ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

小川の辺

2011-07-24 14:35:08 | Movie
特番1


特番2




「小川の辺・オフィシャルサイト」


この映画の原作は藤沢周平の短編集「海坂藩大全・上下巻」のなかの1編から。
「海坂=うなさか藩」というのは、架空の地方の藩名であり、現在の山形県と言う説と、
奥州(陸奥の国)という説がある。いずれにしても東北地方になる。

藤沢周平の小説には不思議な力がある。
父が病床にふせるようになってから、「本が読みたい。」と言いだした。
父の読書はめずらしい話ではない。
教師だった父は毎晩書斎にこもっていたし、俳句も少しは詠んでいました。
しかし、わたくしが選んで買ってきた本を、ことごとく「面白くない。もうこういう本は読みたくない。」と。
わたくしが選んだ本は、俳句関係、中国関係(父は大学卒業後は満州で教師をしていました。)でした。

困ったので、夫に相談しましたら「藤沢周平はどうか?」と言う。
その時、ふと思いだしました。詩人の嵯峨信之さんが、病床で「藤沢周平」を読んでいらしたということを。
多分、編集者のSさんが書かれたエッセーのなかだったと思います。

それから父の読書量は、「これが数ヶ月後に死を宣告されている人間なのか?」と驚くほどに
急増しました。わたくしはマーケットの買物の前に本屋さんに寄るのがあたりまえのコースになりました。
一番大きな本屋さんにある「藤沢周平」の本をおそらくほとんど買いしめたような気がします。

こうした「藤沢周平」の小説の魅力が、誠実に映画化されたように思いました。
藩主の「上意」によって、妹の夫であり、友人だった男を討ち取るという困難な命令を、
主人公とそのお供は、最小限の犠牲に留めて、物語はしずかに終わる。

場面はほとんどが旅である。
「海坂」から江戸へ、そして千葉県の行徳まで。
「海坂」とは、海の水平線の湾曲した線を「坂」と名付けたものらしい。
そして、小川の流れる辺で、妹と友人はひっそりと暮らしていた。
友人は、藩主の農民行政のあり方に「物申した」武士として「軟禁」から「脱藩」の罪を犯したのだった。

詩人の死

2011-07-20 12:43:05 | Poem


なにも語るべきことはない。書くべきこともない。
それでも、わたくしは50日を超える日々を過ごしても、詩人「清水昶」について考えている。
どこかで「言葉にしたい。」という願望が消えない。詩を書くものの悪い癖だ。
突然過ぎる訃報にうろたえ、泣いた数日。そして「偲ぶ会」にも行った。

多くの詩人の「追悼文」を読み、「追悼の挨拶」も聞いた。
それらはわたくしにとっては、意味をもたない。
それらはほとんどが、故人と自身との固有の思い出であり、経緯である。
それらはわたくしには共有できるものではない。

それよりも到底共有できない言葉の方が、わたくしを震撼させる。
たとえば共に暮らした方の「死なせてしまった…。」という苦しみの言葉。(自宅にて突然死。断じて自死ではない。)
そして兄上さまだけが知っている、詩人の幼少年期の「あきらチャン」の生き生きとした描写。


亡霊になってはじめて
人間は生きているみたいになつかしい


……という詩の一節がある。清水昶詩集「詩人の死」からの引用です。


「どうして死者に対して、そんなに熱くなれるの?」とわたくしは尋ねたことがある。
「これくらい人間を震撼させ、熱くさせるものはないからね。」と。
「ガリバーの質問」を書いた詩人の、これが答えだった。


今頃は、あなたはどのあたりを彷徨っていらっしゃるのか?
そして、ご自分の「死」に対して、熱くなっていらっしゃいますか?うろたえていらっしゃいますか?
それとも、そろそろお父上やなつかしい方々にお会いできましたか?


あなたの詩は息遣いやら鼓動やら涙やら、一層音高くなって我が書棚で生きています。
某詩人の「清水昶の詩がどこまで生きのびるのか、見届けようではないか!」という朗々とした声とともに。


《つぶやき》

これできちんと書けたとは到底思えない。しかし階段は1歩上がれたとも思う。

僕はいかにして指揮者になったのか  佐渡裕

2011-07-11 00:35:27 | Book
佐渡 裕(鶴瓶の家族に乾杯)

(この映像をあえて選んだことには、わたくしなりの理由がある。
世界的指揮者が、その町で偶然出会った高校生の特に受賞歴もないブラスバンドを
彼が指揮すると、みるみるうちに演奏が輝いてくるという場面を目の当たりにして、いたく感動したからです。)



