ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

流れる星は生きている  藤原てい (中公文庫)

2016-08-30 21:45:32 | Book



以前に読みました同名の小説は「ちくま少年文庫」だったために、削除された部分がかなりありましたので、「中公文庫」で読み直しました。(これは大丈夫かしら?)

子供に読ませたくない部分は大方わかりましたが、そこを削除してしまったら、本当のことは隠されるわけですが、それでいいのかな?と思います。藤原ていさんの二人の息子さんはこの現実を幼い目と心でお母さんと共に見たわけですから……。末っ子の赤ちゃんは記憶にはないでしょうが、四人の母子共々死の寸前まで生き抜いて誰も死ななかった、という奇跡なのですから。

人間が極限状態におかれた場合、想像以上の生きる力が生まれる人間がいること、反面では、どこまでも卑怯な生き方を選ぶ人間がいること、がよくわかります。当然、藤原ていさんのご家族は前者です。

満洲からの引揚には、様々なコースや、引揚のやり方があったのではないか?と思いますが、藤原ていさんと三人のお子さんの引揚の様子を拝読しますと、相当の悪条件のもとで、実行されたと思われます。敗戦直後の満州においては、ほとんどの連絡手段も持たず、情報入手も難しいものでしたから、仕方がないとは思いますが、本当にご苦労なさったことと思います。皆さんが最後まで生き抜いて下さり、このような記録を残された藤原ていさんに改めて、頭を垂れます。そして抑留生活を余儀なくされたご主人様の新田次郎氏の無事帰還も果たされたことも含めて。

おそらく、皆様がこれほどのご苦労をなさったのは、ご主人様のお仕事「観象台…今で言えば気象庁」が、軍に関わる部署だったからではないか、と推測致します。だからこそ早く新京から逃げなければならなかったのではないでしょうか?

その後にご夫婦共々に、多くの著作を残されたことも喜びたいと存じます。


 (2013年4月5日 改版17刷 中央公論新社刊 中公文庫)

チャキの償い  藤原咲子

2016-08-23 00:31:23 | Book



上の地図は、藤原てい著「流れる星は生きている」からコピーしました。


この著書の前に出版された「父への恋文」と「母への詫び状」には、満洲からの引揚者の赤子が必ず通過する「栄養失調」が引き起こす、様々な心身の不調が主流となっていて、ご両親さまの凄まじいご苦労に焦点を合わせて書かれていなかったことが、同じ体験者として不満が残りました。(母上と子供3人だけの引揚、そして父上の抑留生活について。)

しかし、この3冊目には力強い筆者が登場しました。
全ての隠されていた筆者の能力が、父母の故郷の幼少期を呼び出し、母親の「流れる星は生きている」の足跡を辿り、父親の中国吉林省延吉市での抑留者としての実態を本気で辿ろうとする筆者がいました。(北朝鮮への旅は、叶いませんでしたが……。)ここに至れば、生来抱いていらした文筆家としての能力を見せて頂いたという思いがありました。ずっと咲子さんの本を追いながら、ここまで読んできてよかったと思います。

