ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ウルルの森の物語

2009-12-30 22:43:28 | Movie
監督:長沼誠 
脚本:吉田智子 森山あけみ 
音楽:久石譲
ドッグ・トレーナー:宮 忠臣

《キャスト》
ウルル:ウルフドッグの子犬(エゾオオカミではないです。)
工藤昴:桑代貴明
工藤しずく:北村沙羅
生野大慈:船越英一郎
工藤夏子:桜井幸子
知里辰二郎:大滝秀治
生野千恵(大慈の妹):深田恭子
拓馬:濱口優


 まさにこの映画は「物語」なのです。「昴」と「しずく」の兄妹が、傷ついた「エゾオオカミの子供」に出会い、「ウルル」という名前をつけて、世話をすることになったということから展開するのですが、「エゾオオカミ」はすでに日本中で絶滅しているのです。

 東京に住む「昴」と「しずく」は、母親「夏子」の入院をきっかけに北海道に行くことになった。5年前に離婚し、野生動物救命所の獣医をしている父親の「生野大慈」に、母親は2人の子供を託したのだった。「ウルル」を治療したのはもちろん父親です。

 美しい広大な自然のなかでの「ウルル」との日々は長くは続かなかった。野生動物保護協会の分子生態学者が「大慈」の家を訪れ、「ウルル」は犬ではなく、絶滅したはずの「エゾオオカミの子供」の可能性が高いと主張し、しかるべき機関で預かるべきだと言う。
 「ウルル」を預けてしまえば、もう二度と自分たちの元へ戻ってこないと思った「昴」と「しずく」は、母親エゾオオカミの元へ返そうと「ウルル」を連れて旅に出る。「オオカミの国」と呼ばれる伝説の「ホロケシ(アイヌ語で「オオカミの棲むところ)」を目指して……。

 この「ホロケシ」を教えたのは、かつて少年時代に読んだ「アイヌ伝説」の本を見せた「拓馬」だった。兄妹はそれを信じて、その絵本にある地図を頼りに旅立つのだった。「ホロケシ」には「ウルル」の母親がいることを信じて。

 「野のものは野へ。」は父親の教えでもあり、母親と離れて暮らす兄妹の「母親に会いたい。」という思いがここに重なったのだった。そして「ウルル」は本当に母親に出会えたのだった。その時人間に保護されていた野生動物との別れ方もここで実践される。「ウルル」に自分たちは君と友達ではないと示すことだ。これは野生動物を保護し、治療して野に帰す時の父親のやり方から学ぶ。父親は野に放した動物たちに「爆竹」で脅すのだった。兄妹は「ビー玉」を投げた。泣きながら・・・・・・。

  *   *   *

 「エゾオオカミ」 は何故絶滅したのか?

  「エゾオオカミ」は、主に「エゾシカ」を食料としていた。古来からアイヌの人々とは共存し、「狩をする神(ホロケウ)」「吠える神(オオセカムイ)」と呼ばれ崇められていた。しかし明治以降、入植者により毛皮や食肉目的で野性のエゾシカが乱獲されたため、食料を失った「エゾオオカミ」は入植者の牛馬などの家畜を襲い始め、害獣となってしまいました。「ストリキニーネ」を、罠の生肉に仕込んだり、後には懸賞金まで懸けた徹底的な駆除により激減し、これに1879年の大雪による大量死が重なった結果、1900年ごろに絶滅したと見られる。 絶滅の原因については、もう1つには狂犬病やジステンパーが挙げられているが、今となっては科学的な原因解明はできない。

 「エゾオオカミ」が絶滅した後、北海道では「エゾシカ」の増加による農業被害が多発する背景もあり、生態系の面からオオカミを再導入しようとする動きもあるというから、人間は勝手な生き物だ。

  *   *   *

 父親の獣医師には、実は「齊藤慶輔氏」という実際のモデルがいました。齊藤慶輔氏は北海道を中心に傷ついた動物たちの治療のため奔走する野生動物専門獣医師です。
 中学までフランスの田舎町で過ごした齊藤慶輔獣医師は、小学校の体験授業で地元の獣医師に出逢い、動物のみならず自然環境全般について熟知している姿に大きな感銘を受けたという。現在では釧路湿原の中にある野生動物保護センターで絶滅の危機にある猛禽類の保護を中心に活動している。

