ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

終わりと始まり   ヴィスワヴァ・シンボルスカ

2016-06-29 20:28:21 | Poem



   終わりと始まり   ヴィスワヴァ・シンボルスカ (1923~2012)


   戦争が終わるたびに
   誰かが後片付けをしなければならない
   何といっても、ひとりでに物事が
   それなりに片づいてくれるわけではないのだから

   誰かが瓦礫を道端に
   押しやらなければならない
   死体をいっぱい積んだ
   荷車が通れるように

   誰かがはまりこんで苦労しなければ
   泥と灰の中に
   長椅子のスプリングに
   ガラスのかけらに
   血まみれのぼろ布の中に

   誰かが梁を運んで来なければならない
   壁を支えるために
   誰かが窓にガラスをはめ
   ドアを戸口に据えつけなければ

   それは写真うつりのいいものではないし
   何年もの歳月が必要だ
   カメラはすべてもう
   別の戦争に出払っている

   橋を作り直し
   駅を新たに建てなければ
   袖はまくりあげられて
   ずたずたになるだろう

   誰かがほうきを持ったまま
   いまだに昔のことを思い出す
   誰かがもぎ取らなかった首を振り
   うなずきながら聞いている
   しかし、すぐそばではもう
   退屈した人たちが
   そわそわし始めるだろう

   誰かがときにはさらに
   木の根元から
   錆ついた論拠を掘り出し
   ごみの山に運んでいくだろう

   それがどういうことだったのか
   知っている人たちは
   少ししか知らない人たちに
   場所を譲らなければならない そして
   少しよりもっと少ししか知らない人たちに
   最後はほとんど何も知らない人たちに

   原因と結果を
   覆って茂る草むらに
   誰かが横たわり
   穂を噛みながら
   雲に見とれなければならない



※ 詩集『終わりと始まり』1993年刊。
※ 翻訳・沼野充義・1997年・未知谷刊 より引用。


ヴィスワヴァ・シンボルスカはポーランドの詩人です。1996年「ノーベル文学賞」を授与されています。彼女の詩は「非政治的」な言葉によって、「政治」に対抗できうる言葉を獲得したといえるでしょう。また言葉の実験のための実験には決して働かず、平明な言葉によって思想の伝達をこころみた詩人といえるかもしれません。

さらにこの詩の背景にある「ポーランド」という国の歴史も考えなくてはならないでしょう。この国は「分割」により国名を失い、地図からも姿を消した時代がありました。「独立」をもとめて蜂起が繰り返され、独立すれば内紛が起こり、また、国境線が描き変えられたりと、さまざまな内外からの力に翻弄された歴史をもった国なのですね。

ヴィスワヴァ・シンボルスカのノーベル賞受賞記念講演の最後の言葉は「どうやら、これから先も詩人たちにはいつも、たくさん仕事があるようです。」とむすばれています。


キメラ 満洲国の肖像 その2

2016-06-27 00:59:45 | Book


 
覚書として、ここに引用しておきます。

『おそらく、真の民族協和とは、異質の民族や文化が、混在しながら衝突や摩擦を引き起こし、そのぶつかり合いが発するスパークスを活力として新たな社会編成や文化を形成してゆくことによってもたらされるはずのものであろう。そうであるとするならば、それは、心に長城を築き、自らを他民族に文明と規律を与える者という高みにおいた日本人、多様性を無秩序と捉える日本人によって達成されるはずもなかったのである。
 いや、日本人に限らない。侵略という事態のもとでは、いかに崇高で卓越した民族であれ、民族協和を実現することなどできはしない。また、それができる民族なら、そもそも他民族を侵略し、自らの夢を強制したりはしない、はずである。』

著者、山室信一氏の言葉は熱いです。


(中公新書1138 1993年 中央公論社刊)

キメラ 満州国の肖像  山室信一

2016-06-23 21:57:10 | Book



この書籍は、三浦英之氏が書かれた「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」の参考文献の1冊として、紹介されていたものです。

「傀儡国家・満州国」は1932年3月1日から1945年8月18日までのわずか13年5ヵ月で姿を消しました。それは何だったのか?どうしても知りたいと思い、山室信一氏の膨大な知識に消化不良を起こしつつ……。なんとか時間をかけて読みました。

「キメラ」とは、ギリシャ神話に出てくる、頭が獅子(関東軍)、胴が羊(天皇制国家)、尾が龍(中国皇帝および近代中国)の怪物のことで、これを「満州国」に例えたもの。

満州国の執政となった「愛新覚羅溥儀」の曖昧な立場。満州国は関東軍の基地国家であり、議会もなく、憲法法典の制定もないままに終わった。最も酷いことは、すべての政策が日本人による日本人優先の政策で、満州、朝鮮、ロシア、モンゴルの人々は、すべての面で過酷な境遇に置かれました。

さらに「国籍法」制定を阻んだ最大の原因は、日本国籍を離れて満州国籍に移ることを峻拒しつづけた在満日本人の心であったと、筆者は記していらっしゃいました。

『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後 三浦英之』に書かれた「満州建国大学」と「満州国陸軍軍官学校」という最高学府においても、程度の差はあれども、日本人学生優先だったことは間違いない。

この本の第一章から、第四章までは、満州国の歴史を丁寧に辿り、記述されていたように思われましたが、その後の「おわりに」と題された、278~310ページには、山室信一氏の、関東軍の残忍性についての怒りの声が聞こえるようでした。何故、この本が書かれたのか?その答えをみる思いでした。

満州国の誕生とは、難産の末に生まれ、育たなかった鬼子のようなものだったのではないか?小さな島国の人間の未熟な(膨大過ぎる)国造りであったのではないか?それでも、束の間の若者の夢や貧しい農民の夢の大地であったことが信じがたい。しかし、我が父も満州国へ渡った若者だった。若き教師の父のもとへ我が母は嫁ぎ、私は記憶にはない満州国のハルビンで生まれたらしいのだ。そして、引揚者家族となって、小さな島国へ帰還したが、私の故郷はどこか?


