ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

デンデラ

2011-06-30 16:42:22 | Movie
映画『デンデラ』予告編 6月25日公開!



映画「デンデラ」公式サイト


監督:天願大介
原作:佐藤友哉

《キャスト》はオフィシャルサイトに詳しく説明されています。

いやはや70歳を迎えた、あの美しい女優「浅丘ルリ子」が、雪深い山奥に「姥捨て」される70歳の老女を演じていますが、
その迫真の演技力と、酷寒の雪山での熱演には驚きます。
そして、いくら汚れた老女を演じても、あの美しさは隠せませんでした。

草笛光子、倍賞三津子、山本陽子も同じ驚きをみせてくださいました。

ストーリーに関しましては「姥捨山」続編と思って下さればよろしいかと。
大自然の恵みと恐怖、そこで生き抜いた70歳以上100歳までの女性たち50人の物語。
「70歳の極楽浄土の死」はない。村人たちの知らない世界となって、展開されていました。
しかし、女性だけがなぜ捨てられたのであろうか?


そういえば、もう1つ「姥捨山」禁止令が下された村があったという物語がありましたね。
母親を捨てた息子が、なんの罪かは忘れましたが、その罪を免れるために難問が出される。
それは「細い管に糸を通すにはどうすればよいのか?」という難問でした。
困り果てた息子は、捨てた老母に会いに行き、知恵を授かります。
それは、管の向こう側に砂糖を置く。こちら側には足に糸を結んだ蟻を送りこむ、という方法でした。
それで難問を解決したのですが、その知恵を授けた者が捨てられた老母だとわかった時に、
「姥捨て」の禁止令が出たという。このお話は記憶のみですので、出典はわかりません。

《追記》

出典はこの「うばすてやま」に書いてありました。定説はないのですね。


この「姥捨て」という風習は日本に限った風習ではありません。「ふたりの老女 ヴェルマ・ウォーリス著」という本にも
書かれています。こちらは「アラスカ・インディアン」のお話です。 

中村屋のボース・インド独立運動と近代日本のアジア主義  中島岳志

2011-06-28 23:26:11 | Book


ラース・ビハーリー・ボース(1886年3月15日~1945年1月25日)について、中島岳志が丹念に資料にあたり、ボースの娘「哲子」の協力のもと、書きあげた著書である。

この本を開くことになったのは、実は「インド独立運動の闘士ボース」「1915年・日本への亡命」、新宿中村屋に身を隠し、極東の地からインド独立を画策。
さまざまな「アジア主義」の日本の思想家たちの協力。そして最も大きな力となったのは「新宿中村屋」主人の「相馬愛蔵」と、その妻「黒光」であったこと。
さらに、ボースは夫妻の娘「俊子」と結婚。そして生まれた「哲子」「正秀」という2人の子供たち。
アジア主義と日本帝国主義の狭間で引き裂かれた生涯。「大東亜戦争」の意味とナショナリズムの功罪。などなどへの興味ではなかった。

  *    *    *

わたくしの少女期から思春期に、亡父が繰り返し語っていた、若き日の苦学生だった父の思い出話によく登場した「新宿中村屋」と「カリー」について
確かめたくなったというのが本当のところです。
たとえば1番よく覚えているお話には、貧乏な学生が中村屋を訪れて、食事を注文したとします。
すると、注文を厨房に伝えるメニューに「書生さん」という幻のメニューがあって、「書生さん、一丁!」と伝えられます。
(ボースを助けた相馬愛蔵の心意気が、こんな面にも見え隠れしますね。)
そして出されたものは、大盛りご飯とたくさんの福神漬だったとのこと。「カリー」はお金にゆとりがある時のメニューだったとのこと。

苦学生だった父は何度その「カリー」を食したのだろうか?
それから、淀橋警察署まで行く。
講道館で柔道3段だった父は、そこで警察官に柔道指導のアルバイトもしたらしい。
勿論家庭教師もやった。その時学長が我が校の学生に支払われている教師料を調べる。
そして、それが安い場合、学長自ら「我が校の学生には、もっと支払うべき。」という通達をその家庭に出す。
そうして若き苦学生だった父は無事卒業となる。

しかし、父は1つだけ思い違いをしていました。
父は福島の相馬から上京しました。相馬は「相馬中村藩」があったところです。
相馬愛蔵(信州の安曇野出身です。)という名前と「中村屋」という屋号とが繋がって、
父は福島の相馬にゆかりのある方のお店だったと勘違いしていたようです。
ですから、長い間わたくしもその勘違いをつい最近までしていました。

  *   *   *

しかしながら、せっかくこの本を読んだのですから、少しだけ書いておきます。
ボースの望んだことは「インドの独立」と「アジア全体の結束」とイギリスをはじめとする欧米社会の「帝国主義」への抵抗だった。
しかし亡命先の日本は中国や朝鮮などと決して対等になることなく、「帝国主義」へ向かったのではないか?
ボースは祖国へ帰ることもできず、どんなにか辛いことだったか。しかし武器を持つことも辞さない活動家であり、
日本滞在期間が20年を過ぎて、彼は日本国籍を取得し、日本政府への関与も視野にいれていたと思える。
そして1945年1月25日、インド独立の夢を果たせず、また日本の敗戦をみることもなく58年の生涯を閉じる。
さらに1947年8月15日(日本敗戦のちょうど2年後。)ボースの祖国インドはパキスタンと分離する形で独立する。