  *   *   *

 この映画のなかで、出てくる場面は少ないが、大滝秀治の演じた「アイヌの猟師」は、この兄妹の困難な夢の旅を最後まで見守り続け、別れる時に残した言葉が心に残る。

 「どの死もなに1つ無駄ではない。」と・・・・・・。

ラスト・エンペラー

2009-12-28 15:36:39 | Movie
監督・脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
脚本:マーク・ペプロー
音楽:デイヴィッド・バーン、坂本龍一、コン・スー


《参考文献》
愛新覚羅溥儀の自伝『わが半生』(←共著者李文達)
レジナルド・フレミング・ジョンストン(愛新覚羅溥儀の家庭教師=帝師)著『紫禁城の黄昏』

《キャスト》
愛新覚羅溥儀 :ジョン・ローン(中国系アメリカ人)
レジナルド・フレミング・ジョンストン :ピーター・オトゥール
西太后:リサ・ルー
甘粕正彦:坂本龍一
戦犯収容所長:英若誠(イン・ルオ・チェン)


 思い出深い映画である。10年前に亡くなった姉と観た映画であり、さらにまたその姉と2人で旅した中国は北京(紫禁城など。)と旧満州のハルビンであったことなど。その長い空白を経て、再びテレビで愛娘と共に観たことは感慨深い。
 旧満州はわたくしにとって無縁な場所ではない。亡父は大学卒業と同時に満州へ渡った男であり、亡母はまさに「大陸の花嫁」として父に嫁いだ。豊かな占領国の人間としての生活、そして敗戦後の惨めな生活も味わい、引揚者としてふたたび日本に帰国した者である。愛娘曰く「時代は大きくかぶっているのね。」なのです。痛みと共に観る。しかし、中国大陸を舞台にした映画であるが、中国系アメリカ人俳優が主役、主な台詞は英語であるのは何故か?
 

 清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀(1906年~1967年)は、清朝の第12代皇帝であり、その後、形だけの満洲国の初代皇帝(在位:1934年-1945年)の生涯を描いた歴史映画。この時代を実際に支配していたのは甘粕正彦(1891年~1945年8月20日)である。 

 母の西太后による溥儀(3歳)に対する皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、満州国の崩壊後に一市民として死去する1967年までの溥儀の人生を描く。

 実際の紫禁城で世界初のロケーションが行われた。観光名所として一日5万人が訪れる場所を、中国共産党政府の全面協力により数週間貸り切って撮影が行われた。色彩感覚豊かなベルトルッチの映像美は高い評価を受けた。アカデミー賞9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)受賞を達成した。
 日本における評価は、甘粕正彦役兼音楽プロデューサーとして参加した坂本龍一が、日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞したことなど、様々な要因が大ヒットに繋がった。

 日本での劇場公開に際しては、溥儀が「戦犯収容所」で「南京虐殺」の映像を見せられるシーンを、配給元がベルトルッチ監督に無断でカットした。そのためベルトルッチ監督から抗議され、後にそのシーンを復活させた。配給元は馬鹿だねぇ。

 *   *   *

 ここで、溥儀の人生に初めて紫禁城以外の文化を教えた「レジナルド・フレミング・ジョンストン(Sir Reginald Fleming Johnston, 1874年 - 1938年)についてメモ。

 スコットランドのエディンバラで法律家の息子として生まれ、その後地元の名門大学であるエディンバラ大学に入学、その後オックスフォード大学モードリン・カレッジを卒業した。1898年にイギリス植民地省に入り、アジアにおけるイギリスの主要な植民地の一つである香港に配属された。1900年より香港総督の秘書官を務め、1904年にイギリスの租借領である威海衛に地方官として赴任した。 1919年に溥儀の帝師(家庭教師)に選ばれ、ヨーロッパ人としては初めて紫禁城の内廷に入った。イギリスの中国学者。

 *   *   *

 さらに甘粕正彦についてメモ。

 大日本帝国陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後に自殺した。

 *   *   *

 しかしながら、改めて中国という国の急速な歴史の激変ぶりには驚愕する。わずか3歳で「エンペラー」となり、紫禁城以外の世界を知らずに大人となり、やっと紫禁城を出られた時に、行った先は「第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所」である。そして10年後に出所できた後には、文化大革命である。
 「戦犯収容所」で、一人の生活者としては全く無能な愛新覚羅溥儀を見守り、導いた戦犯収容所長の「英若誠」も文革では、あの独特の忌まわしいさらし者の罰を受けることになる。溥儀は出所後は庭師として生活していたが、この事実を目の当たりにして、呆然とするのみ。

 最後に、入場チケットを買って、紫禁城に入る「元エンペラー」の老いた姿は感慨深い。日本の天皇が「チケット」を買って、「皇居」に入る時代はあるのか?

