ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ツグミの声

2018-02-28 12:58:35 | Poem


   ツグミの声   牟礼慶子(1929~2012)

   季節は穏やかにめぐり
   大空はあくまで澄み
   果樹は甘く実を結んだ
   そしてツグミも今年は
   いつもの枝に帰ってきた

   はるかな林から林へ渡る
   百千の鳥のさえずりの中
   短く鳴いてやむ
   あの低い声を聞きわけるのは
   あれは私を呼んでいる声だから

   あの人の呼ぶ声は
   心の底まで届いていたのに
   抱き寄せられる前に
   立ち去るすべを選んだ
   あまたのことばよ

   共にとどまることも
   飛び立つこともしなかった私は
   あの人の胸深く生い育って
   さやさやと緑の葉を揺らし
   声のないことばで答えようとした

   ついに羽を連ねて飛ばなかった
   遠い日の哀しみは
   今はもう甘く実を結んで
   明るい静かな光の中
   ツグミの呼ぶ声を聞いている

――『牟礼慶子詩集・現代詩文庫128・1995年・思潮社刊』より――

   私のことばは
   空に噴き上げる多彩な虹でなく
   開ききった大輪の花でもなく
   まぶしい恍惚ですらなく
   いっさいの充足とは無縁である  
   (「私のことばは」・詩集「日日片言」より抜粋)

牟礼慶子の言葉は美しく開花することを拒んでいるかのようだ。甘美な音楽になることすら拒んでいるようにも思える。ツグミは「キョッ キョッ ピッ ピッ」と短く鳴く。美しい声とは言えない。聞き取ろうとする鳥の鳴き声にすら彼女は「ツグミの声」を選んだのだ。そして花ではなく一本の果樹になることを試みようとしているかのようだ。この作品は「恋唄」の形を借りて、牟礼慶子はみずからの「ことば」と「魂」への矜持を示しているではないだろうか?

   魂は手や足をはなれて
   あんなに空に近い
   木の枝に存在することもあるのだということを 
   (魂の領分・最終行より)

コルシア書店の仲間たち   須賀敦子

2018-02-25 23:34:47 | Book




1992年 文藝春秋 発行

イタリアの詩人たちを読んでから、大分時間は経過している。

1960年、イタリアのミラノの教会の片隅で、自由な共同体を夢みて発足した書店(リーダーはダヴィデ・マリア・トゥロルド神父。)に
集う人々との交流を記したエッセー集である。
その名は「コルシア・ディ・セルヴィ書店」。約20年間続いた。
その書店の援助者となる方々、その書店に集う(あるいは働く)仲間たちとの交流を記した一冊です。

須賀敦子の、その人々への記憶力と観察力が並ではないのです。
書店の仲間たちには、その時代が及ぼしたそれぞれの人生があって、括ることは出来ない。
それぞれみんな孤独だったのではないだろうか?
その仲間の1人であった「ジョゼッペ・ペッピーノ・リッカ」と須賀敦子は結婚する。しかし1967年に彼は死去する。

どの時代にあっても、書籍と書店の厳しさを思う。
しかしここから次の時代が導かれるのではないか?そう信じたい。

「あとがき」は「ダヴィデ」にむけて書かれています。最後にこう書かれています。
以下引用。

『コルシア・ディ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。
そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。
それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。
その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、
人それぞれが自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、
私たちは少しづつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。』

久しぶりに本を読んだ。
日常の雑事に振り回されながら、どうにかその隙間で読みました。

花粉症の季節

2018-02-20 16:11:18 | Stroll
眼がかゆい。花粉症の兆し。
病院にて、目薬と飲み薬をいただく。これも「春」よね。


 梅が咲いて……。


 タネツケバナ(?)も咲いて。





 オオイヌノフグリが、枯れ落葉のなかから、愛らしい姿を見せました。

 これから忙しくなるわ♪