ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

わたしたちの夏

2011-09-26 21:57:49 | Movie


「わたしたちの夏・公式ブログ」

監督 脚本:福間健二
撮影:鈴木一博
編集:泰岳志
音響設計:小川武

製作 配給:tough mama

《キャスト》
千景:吉野晶
サキ:小原早織
庄平(サキの父親。千景の恋人、従って千景はサキの継母だったこともある。):鈴木常吉


「夏」……日本人はこの季節への特別な思いがある。
まず1945年8月15日の敗戦。七夕。盂蘭盆。
死者と生者とが、互いに魂の通路を開く季節でもある。
圧倒的な深緑の季節、光と影、花は咲きそして枯れて、秋の実りの準備の季節でもある。

いつの間にかアラフォー世代になった千景は、夏が来るたびに恋をしていた。
そして秋には終わる。その繰り返しのなかで失ったもの、残されたもの。

千景は自然雑貨店で働きながら、写真を撮り、インターネット販売などをしている。
庄平は千景と別れてから、友人の家に居候。
サキは、父親に頼れず、祖母と共に暮らし、大学に通わせてもらっている。

この夏、千景と庄平は再会、また共に暮らす…というより庄平が「転がり込む」が妥当。
しかし庄平の突然の死によって、「千景の夏」と「サキの夏」が「わたしたちの夏」になる季節がくる。


  *     *     *


詩作と映画製作の違いについて、私的に素朴に書いてみる。
詩作はあくまでも1人の人間の行為である。
しかし、映画製作とは、上にメモしたように、さまざまな分野の人間の共同作業であり、それぞれの主張がある。
監督は交響曲の指揮者の仕事に似ている。
それは「福間健二団」による仕事であり、詩作とは全く逆の方向から始まるのではないか?

映画鑑賞の後で、小池昌代さんと福間監督との短いトークがありました。
小池さんの美しい表情から、思いがけない発言が飛び出してきて、彼女の内にある積み重ねの確かささえ見えた。
それは「詩を超えてしまうほどの映画、あるいは詩を追放するほどの映画はどうだろうか?」ということだった。
小池さんは詩から始まり、小説に越境していった方である。そこにどのような決意があったのか?
福間監督はどうやら10代から映画の世界に入り、詩作はその後だろうか?

映画「わたしたちの夏」のなかには、詩が読まれ、音楽よりも音が聴こえる。詩は追放されていなかった。
詩人福間健二ならではの詩(と、言ったら怒られるかな?)「きみたちは美人だ」。
それから「原民喜」、現代の若手詩人の小峰慎也の詩など。


それから「バス」。
庄平の死後、千景は周囲の人間から「バスに乗ってゆきなさい。」「バスに間に合うのか?」と尋ねられるシーンがあった。
「バス」は何を象徴するのか?小池さんの詩「永遠に来ないバス」と重なる。

海に住む少女(続) ジュール・シュペルヴィエル

2011-09-15 22:40:38 | Book


今回は、この短編集のなかから「飼葉桶を囲む牛とロバ」について書いてみます。
ジュール・シュペルヴィエルの詩にも「牛」は登場する。これはなにを象徴しているのか?

「灰色の支那の牛が…… 堀口大学訳」をここで紹介します。

灰色の支那の牛が
家畜小屋に寝ころんで
背のびをする
するとこの同じ瞬間に
ウルグヮイの牛が
誰かいたかと思って
ふりかえって後を見る。
この双方の牛の上を
昼となく夜となく
跳びつづけ
音も立てずに
地球のまわりを廻り
しかもいつになっても
とどまりもしなければ
とまりもしない鳥が飛ぶ。 


物語はこう始まる。

「ベツレヘムへの途上、ヨセフの引くロバの背には、マリアが乗っていました。マリアは重くありませんでした。
 未来のほかに、何ももっていないからです。牛はひとり、あとをついてゆきました。」

そうして誰も使っていない家畜小屋にはいり、ヨセフは飼葉桶に香り高い飼葉を入れて、生まれてくるイエスのベッドを創る。
太陽が3個輝き、天使が飛び交う。ここはよく聞くお話。

近隣の人々の祝福。3人の博士の祝福(牛はアフリカから来た黒人博士を「1番いい人」だと思います。)など。
祝福に来るのは人間だけではなかった。さまざまな獣たち、毒ある生き物、鳥たち。
そして水中に生きるものたちは、かもめに祝福を託します。
微細な生き物たちは歩みが遅くて間にあいませんが、それは許され「祝福」とみなされました。

