ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

「あ」が安いから「あ」をたくさん使おう

2016-07-27 16:49:19 | Word




7月22日の「折々のことば」は思わず立ち止まりました。望月通陽さんが谷川俊太郎さんにおっしゃった言葉だそうです。「ら抜き」言葉で書こうとする人には「ら」の値段をつりあげましょうか?

確かに言葉には金銭がかからない。紙とペンがあれば詩は書けます。考えたこともなかったわ。染色家や造形作家や画家には、絵具、素材、道具、などなど様々なものが必要ですね。かの「フェルメール・ブルー」は高価な「ラピス・ラズリ」が必要だったし。


自由にふんだんに言葉は使えるのだから、よき詩人になりましょう。(自戒)

昭和史 1926~1945  半藤一利

2016-07-25 16:13:04 | Book



半藤一利氏は「昭和史の語り部」と評価されていらっしゃるようです。まさにぴったりの言葉ですね。昭和史は学校教育で学べませんでした。そんな方々に向けて、半藤氏がわかりやすく、面白くお話してくださって、それが一冊の本となりました。ものすごくたくさんで丁寧なお話ですので、一回の読書では覚えきれませんです。

しかし読書中に常に感じていたことは、「軍部」が大きな権力を握っていた時代は、その国にとって最も不幸な時代であったということがよ~くわかりました。
文庫本546ページに及ぶ、このご本は読むだけで大仕事でしたので、ただ、一つだけお話します。

1938年に石川達三が中央公論から南京に特派員として行っています。「南京事件」の1年後ですが、それでも相当数の虐殺を目撃しています。それを小説「生きてゐる兵隊」として発表しましたが、直ちに発禁、石川達三は執行猶予付きの懲役刑を言い渡されました。

ここを読んだ時に、すぐに思い出したのは下記の詩でした。


  伝説    会田綱雄
       

  湖から
  蟹が這いあがってくると
  わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
  山をこえて
  市場の
  石ころだらけの道に立つ

  蟹を食う人もあるのだ

  縄につるされ
  毛の生えた十本の脚で
  空を掻きむしりながら
  蟹は銭になり
  わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
  山をこえて
  湖のほとりにかえる

  ここは
  草も枯れ
  風はつめたく
  わたしたちの小屋は灯をともさぬ

  くらやみのなかでわたくしたちは
  わたくしたちのちちははの思い出を
  くりかえし
  くりかえし
  わたくしたちのこどもにつたえる
  わたくしたちのちちははも
  わたくしたちのように
  この湖の蟹をとらえ
  あの山をこえ
  ひとにぎりの米と塩をもちかえり
  わたくしたちのために
  熱いお粥をたいてくれたのだった

  わたくしたちはやがてまた
  わたくしたちのちちははのように
  痩せほそったちいさなからだを
  かるく
  かるく
  湖にすてにゆくだろう
  そしてわたくしたちのぬけがらを
  蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
  むかし
  わたくしたちのちちははのぬけがらを
  あとかたもなく食いつくしたように

  それはわたくしたちのねがいである
  こどもたちが寝いると
  わたくしたちは小屋をぬけだし
  湖に舟をうかべる
  湖の上はうすあかるく
  わたくしたちはふるえながら
  やさしく
  くるしく
  むつびあう


――『鹹湖』(1957年 緑書房刊)より。――

生きているものたちは等しく、そしてやさしく、互いの生命を食い合いながら生きているのだろう。この作品を、貧しく心やさしい人間たちの哀しい生命の連鎖、あるいは美しい生命の原風景として読むことも許されているだろうと思う。しかし、会田綱雄はこの詩の背景となった時代の状況と、人間たちについてこのように語っている。

1940年の冬、25歳の会田綱雄は志願して、軍属として南京特務機関に入った。
そこには、1937年冬の「南京大虐殺」を目撃した人間が何人かいて、その生々しい思い出話を聞くことになる。その後で「戦争のあった年にとれる蟹は大変おいしい。」という話があった。それは日本人が言うのではなく、占領され、虐殺された側の民衆の間の、ひとつの口承としてあるのだと。しかし彼が南京にいる間に、付き合った中国人が蟹を食べる姿を見たこともなく、市場でも見ることはなかった。

