と名付けられて、少年(この子も鯵ヶ沢町在住。)のもとで育てられていたが、
道路に飛び出した「しろ」をたすけようとした少年の母親が大怪我をする。
2度の手術を経て、母親はなんとか助かるのだが、
「お母さんが大怪我をしたのはお前のせいだ。」と言って、少年は「しろ」を拒否する。
父親は仕方なく、東京の親戚(子犬を少年にあげた人。)に「しろ」を戻す。
しかし、すぐに「しろ」は逃走。東京から鯵ヶ沢町までの永い旅をすることになる。

子犬の「しろ」を演じているのは、どうやら犬種としては「スピッツ」ではないか?

旅のなかで、「しろ」は「わさお」へと成長。少年がそれに気づくには母親の入院が長すぎて、
さらに新たな手術のために、山を越えた遠い病院へ転院という事態になっていた。
その後を追って、山道を行こうとした少年の後を追うのは「わさお」。

途中、少年と熊との遭遇。「わさお」は勇敢に熊と戦い、少年を救う。
町中の人々が「わさお」によって、活気を取り戻すというお話。

こうなると、実在の「わさお」像がかえって不明となってしまうのだが、
犬の鋭い嗅覚と、人間への忠実性は、「ハチ」だけでなく、東京から秋田まで主人を求めて旅した犬などもいる。
犬1匹が、どれほど多くの人間を癒すものであるか?という1点に絞られる。
それだけで充分である。

この映画には、実在の犬を、ドッグ・トレーナーが訓練したわけではなく、
「わさお」の現在の飼い主(いか焼き屋の女性)が、演技指導に協力したもの。
「わさお」ごくろさまでした。
海鳥の舞う海辺でのんびり過ごしたかったろうね?

妻の超然  絲山秋子

2011-03-03 22:18:57 | Book


「超然」という言葉の意味は……
①かけはなれているさま。高くぬきんでているさま。
②世俗にこだわらず、そこから抜け出ているさま。

この本には「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」の3作品が収められています。
読後のわが第一声は「なにが超然なんだ?こんなもので超然と言えるのだろうか?」というものであった。

自分ではどうしても言葉に出来なくて、それでも抱えこんでいるものが常にある。
そういうものを見事に言葉にできる著書に出会うこと。それが読書の唯一の期待であるからして、
読み終えて、うすいコーヒーを飲んだほどの気分だけでは困る。読みごたえがあったのは「作家の超然」だった。


《妻の超然》

中流サラリーマンの妻、専業主婦、子供はいない。
その夫は、月額の決まったお小遣いの範囲で、別の女性と交際している。
妻は気付いていても、嫉妬しない。追及もしない。
見慣れないブランド物のパンツが洗濯物にあったとしてもそれを追及しないで洗うだけ。
そうして暮らしてゆくうちに、夫の浮気は自然に終わる。
別々の部屋のベッドでお互いに寝ていたはずだったが、夫は「眠れない」と妻のベッドに入る。
その時、夫の科白が奇妙だ。「いつの世も夫が得するようにできているんだよ。」と……。

我が生活では考えられない夫婦関係に驚愕というか?奇妙というか?
「嫉妬」が皆無の夫婦関係というものが「超然」と名付けられるのは、とても奇妙だ。
それが夫婦間の徹底した無関心だとすればこれが「超然」というものか?
共に暮らす意味すらない夫婦ではないのか?つまらない妻だ。


《下戸の超然》

茨城県のつくば学園都市に暮らす下戸のサラリーマンと、同僚の上戸の女性との恋と別れ。
下戸は酔わない。下戸はお酒を飲んだ時の開放感やら後悔やら、口を滑らせることもない。
上戸の女性は、男の部屋で一人飲んでいても寂しい。
下戸はいつでも冷静であり、誠実でもあるのだが、恋人との関係にのめりこまない。
それは下戸と上戸との違いではないようだ。
「生きる」とか「愛する」とか「奉仕する」ということへの温度差の違いに過ぎない。
とりあえず、恋人同士という時間を共有しながら、やはり別れがくる。
温度は急上昇することもなく、よって下降も深い悲しみにはならない。これが超然???


《作家の超然》

これは自画像だろうか?この作品だけが奇妙な存在感をもっている。前記の2編とは趣が異なる。
東京を離れ、友人が住んでいる地方都市が気に入って、そこで暮らすことになった「おまえ」と称するヒロイン。
首に腫瘍がみつかったが、悪性ではない。手術すれば「飲み込み」と「声嗄れ」に支障が出るかもしれない。
しかし、物書きとしては大きな障害ではない、それ以上に腫瘍を抱えこんでいる状況を打破する方を選ぶ。
ドクターの話は物語のようだと「おまえ」は感じる。手術の結果は良好、支障はでない。

超然と死んでゆくはずだった「おまえ」は、またこの町で生きてゆくことになる。
身籠って、子宮の話ばかりする友人はもういらない。ネットワークがあればいい、と思う超然。
以下、引用。

『だが、文学がなんであっても、化け物だったとしても、おまえは超然とするほかないではないか。』

『文学は長い移動を終えて、ついに星のように滅亡するだろう。』

『すべてが滅んだ後、消えていった音のまわりに世にも美しい夕映えが現れるのを、おまえは待っている。ただ待っている。』



この「作家の超然」には、しばしば「ソール・ベロー」の「黄色い家」のヒロイン「ハティー」の言葉が引用されている。

『コレカラ何年自分デ自分ノ面倒ヲミナケレバイケナイノカシラ』


(2010年・新潮社刊)


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「辻原 登×絲山秋子のこの著書についての対談」


「YOMIURI ONLINE・堀内佑二による」