この著書が書かれたのは1995年、佐渡裕34歳の時です。
それが文庫化されたのは2010年、彼はすでに49歳です。
その再版にあたって、彼が書いた「まえがき」にはこう書かれています。

『今思うと、まだまだ経験値の非常に少ない指揮者であり、根拠のない自信に溢れた内容です。
 本心はそんな自信なんて持てるわけなどありませんから、「自信満々」を精一杯に演じていたように思います。
 あれから15年間、演じ続けると、いつの間にかその「自信満々」も板についてきたように思います。
 この本は僕にとって、長い間憧れの職業だった「指揮者」を演じきるための素晴らしい台本でもあったように思います。』


身長187センチ、靴のサイズが30センチ、体重は最高100キロから現在は80キロくらい?
カラヤンやバーンスタイン、小澤征爾をはじめとして、指揮者にはほっそりしたイメージがあるのだが、
佐渡裕はフットボール選手か、と思わせるようなおおきなおのこです。でも優しいお顔です。
(のっけから、風貌を言うなんて、ごめんね。でもこの大男が大好き。ガリバーみたいだ。)

佐渡裕(1961年5月13日生まれ)は世界的なクラシック音楽の指揮者です。京都市右京区太秦出身。
父親は中学の数学教師、声楽を学んだ母からピアノと歌を教わる。小学校5年生で合唱団に入団。6年生でフルートを始め、
高校2年で世界選抜ユースオーケストラの演奏旅行でスコットランドへ。彼の音楽の原点は「母親」だったようです。
そして彼の希望通りの道を進むことに、寡黙に協力したのは父親だった。非常に幸福な子供だ。

「佐渡裕・Wikipedia」

「佐渡裕・オフィシャルサイト」

彼の経歴をみると、佐渡裕は決して音楽家として特別な家庭環境で育ったわけでもないし、
たとえば芸大を出て、親の潤沢な経済力によって留学したりという恵まれた環境とは言い難い。
ただひたすら音楽が好きで(狂おしいほどに。)彼を突き動かすなにかがあったとしか思えない。
それはほとんど狂気に近い。雑草のような男が世界的指揮者への夢を果たした。
それは才能とともに、彼から滲み出る情熱に周囲の人間をも動かすなにものかがあったのではないか。


まずご両親。
わたくし自身が高校教師(数学&物理)の娘でしたから、家計状況はほぼ想像がつきます。
しかし、小澤征爾の助言「あんたね、バカじゃなかったら親に借金しなさい。」によって、
父親は「2年間くらいの留学ならばなんとかなるやろ。」「そうね。」と簡単に承諾してしまうご両親。

そして、音楽プロヂューサーの佐野さん。
彼は、中企業程度の社長さんに佐渡裕への送金を承諾させる。(ご両親の送金だけでは無理だと?)
そして、佐渡裕は副指揮者とか、音楽指導などでなんとか生活していたが、
そこから解放されて日本を出ることに。

それから「バーンスタイン」。
まだ若い佐渡裕は語学が未熟だった。指揮者の意志を演奏者にどう伝えるか苦しんでいる彼。
さらに「日本人であること。」はクラッシック音楽の世界ではコンプレックスにもなりうる。
「バーンスタイン」は、そうした彼と相撲の四股を踏み、仕切りをして、ただ四つん這いになって体に触れず、
ただ睨みあい、佐渡裕にパワーを送った。(相撲を思いついたのは彼の体格ゆえか?)
あるいは「能」に例えて、日本人の感性と、表情や所作の美しささえ伝えた。

「バーンスタイン」の有名な言葉。
「オレはジャガイモを見つけた。まだ泥がいっぱいついていて、すごく丁寧に泥を落とさなくてはならない。
 でも、泥を落としたときには、みんなの大事な食べ物になる。」
(ジャガイモは勿論、佐渡裕である。)

そして「小澤征爾」。
彼は日本人指揮者として、彼を大事に見守り、導いていた。
「きったない棒を振るんですけれどね。それでもオーケストラが鳴るんですよね。」と、彼をこの世界に押し出してくれた人。
そして小澤征爾は「彼の歳に自分はあれほど振れなかった。」ともおっしゃる。

   *      *     *

書きたいことは山ほどあるけれど、ここまでにします。最後に……

「指揮者」とは、「二十叉路」くらいの交差点で交通整理をするようなもの。
体力、鋭敏な運動神経、そしてなによりも指揮者は命令ではなく、命令を表しうるもの。

(2011年第5刷・新潮文庫)