1942年特務機関から開放されて、上海に行った会田綱雄は、友人と居酒屋通りを歩きながら、そこで蟹売りに初めて出会った。友人は、生きたままの蟹を縄でしばってもらい、それを吊るして居酒屋に入り、そこで茹でてもらって、酒を飲みながら共に蟹を食べた。
その蟹は大きくおいしかった。しかし会田綱雄は「南京の蟹」の話はその友人にはしなかったと。

このことだけを取り上げただけでも、こんなにも作家や詩人たちは書き残しています。
その祈りの言葉を忘れずにいたい。


 (2009年 初版第一刷 平凡社ライブラリー671)

旅路 自伝小説   藤原てい

2016-07-14 22:07:19 | Book




藤原ていの処女作「流れる雲は生きている 1949年(昭和24年)日比谷出版社刊」はベストセラーだった。その後「灰色の丘 1950年」が出版されたが、その後約20年間本は出版されていない、と言うよりも、彼女は主婦業を優先させたのではないか?または健康状態が原因とも思えるが。その空白の時期に、1956年に夫・新田次郎が「強力伝」にて直木賞を受賞。

「旅路 自伝小説」と書かれているのは、「流れる雲は生きている」の方では、フィクションの要素があったのではないか?フィクションでもノンフィクションでもかまわない。藤原ていが表現したかったものは「戦争と大陸からの引揚者の悲惨さ」であって、その時に女性と子供たちがどう生き抜いたかを伝えたかったのだろうと思います。

ご長男の藤原正広氏は1940年生まれ。ご次男の藤原正彦氏は1943年生まれ。末っ子の咲子さんは1945年生まれです。私の父母と二人の姉(1940年、1941年生まれ)と末っ子の私(1944年生まれ)も、満州からの引揚者でした。年齢も日本へ帰国できた時期もほとんど同じでした。

そうして我が母が書いた、満洲の哈爾浜の父に嫁ぎ、終戦後に新京へ移動し、そこから引揚までの日々のメモを思い出しました。一番驚いたことは藤原てい氏の文章の口調に、母のメモがとてもよく似ていることでした。同じ娘時代に育ち、女学校教育を受けた女性の生き方と家族への思いはどこかに共通点があるのかもしれません。ひたすら子供の命を守り、死にもの狂いで生きたのは、ただ平凡な女性でした。

私達が藤原家より少しだけ幸運だったことは、父が部隊を離れて家族と共に戦後の満州の哈爾浜と新京を生きたことでした。新京からは移動せずに、そこで引揚の日まで小さな借家で貧しく暮らしました。小さかった私は引揚げ後すぐに母と共に入院でした。「引揚がちょっとでも遅れたら、この子は死んでいた。」とドクターが言ったそうです。私よりももっと小さかった咲子さんは、よくぞ生き抜いて下さいました。

幼い咲子さんのおつむの毛が、あまりにも少なかったとか、なかなか歩かなかったとか書かれていましたが、私も3歳まで歩けませんでしたし、幼い私のおつむもどうやら少ないながら、少女らしい髪になりました。咲子さんもきっとそうだったことでしょう。

なんと申しましょうか。父母が伝えてくれた、私たちの戦後の家族のあり様に、藤原ていさんの書かれたものに共通することが多く、一気に読みました。

満洲国のことや、戦争のことについて知ろうとして、慣れない読書を続けていましたが、ふと思い出して、この本を読んでみました。読んでよかったと思っています。子供をかかえた女性が、戦後の引揚までの日々をどう生きたのか?それをたくさんの方々に読んでいただきたいと思います。

「何故、戦争をしてはいけないのか?」この古い本がそれを教えてくださいます。


(昭和57年 1982年 第12刷 読売新聞社刊)

