ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

スバらしきバス  平田俊子

2016-02-22 13:12:19 | Book



まず、タイトルですが、惜しい!回文のお好きな平田俊子さんとしては!しかし、いろいろと考えましたが、回文は無理のようですね。
日常を旅に変えてしまうバスに乗って、「バス」だけのエッセー集です。すばらしく楽しい。私のバス体験と言えば、最寄り駅までの循環バスくらいしか思いつかないし、旅をしていても、駅から目的地までが遠い場合に便宜上乗車するくらいのもの。平田さんの場合は「バスに乗ること」そのものが旅であり、日常を離脱する夢のお馬車でもあるらしい。

バスに吸い込まれるように乗る度に、乗客や窓から見える風景、運転手さんの様子などを含めて、そこには平田さんの優しい視線がいつでも注がれ、小さな旅物語が生まれてくる。優しい魔女の視線。そしてその風景を飛び越えて、優しい魔女はその先に新しい物語を誕生させて下さる。

これが新幹線や飛行機、電車や地下鉄では面白くないだろう。バスの速度と窓から見える季節ごとの風景、それに乗り降りする人々、バスの停車場の名前、バスの走る道路の名前などなど、歴史を歩くことさえ可能なバス!

(2013年 第一刷 幻戯書房刊)

今日の昼の月

2016-02-18 22:11:09 | Stroll
お月さまのことは、今だ正確には理解していない。

今日の午後3時から5時くらいの間に撮影したものですが、「夕月」と言えばよいのか?
あるいは「昼の月」と言えばいいのか?








こんな光景を見るたびに思い出す詩があります。


昼の月    辻征夫 
          

恋人よ、ぼくの不実な腕に神ならぬ頭をのせて眠りなさい。
――オーデン「子守り歌」(中桐雅夫訳)

   
   恋人よ ぼくのからだの下で
   暫く眠り 疲れを癒しなさい
   きみの姿勢は だれが見ても
   お行儀がいいとはいえないが
   気にしないで眠りなさい
   ひろげられたきみのゆたかな
   腿と腿のあいだにも
   ぼくのからだがあるのだもの
   だれも見てはいないから
   このままの姿勢で眠りなさい

   愛って ほんとうはどんなものか
   知らないけれど
   恋情ならばけんとうがつく
   きみと離れているとき
   ぼくのなかにあいている
   おおきな闇 そこを吹き抜けて
   希望を凍らせ 憎しみのように強く
   渇望をかきたてる風のことさ
   だからぼくはきみと会えば
   言葉もなくきみを掴み ぼくの空虚を
   きみで塞ごうとするんだ

   じゃ 眠りなさい
   感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
   きみは息を整えて眠ろうとしている
   ぼくはきみに重みをかけないように
   静かにかさなり
   からだで子守歌をうたってあげよう
   こうしていると きみが一段一段
   眠りの深みに降りて行くのが
   そこだけが別の小動物のような
   きみのあたたかい襞の反応でわかるのだ

   おやすみ いとしいひと
   きみが微かな寝息をたてはじめると
   ぼくはきみから離れて
   細くあけた窓から外を見ている
   そしてさびしさでいっぱいになって
   かんがえている
   ひとりぼっちでいるときの
   ぼくの空虚は
   あの青い空の
   月のようだ


――詩集『ヴェルレーヌの余白に』1990年・思潮社刊 より――

辻征夫の詩を読んでいるとき、「ああ、男性が生きることは大変なことね。こわいこともたくさんあったのね。そしてこんなにも寂しい生きものだったのね。」と思うことがしばしばある。そして少しだけやさしい気持になれる。たとえば「夕日――おはなし篇」「春の問題」「電車と霙と雑木林」などなど……。

あの小さな乗客が/ここに来るまで/およそ四十年かかるというのは/気のとおくなるはなしです/いくつかの都市と/学校と/いくつかのこころの地獄を/なんとか通過して来るのですが 
(電車と霙と雑木林・詩集「河口眺望・1993年・書肆山田刊」より最終連を抜粋)

時代背景の解説もいらない。陳腐な恋愛論など語りたくもない。

何故、男女が恋情ゆえに深い寂しさを抱くことになるのか?この答はどこにもない。むしろこのどうにもならない「寂しさ」が「恋情」を加速させているのだから処方箋などあろうはずがない。当然のことながら、この詩を読んでも癒しを授かることはないのです。あるものは「感性のやさしい共有」だけ。

   じゃ 眠りなさい
   感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
   きみは息を整えて眠ろうとしている

