ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

4分間のピアニスト

2010-04-28 13:32:05 | Movie
詳細は「オフィシャル・サイト」をご覧下さい。演奏シーンは圧巻ですよ。

製作年:2006年

監督:クリス・クラウス
音楽:アネッテ・フォックス
脚本:クリス・クラウス

《キャスト》
トラウデ・クリューガー: モニカ・ブライブトロイ
ジェニー・フォン・レーベン:ハンナー・ヘルツシュプルング



 これはドイツ映画です。刑務所の受刑者たちにピアノを教える老女「トラウデ・クリューガー」の若き時代は「ナチス・ドイツ」の時代であった。その時代ピアノの才能に恵まれながらも、彼女は兵士たちの病院の看護婦をさせられていた。そこで出会った最も大切な女友達は「反ナチス」思想を表に出したがために処刑されてしまう。

 その過酷な青春期を封印するかのように、「トラウデ・クリューガー」は長年刑務所で受刑者たちのピアノ教師をしている。ある日、稀に見る才能の持ち主「ジェニー・フォン・レーベン」と運命的な出会いをする。「ジェニー」は幼い頃から、ピアニストとして天才少女と言われていたほどだった。しかし恋人を殺され、その無実の罪を負い、さらに恋人との子供を身ごもっていました。刑務所で陣痛が起きても放置され、気を失って目が覚めた時には「子供は死んだ。」という信頼できない報告を受ける。「ジェニー・フォン・レーベン」はほとんど自暴自棄の刑務所生活を送っていました。

 しかし看守や受刑者仲間の卑劣な妨害にもめげず、「クリューガー」は「ジェニー」の才能に葬り去ったはずの自らの夢を託し、コンテスト出場を目指して厳しいレッスンを続ける。2人の心が通いあうことにも時間がかかる。しかしコンテストは待ってはくれないのだ。

 結果、「ジェニー・フォン・レーベン」を脱獄させてまで、「トラウデ・クリューガー」は彼女をコンテストに出場させました。演奏時間寸前に警察がコンテスト会場に乗り込んできますが、「トラウデ」は「4分だけ待って下さい。」と警察官たちを抑えます。「ジェニー」の演奏は「トラウデ」がレッスンさせた「シューマン」の曲ではなく、見事な即興演奏をします。それは長い間彼女のなかにしまいこまれていた情熱をすべて燃焼させるもののようでした。観客は総立ちとなって熱い拍手を送ります。舞台の上から、観客席にいる「トラウデ・クリューガー」に差し伸べた「ジェニー・フォン・レーベン」の両手には手錠がかけられました。

 刑務所と、かつての「ナチス・ドイツ」の残忍さは、人間性を殺すという点においてどこかで似ているのだ。その2つの時代がドイツ固有の歴史であり、さらにそれらを超えたところに「音楽」とは汚れることなく存在していたということだ。
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生誕120年・奥村土牛

2010-04-22 21:30:58 | Art

《鳴門》(1959年・70歳)

 21日は初夏を思わせるような1日だった。あまりの陽気についつい予定を繰り上げて、「奥村土牛・1889-1990」の絵画を山種美術館に観に行きました。

 雅号の「土牛」は、出版社を営んでいた父親が、息子の第一画集を出版する時に決まったとされる。唐代の僧「寒山」の詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられました。その父親もかつては画家を目指したこともありました。「土牛」は体の弱い子供時代ではあったものの、101歳まで長生きをされて、死ぬまで絵筆を放さなかったとのこと。

 刷毛で胡粉(ごふん)などを100回~200回と塗り重ねをして、それにもかかわらず繊細で静謐な色調の作品となっています。それに加えて画家自身の精神の清清しい優しさまでも・・・。


 「私はこれから死ぬまで、初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい。むずかしいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。」

 (85歳のときの自著『牛のあゆみ』)より。


 土牛は、1889(明治22)年2月、東京・京橋に生まれ、16歳で梶田半古塾に入門。院展を活動の中心とし、横山大観、小林古径、速水御舟などから多くを学びながら、土牛自身は「東洋画と西洋画」、「写実と印象」、「線と面」、「色彩と墨」、「立体と平面」と相反するものの間で、それらが融合した独自の絵画を描きました。土牛は遅咲きの画家ではありましたが、その雅号の由来通りに描き続けて101歳で天寿をまっとうしました。


 《醍醐》(1972年・83歳)


 《門》 (1967年・78歳)


 *    *    *

 個人的な気づきですが、彼の描いた「牛」や「鹿」などの動物画に共通していたことは、すべて「母と子」でした。乳を飲む子、母の乳房などに優しい視線を感じました。

   