魂だましのソネット

2016-07-12 21:46:20 | Poem


 
魂だましのソネット   高田昭子


魂消たね。ボールが「僕は魂だ」といった
真昼のデスクにボールを置いて
詩を書いている 魂という名のボールは
いたたまれずに転がりつづける


大陸という言葉をふとつぶやくと
間宮海峡の波の音が聴こえてくる
死にたいというをとこに
一頭の蝶が海峡を渡ったのだと繰り返し話す


韃靼海峡の冬の衛兵は
魔球のようなモールス符号を
死にものぐるいで打ちつづけている


だからわたくしは
魔球を
しゅわっと受ける魂で生きていたい。


 *    *    *


たましい たましい だまし だまし

父が子に教える昭和史 ・ あの戦争36のなぜ?

2016-07-09 17:11:38 | Book



36項目、各分野からの書き手によって、それぞれのテーマで構成された1冊です。そのなかから2項目について書きます。

(満州事変 日本の侵略なのか? 福田和也)より。

『当時の日本経済のあり様からして、日本は満洲を手にしても、何も出来ずに放りだすのではないか、と欧米各国は見ていた。ところが石原のブレーンである経済学者の宮崎正義や新官僚の代表格である岸信介は、満州をごく短期間のうちに、アジア屈指の工業国に変えてしまった。』

山室信一氏の『キメラ 満洲国の肖像』を読んだ後で、ここを読みますと、ちょっと驚きました。日本が侵略した満洲国ではありますが、そこに日本が残してきたものを評価するという側面があります。そう言えば、父も「満鉄は日本人がすべて帰国してしまったら、動かせなかった。」と言っていたことを思い出しました。また父は敗戦後、家族を連れて満州の哈爾浜から新京へ移動し、引揚げまでの期間、中国人の電気公司で働いていましたが、引揚げが決まって、日本人がすべていなくなったら、公司が立ち行かなくなるので、一番若い独身の日本人技術者が残ったという話を聞いた記憶がありました。「侵略」には違いないのですが、日本人の優れた技術はそこに残されたのかもしれませんね。(でも、侵略したことを美化する材料にはなりませんでしょう。)


(引揚げ 満州からの帰途になにが? 藤原正彦)より。

簡略して書きますと、正彦氏の母上である藤原ていの小説「流れる星は生きている」に書かれているように、父上(新田次郎)と別れて、1945年8月9日、母子4人だけで満洲の新京から無蓋貨車に乗り、北朝鮮の宣川まで。さらに馬糞の堆く積もった貨車で南朝鮮の開城へ。そこで母上は気を失った。米軍の日本人難民テントへ。さらに釜山へ。そこからやっと引揚船に乗り、博多へ。9月12日だった。新京脱出から1年1ヵ月経っていました。

さて、我が父は1945年8月13日に所属していた部隊ごと、哈爾浜から釜山へ引込線の列車に乗せられ、運ばれたが、哈爾浜に残した家族を置いて帰国できないと、釜山から逆戻りの命がけの2ヵ月の旅をしました。そして哈爾浜で家族が全員揃ったところで、冬は酷寒となる哈爾浜を離れて、新京へ南下しました。新京での引揚までの日々は前記の通りですが、命の危険は当然ありましたでしょう。(私は乳飲み子でしたので、記憶がありませんが。)

以下は父のメモから引用。(父は引揚の時には団長を務めました。)
『待ちに待った引揚げの許可が下りた。出発は1946年8月25日正午、ということだった。出発に先立って貨車を下見しておこうと、その数日前数人で出かけた。指定された貨車は無蓋車で1両50人の割り当てだった。真夏なので直射日光を遮蔽するため、みんなで日除けを作ったり、トイレを作ったりして出発の日を待った。
(ここに、藤原正彦氏の書かれた現実との大きな違いがありますね。)
 8月25日昼過ぎ、列車は静かに動きだした。さらば新京!終戦の日から1年と10日、私たちが新京に来てからちょうど10ヶ月――長くつらい生活の終わりだった。
 8月28日、葫蘆(コロ)島着。ここで3日待たされ、8月31日アメリカの貨物船で葫蘆島を出帆した。3日後の9月3日の夕方、船は博多港に入った。検疫のためあと6日間は上陸できない。9月9日の朝、上陸が許され全員無事日本の土を踏んだ。そして引揚げ者宿泊所に一泊し、下着、衣類の支給を受け、一同さっぱりした気持で「解団式」に臨んだ。私は妻子4人を連れて東海道線で東京へ、上野から東北線で小山へ、小山から妻の里へ着いた。時に1946年9月12日、忘れもしないこの日は私の36歳の誕生日だった。』