以下、長い引用です。
『一回目の訪問も二回目の時も、張さんの店を出ると、私は真っすぐに夕暮れの鴨緑江を黙って歩いた。目の前にある北朝鮮新義州から、わずか四つ目の駅にある宣川。若い母と乳飲み子の私、幼い二人の兄、束の間は父も一緒に過ごした宣川の方角をにらみつけた。向こう岸の新義州は、宇宙のすべての陰を集めた色の緞帳を下して、急速に夕方が近づいていた。あの宣川へ行ってみたい。宣川、平城、新幕、市辺里と三十八度線も越え、開城 京城、そして釜山へと、母が娘の私に残した轍のあとを、真実のあとを歩かなければ私の総括とはならないのだ。母の九十余年の人生が「流れる星は生きている」に総括されているとすれば、母に詫びようとする今、母を知ろうとする今、娘の私が敢然と実行してこそ真の詫び状に近づくのではないだろうか。今、此岸と彼岸の淡い(←間?)を生きる母に、私が命を賭してでも為しえなければならぬことは、母の想いを背に負い、死に直面しながら、赤土の泥沼をもがき、馬糞の臭土から足を抜き歩きつづけることだ。(中略)憤怒の形相で「流れる星は生きている」を走破しなければ謝罪にならないのだ。(中略)中朝国境に立ちいつも思う。今日まで私に生きることへの勇気や気概を与えてくれたのは、奇しくも、反抗しつづけていた母からであったのではないだろうかという現実である。それは母の背にいた引揚げの時からであって、母の熾烈な生への気力を私はすでに習得し、常に私の背を押しつづけてささえられているのだという圧倒的な実感である。栄養失調の奇蹟の赤ん坊と呼ばれたチャキの私は、初めて母によって強くなった脚で仁王立ちになり、旅の途中で諦めなければならないという、たたきつけたい怒りと白黒のはっきりした鋭いメジロの目で、鴨緑江を振り返りホテルへ戻った。その夜、私は気を失うように深い眠りについた。』……引用おわり。

記憶にはないはずの「満洲からの引揚」という歴史的事実を、手繰ることは難しい。私は四歳上の姉の記憶に頼り、その関係の本を読み、父母のメモを頼りに、私は手繰り続けるしかないと思っています。そうして私達の最後の仕事となるのでしょうか。


以下、地理音痴の私のための覚書として。

丹東市(たんとうし)は、中国遼寧省南東部に位置する港湾都市。鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街である。旧名は安東。(張さんの店があるところ。)

宣川郡(ソンチョンぐん)は朝鮮民主主義人民共和国平安北道に属する郡。

新義州市(シンウィジュし)は朝鮮民主主義人民共和国の平安北道の道都。鴨緑江を挟んで中華人民共和国丹東市と向かい合う国境の街である。鴨緑江には中朝友好橋が架かり、中朝交通の要衝となっている。


 (2015年1月5日 初版第一刷 山と渓谷社刊)

母への詫び状  藤原咲子

2016-08-15 21:50:01 | Book




読了に至るまで、私の中には微かな違和感が拭えませんでした。前記しましたが、1945年生まれの咲子さんと、1944年生まれの私は、ほぼ同じ時期に、満洲の新京から日本への引揚を果たしています。
咲子さんの二人の兄上は、私の二人の姉とほぼ同年です。大きな違いは私たち一家には父が共にいてくれたことでした。さらに、引揚は「正式」と「正式ではない」という2つの形態があったらしく、咲子さんご一家は後者で、我々一家は前者であったらしい。その上、私達一家は引揚が決まるまでは、命の危険はありましたが、新京から移動することはなかったのです。さらに、新京での父は中国人の公司に働くことすらできました。それでも大変な貧しさで、私も咲子さんと同じく栄養失調の赤ん坊で、どうやら歩くことができたのは、引揚後3歳を過ぎてからでした。母の実家にひとまず帰宅、翌日には母と私は、即入院、「あと数日帰国が遅れたら、この子は死んでいた。」とドクターがおっしゃったそうです。さらに上の姉は肋膜炎にかかり、下の姉は皮膚病に悩まされました。

咲子さんの母上の「藤原てい」さんの、ご主人様が同行できなかったがためのご苦労は「死」と隣り合わせです。二人の幼い男の子と、生後間もない女の子を連れての移動は、誰も死ななかったことが奇蹟だと言っても過言ではないでしょう。咲子さんの母上のご苦労は極限に達していたことでしょう。それを「流れる星は生きている」という小説として、今日まで読まれ続けられていることに、私は深い意味を思います。

それでも「流れる星は生きている」が、咲子さんの心に届くまでに、たくさんの母娘の葛藤と歳月が費やされているのですね。母娘とは近すぎて見えないものなのでしょうか?

