ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

秋はいい匂い

2016-09-30 21:26:16 | Stroll
今日の午後に外に出てみたら、涼しい風にいい匂いが混じっていました。金木犀でした。





百日紅は、もう終わりに近づいています。夏よ、さよなら。



エノコログサも、秋の表情を見せていました。



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今日は天気がいいね。

2016-09-25 00:09:37 | Word


なんて素敵な先生でしょう。鶴見俊輔さん!

高校時代、わが校は女子高だったけれど、男子校にはユニークな先生がいらした。
新入生を迎えた担任教師が、まずすることは生徒の名前を覚えることだとおっしゃったそうです。
生徒に名札をつけさせたり、体育着にもつけさせたり、するのは反対だったそうです。


とても大事なことは、朝礼の訓示ではなく、教師が生徒たちを見つめることね。
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失語と断念―石原吉郎論  内村剛介

2016-09-21 16:17:02 | Book




この1冊は、詩人石原吉郎の「死」に内村剛介が手向けるために書かれたものである。しかしながら、まさに、良い意味での「死者を鞭打つ」言葉に満ちていたのでした。驚いた。
詩人の言葉の世界は甘いのだと、ロシア文学者が鞭打つ。確かにそうかもしれないと思えてくるのも不思議だ。様々なロシア文学を例に挙げながら、あるいは「鳴海栄吉」の詩を紹介しながら、内村剛介の強い言葉が押し寄せてきました。これには抗う言葉が私にはない。
もしも、生きて石原吉郎がこの言葉の波に、立ち尽くすとしたら、彼は立ち続けることができただろうか?内村剛介の「言葉の強さ」はどこからくるのだろう?
ロシア文学者としての確固たる歴史的視点。抑留者としての石原吉郎との生き方、考え方の相違は大きい。内村剛介の存在を無視して、これからの石原吉郎の言葉を読むことは、私には不可能なことに思えてきました。

これが危険なのかどうか?迷いつつ……。

話題は変わりますが、内村剛介の本「生き急ぐ・スターリン獄の日本人」と「失語と断念―石原吉郎論」の2冊を読んだだけで、「イワン」という名前がこれだけ登場しました。「イワン」とは、何か?

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエーフスキー
父親のフョードル・カラマーゾフ
長男のドミートリィ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ
次男のイワン(イヴァン)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ
三男のアレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ

『イワンの馬鹿』 トルストイ

『イワン・デニーソヴィチの一日』 ソルジェニツィン

『イワン・イリノッチの死』 トルストイ

全部、読まなくてはいけないような気がする。(既読もあるが…)内村剛介の言葉は怖い。けれども、その言葉の勢いに付いて行きたいような魔力がある。

話題はかわりますが、北条民雄の「いのちの初夜」を石原吉郎は愛読していたという。内村剛介もこの本には深い感銘を受けているという。ここに共通点があったことは嬉しい。内村は、北条以前に「いのち」と正面から向き合うような小説を書いた作家はいないとまで言う。


さて、最後に引用します。
『日本の荒廃は戦中の日本軍に日本人の在りようそのものに萌していたのであって、敗戦はそれをあらためてあられもなく示したにすぎない。日本はそして日本人はみずからをすでに裏切っていたのである。そののち石原がシベリアで見たものはもうひとつの世界大の荒廃であったというだけのことだ。だからサンチョ・パンサ石原にとっては戦前・戦中・戦後とかいうかっこいい区分はそもそもナンセンスなのであった。これは書くべき詩を持とうにももはや持ちようもないという自覚でもある。だが、このこと自体を示せば日本はまだ「詩」が出来上がるのであった。この逆説を彼ははじめおずおずと示した。だが、示してしまうとそれは“戦後”日本ではいくぶん新鮮に映るのであった。』

(1979年 思潮社刊)
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生き急ぐ スターリン獄の日本人   内村剛介

2016-09-14 20:37:42 | Book




内村剛介(1920~2009)は栃木県生まれ。ロシア文学者、評論家。小学校卒業後に満州に渡る。大連の中学校を経て、1943年ハルビン学院卒業。関東軍に徴用。1945年~1956年までソ連に抑留されました。