オルフォイスへのソネット第二部・2

2009-12-27 16:59:25 | Poem
とっさに手近な紙が時として
画家からその真実の筆触を
かすめ取るように、鏡もしばしば
少女らの聖らかで 無比の微笑をその内部に引きいれる、

彼女らがひとりで朝を試すとき――
または 付き添う燈火の輝きのうちにあるときに。
けれども実の顔の呼吸のなかへは、
そのあと、ひとつの反映が映るばかり。

かつて眼は暖炉の火がすすけ 長いあいだかかって
消えてゆくなかに、何を観たことか――
生の眼指し 永久に失われたものよ。

ああ 大地の、その喪失をだれが知っていよう?
にもかかわらず称賛の声をあげる者だけだ、
全体のなかへと生まれた心、それを彼は歌うだろう。

 (田口義弘訳)


 束の間の事柄の一回限りの表情を写し取るために、画家(ロダンか?)や詩人たちが整えられたものを用意するいとますらない時に、そこにたまたま置かれていた紙と鉛筆などが、急をしのぐ道具として使われることは、よくあることだ。
 それは、鏡が、朝のひかり、夕べの灯りのなかに写しとる聖なる少女の表情が一瞬のものである時によく似ている。


けれども実の顔の呼吸のなかへは、
そのあと、ひとつの反映が映るばかり。



 この「呼吸」という言葉は、リルケの詩によく表れるものの1つだが、それは「連続する現実性」と言えばいいのだろうか?鏡に映る少女の姿も、その時々の偶然の表情が、繰り返し映るということではないだろうか?

 3連は暖炉の火が消えてゆく様子と、それを見つめている眼指し・・・・・・そこに「無常」と「喪失」を見たとしても、第1連に立ち戻って、また新たな息を吹き返すと考えてもいいだろう。


にもかかわらず称賛の声をあげる者だけだ、
全体のなかへと生まれた心、それを彼は歌うだろう。



 ここで歌うのは、もちろん「オルフォイス」であろう。地上の創作者たちは、たくさんのものの瞬間の美しさを取りにがしながら生きているとしても、彼は歌ってくれるだろう。地上の「無常」と「喪失」はこうして救われる。

ASAHI Journal?!

2009-12-26 02:42:02 | Memorandum
 2009年4月発行された「朝日ジャーナル」は、「復刊か♪」と一瞬思わせながら、実は「週間朝日緊急増刊」として発刊されたものでした。続いて11月に「朝日ジャーナル別冊」として発刊されたものも「復刊」ではなかった。この2冊を目の隅の方で意識しながら、日々は過ぎてようやく書棚から引き抜いた次第です。来年にならないうちに。

 4月に出された前者には、冒頭に「週間朝日編集長」の挨拶が記されています。実はこの計画はもっと以前に企画されていた。2007年3月の「週間朝日」に綴じ込みの「ブック・イン・ブック」という形で、24ページだけの「ジャーナル」があったのです。そしてその後に何故2冊の「朝日ジャーナル」復刊もどきがでたのか?それはまさに「今の日本全体が未曾有(←みぞゆう、ではないですよ!)の危機」にあるからでせう。「わかりやすさ」ばかりが求められる時代ですが、時代そのものはわかりやすい状況ではない。むしろ非常にややこしい。それには「知の復権」が待たれる。その願いが込められた2冊です。

 さて、そこまでの編集長の思いは理解したものの、どこから読めばいいのやら?目次を眺めていたら、なんと「水無田気流」の名前が目に飛び込んできました。彼女は魅力的な若き女性詩人です。これは「ゼロ年代の旺盛な創作活動を行っている4人からの発信」としての特集です。「水無田気流」「丸谷裕俊」「遠藤一郎」「澤田サンダー」・・・しかしわたくしは「水無田気流」しか存じ上げない。申し訳ないことではありますが、その上彼女の文章が一番輝いている。(内2名は「談」となっているしねぇ。)

 タイトルは「ビンボーブラボーの罠」。彼女の文章は期待を裏切ることはなかったが、たった1ページでは書ききれない思いだったのではないか?わたくしももっと読みたかった。残念だ。