赤子時代を栄養失調だった子供が、普通の子供の体力に戻るには時間がかかります。ちょっとした怪我の治りが遅い。すぐに病気をする。皮膚が弱いし髪の毛も薄い。体力がないので、普通の子供と同じ行動がとれない。それは、親からみれば不憫ですから、引揚後も心を痛めます。しかし、それ以上に親たちは疲れていたのです。心を病んでいたのです。おそらく、親たちは死ぬまでそれを忘れることはないでしょう。赤子だったからこそ、その苦境を少しだけ忘れることができたのでしょう。

戦後の引揚者のみならず、誰でも戦中戦後には、心身ともに病みます。大人も子供も。そこから解放されて、母上とやさしい関係を取り戻すのに、たくさんの時間が費やされていますね。母上が小説を書かれたのは、それだけの必然性があったのだと思います。私たちが憎むべきは「戦争」です。母親ではありません。


今日は終戦記念日ですね。


 (2005年 第二刷 山と渓谷社刊)

父への恋文 新田次郎の娘に生まれて  藤原咲子

2016-08-14 21:36:54 | Book




藤原咲子(1945年生れ)の父は新田次郎、母は藤原てい、兄は藤原正広(1940年生れ)と藤原正彦(1943年生れ)である。

お母上の書かれた小説「流れる星は生きている」を、幼いゆえに、わずかな誤読から数十年に渡る歳月を母上と共に不幸な時間を過ごされた咲子さんが、父上の死後から「父への恋文・2001年」「母への詫び状・2005年」「チャキの償い・2014年」と、3冊の著書を出版されました。これはお父上との約束でもあったのでしょう。

私と生年が近いこと、同じ満洲の新京からの引揚者だったこと。共に栄養失調の赤ん坊で、病気がちな少女時代を過ごしたことなど、様々な共通点から、咲子さんの3冊の本を読んでみました。

『咲子はまだ生きている。でも、咲子が生きていることは、必ずしも幸福とは思えない……。背中の咲子を犠牲にして、ふたりの子、正広、正彦を生かすか……』(流れる星は生きている)より。

ここが咲子さんの誤読の始まりでした。母娘の不幸な時間のなんと長かったこと。敗戦後、幼い子供はどんどん死にました。私も瀕死状態までいきました。殺された子供もいました。中国人に預けられたまま生きてきた子供もいます。その危うい状況をお母上はたった一人で間違いを犯すことなく、3人の子供を生かして帰国されました。奇跡です。その後母上が長く闘病生活を送られたことは特別な出来事ではないです。子供にとっては寂しいことだけれど。

父上の新田次郎の大きな愛に支えられて、少女時代から大人の女性に成長、赤子時代の栄養失調から言葉の発達が遅れたという理由(が、あるかどうか知らないけれど。)によって、父上の「文章指導」は長く続けられました。母上が記録として書かれた小説は、多くの読者を得ることになりましたが、咲子さんに読まれるまでには多くの時間がかかっています。

明らかに「母嫌い」「父恋」のいびつな状況のなかで、彼女は大人になりました。誰のせいでもない。憎むべきは「戦争」です。母上ではありません。

 (2001年 第三刷 山と渓谷社刊)

「増殖する俳句歳時記」 20年完走

2016-08-08 21:17:25 | Haiku



8月8日


被爆後の広島駅の闇に降りる     清水哲男



当「増殖する俳句歳時記」は当初の予定通りに、20年が経過したので、本日をもって終了します。最後を飾るという意味では、明るくない自句で申し訳ないような気分でもありますが、他方ではこの20年の自分の心境はこんなところに落ち着くのかなと、納得はしています。戦後半年を経た夜の広島駅を列車で通ったときの記憶では、なんという深い闇のありようだろうと、いまでも思い出すたびに一種の戦慄を覚えることがあります。
あの深い闇の中を歩いてきたのだと、民主主義の子供世代にあたる我が身を振り返り、歴史に翻弄される人間という存在に思いを深くしてきた人生だったような気もしております。
みなさまの長い間のご愛読に感謝するとともに、この間ページを支えつづけいてくれた友人諸兄姉の厚い友情にお礼を申し上げます。ありがとうごございました。(清水哲男)



