ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

戦争が遺したもの 鶴見俊輔×上野千鶴子×小熊英二

2016-03-30 16:30:27 | Book



サブ・タイトルは「鶴見俊輔に戦後世代が聞く」と書かれているように、上野千鶴子は1948年生まれ、小熊英二は1962年生まれと記されています。ちなみに鶴見俊輔は1922年生まれです。主に小熊氏が鶴見氏に質問する形で3日間の対談は進みました。それが約400ページの単行本になったと言うことは驚きでした。なんとエネルギッシュな対談だろう。

鶴見氏は、厳し過ぎる母親に苦しめられて、死ぬことまで考えた10代前半を過ごし、見かねた父親が15歳の鶴見少年を米国留学させました。以下引用です。


『母親というものは、子供にとって内心の先住民族であり、圧政者なんだよ。スターリン以上かもしれない(笑)。母親がどれだけ子供を圧迫しているか、世の母親は知らないんだ。リヴもフェミニズムもそれを知らないのが欠点なんだよ。』


そして戦争が始まり、日本人留学生は隔離され、交換船で帰国する。帰国を決意させたものは、米国にいる日本人としての恐怖ではなく、「負ける側を生きる」という思いだった。当然、帰国すれば鶴見氏には召集令状が来る。先回りして海軍の軍属となったわけだけれども……。翻訳の仕事だった。

終戦後、彼は「◯○主義」とか「✖✖党」というものに属せず、独自の生き方をした。一貫していたことは「一番病の人間にならないこと。」在野の人間として考え、行動することだった。「声なき声の会」「ベ平連」「九条の会」などと共に行動し、「思想の科学」の出版を続けた。その鶴見氏の戦後からの日々は、通常の人間の数倍も生きてきたようだった。

対談は楽しそうに、白熱していた。小熊氏の質問は常に無駄がなく、的確に行われた。小熊氏の持っている知識もすごい。そこから鶴見氏の知識と行動力、そして多くの人々に愛され、交わったことが浮き彫りにされたように思う。そして、鶴見俊輔のやんちゃな人生を楽しく聞かせて頂きました。


《私的覚書……俊輔語録》
『正義というのは迷惑だ。全身全霊正義の人がいたら、はた迷惑だってことだよ。』


 (2004年3月31日 初版第2刷 新曜社刊)

ローズマリー いろいろ

2016-03-29 12:43:01 | Stroll
何気なく気になって撮った花の写真だったが、名前を同定できない。
「ローズマリー」に似ているが、藤色ならばすぐにわかるのだが……




赤や白にお目にかかるのは初めてだった。名前の同定に2日かかったわ。


 ローズマリー マジョルカピンク


 ローズマリー ホワイト

あああ。すっきりした♪


安行桜

2016-03-27 14:39:56 | Stroll
埼玉県川口市の安行は、江戸時代から始まった植木栽培の歴史を持つ土地である。
そこにある「密蔵院」というお寺には「安行桜」という、染井吉野よりも早く開花し、花の色が濃い桜が咲く。











少々、観にゆく時期が遅かったのが残念ですが、来年また行ってみようかな?


ムシェ 小さな英雄の物語  キルメン・ウリベ

2016-03-17 00:17:02 | Book




スペイン内戦下の1937年、ゲルニカ爆撃の直後に、約2万人のバスクの子供たちは、欧州各地に疎開させられた。その中の1人の少女「カルメンチュ」は、ベルギーの文学青年「ロベール・ムシュ」と、その一家に引き取られる。
このことだけでも、私は驚く。日本の戦中の疎開児童の移動とは大きな隔たりがある上に、異国の戦災少女を家族として受け入れることなどを。しかし、第二次世界大戦の勃発とともに、「カルメンチュ」は荒廃したバスクへの帰還を余儀なくされる。

この小説の主人公は「ロベール・ムシェ」。「カルメンチュ」との出会いが彼の人生に大きな方向性を指し示すことになる。そしてこの物語は、著者の懸命な調査によって書かれた事実による小説であること。歴史に書き残されていない一人の文学青年の生涯が丁寧に書かれています。ムシュの娘カルメンの協力が大きい。カルメンは、70年前にバスクの少女「カルメンチュ」を受け入れた父のことを、バスクの作家が書くという巡り合わせに、執筆を初めて許した。

「ロベール・ムシェ」は、友人ヘルマンと、妻ヴィック、娘カルメン(カルメンチュにちなんで名付けられた。)に恵まれながらも、幸福な家族を離れて反ナチ運動に。その先は「逮捕」「拷問」そして「ノイエンガンメ強制収容所」に。1945年、収容所撤収となり、リューベック港から貨物船に。しかし家族のもとへ帰ることはできなかった。最悪の条件の中での移動であったから。