 若い詩人にとって、今日の「社会の閉塞感、不安」だけでは括りきれない思いがあるでしょう。その対極には不透明で過剰な自由と開放を合わせ持つ時間があるわけで、そこから生み出される「詩」は、視界に写るものとして存在しないわけで、当然読み手不在となる。そして「詩人のビンボー化」となる。
 彼女の言葉を引用すれば「純粋な表現=大衆に媚びない=営利主義排除=ビンボーブラボー」となる。「ビンボーなランボー」→「地獄の季節」・・・・・・。

 近代化あるいは大衆化において、経済社会が自由になったことは庶民生活にとっては幸福なことだったろう。しかし芸術全般がパトロンを失い、ポピュラリティーを求められるという局面を迎える。つまるところ、近代からの詩人の宿命なのであって、「ゼロ年代」のみの問題ではないだろうと思う。


《おまけ》

 この雑誌の最終ページには「ネトゲ廃人・芦崎治」の著書の宣伝がありました。象徴的な若者世界の両極を見た思いがします。「ネトゲ廃人」に未来はあるのだろうか?彼らを待っているものはなにか?

特別対談・詩を読む、時を眺める(続)

2009-12-22 14:36:09 | Book
 再度書いておきます。このタイトルの「時を眺める」という認識は、老作家「大江健三郎」と「古井由吉」とが繰り広げる老年の明晰な視線が交錯するする充実した対談にふさわしい。対談が辿る筋道は「古井由吉」の本「詩への小路」です。
 

 『死んで蘇るというのは言葉においてこそ言えるんじゃないかと。「はじめに言葉ありき」と言いますが、これを僕は「1度言葉が滅びたあとの復活のはじめ」ととるんです。逆に言えば、1度死に瀕したことがなくては、言葉は成り立たないのではないかと。その中でも、言葉が死ぬ際まで擦り寄っているのが「マラルメ」だと思うのです。』

 『壮年のうちは、築いたり固めたり構成したりということに頭が向かいます。老年になると違う。60歳の頃から、崩れる危険の中で物事をすすめるところに、仕事の場を見つけてきました。おかげで書くことに対する疑いがなくなったというのではなく、書く上では疑いそのものが生産的だとよくわかりました。』


・・・・・・「古井由吉」の言葉より。



夜の歌  フリードリヒ・ヘッペル

魂よ、あの者たちを忘れるな
魂よ、死者を忘れるな
 (中略)

そして嵐は死者たちを怪異の類ともども
果てしない荒野へと追い立てて行き
その境にはもはや生命もなく
解(ほど)かれたもろもろの力の
闘いがあるのみなのだ


 ここでまた「古井由吉」は「解(と)かれた」ではなく「解(ほど)かれた」と訳しています。「死」と「再生」が隣合っているこの部分を「とかれた」ではなく「ほどかれた」と訳したことに対して「大江健三郎」は「とても創造的だ。」と言っておられます。ここで私的な気付きではありますが、「詩」という営為そのものがオルフォイスの神話のように「死」と「再生」とを永い歴史のなかで繰り返したきたのではないでしょうか?



オルフォイスへのソネット第一部・26

しかし神々しい存在よ、最後にいたるまでも鳴り響く者よ、
しりぞけられたマイナデスの群れに襲われたとき、
彼女らの叫喚に秩序をもって響きまさったうるわしい存在よ、
打ち毀す者たちのさなかから あなたの心高める音楽が立ち昇ったのだ。

あなたの頭と竪琴を打ち毀すことのできる者はいなかった、
いかに騒ぎ 足掻こうとも。 そして彼女らが
あなたの心臓をねらって投げつけた鋭い石はみな
あなたに触れると 柔らいでそして聴く力を授かった。

ついに彼女らはあなたを打ち砕いてしまった、復讐の念にいきりたち。
しかしそれでもあなたの響きは 獅子や岩のなかに、
樹々や鳥たちのなかに留まった。そこでいまなおあなたは歌っている。

おお 失われた神!無限の痕跡よ!
敵意がついにあなたを引き裂いて 偏在させたからこそ、
私たちはいま 聴く者であり、自然のひとつの口なのだ。

 (田口義弘訳)