詩人清水哲男さん率いる「清水哲男・増殖する俳句歳時記」は、8月8日をもって終了されました。
長い間、俳句を日常的に忘れずにいられたことに感謝致します。「最後の句はなんだろう?」と思っていましたが、清水哲男さんの深い思いが込められた句でございました。ありがとうございました。これからどうしよう。。。

図書館にご用心……。

2016-08-03 21:00:32 | Book
流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)




流れる星は生きている(ちくま少年文庫 9)




図書館にて、藤原ていの「流れる星は生きている」をお借りたいと申し込んだら、「中公文庫の方はとても痛んでいます。こちらではいかがでしょうか?」と「ちくま少年文庫」を出してきました。
それを借りてきて読んだのですが、最後の「編集部から」を読んだら「著者の了解を得て、文章の一部を削除しました。」と書いてある。

アマゾンの「中公文庫」版の「なか見検索」で、目次を比べてみたら、かなりの部分が削除されていました。つまり、子供向けにするために削除されているようです。


読み直し!!!

流れる星は生きている  藤原てい

2016-08-02 22:15:58 | Book





これは満州からの引き揚げの実体験に基づいて書かれた小説作品である。
1949年に日比谷出版社、1971年に青春出版社、1976年に中央公論社(現・中央公論新社)の中公文庫として刊行された。さらにこの本は、筑摩書房の編集部によれば「日比谷出版社版」をもとにして、本文をつくり、さらに著者の了解を得て、文章の一部削除したという。どこを削除したのかはわからない。もっと古い本にあたるべきか?この筑摩書房のものだって、かなり古いものなのに。

これは、27歳の母親一人で、6歳、3歳の男児、生後1ヵ月の女児を連れて、満洲の新京から釜山までの、命がけの逃避行の旅でした。日本への引揚が壮絶な旅となっています。よくぞ生き延びて下さいました。藤原ていさんの意志の強さに、子供3人の命は守られました。軍部とその家族は優先的に、「敗戦」と知った途端、帰国しているというのに。私の父も釜山まで軍ごと運ばれたが、家族を置いて帰国はできないと、父は釜山から哈爾浜の家族のもとに単身戻るという危険な2ヵ月の旅をしました。(軍の人間でもなく、たった一人の男として。)

このご本を一気に一日で読了しました。眼よりも体中が痛いです。父母も敗戦から帰国までの短い手記を残してくれましたが、そこに書かなかったことがあるのではないか?という思いは今もありますが。

また、敗戦後に父親がいてくれたこと。住んでいた哈爾浜から新京に移動して、そこで貧しく、時には危険な暮らしをしながら、時には中国人から仕事をいただいたりして、引揚の時を待ったことで、苦難の旅はなかったけれども、一体「新京」というところはどういうところだったのでしょう?
藤原家は昭和20年8月9日、即座に新京から釜山まで移動しました。私達一家は哈爾浜から10月26日に新京に移動し、翌年8月25日の引揚の日まで新京にいました。そこから葫芦島まで移動しました。藤原家の移動範囲は気が遠くなるような道のりでした。

まだまだ、わからないことばかりです。あの戦争を知ることは、もっともっと先のことのようです。

しかし、今の時代に再読されることを期待します。


(1977年9月30日初版第一刷 1985年10月5日 筑摩書房刊 ちくま少年文庫9)

まぼろしのユリノキ

2016-08-01 21:34:32 | Stroll




週に2~3回は通っている道なのに、ふと葉が美しいので写真をとりました。
プラタナスに似ているけれど、どうやらこれは「ユリノキ」でした。

だとすれば、チューリップみたいな花が咲くはずなのに。一度もそれに気づいたことがないのです。
何故なのか?ユリノキは高木なので、花が咲いても写真を撮るのがとても困難なことらしいのです。
しかも、高く茂った葉の間に咲いていて目立たないのですって。



そういうわけで、来年の春には絶対に撮影する!