『歴史とは、僕がそこから目覚めたいと願っている悪夢だ。 J・ジョイス』

上記の言葉が、心に深く重く残りました。


(1993年 中公新書1138 中央公論社刊)

言葉のたまり場  大野新

2016-06-16 12:39:07 | Poem



黒田三郎はのどの奥を癌にやられた
高見順はもうすこし下がって食道だった
言葉のたまり場を灼かれた 
火の断崖(きりぎし)だった

いま前の座席でおさなごが目をあける
うるんで半睡
水の精になっている
まだ言葉が回復していない
鬱血のぬるぬるした
夢ののどに
まだ言葉がめざめていない

梅を観ての帰り
一輪の声が言葉のたまり場でぬるんでいる


   詩集『続・家』 より。


電車に乗って、私は本を読まない。むろんスマホも持っていない。
私の視線を奪うものは、いつでも小さな子。そしてこの詩を思い出す。
一輪の花が開花を待つように、幼子ののどにはたくさんの言葉が眠っている。
聞き逃さないで。

小さなブルーベリーの木

2016-06-09 16:57:50 | Stroll
お散歩コースにひっそりと小さなブルーベリーの木があります。
持ち主はいないような場所ですが、順調に花を咲かせ、実をつけるのですが、「ブルー」の実になるのを見たことがありません。
今年はどうなるのでしょうか?


 4月、花が咲きました。


 5月、青い実が。


 6月、色づいてきました。

さて、その後はどうなることでしょう。鳥さん、1粒くらいは撮影させて~。

水無月の花たち

2016-06-08 21:20:56 | Stroll
気象庁から、水不足の予報が出ています。冬の降雪量も少なかったとのこと。
天の水桶がからになるという「水無月」なのに。

それでも、花は変わらず咲き、実をつけるのですが、年毎に微妙に表情を変えています。
定位置に咲く花は、花の数が微妙に変化し、野花は風に任せて咲く場所を変えてゆきますね。


 グミ


 アジサイ


 ハルジオン


 ナワシロイチゴ


 コマツヨイグサ


 ネム


 ヒペリカム


 ビヨウヤナギ

五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後 三浦英之

2016-06-02 13:54:21 | Book

第13回開高健ノンフィクション賞受賞


日中戦争当時、日本が旧満州国の最高学府として構想された「建国大学」が、首都の新京に設立された。「五族協和」という理念のもとに1938年に日本・中国・朝鮮・モンゴル・白系ロシアの五つの民族のエリートが選抜されて創立。全寮制の徹底した共同生活による教育が行われた。午前は講義、午後は農業・軍事・武術などの実践、夜には言論の自由の保障のもとで徹底した討論が特色だった。その上、必要な費用はすべて無料。彼らはスーパーエリートだったわけです。将来の国家運営を担うための。

建国大学のもととなる「アジア大学構想」を提唱したのは「石原莞彌」。その命を受け、建国大学の設立計画を推進したのは「辻正信」だった。

けれどもそれは「満州国」のために設立されたものであり、その歴史は短い。満州国崩壊後の学生たちによって、70年後に明かされたドキュメンタリーである。筆者の三浦英之氏のこの一冊に込めた熱意と、取材に惜しみなく協力して下さった、建国大学のご高齢の卒業生たちの合作と言える。

こんな一節があります。
『歴史を学ぶということは、悲しみについて語ることである。』

満州国崩壊後、建国大学の学生たちは、それぞれの国の思想統制の犠牲となった方々ばかりですから。「五族協和」の夢は彼等を苦しみに陥れたことになります。

さて「五色の虹」という表題が、どこから生まれていたのか?それは「あとがき」で明かされます。それはネルソン・マンデラの歴史的な演説「レインボー・ネーション」に由来する。人種、民族の違いを超えた多民族国家を目指したマンデラの願いは、建国大学の卒業生達の目指した「民族協和」と同質のものであったのだ。

ここで、私事になりますが、哈爾浜中学を卒業してから、建国大学に入学した方が、この本のなかでお二人いらっしゃいました。ウランバートルのダニシャム氏と、日本人僧侶の父とロシア人の母との間に生まれ、「如二…ジョージ」と名づけられた方でした。哈爾浜中学は、我が父が若き日に教鞭をとったところでした。もしかしたら出会っていたかもしれませんね。そして我が父もまた、はかない夢の学校にいたわけですね。記憶にはない満州ではあっても、そこで両親が新しい人生を始めたわけで、私は小さな赤ん坊の引揚者となって、祖国へ帰りました。二人の姉たちにはわずかながら記憶があるようですが。



さらに私事ですが、1999年夏にモンゴルに行きました。上の写真が、その時のウランバートルのダンバダルジャー記念公園(筆者とウランバートルのダニシャム氏が訪れた、日本人慰霊地。)です。この写真はその時に撮ったものですが、現在はこんな風になっているようです。時とともに人々の思いはやわらかくなってゆくようですね。

https://www.ab-road.net/asia/mongolia/ulan_bator/guide/03948.html

最後に、三浦英之氏が、我が子と同い年であることに、少々驚きつつ、彼のこの一冊に込めた熱情に敬意を表したいと思います。そしてこのようにして次の時代へ渡されてゆくであろう、貴重な一冊となりましょう。よいご本を読ませて頂きました。感謝いたします。このご本を先に読んだのは我が子でした。

 (2015年12月 第一刷 集英社刊)