 *   *   *

 引用の多い文章で、真に恐縮しておりますが、このお2人の対談を超える言葉をわたくしは持ちえませんでした。ひたすらお2人の言葉をこの掌からこぼすまいと必死でした。

特別対談・詩を読む、時を眺める

2009-12-19 23:51:53 | Book
 2010年1月号の「新潮」に掲載された「大江健三郎」「古井由吉」との、20ページの対談を読みました。全文引用したいような充実した対談でした。老齢になるということは、なんと素晴らしいことだろう。しかしこのお2人がただ単に老齢を迎えたわけではありません。

 対談は「古井由吉」が2005年に出された「詩への小路・書肆山田刊」の内容に沿って展開されています。この本はすべてドイツの詩人についての作品の翻訳とエッセーです。そして後半は「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」全文について書かれています。これらは同時に「古井由吉」が生涯に読んできた道筋を辿りなおすようなものではないかと「大江健三郎」は指摘しています。

 この「詩への小路」に沿うように、お2人の対談は進んでいました。すでに50年間の歳月を「文学」の世界で生きていらして、書き、読み、翻訳されて、それから「病」も通過され、ほぼ「老年」に入られたお2人の対談は、何1つ無駄もなく、すべての言葉がわたくしの胸に、実った果実のように落ちてくるのでした。あるいはあたたかな光のように、惑うわたくしの路を照らしてくださいました。
 
 この「詩への小路」は、この半年くらいわたくしを「ドイツ詩」に向かわせる発端となった本であり、これほどの力でわたくしの方向を決めて下さった本も稀有な事件でした。

 「古井由吉」は作家が「外国の詩」を読み、翻訳することは危険なことだと考えていらしたようでした。ご自分の日本語を失うかもしれないと思っていらしたようです。ようやく束(つか)ね束(つか)ね小説を書いてきたご自分の日本語が崩れて、指のあいだからこぼれおちてしまう恐れを感じていたようでした。
 しかし束ねるも崩れるも同時のこと、そう思われた時に「外国の詩を読んだ方が小説家としての驕りはなくなるだろう。」とお考えになったようです。

 ここで「束(つか)ね」「束(たば)ね」との違いについて、大江健三郎がその違いに気づきお話していました。「たばね」は単に集めたものを括ることであり、「つかね」は、拡散しようとしているものをこの手でひととき、留め捕まえることでしょう。そして詩人や作家の仕事というものは「壊すこと」と「構築されること」との繰り返しではないでしょうか?
 また「翻訳詩」の困難さについて「古井由吉」は、意味を理解し、それを伝えることは可能かもしれないが、「調べ」を伝えることは決してできないと、おっしゃっていました。そして多くの先達の翻訳者の仕事に向き合うことをなさったようです。


 今日はこれを中断して、午後から夜まで出かけてしまいましたので、今夜はここまでに致します。続きは数日後に。

ボードレールとリルケ

2009-12-15 02:41:39 | Memorandum
 これは個人的備忘録です。

 *   *   *

ボードレール    リルケ

ただひとり この詩人は 世界を一致させたのだ、
ひとつひとつのことで 崩壊してゆく世界を。
美なるものに 途方もない証明を与えたのだった。
なにせ おのれを苦しめるものを みずから賛美する詩人なのだから、
かれは 破滅を 無限に浄化したのだった。

破壊的なものもまた 世界となるのだ。

 (塚越敏訳・献呈詩1906~1926年より。)


 6行だけのリルケの書いた「ボードレール」への献呈詩と言えばいいだろうか?この詩の言わんとするところは、すべての現実に起こる否定的な出来事がすべて肯定されるということだろうなぁ?否定的なものを徹底的に否定することによって肯定できるということかなぁ。この1編の詩は「マルテの手記」にある1文と緊密に繋がっていますので、ここであえてメモを書いた次第です。

 *   *   *

 ボードレエルの「死体」という奇態な詩を君は覚えているか。僕は今あれがよくわかるのだ。おしまいの一節は別として、彼は少しの嘘も書いてはおらぬ。あんな出来事が起こった場合、彼はいったいどうすればよいのだ。この恐怖の中に(ただ嫌悪としか見えぬものの中に)あらゆる存在を貫く存在を見ることが、彼にかけられた負託だったのだ。選択も拒否もないのだ。(マルテの手記より。)


 この大山定一訳の「マルテの手記」のなかではタイトルが「死体」となっていますが、この詩は翻訳者によってさまざまなタイトルの翻訳がなされています。ボオドレエルの詩集『悪の華』のなかの「憂鬱と理想」の章に収められた作品で、「腐肉」「腐れ肉」「腐屍」といろいろな翻訳があります。さらに「ボードレール」も時代と翻訳者によって「ボードレエル」「ボオドレエル」と微妙に変化しています。

