ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・24

2010-02-28 01:21:01 | Poem
おお この歓び、つねに新たに やわらかな粘土より!
最古の敢行者たちにはほとんど誰も助力しなかった。
にもかかわらず、街々は祝別された入江にそって立ち、
水と油は にもかかわらず 甕をみたした

神々を、まず大胆な構想をもって、私たちの描く者たちを
気むずかしい運命はまた毀してしまう。
だが神々は不滅の存在。見よ ついに私たちの願いを聴き入れる
あの神の声が 私たちにひそかに聴き取れるのだ。

私たちは 幾千年も続いてきたひとつの種族――母であり父たちであり
未来の子によってますます充たされてゆき、
のちの日にひとりの子が私たちを凌駕し、震撼させるだろう。

私たち 限りなく敢行された者である私たちは、何という時間の持ち主なのだろう!
そしてただ寡黙な死 彼だけが知っているのだ、私たちが何であるかを、
そして彼が私たちに時を貸し与えるとき、何をいつも彼が得るかを。

 (田口義弘訳)


ゆるく溶かれた粘土からうまれる歓喜、たえずあらたなこの悦び!
最古のころの敢行者を助けた者はほとんどなかった。
街々は、それにもかかわらず祝福された入り海にうまれ、
水と油は、にもかかわらず甕をみたした。

神々を当初われらは大胆な構想をもって設計するが
気むずかしい運命がふたたび砕いてしまう。
しかし神々は不滅だ。ついには望みをかなえてくれる
あの神々の声音を盗み聞くがよい。

われらは何千年を閲した種族。母たち そして父たち、
未来の子によっていよいよ実現せられ、
ついには、いつか、その子らはわたしたちを超え、わたしたちの心をゆるがす。

限りなく賭けられたもの、なんとわれらの時は広大なのか!
そして無言の死だけが、わたしたちがなんであるかを見通し、
わたしたちに時を貸すとき、なにを獲(う)るかを知っている。

 (生野幸吉訳)


 「粘土」という言葉からは、当然神が人間を粘土から作り賜うたという前提はあるのではないか?と思います。「祝別された入江」あるいは「祝福された入り海」というところからは、人間の集落は必ずと言っていいほど、水辺から始まったということ(これはわたくし自身の永年の確信犯的発想です。)に繋がってゆくようです。そこには粘土で作られた家、それから甕、そしてそこには水も油も満たされている。人間のいのちはそこで「幾千年も続いてきたひとつの種族」となっていくのでしょう。そして「未来の子によってますます充たされて」あるいは「未来の子によっていよいよ実現せられ」人間社会は連鎖してゆきます。ですが気むずかしい神の手のよって毀されることもある。人間が堕落した時の神の怒りでしょう。こうして人間は生きながらえてきました。「何という時間の持ち主なのだろう!」・・・と。人間のいのちには限りがありますが、それを連結してゆくことは可能です。時間はこのように神から人間に賜ったものではないか?

 しかし人間には必ず「死」が訪れます。人間に「時間」を貸して、この地上に生かしめた神は、次には「人間の死」をも受け入れて下さるのだろう。人間は自らの「死」確認することはできないのですから。

オルフォイスへのソネット第二部・23

2010-02-28 00:46:46 | Poem
あなたの時のうちの たえずあなたにさからう
あの瞬間に私を呼んでくれたまえ――
嘆願しつつ 犬の顔のように近づいてきながら、
それをついに捉えたとあなたが思うや

いつもきまってそむけられるあの瞬間に。
そのように遠ざかったものこそもっともあなたのもの。
私たちは遊離している。やっと歓迎されたと思った
そこで私たちは放されたのだ。

不安にかられて私たちはひとつの支えを希求する、
古いものには時としてあまりにも若く、
まだ存在したことのないものには あまりにも老いている私たち。

だが私たちは正しい、にもかかわらず讃めたたえる時にのみ。
なぜなら私たちは ああ 枝であり 鉄の斧であり、
そして熟れてゆく危険の甘味なのだから。

 (田口義弘訳)


君の時間のうちで、たえず抗らう
あのひとときにはわたしを呼びたまえ。
犬のように訴えたげにまぢかく迫り、
だがようやくつかまえたと思う一瞬、

きまってまたもや顔をそむける、あの時間に。
そのように君から引き去られたものが、もっとも君の所有だ。
よるべないわたしたちは、やっと迎えられたと思う
その場所で追われるさだめだったのだ。