牛はずっとイエスのそばを離れず、何も食べず、やがて痩せてしまいます。
そしてロバは、次第にエジプト逃避行のロバに変わってゆきます。
イエス、マリア、ヨセフ、ロバは旅立ち、その後、牛は天の牡牛座に。

聖書の「ルカによる福音書」などに、一応目を通してみましたが、この物語はジュール・シュペルヴィエル独自の世界であって、
「ノアの方舟」の要素もあるように思える。物語は大きくふくらみ、さまざまないのちの尊さを浮き彫りにしている。
星座の意味がわかる。そして夜空の定位置にいつでもいてくれることも。


  *     *     *


わたくしたちが立っているこの大地が揺れ、亀裂がおこり、水びたしになった。
見えない恐怖に囲まれて、わたくしたちは共に生きている。

それでもこの地を司り、人々の暮らしを守るべき政治を行うものは、稚拙な権力争いに終始するだけだ。
司るものは権力者になり下がる。彼等は民意よりも権力を選んだのだ。

それでも宗教は奇跡を起こしてはくれない。
長い人間の歴史のなかでは、宗教が権力と手をたずさえることは繰り返されてきたのだから。

……などと、牛の耳に囁きたくなった。

《別名、ベツレヘムの星と言われている、ハナニラ》

海に住む少女 ジュール・シュペルヴィエル

2011-09-12 16:37:36 | Book


ジュール・シュペルヴィエル(1884~1960年)との出会いはフランス詩人としての詩「動作・(詩集「引力」1925年)」と
「灰色の支那の牛が・(詩集「無実の囚人)1930年」から始まった。
そして、短編集「海に住む少女・他9編」を開くことになった。

詩と短編小説のシュペルヴィエル独自の生と死の感覚、時間感覚、信仰への感覚は、いつも変らないように思う。
それがジュール・シュペルヴィエルの心の底にいつでもたゆたっているようだ。

ウルグアイ生まれ、ご両親は幼い頃に同時に急死。祖母に育てられ、後に父の兄夫婦に育てられ、フランスに移住。
決して不幸ではないが、彼の心のなかでは「死」は重い。さらにウルグアイとフランスとの心の往復は引き裂かれるものだったのだろう。

「海に住む少女」と「セーヌ河の名なし娘」はどこかで繋がっているように思える。
さらに、この時期(東日本大震災&津波&深刻な原発被害と西日本の大洪水)をニュースで目の当たりにしていると、
この短編小説の現実ではありえない物語が、残酷なようでありながら、どこかで「救いがある。」と言ったら、
被災者の方から顰蹙をかうかもしれない。しかし、あえて書きます。
それは「同情」ではない考え方で、この日本の惨状にささやかな「言葉」として書ければいいと思うから。

「死者」「行方不明者」という区別は、いつか大方は「死者」に吸収されていくのでしょう。
(残酷な言い方をお許しください。)
「海に住む少女」と「セーヌ河の名なし娘」は共に溺死した女の子です。
その事実を受け入れる生者と死者と双方の心の過程がこの2つの物語には流れています。


「海に住む少女」は、生前と同じ風景(家、街など。)が海のなかにあって、そこでたった1人で暮らしています。
規則正しい生活が空しく、淋しく続くだけです。
同情した波(これも規則正しい動きの繰り返しだが、)は、少女を高い波で押し上げますが、また落ちてしまいます。
以下、引用。

少女は、ある日、4本マストの船アルディ号の船員、スティーンヴォルト出身のシャルル・リエヴァンの思いから生まれました。
12歳の娘を失った船乗りは、航海中のある晩、北緯55度、西経35度の位置で、
死んだ娘のことを、それはそれは強い力で思いました。それが、少女の不運となったのです。




「セーヌ河の名なし娘」も溺死した少女です。
セーヌ河から海まで流されてゆき、海底には、溺死した人たちが、人魚(びしょぬれ男という男性もいますが。)のように、
水中で暮らしていたのです。その世界に留まるために、足に重りをつけられてしまいます。
その世界のわずらわしさは、地上よりも辛いものでした。裸で生きるのですから。
ついに足の重りを切って、少女は水面に浮かびます。
「これでようやくほんとうに死ねるわ。」溺死体の少女の唇に微笑みが浮かぶ……。

  *     *     *

ここでは、2編だけを取り上げましたが、「キリスト誕生」にまつわる「飼葉桶を囲む牛とロバ」については
また後ほど書きたいと思います。(←約束不履行かも……。)


(2009年第2刷・光文社古典新訳文庫)