 *   *   *

腐肉    ボオドレエル  

戀人よ、想ひ起せよ、清かなる
  夏の朝(あした)に見たりしものを。
小徑の角の敷きつめし砂利の褥に
  忌はしき屍一つ。

淫婦のごとく、脚空ざまに投げやりて、
  熱蒸して毒の汗かき、
しどけなくこれ見よがしに濛濛と
  湯気だつ腹をひろげたり。

太陽は腐肉の上に照りつけて、
  程よくこれを炙りし、
「自然」の蒐めし成分を百倍にして
  返さむと務むるごとし。

大空はこの麗しき亡骸の
  花と咲く姿を眺め、
漂ふ臭気の烈しさに、危く君も
  草の上(へ)に倒れむばかり。

蝿(さばへ)の翼高鳴れる爛れし腹より
  蛆蟲の黒き大軍
湧きいでて、濃き膿のどろどろと
  生ける襤褸を傳ひて流る。

なべてこれ寄せては返す波にして、
  鳴るや、鳴るや、煌くや、
そことなき息吹に五體はふくらみて、
 生き、肥ゆるかと訝まる。

斯くて此処より立ち昇る怪しき樂は、
  流るる水か風の音(ね)か、
はた穀物を節づけて篩の中に、
  覆し、ゆする響か。

形象(かたち)は消えても今はただ一場の夢、
  ためらひ描く輪郭の、
畫布の面(おもて)に忘れられて、師は唯
  記憶をたどり筆を執るのみ。

巌かげに心いらだつ牝犬ありて
  怒れる眼(まなこ)にわれらを睨み、
喰ひ残せし肉片を、またも骸より
  奪はむと隙を窺ふ。

――さはれこの不浄、この凄じき壊爛に、
  似る日來らむ君も亦、
わが眼の星よ、わが性(さが)の仰ぐ日輪、
  君、わが天使、わが情熱よ。

さなり、亦斯くの如けむ、都雅の女王よ、
  終焉の秘蹟も果てて、
沃土に繁る草花のかげに君逝き、
  骸骨(むくろ)に雑り苔むさん時。

その時ぞ、おゝ美女(たをやめ)よ、接吻(くちづけ)をもて
  君を咬はむ地蟲に語れ、
分解せられしわが愛の形式(かたち)と真髄
  これを我、失はざり、と。

(齋藤磯雄訳 (悪の華・「憂鬱と理想」・29)

ジュール・シュペルヴィエル  二編

2009-12-14 01:59:22 | Poem
 この詩人との出会いはそれほど昔のことではない。突然に出会ったのだ。そこで釘付けになってしまった2編です。ある詩人たちの勉強会(?)に、参考資料として用意したものですが、そのまま眠らせるのはもったいないなぁと思いまして、ここに掲載します。


動作      安藤元雄訳

その馬はうしろを振り向いて
誰もまだ見たことのないものを見た。
それからユーカリの木の陰で
牧草をまた食べ続けた。

それは人間でもなく樹でもなく
また牝馬でもなかったのだ。
葉むらの上にざわめいた
風のなごりでもなかったのだ。

それは もう一頭の或る馬が、
二万世紀もの昔のこと、
不意にうしろを振り向いた
ちょうどそのときに見たものだった。

そうしてそれはもはや誰ひとり
人間も 馬も 魚も 昆虫も
二度と見ないに違いないものだった。大地が
腕も 脚も 首も欠け落ちた
彫像の残骸にすぎなくなるときまで。

・・・・・・詩集「万有引力・一九二五年」より。リルケの賞賛を受ける。


 
灰色の支那の牛が・・・・・・   堀口大学訳

灰色の支那の牛が
家畜小屋に寝ころんで
背のびをする
するとこの同じ瞬間に
ウルグヮイの牛が
誰か動いたかと思って
ふりかえって後(うしろ)を見る。
この双方の牛の上を
昼となく夜となく
翔びつづけ
音も立たてずに
地球のまわりを廻り
しかもいつになっても
とどまりもしなければ
とまりもしない鳥が飛ぶ。