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水死・大江健三郎

2010-04-13 22:43:05 | Book
 「作家自身が一冊の本である。」という言葉がある。大江健三郎を読んでいると、その言葉が思い出される。この小説の始まりには、東大に合格した若い頃の主人公は「文学部ではロクは就職口もないだろう。」と東大法学部出身のエリートに娘を嫁がせた親類から言われる。すかさず母親は「就職できないとならば、あれは小説家となりましょう!」と言い放つシーンがあります。

 さて、「老年」を意識しはじめた作家は、まず「憂い顔の童子」「取り替え子・チェンジリング」「さようなら、私の本よ!」の三部作を書き上げて、さらに新たな書き方を模索して、「(らふ)たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ」と「水死」の2作を書きました。


               海底の潮の流れが
ささやきながらその骨を拾った。浮きつ沈みつ
齢と若さのさまざまの段階を通り過ぎ
やがて渦巻きに巻き込まれた。

 (T・S・エリオット・深瀬基寛訳)


 この小説の扉には、またもや「エリオット」の詩が引用されています。この小説の行く末を暗示するかのようです。50歳で亡くなった父上のことを長く思い続けながら、言葉にすることを封印してきた作家が、父上の死後10年を経て、家族のみに、それぞれあるであろう「赤革のトランク」を開き、父上の死についての封印を解こうとするのですが・・・・・・。


コギーを森に上らせる支度もせず
川流れのように帰ってこない。
雨の降らない季節の東京で、
老年から 幼年時代まで
逆さまに 思い出している。



 これは主人公の老作家「長江古義人」が、おそらくN文学賞の受賞を記念して、故郷に建てられた記念碑に書かれた詩のような(失礼!)ものです。「コギー」とは「古義人」の幼少時の呼称です。「森に上がる」とは、森の中には、生まれた子供の守護霊のような樹が必ず1本あって、そこに「コギー」の「童子=コギーの心に内在する双子の1人と言えばいいのかな?」が棲んでいるということです。時々その樹に呼ばれるのですから「森」へあがるのです。「川流れ」とは、川で水死した人、あるいは故郷を出てから戻って来ない者のことです。
 前半2行は母上が、後半3行は「古義人」が書いたもので、石に彫られた筆跡は「古義人」のものでした。この記念碑が道路拡張工事のために移動させられることになって、「古義人」の郷里の別荘である「森の家」に預かることになったのでした。「古義人」の「森の家」は、郷里に住む妹の「アサ」にほとんど任されています。

 この「森の家」の1階の居間の大半は、演劇集団「穴居人=ザ・ケイヴ・マン」の「穴井マサオ」「ウナイコ」「リッチャン」などに開放されています。彼等は「古義人」の小説から演劇脚本をおこし、舞台にかけているのでした。そして郷里の「円形劇場」で、観客参加型演劇として中高生ととに上演されている。世間的には「左翼作家」のものが上演されることで、当然教育委員会との対立が起こる。

 「アサ」が連れてきた、もう1人は「大黄」という男で、「超国家主義者」の父親の教えを受けた者であった。「赤革のトランク」の中身はほとんどなかった。母親が処分したものと思われるが、そうなると「大黄」が最も事実を知っている者となるはず・・・・・・。

 「一体。父親の水死の謎はどこで解かれるのか?」というわたくしの内心の声は聞き入れられないまま、小説は「演劇」を中心として展開し、「古義人」はシナリオまで書くことになる。井上ひさしの演劇を精力的に観てきた作家は、ここでその演劇手法を取り込んでいるようだった。

 新しく書き下ろされたシナリオは「メイスケ母出陣と受難」であり、それは四国の百姓一揆で獄死した「メイスケ」の母の怒りの出陣でありながら、彼女は強姦、輪姦という辱めを受けているのだった。そこに「ウナイコ」が教育者の伯父から同じ辱めを受けたことに重なる。「穴居人」たち、「「古義人」、「教育委員会」・・・・・・結末は「大黄」が「ウナイコ」の伯父を殺すことで終わる。そして「大黄」は「古義人」の父親の後を追うように・・・・・・。

 それは「よりまし」を誰が引き受けるか?ということだ。そして真の意味での「思想の自由」とは誰が守り、誰が引き継ぐか?という大きな問いとして遺される。


 *    *    *


 「――もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫。」
 「――・・・・・・けれどもその子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?」
 「――いいえ、同じですよ、と母は言いました。あなたが私から生まれて、いままでに見たり聞いたりしたことを、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。」