ここまで私事を長々と書きましたのは、ほぼ同じ時期に同じようなところで藤原正彦氏のご家族と、私達は、クロスしていたのですね。私達には父がいてくれたことが一家を支えたのだと強く思いました。1946年9月12日という共通点も忘れないでしょう。

……というわけで、2項目についてしか書けませんでした。

半藤一利氏の書かれた「ノモンハン事件」「昭和天皇」、柳田邦男氏の「零戦」、水木しげる氏の「戦場の兵士」など、納得できるものでした。

水木しげる氏は、文末をこのように結んでいました。
『私の子供のころは、男の子はみな兵隊になるのが憧れだった。日清、日露と戦争に連勝して、日本の全国民が戦争は儲かるものだという奇妙な錯覚を持ち、軍人が威張りたいだけ威張るようになってしまったのである。それが間違いのもとだと考えている。』


(2009年 第一刷 文春新書711 文藝春秋社刊)


犠牲〈サクリファイス〉わが息子・脳死の11日  柳田邦男

2016-07-04 22:00:49 | Book



 このタイトルは、「天才映画詩人」と云われているタルコフスキーの遺作映画「サクリファイス」からとられています。この映画のなかで、ギリシャ正教の修道僧パンヴェの伝説が語られます。パンヴェは山に枯れた木を植えて、弟子に毎日水をやるように命じます。弟子は三年欠かさずそれを忠実に続けて、枯れ木は再生するというお話です。これを父親が幼い息子に語るのです。これは不毛なものを「希望」に変え続ける人間の意志への賛歌とも言えるのかもしれません。
 柳田邦男の25歳の次男洋二郎は「犠牲」と「再生」を求めて「死」の世界を選んだのでした。この本はその息子洋二郎への心をこめた哀悼の書です。

 心を病んだ次男洋二郎の自死から、医学的再生によって与えられた11日間の「脳死」の時間のなかに流れた、父親と母親(洋二郎への心労から、彼女もとうに病んでいる。この現実を受け止める力はない。)、長男賢一郎との濃密で真剣な「いのち」との会話でした。それはまた医療者と親族との「いのち」への向き合い方への真剣な問い直しだとも言えるでしょう。

 柳田はこの本のなかで「二人称の死」という言葉を差し出してくる。「脳死=死」という「死が始まったところで終点とする。」という一人称から、「死が完結するまで待つ。」という「二人称の死」、つまり普通の人間の感性によって、家族、恋人、友人などが「死」を納得できる時間をおくということ。これは別の言い方をすれば「グリーフ・ワーク=悲嘆の仕事」という最も大切な、生き残された人間の時間となるはずだ。また「三人称の死」とは戦争、災害、テロなどによる見知らぬ人々の大量のいたましい死のことです。

 この表題の「犠牲」には、もう一つの意味がある。どうしてもこの世では生き難い洋二郎は、自らの「死」と引き換えに「骨髄バンク」へのドナー登録をしていたことにもある。この望みは果たせなかったが、考えぬいた末に父と兄は、腎臓移植を待つ患者二名に洋二郎のいのちを託したのだった。

 「脳死」「尊厳死」など、人間の「死」にはいまだうつくしい結論などはない。しかし、愛する者を「死」によって失うことの深い悲しみを救えるものはなにか?この世に生き難い洋二郎が愛読したさまざまな本のなかから、大江健三郎の言葉をお借りしてみよう。わたくしにはこれ以上は語ることができない。

 「文学はやはり、根本的に人間への励ましをあたえるものだ。」

 「まだいるからね。」・・・・・・・・・

 (1995年・文藝春秋刊)