呼吸よ 眼に見えぬ詩!
たえず 私自身の存在と
純粋に交換される世界空間。そのなかで
私が律動しつつ生成する対重。
ただひとつの波、
私はその徐々の海。
あらゆる可能な海のうちの最も倹約の海――
空間の獲得。
空間のこれらの場所のどれほど多くが
すでに私の内部に存在していたことか。
風たちは私の息子のようだ。
私を覚えているか、空気よ かつて私の場所にみたされているものよ。
かつての 私の言葉のなめらかな樹皮、
まるみ、そして葉よ。
(田口義弘訳)
呼吸よ、眼に見えぬ詩よ!
たえず 自分自身の存在を
きよらかに交換される世界空間よ。リズムをもって
わたしが生きる平衡よ。
ゆるやかに動く大海であるわたしの
唯一の波。
考えられるすべての海のうち、最も倹しく貯える海、
空間の獲得よ。
空間のこれらの箇所のどれほど多くが
以前からわたしのなかにあったことか。あの風もこの風も
まるでわたしの息子のようだ。
大気よ、わたしを見分けられるか?かつてわたしのものだった場所でいっぱいの大気よ、
わたしに言葉のかつての滑らかな樹皮、
円み、そうして葉である大気よ。
(生野幸吉訳)
「オルフォイスへのソネット第二部・2」について、先に書いてしまいましたが、ここで改めて「1」に戻り「呼吸」について考えてみます。「呼吸」というごく無意識な人間の存在保証に過ぎないものに、リルケはここに生きる根本と共に、言語もまたこの空気を介して発せられるものと考えます。
しかし「悲歌」ではそれには消滅の因子も隠れていることを書いています。その無常も含めて、リルケはたたえようとしています。それが「オルフォイス」世界へのリンケージでしょうか?
古代ギリシャ哲学では「プネウマ」とは「息」や「風」のことで、人間の生命の原理を示しています。聖書では「プネウマ」は精神生命の原理、あるいは「霊」のことを言います。
「アナクシメネス」が残したと言われる「空気である我々の魂が、我々を統一して保つように、気息(プネウマ)と空気が世界を包みこんでいる。」という言葉の断片が、後の哲学者や詩人たちに受け継げられたであろうと想像しても許されるのではないのか?
青年期に出会った「ロダン」について、リルケが1907年に行った講演のなかで、「ロダン」が新しい作品を制作することを「空間の獲得」と言っています。
さらに、リルケの詩集「時祷(←旧字が出ません。)書」のなかにはこう書かれています。
なぜなら私たちはただ外皮や葉であるにすぎない。
人みながその内部にもつ大いなる死は、
すべてがそのまわりをめぐる果実なのだ。
リルケの著書には「ドゥイノの悲歌」「マルテの手記」あるいは過去の詩集などに繰り返し同じ意味を持った言葉が表れます。それらの集大成として、ほぼ同じ時期に書かれたこの「オルフォイスへのソネット」と「ドゥイノの悲歌」に最終的に集約されたものと思われます。
たえず 私自身の存在と
純粋に交換される世界空間。そのなかで
私が律動しつつ生成する対重。
ただひとつの波、
私はその徐々の海。
あらゆる可能な海のうちの最も倹約の海――
空間の獲得。
空間のこれらの場所のどれほど多くが
すでに私の内部に存在していたことか。
風たちは私の息子のようだ。
私を覚えているか、空気よ かつて私の場所にみたされているものよ。
かつての 私の言葉のなめらかな樹皮、
まるみ、そして葉よ。
(田口義弘訳)
呼吸よ、眼に見えぬ詩よ!
たえず 自分自身の存在を
きよらかに交換される世界空間よ。リズムをもって
わたしが生きる平衡よ。
ゆるやかに動く大海であるわたしの
唯一の波。
考えられるすべての海のうち、最も倹しく貯える海、
空間の獲得よ。
空間のこれらの箇所のどれほど多くが
以前からわたしのなかにあったことか。あの風もこの風も
まるでわたしの息子のようだ。
大気よ、わたしを見分けられるか?かつてわたしのものだった場所でいっぱいの大気よ、
わたしに言葉のかつての滑らかな樹皮、
円み、そうして葉である大気よ。
(生野幸吉訳)
「オルフォイスへのソネット第二部・2」について、先に書いてしまいましたが、ここで改めて「1」に戻り「呼吸」について考えてみます。「呼吸」というごく無意識な人間の存在保証に過ぎないものに、リルケはここに生きる根本と共に、言語もまたこの空気を介して発せられるものと考えます。
しかし「悲歌」ではそれには消滅の因子も隠れていることを書いています。その無常も含めて、リルケはたたえようとしています。それが「オルフォイス」世界へのリンケージでしょうか?
古代ギリシャ哲学では「プネウマ」とは「息」や「風」のことで、人間の生命の原理を示しています。聖書では「プネウマ」は精神生命の原理、あるいは「霊」のことを言います。
「アナクシメネス」が残したと言われる「空気である我々の魂が、我々を統一して保つように、気息(プネウマ)と空気が世界を包みこんでいる。」という言葉の断片が、後の哲学者や詩人たちに受け継げられたであろうと想像しても許されるのではないのか?
青年期に出会った「ロダン」について、リルケが1907年に行った講演のなかで、「ロダン」が新しい作品を制作することを「空間の獲得」と言っています。
さらに、リルケの詩集「時祷(←旧字が出ません。)書」のなかにはこう書かれています。
なぜなら私たちはただ外皮や葉であるにすぎない。
人みながその内部にもつ大いなる死は、
すべてがそのまわりをめぐる果実なのだ。
リルケの著書には「ドゥイノの悲歌」「マルテの手記」あるいは過去の詩集などに繰り返し同じ意味を持った言葉が表れます。それらの集大成として、ほぼ同じ時期に書かれたこの「オルフォイスへのソネット」と「ドゥイノの悲歌」に最終的に集約されたものと思われます。