最後に、この一文を引用して終わりにします。これは、「ロベール・ムシェ」が「カルメンチュ」とその仲間たちを動物園に連れていった時の一連の写真を、筆者と娘のカルメンが見つけた時のことです。以下引用です。

『1983年の春。アントワープ動物園で、ライオン、猿、アザラシを見つめる子供たち。動物たちを見終ったあと、彼らは出口に空っぽの檻があることに気づいた。檻のなかには一枚の鏡。鏡の上にはこの一文があった。「人間、もっとも悪しき動物」』と……。

(2015年10月25日 白水社刊 翻訳・金子奈美)


《追記》

動物園の珍しい動物  天野忠
  
セネガルの動物園に珍しい動物がきた 
「人嫌い」と貼札が出た
背中を見せて
その動物は椅子にかけていた
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
夜になって動物園の客が帰ると
「人嫌い」は内から鍵をはずし
ソッと家へ帰って行った
朝は客の来る前に来て
内から鍵をかけた
「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた
雨の日はコーモリ傘をもってきた。


この詩を思い出しました。

ある晴れた日に~♪

2016-03-11 13:44:04 | Stroll
雨空、曇り空、春は名のみ~

……などと嘆いていると、一日だけ暖かい日に恵まれた奇跡の一日に。


 グンバイナズナ


 ホトケノザ


 ナノハナ


 カタバミ


 カラスノエンドウ


 オオイヌノフグリ 


 ヒメオドリコソウ


 ハコベ

野辺には春が……。

戦時期日本の精神史―1931~1945  鶴見俊輔 

2016-03-08 19:59:00 | Book
《りゅうりぇんれんの物語》 茨木のり子  朗読 沢 知恵 



戦中戦後についてぼんやりと考えている時には、いつでも「鶴見俊輔さんは、○○についてどう考えていらっしゃるのかしら?」と思うのです。たくさん拝読してはいませんが、読むと必ず納得できる答えを出して下さいます。こうして私が実態を知らない戦時期から終戦期を正しく理解するための大切な道案内人となって下さいました。
亡き父母の思い出話だけでは分からなかったことや、その時代を動かしていた様々な逃れ難い力、異なる民族への残忍な行為の数々、原子爆弾の投下はなぜ行われたか?戦時下における思想の弾圧(拷問、留置)などなど、わかりやすく教えて下さる貴重なご本でした。

これによって、石原吉郎の「サンチョ・パンサの帰郷」、茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」の再読をしました。「りゅうりぇんれんの物語」は、現代詩文庫の17ページ分、2段組に及ぶ長編詩です。
「サンチョ・パンサの帰郷」はシベリア抑留者の深い悲しみと苦しみ、帰国後には、祖国における深い孤独との闘いが書かれています。「りゅうりぇんれんの物語」は、日本人によって拉致された中国人が北海道で重労働に従事させられ、そこを逃走したものの、海に阻まれて国へ帰れない。終戦後村人に見つかるまで、山中で冬眠する獣のような暮らしをしていた。その拉致の方法は、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」にそっくりだ。

この本は、1979年9月~80年4月、カナダのケベック州モントリオール市のマッギル大学における13回の講義録であるが、英文で書かれたものですので、鶴見氏が日本語に戻し、テープに吹き込まれたものを、稲垣すみ子さんがおこして下さって本になりました。

講義録の内容は以下の通り。
1 1931年から45年にかけての日本への接近
2 転向について
3 鎖国
4 国体について
5 大アジア
6 非転向の形
7 日本の中の朝鮮
8 非スターリン化をめざして
9 玉砕の思想
10 戦時下の日常生活
11 原爆の犠牲者として
12 戦争の終り
13 ふりかえって

「鎖国」というテーマが何故あるのか?1931年が満州事変ですから、大分以前の日本について書かれることの意味は、読めば理解できました。国境線を持たない島国日本の体質がいつまでも尾を引いている民族なのでしょう。その日本人の戦争の始め方と終り方があまりにも稚拙ではなかったか?

それでも、今日もまた戦争を始めたがる御仁は後を絶たない。70年前に終わったはずの戦争は、実はいつまでも尾を引いています。その尾を絶ち切るためには日本人は永い歳月と人間としての努力が必要ではないでしょうか?