・・・・・・詩集「無実の囚人・一九三〇年」より。

  *   *   *

 シュペルヴィエルは、一八八四年ウルグアイのモンテヴィデオに生まれる。両親は南仏ピレネー地方の出身だがウルグアイに移民、裕福な一族に属していた。しかし一歳を迎える前、ピレネーに帰郷した折りに両親とも不慮の中毒で急死。以後フランスの祖母のもとで育つ。

 フランスとウルグアイ両方の国籍を持っており、生涯にわたって両国を往復して一つの国にとらわれない複眼的な視点を養った。創作活動は一貫してフランス語で行っている。以下、簡略な略歴を。

一八九四年(一〇歳) パリのジャンソン=ド=サイイ中学に入学。

一九〇二年(一八歳) パリ大学文学部在籍。法学部聴講。兵役に従事。

一九〇七年(二十三歳) モテヴィデオでピラール・サーヴェドラと結婚。この年から南米に長く滞在し、チリに旅行。また一年間奥地の農場で過ごす。三男三女が次々に生まれる。(上記の二篇はこの時期に書かれたものか?)

一九一四年(三十歳) 第一次大戦、動員される。郵便の検閲に従事。高名な女性スパイ「マタ=ハリ」逮捕のきっかけをつくった。

一九一九年(三十五歳) 大戦が終わり、軍曹で除隊。パリ十六区ランヌ街の自宅に戻り、以後長くここに住む。これ以後は執筆活動に。詩、小説、戯曲などなど。(中略)

一九六〇年(七十六歳) 「ヌーヴェル・リテレール」紙の推挙により、「ポール・フォール」の後継者として「詩王」位を贈られる。五月パリの自宅で死去。
この「詩王」の実態はまだわかりません。想像するにフランスの出版界が決める詩人への称号ではないだろうか?

  *   *   *

 この2編の詩に共通することは「永遠」と「瞬間」という「時間」ではないだろうか?そしてそれは「人間」ではなく(いや、人間も含まれているのか?)、素朴な生き物の「馬」や「牛」の何気ない「うしろを振りかえる。」という行為が、時間軸となっているのだ。壮大な詩に出会ったという思いが深い。

詩に映るゲーテの生涯  柴田翔

2009-12-13 14:16:59 | Book
 昨夜、友人とリルケやゲーテの話をしながら、ゲーテに会った若き詩人「ハインリヒ・ハイネ」の名前が思い出せなくて、過去のメモを探し出してきました。わたくしもついに焼きがまわったか???以下、過去メモより。

   *    *     *

 もちろん柴田翔の考察による「ゲーテ」を知りたくて、この本を開いたのですが、わたくしにはこの著者「柴田翔」には特別な思い入れがあるのです。この方はドイツ文学研究者ではあるのですが、芥川賞作家でもあります。その小説「されどわれらが日々―」が「文学界・・・だったかな?」に掲載された時には、わたくしは高校生、姉は大学生となって家を出て、東京で一人暮らしをしていました。その姉から送られてきたのがこの雑誌でした。これによってわたくしはその時代の姉たち大学生の実態を知りました。さらに、それまでのわたくしはリアルタイムで書かれた小説というものを知らなかったのでした。この2つのカルチャーショックを与えて下さった方でした。

 柴田翔のこの著書は、1994年4月~1995年11月の間に「学鐙」に連載したもので、ゲーテの詩を読みながら、飛び飛びに彼の生涯を辿ってみようとした試みでした。それがこの一冊の新書版にまとめられたものです。
 読みながら、あああ、じれったい。ドイツ語が読めない哀しさよ。「この詩は美しい頭韻をふんでいる。」と著者&翻訳者は書いていらっしゃるのですが、ご本人ですら邦訳すれば、それは表現できないとおっしゃる。柴田氏がゲーテ詩の翻訳する過程を脇から覗きこみながら、わたくしはなんとか日本語で頭韻をふんで書くことはできないものかなぁ、などと無茶苦茶な希望を持ってしまいました(^^)。



アンテピレマ(語りかけ三たび)

敬虔なる眼差しで
永遠なる織女の傑作を見よ。
足をひとたび踏めば千の糸が動き
左へ右へ杼(ひ)が飛び
糸と糸とが出会い流れる。
ひとたび筬(おさ)を打てば千の織り目が詰められる。
織女はそれを物乞いして集めたのではない
彼女は経糸を太古の昔から機に張っていた
永遠の巨匠が横糸を
安んじて投げることができるようにと。