ここで、もう1人の指導者に登場していただこう。


私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。
しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。
世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。
しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。
あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。
 (あなたがたの友 ガンディーより)


(マハトマ・ガンディーは1942年7月26日に「すべての日本人に」と題する公開文書を発表した。)


(2005年・白水社刊)

お知らせです。

2011-06-14 21:38:33 | Letter


わたくしの本宅は目下時間のかかるメンテナンス中です。
しばらくはごめんなさい。

こちらのブログだけは、本宅から独立していますので、こちらからお伝えしておきます。
どうか、アクセス禁止だと勘違いをなさいませんようにお願いいたします。

……とはいえ、わたくし自身もメンテナンスが必要のようですので、こちらもお知らせして失礼いたします。

ではまた。

追悼 清水昶さんへ

2011-06-02 00:43:25 | Poem
詩人の清水昶さんが、5月30日午後、心筋梗塞により急死されました。

あるほどの菊投げ入れよ棺の中  夏目漱石

菊の花は入れない。勿忘草を入れよう。酔いどれ天使さんには。




わたくしの大好きな詩を2編、ここに書きます。
昶さんの詩はみんな好きですが、特に「少年」を書いた詩が好きです。


  青葉城址    清水昶

    ――仙台の小さな友人赤間立也君へ


  青葉城址には緑の風がながれていた
  ぼくは荒い木の幹にもたれて
  がらんとした心で罐ビールをのんでいた
  一本の木にさえ暖かい血がめぐっている……
  それは七年まえの暗い春の日
  紅葉の散った青葉城址の風の中で
  伊達正宗公の銅像が
  薄曇りの空に向かって悲しげに吠えていた
  馬上の荒武者に部下はなく
  ひとりぼっちの歴史の影だけが浮いている……
  ぼくはつめたい罐ビールを握りしめ
  しきりに唾を吐いていた
  頭の中では夥しい落葉のような
  挽歌が風に吹かれて鳴っている・・・・・・
  それはつい先頃の晩秋の午後
  あれからもう七年だ
  反抗的な目をかがやかせていたきみも
  傷だらけの喧嘩独楽を大切にする
  誇りを知る少年になったのだ
  ぼくはといえばそのあいだ
  詩人みたいにひどく酔ったり
  淫蕩な神の石に躓いて
  傷を舐めあってくらしたりした
  もう少したったらきみにもわかる
  きみのほそく華奢な手が
  生活の床にひやりと触れたり
  きみが投げ込む素晴らしい直球も
  いずれまばらな拍手とともに消えてゆくことが……
  だからこそぼくないしぼくら大人は
  きみのやさしい敵として
  いつまでも背中をみせて座っている
  きみだって
  便器の上で哲学者のようにうつむいたり
  頬杖をつきながら
  未来の宿題について
  考え込んでいることがあるだろう
  ぼくはきみが好きだから
  あるいは生きることを忘れそうだから
  きみがやわらかな眠りに落ちた後にも
  東京の暗闇のなかに坐って
  つきることのない遠い手紙を
  君に向かって
  書きつづけているのである


  ――詩集「夜の椅子・1976年・アディン書房刊」」より。


  *    *    *


  国名   清水昶 
          
  ――亡き林賢一君に


  お母さん ぼくは遠くから流されて
  異郷の砂浜にうちあげられた貝だった
  水が欲しいよ 水をふくんだことばも少し
  ただぼくはだまっていただけなんだ
  歴史的に半島の血を割って 古い戦争が移しかえた
  三つの国名が汚れている
  はんぶんだけの祖国はみどりが滴っていると聞いたけど
  関係ないよね 三代目の図画の時間には

  ぼくだって片想いに区切られた恋もした
  どこまでもひろがる海図の迷彩色にすっかり染まって
  勉強もがんばった 悪意を抜いて……
  まだほそい腕から切れ込んで意味の手前でするどくまがる
  凄いカーブもみせたかったな
  ひとりぼっちで喝采して網に突込む 
  素晴らしい右脚のシュートもさ
  ほんとうにみてもらいたかったんだ
  校庭はがらんとしていて 落葉だけが降りつもり
  だあれも受け手がいなかったから
  全部ボールは行方不明
  いつもそんなゆうぐれが肩から昏れて
  明日の学校は暗欝だった
  ぼくはだまっていただけなのに
  三つ目の国名が窓を閉めきり
  大人の手口とそっくりな手と口が
  けたたましくぼくの出口を覆うから
  夢を教える教室は 退屈しきった
  健康で小さな病者がいっぱいだ

  お母さん
  ゆうやけが水たまりに落ちていたりして
  帰り道がきれいだったよ だけどもう
  腕が抜けそうに鞄がおもい 学帽の中味も投げ棄てたいな
  国名のない海の音が聞きたくて
  屋上の夜までのぼってみた 眼下のあかりを吸って波だつ
  晩夏の夜空は海みたいだったな
  ぼくは誇りをしめたひとつの貝だ
  みしらぬ渚で寒さと嗚咽に堪えながら
  国名を解くために
  じっと舟を待っていた  

――『だれが荷物をうけとるか・1983年・造形社刊』より――