激しく切ない恋情の束の間の安らぎの時間だ。本当に束の間の……。
あの世にいらっしゃる辻征夫さん、「昼の月」の見える日に化けて出てきてくださいませ。歓迎いたしとうございます。辻さんの俳句にも月がありましたね。遠い昔から、月と人間との切ない対話は尽きぬものでございます。

   満月や大人になってもついてくる

漱石俳句探偵帖  半藤一利

2016-02-12 22:13:08 | Book




これは漱石の俳句に関する随筆集です。雑誌『俳句研究』に連載されたもので、31編のエッセイからなる。漱石の残した俳句2500句余から、彼の姿と創作の秘密を見せて下さっています。まず、私が最初に立ち止まった一文は、漱石が芭蕉の「古池や」の俳句に対する、様々な解釈に対して、物申している部分でした。引用します。

『……文学を味わうに当り、なんらかの講釈を附せざればとうてい理解しがたき記号を濫用し、評家また富籤的了見をもって、これに理屈を求め、その真意ここにありなどと吹聴するは笑うべし。(中略)感興の比較的乗りがたき哲理学説をその裏面に伏在せしめて、文学の深遠なる処ここにありとなすは、文学の本領を棄てて理知の奴隷たるを冀(ねが)うものの言のみ。文学者は哲学を詩化することを防げず、詩を哲学化するにいたっては、戈(ほこ)を逆まにしてわが主を撃つが如し』

訳わかんない詩に苦しんでいる私には、救済の言葉でした。

半藤一利にとって、夏目漱石は義祖父にあたる。岳父は松岡譲。その身近さが半藤氏の筆を自由にしている感がある。それとも漱石さんの人徳(?)かしらん。半藤氏が、漱石俳句2500句余のなかから「最高の作を1つ挙げよ。」と難題を押し付けられたら、この句を選ぶそうです。


  秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻


最晩年の未完の大作「明暗」に書かれているように、漱石さんは「大痔主」だったようです。「朝後架(=ごか、こうか=厠と洗面所)にてひよ鳥の声を聞く。医者に行く。『今日は尻が当たり前になりました。漸く人間並のお尻になりました。』と云われる。」そして帰りの「車上にて“痔を切って入院の時”の句を作る」それが上記の句だとのこと。はぁ~~。それにしても、漱石せんせいのお下のお話は多うございますね。かろうじてこれらのお話を面白いと思えるのは、漱石の奥にある深い教養の賜物でしょう。

さらに漱石は1907年に総理大臣西園寺公望が有名文人を集めた懇話会の招待を受けた時に


  時鳥厠半ばに出かねたり


……という句を添えて招待を断ったそうです。その後も7回にわたって開かれた西園寺の懇話会の招待を断っているとのこと。あっぱれ。

おしものお話ばかりが先走りましたが、「立ち小便」やら「野糞」やら「馬の尿」とか「放屁」とかの話題が多うございました。

さて、話題を変えて、友・正岡子規が病んで、漱石の松山の下宿「愚陀仏庵」にて、しばらく共に暮らした時期があって、別れる時に漱石が送った句です。


  お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花


下戸の漱石が詠んだ句であるので、探偵さんは推理しました。それは中国の故事「菊花の酒」が隠されているのではないか?重陽の節句には、菊を酒杯に浮かべて、高い処で飲むと長生きができるという。病を抱える子規への友情と思える。

それにしても、漱石さんはいまさらながら面白いお方です。半藤さんが漱石について何冊かのご本を書かれた気持もよ~くわかりました。漱石と同じ時代に生まれたかったわ。



(平成11年 1999年 角川書店刊 角川選書)

春を探しに

2016-02-11 21:43:42 | Stroll
今日は風が穏やかで、散歩にふさわしい日です。
ちょっぴり元気が出てきたので、春を探しに散歩しました。


 白梅にメジロ……おぉ~春だ♪




 紅梅も。


 猫柳がふっくらと。


 何故か、雪柳の花は「斥候」の役割を担う早咲きの花が見られる。毎年のこと。


 イヌノフグリが一番早く春を知らせて下さる。


 まんまるな椋鳥。


 ふくらすずめ。それにしても、春は鳥たちにはまだ先のようですね。


物語の役割  小川洋子

2016-02-07 21:25:08 | Book



 この本は小川洋子がご自分の「物語」の生まれてゆく過程についての講演を一冊に纏めたものです。
 小川洋子の感性は、他者を驚かせたり、哀しみや苦しみを読み手に押し付けてくることがない。いつもそっと開かれた窓のように謙虚です。問えば静かに答えてくださるでしょう。そしてなによりも彼女の心が病んでいないこと。あたりまえのようですが、これは決してあたりまえではないのです。そして少女期からの出合った本、先達者の言葉などを丁寧にあたため、それをご自分の慰めや同意という安易な受け止め方をせずに、心の小箱にしまって大切にしていることでした。