 ゲーテ(1749年~1832年)が1818年~1820年に書かれたこの詩は、「パラバーゼ(人々への語りかけ)」「エピレマ(再びの語りかけ)」とともに3部作のようになっています。1814年は「ナポレオン退位」「ウィーン会議」、1816年は、妻クリスティアーネの死。大きな歴史の転換期であり、ゲーテの周囲の人間関係も大きく変化した時期でありながら、何故このような明快な詩が書かれたのだろうか?ゲーテには謎が多いようだ。「あとがき」によれば・・・・・・

 『ゲーテは19世紀後半のドイツ・ナショナリズムの昂揚のなかで国民的大作家と評されるようになったのだが、それとともに当時の偽善的道徳律によって飾り立てられた〈ゲーテ像〉も作り上げられて行った。(中略)私がこの本で願ったのは、そうしたゲーテ像を解体し、ヨーロッパの大変動期に生きたゲーテという作家の魅力を読者に感じ取ってもらうことだった。』・・・・・・とある。

 また、このようなことも書かれています。『フランス革命のあとの内的危機の時代、ゲーテは自然ではなく歴史の正義を信じるシラーを必要とし、彼との硬い盟約を結んだのだったが、その時期はもう終わっていた。それは、あえて言うならば、殆どシラーの死を――もとよりゲーテが、ではないにせよ――ゲーテのなかの自然の力が、待ち望んでいたかのようである。』・・・・・・この「自然の力」というものが、ゲーテの創作の困難、職務への勤勉性、人との別れ(晩年には「死」という別れもある。)などなどからの開放と忘却のために、何度もゲーテを救い出した考え方ではなかったのか?

 青年「ハインリヒ・ハイネ」が老詩人「ゲーテ」に会った時を回顧しつつ、「彼は美しいアポロのようだった。但し、それは生命を持たぬ、冷たい石造りのアポロだった」と述べている。ゲーテは移ろいやすい人間(あるいは自己)というものを、不朽のアポロとして刻みこもうとしたようだった。それは中年から晩年まで、さらに最晩年まで執拗に続いた創作の作業だったようだ。それを支えたのは、「ロッテ」「アウグスト」「シュタイン夫人」「クリスティアーネ」などではなくて、ゲーテ独自の「エゴイズム」ではなかろうか?

 ゲーテ26歳の時に書かれた「ファウスト」の初校以来、「ファウスト」は彼の全部の経験を伴走し、「ヴィルヘルム・マイスター」と「ファウスト」とが、ゲーテの生きたすべてを、美しく描き出したと言えるのだろうか?ゲーテの生命力の驚くべき強さは、そのまま創作&執拗な推敲、書き直しへの力ともなった?あるいはそれがゲーテの生命力となった?「死して生きよ。」・・・・・・苦しみを忘却し、深く眠り、暗闇を憎み、輝く時を求め続けたゲーテ・・・・・・「もっと光を。」だったね。

リルケ・散歩の途中で・・・

2009-12-11 20:20:49 | Memorandum
 リルケをちょっと本気で読んでみようと「ドゥイノの悲歌」を読み出したのがきっかけなのですが、最初は「手塚富雄」訳から入りました。しかしその時身近なをとこに「君には無理だ。」と言われて、おおいに憤慨したのですが、それに「すまぬ。」と思ったのかどうか?古井由吉の「詩への小路」という本を買ってくれたのだった。この1冊の後半部が「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」だった。それから「マルテの手記」「ポルトガル文」「神さまの話」「若き女性への手紙」「オーギュスト・ロダン」から、「オルフォイスへのソネット」まで。

 そこで気付いたことですが、女性の翻訳者に出会えないことでした。わたくしはドイツ語ができませんので、このソネットに関しては2人の翻訳者に頼りました。「田口義弘」と「生野幸吉」でした。このお2人の註解を道標として、紹介されている、関連する詩や文章を探しながら、おぼつかない散歩をしている途中です。今は年末のため一旦中断しましたが、この空白期に見えてくるものがありました。

 日本におけるリルケ解釈はすべて男性であり、学者(詩人ではなく・・・)だということです。リルケ自身は「ポルトガル文」の翻訳、「若き女性への手紙」など、また妻の「クララ」にも多くの書簡が送られていますのに。一旦休憩に入ったことで、思わぬものが見えました。ここから振り返れば、「君には無理だ。」と言ったをとこの言葉が出発点であり、もしかしたらそれが結論かもしれませんね。そこを振り切って最後まで行けるか?男社会は根強い?