 (1982年第一刷 1985年第十一刷 岩波書店刊)

小川洋子対話集

2016-03-01 21:45:40 | Book



 対話は総計九回、対話者は総計十二名、初出雑誌もさまざまで、語りおろしも収録されています。対話者もさまざまな分野に及び、話題は広範囲なものとなっていますので、少し散漫な印象は否めませんが、しかし「小川」のごとく目に見えない細い底流がかすかに聴こえてくるような対談でした。小川洋子のフツー的(?)感受性、少女性、しかし世界を彼女なりに捉えることのできる視線・・・・・・これらは現代女性作家のなかで、むしろ特異な存在であるように思えます。対話のテーマがすべて「言葉」であることに統一されています。


 【田辺聖子】 言葉は滅びない

 八十歳を迎えられた田辺聖子は「全集」を刊行されたばかりの時期にあたる。小川洋子にとっては、まさに田辺は先達者となるのでしょう。お二人が共に少女期に夢みたことは小説のなかで成長し結実させる、この共通項があったように思います。言葉は実るもの。そして伝えるもの。その言葉への信頼が生き生きと語られていました。


 【岸本佐知子】 妄想と言葉

 岸本佐知子は英米文学の翻訳家、エッセイスト。小川洋子と同世代であることからか、会話が女子大生のように楽しくリズミカルだった。翻訳というものは、作家が書き上げたものの源泉をもう一度捜すことから始まる。そこから辿りはじめて翻訳者は作家への、美しい共鳴音になること。魅力的で困難な仕事だと、つくづく思う。単純に外国語が出来るというだけではない、作家以上の洞察力が必要なようだ。


 【李昴&藤井省三】 言葉の海

 李昴(リー・アン)は現代台湾を代表するフェミニズム作家。
 藤井省三は東大文学部教授、中国、台湾、香港の現代文学専攻。

 李昴の海、小川洋子の海、この二つで一つの海の違いが語られる。李昴の子供時代には、中国と台湾との緊張関係が厳しく、海は彼女にとっては「戒厳令」の代名詞のようなものだった。小川洋子の海は、幼児期の瀬戸内海の小さなおだやかな海だった。この「海」に象徴されるように、二人の女性作家が背負わされた時代、国家、女性の立ち位置など、すべてが異なる。これを繋いでゆくものも、やはり「言葉」でしかないように、藤井省三の力を借りながら、二人は語りあった。


 【ジャクリーヌ・ファン・マールセン】 アンネ・フランクと言葉

 ジャクリーヌ・ファン・マールセンは、隠れ家に入ってしまうまでのアンネ・フランクの少女期の友人であり、その思い出を本にまとめています。彼女によれば、それはアンネがまだ「言葉を綴る。」ことを意識する以前の少女にすぎないのです。ジャクリーヌが知っているアンネはそれだけだったのでした。成長した作家アンネには再び会うことはできなかったということです。


 【レベッカ・ブラウン&柴田元幸】 言葉を紡いで

 レベッカ・ブラウンはシアトル在住の作家。柴田元幸はアメリカ文学の翻訳家であり、小川洋子の作品の英訳を手掛けた最初の翻訳者ともなる。柴田はいわば「架け橋」の役割を担っていることになります。この翻訳者は肩の力の抜き方のうまい人ではないだろうか?レベッカ・ブラウンの人間性ではなく、紙の上に書かれた言葉を追いかける形で翻訳する。翻訳しながら作者に意味を問わない。あるいは小川洋子作品が柴田の翻訳によって、削ぎ落とされたもの、付加されたものに当人が驚くという意外性。岸本佐知子の対話と重ねて考えると、翻訳者の対照的な姿勢が見えてくるように思いました。


 【佐野元春】 言葉をさがして

 佐野元春とはミュージシャンらしい。知らない人。ごめんね。パス。


 【江夏豊】 伝説の背番号「28」と言葉

 小川洋子の小説「博士の愛した数式」に登場する実在のヒーロー(野球選手)である。背番号「28」は「完全数」なのだった、とはご本人はご存知なかった。


 【清水哲男】 数学、野球、そして言葉

 清水哲男さんだけは、わたくしが唯一出会い、お話をしている方という「贔屓目」で読んでしまう危険は大きいなぁ、とは思いますが、その分を差し引いてみても、やはり清水哲男の対話には、おだやかな流れがみえます。まさに「清水」と「小川」の言葉の自然体の合流でした。共通の話題はもちろん野球でしたが、「数学者は詩人である。」ということがよく理解できます。


 【五木寛之】 生きる言葉

 現代の自殺者の急増、それが数値で表されたところで、その実体は見えない。さらに無差別の殺人、子供や老人への虐待などなど、豊かに見える社会ではありながら「いのち」がこれほどに軽い時代は、かつてなかっただろうと思う。五木寛之はこれに心を痛めつつ、自らの「老い」がその実情を嘆いているのか?と自問する。しかしそうではない。あらためて「いのち」の重さを考え直す時なのですね。
 「生」と「死」との境界線は、簡単に越えられないものであるという根本的なことが忘れられているのではないだろうか?まずは生きてゆくための言葉が必要なのでしょう。陳腐だと思われる「人間」「愛」「友情」・・・・・・それらの言葉を、もう一度雪ぎ直すこと、こんな対話だったように思います。

 (2007年・幻冬社刊)