 物語は作家の魔術のように生まれてくるものではない。特権的な知識を並べることでもない。生きている人間の足跡、風景、風、ひかり、思い出、そして死者からの贈り物、言葉にならないものを丁寧に掬い取り、それにふさわしい言葉や名前を与えて、さらに消えてしまいそうな道筋をなんとか描いてゆく。物語の誕生とはそんな心の作業なのでしょう。

 子供は大きくなるためには、なにかおおきな「守り」が必要です。老人が生きていくためにも同じこと。そして人間が生きてゆくためには「愛されている」こと。それは平和な時代でも、凄惨な時代においても同じこと。それが物語の水源ではないでしょうか?そしてこうして書いてしまえば、おそらくとても普通で平凡に思えること。それが実は物語なのではないでしょうか?

 小川洋子が子供時代に出会い、心に残った本は「ファーブル昆虫記」、フィリパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」、思春期に出合った本は「アンネの日記」だった。彼女の著書「博士の愛した数式」はイスラエル版として海を渡ることになりましたが、レバノン侵攻のために停戦を待っている間に、小川洋子は改めて自分の物語が人間の現実と無関係ではないことを思うのでした。エージェントのメールには「同じ本で育った人たちは共通の思いを分かち合う。」という一文があったそうです。

リルケの詩を思い出しました。


     願いとは
    日毎の「時間」が
    永久なものと
    小声でかわす対話。  (リルケ)


 (2007年・ちくまプリマー新書053)

おとぎ話の忘れ物  小川洋子/文  樋上公実子/絵

2016-02-02 22:21:26 | Book



 この物語の舞台となるキャンディー屋さんの「スワンキャンディー〈湖の雫〉」は有名だが、もっと注目されていることはこの店の奥にある「忘れ物図書館」でした。ここには先々代の放蕩息子が世界中の「忘れ物保管所」から集めた、古びた原稿を立派な装丁でたった一冊づつの本にして置いてあるのでした。その本は今までの「おとぎ話」の外伝のような奇妙なお話になっていたのだった。それはとりあえず四話ある。元になっているお話はどなたでもご存知でしょう。


 《ずきん倶楽部》
少女がふとしたことから知り合った人は「ずきん倶楽部」の会長だった。訪問した家にはあらゆる種類の「ずきん」が所せましと置かれていた。その倶楽部会員の最大の催し物のずきん祭りで、会長が誇らしげに披露したものは、おおかみのお腹にいた時に赤ずきんちゃんが被っていたとされる代物だった。ずきんには鉤裂き、おおかみの胃液の匂い。うへ。。。

 《アリスという名前》
アリスと名付けられた少女、アリスは「蟻巣」とも言える。父親はある時アリスに「蟻の巣セット」をプレゼントする。これはわたくしにも懐かしい遊びだ。「セット」などは勿論なかったが、土を入れた瓶の周りを黒い紙でくるみ、土の上にはお砂糖やキャンディーを置いて、数匹の蟻を入れて、ガーゼの蓋をする。やがて蟻は地下道を掘りはじめる。黒い紙をはずせば蟻の地下生活の断面を見ることができるのだった。
 しかしアリスの蟻は、ある日覗き込んだアリスの鼻に吸い込まれてしまう。蟻はアリスのからだの中に地下道をどんどん掘り進めてしまう。蟻の不思議な国。こわ。。。

 《人魚宝石職人の一生》
 実は男の人魚がいるのだが、彼等は海面から体を出すと死んでしまうので、見た者はいないという。彼は深海の宝石職人。愛する人魚は地上の王子に恋をして、声の代わりに足をもらって地上の女性となるが、悲恋に終わり自殺する。宝石職人はいのちをかけて首飾りを砂浜において死ぬ。王子の妃はそのあまりにも美しい首飾りを見つけて首に飾るが、それは徐々に妃の首を絞めあげて。。。ううう。

 《愛されすぎた白鳥》
 深い森の入口に住む一人ぼっちの森番には、定期的に町から生活に必要なものが届けられる。その度に一つかみのキャンディーがあった。ある日一羽の美しい白鳥に出会った森番は、自分の一番の楽しみだったキャンディーを白鳥に与えた。毎日毎日。。。白鳥はキャンディの重みで湖底に沈み、一滴の雫となった。・・・・・・そしてお話は最初に戻る。ぐるぐるぐる。。。

 (2006年・集英社刊)