この本の前に読みました石原吉郎の「望郷と海」に感じる「文章の渋滞」に対して、内村剛介の文章には速度と筆勢が強く感じられます。書き手が違えば当然のこととは思いますが、詩人と評論家との違いかしら?いや、ロシア文学者の視点かもしれません。

「あとがき」より。
『東京八重洲口のホテルの一室で一気に書き上げた。出来上がった作品には不満であるが、投げ出してその運命に委す。執筆中に深夜廊下のドアの開閉をかすかに聞きつけては思わず起ち上がったりした。独房の錯覚である。やはり十年の慣性は残っている。それは「生き急ぎ感じせく」日本の娑婆のくらし十年ぐらいでは消滅しないもののようだ。』
ここを読みますと、内村剛介の書き方が理解できたような気がします。

石原吉郎は、1953年にシベリア強制収容所から解放される。スターリンの死んだ年に。内村剛介は、その3年後の1956年にスターリン獄から解放される。ここは独房であり、強制労働はなかったようだ。

「審問」「抑圧」「破綻」の3章に分かれて書かれていますが、「審問」では、意味をなさない質問が繰り出されるばかり、そして独房へもどる。これが繰り返される。「抑圧」の章では「イワン」が多く引用されていました。「破綻」では、ようやく世界が動き出しました。囚人たちの歌が聞こえてきます。そしてスターリンの死。
さらに、「審問」には香月泰男の「運ぶ人」、「抑圧」では「列」、「破綻」では「鋸」の絵画が配されていました。


そして、永く残酷な11年間を、狂うことなく生き抜いた。なんと強い方なのだろう!

さらに引用します。頭を垂れて拝読しました。
『ラーゲリや監獄に拘禁されている者はその肉体が奴隷なのであり、逆に、それを監視する者はその精神が奴隷なのである、と。つまり肉体を拘禁され監視される囚人は精神の奴隷であるところの看守を監視し、その精神を拘禁しているのである。肉体の奴隷の中には精神を奴隷にしてはならぬという不断のたたかいがあった。囚人は外に向かってではなく、むしろ内に向かってまず存在の原理をたたかわねばならぬのである。衰え果てた肉体を養うところの物理的な糧は絶対的に乏しく、その不足を補うものは無限の精神の糧である。』

あの時代のソ連を生き抜いた方の、知的で力強いよきご本でした。


 (昭和42年・1967年初版発行 三省堂新書3)
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望郷と海  石原吉郎

2016-09-07 21:22:44 | Book




藤原ていさんの「流れる星は生きている」の周囲を巡ってきましたが、方向を変えて、8年間のシベリヤ抑留生活を強制された詩人石原吉郎さんの本を久しぶりに開きました。私自身が詩に関わる者であるせいか、言葉が自然に流れこんでくる感覚がありました。

巻末の初稿掲載誌一覧によれば、1965年から1972年の間に書かれたもののようです。1部は「抑留生活の様子」、2部は「帰国後の彼の居心地の悪い心理状況」、3部は「1956年~1958年、1959年~1962年、1963年以後のノート。」となっています。3部のノートでは、ほとんど「呟き」のようでした。

『12月1日夜、船は舞鶴へ入港した。そこまでが私の〈過去〉だったのだと、その後なんども私は思いかえした。戦争が終わったのだ。その事実を象徴するように、上陸2日目、収容所の一隅で復員式が行われた。昭和28年(1953年)12月2日、おくれて私は軍務を解かれた。』と書かれているように、石原吉郎は8年間ものシベリヤ抑留生活を強いられました。

敗戦から8年後の日本において、石原吉郎は帰国できた喜びや安堵よりも、深い孤独に襲われるという言いようのない日々を送ることになります。そこから生まれた詩人の言葉は、抑留生活からの回復とみてもいいのだけれども、書いても書いても自己救済できず、反面では「戦争への怒り」を立ち上げる言葉へも、なかなか辿りつけない。
「肉親へあてた手紙 1959年10月」に書かれているように、抑留者の苦しみに無理解な人々への悲しい訴えに、胸が痛みました。

石原吉郎は「抑留体験者」という悲しみに満ちた自らを、とうとう救い出すことはできなかったのではないか?


 (1972年初版第一刷 1973年初版第二刷 筑摩書房刊)
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