 「コギー」は大雨の降る夜の森へ上がったことがありました。童子のいるという樹のうろにいるのだと察知したのは母親でした。自警団の男たちに救出され、肺炎をおこして寝ていた時の母と子の会話です。


 (2009年第1刷・講談社刊)
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こんにちは・さようなら・春の花たち

2010-04-11 23:21:08 | Stroll
今年はじめて会った春の花たちは・・・・・・


 (北の丸公園のオレンジ色の三椏)


 (榛名まほろばの黄色の三椏)


毎年出会ういつもの花たちは・・・・・・


 (菜の花・榛名まほろばにて)


 (たんぽぽ・姫踊り子草・土筆)


そして、そろそろさようなら・・・・・・さ・く・ら・・・・・・



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岡山の娘・福間健二監督

2010-04-08 16:01:29 | Movie
「岡山の娘・予告編」

 昨日「高崎映画祭」で「岡山の娘」を観ました。その後で福間健二監督の舞台挨拶もありました。詩人が映画をつくるということに、おおいに興味がありました。詳細は後ほどに。

 *    *    *


 群馬県高崎市では、毎年「高崎映画祭」が開催されている。上映は高崎市文化会館、高崎シティギャラリー、シネマテークたかさきなど。3月27日(土)~4月11日(日)まで、今年で第24回目となります。

 第1回高崎映画祭は、昭和62年(1987)3月30日~4月5日までの1週間、文化会館・音楽センター・市内映画館(松竹・スカラ・東宝・東映)で上映されました。高崎映画祭運営委員会(会長・当時の山崎旭高崎経済大学長)が主催、後援には高崎市教育委員会、高崎市商工会議所のほか、高崎市等広域市町村圏振興整備組合が住民の自主的文化向上を図るリージョン・プラザ(田園都市中核施設)事業の一環として積極的に加わりました。

 山崎旭氏は2003年にご逝去。しかし気になることがあります。彼が学長を勤められた「高崎経済大学」というところは、故「小川紳介」監督によるドキュメンタリー映画「圧殺の森・高崎経済大学闘争の記録・1967年制作」の舞台となった大学ではないだろうか?

 何故「高崎映画祭」があるのか?と考えた時、この繋がりは全くないとは言いがたいのではないか?帰宅してから考えたのは遅かったなぁ。


 前書きが長すぎました。
 さて「岡山の娘」・・・何故「岡山」なのか?それは福間監督が30代の5年間、岡山に大学教授として勤務されたからでした。土地の人間ではない、さりとて旅行者でもない視線で「岡山」をみるには、5年というロケハン時間がちょうどよろしいのではなかったか?(←ご本人のお言葉。)

 「みずき」という女子大生のヒロインは、母親と2人暮らし、ある日遅く帰宅したら母親は急死していました。母親の残した借金の破産宣告、大学中退、困難な仕事探し、さらに長い間別れたままだった外国暮らしの父親が帰国したものの、2人には会話がないままに時間をかけて近づこうとする。恋人(B・Fか?)との関係も希薄。自分さがしはいつでも若者のメインテーマであろうか?

 この映画は極力音楽を流すことを避けている。その代わりに挿入されるものは「詩」である。「三角みずき」の詩をメインとして、「福間健二」「北川透」(←彼は映画のなかで詩を朗読して、わずかな会話もあるのです。)の詩が登場しています。

 キャストは全員役者ではない。岡山の人々でした。暑い一夏の花火のような時間軸のなかで、「岡山」という街に生きるさまざまな人間の物語。





 我が埼玉県から、群馬県高崎までは、関東平野の真ん中あたりから高崎線で北上して、赤城山や榛名山の手前まで平野をひた走る感覚です。列車の進行方向左側には蒼い山並みが遠くに連なり、右側には建物がなければ地平線が見えるであろうか?という地形を通過しました。

  吹越や伐り出されたる柩の木    請関くにとし

 この方言俳句の舞台でもある。「吹越」は「ふっこし」と言う。「風花」のことで群馬県の方言です。福間さんの舞台挨拶が済んでから、福間さんと高崎の詩人たちとともに「榛名まほろば」までお伺いしました。さまざまなことが思われる一日でした。
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見沼

2010-04-05 01:40:24 | Stroll
 どこからどこまでが「見沼」なのか、見当がつかないほど広い。そのほんの一部を歩いただけだろうと思います。桜が満開であったので、今回はこの周辺を3時間ほど歩きました。武蔵野線「東浦和」下車というコースで、とりあえず下見でした。近いのに下車することもなかった駅でした。









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