おびえながらわたしたちは手がかりを探す。
時として古いものにとっては若すぎ、
未聞のものに対して老い過ぎたわたしたちには。

わたしたちは、しかもなお頌め歌をうたうときにのみ正しいのだ。
なぜなら、ああ、わたしたちは延び出た枝であり、枝を切る鉄の刃であり、
熟しゆく危険の甘美さであるのだから。

 (生野幸吉訳)

 このソネットは、読者に向けて書かれているようです。人間の通常の現実とは「まだ来ないもの」と「すでに過ぎ去ったもの」という時間としてしか測ることはできないのでしょう。

 「犬」という比喩にはいささか安易な思いがしないでもないのですが、「放たれた」関係に、常に置かれている人間同士の在りようは恐らくこのようであるのかもしれません。


 「第7の悲歌」の最終部分は、このソネットの意味が関連しているようですので、そこを引用してみます。


なぜなら わたしの声は呼びかけながら、
押しもどす拒絶(こばみ)につねに充ちているのだから。



 最終行にある「熟れてゆく危険の甘味」あるいは「熟しゆく危険の甘美さ」とは「死」のことでしょう。従って人間は伸びゆく枝であるとともに、その枝を切る危険も内面に共存させているということですね。

  *     *      *

《追記・1》

リルケの「新詩集・別巻・・・・・・我が偉大なる友 オーギュスト・ロダンに捧ぐ・1908年」のなかにこのような詩があります。1907年、パリにて書かれた下記の詩は、当時のリルケを知る上では重要な作品のようです。


犬   (塚越敏訳)

あの上層では 眼差しからなる一つの世界の像が
絶えず あらためられては 罷り通っている。
ほんのときたま 密かに事物が現れて 彼のそばに立つ、
そうしたことも 彼がこの世界の像をおし分けてすすみ、

下層にいたって ちがった彼になるときに起こるのだ。
突きはなされてもいないが 組みいれられてもいない彼は
まるで疑念をいだいているかのように 自分の現実を
彼が忘れている世界の像に 手渡してしまう、

疑っているにもかかわらず 自分の顔を差し出しておくために。
哀願せんばかりの顔をして、ほとんど 世界の像を
理解しながらも 世界の像に通じるや 思い切ってしまうのだ。
もし通じるなら 彼は存在しなくなるであろうから。


《追記・2》

 どうもこの「犬」のことが気になって調べてみましたら、このようなものをみつけました。リルケの時代もこうであったかどうかはわかりませんが……。

ドイツ~犬の権利が守られる国


《追記・3》

スケッチ   吉野弘

雨あがり。
赤土の大造成宅地は一枚の広く薄い水溜り。
強い風が吹けば端からめくれてゆきそうな水溜りの
向う岸。
曇天の落想のように
ぽつんと
黒い犬がいて
鼻を空に向けています。
動かずに、長いこと、鼻を空に入れたままです。
普段、彼を飢えさせない豊饒な大地を
せわしくこすっていた日常の鼻
その鼻を、なぜか今、空に差しこんでいます。
――大地の上に高く
おれの生活とは無縁なひろがりがある――
そんな眩しい認識が
唐突に彼の頭脳を訪れたと仮定しようか。
高いひろがりを哲学するために使えるのは鼻しかない
  とでもいうように
ああ、鼻先を非日常の空に泳がせています。

黒い犬の困惑を察しながら、私は
水溜りのこちら側から見ています。

・・・・・・詩集「陽を浴びて・1983年」より。・・・・・・

オルフォイスへのソネット第二部・22

2010-02-25 17:16:06 | Poem




おお 運命にもかかわらず、私たちの現存在の
輝かしい充溢よ、公園に泡だちあふれ――
あるいは高い表玄関の楔石(くさびいし)のかたわらで
露台の下に、石の男たちとして屹立し!

おお 青銅の鐘よ、その舌を日毎にそれは
鈍い日常に抗して突きあげている。
あるいはカルナクの あの1本の柱、
ほとんど永遠の神殿よりも長く生き続ける円柱。

こんにちではそれと同じ過剰がただ性急に
かたわらを疾走してゆくだけだ、水平の黄色い
昼のなかから 目くるめく燈火で誇張された夜のなかへと。

だがこの疾走は 消え去って痕跡を残さない。
空中の飛行の曲線と、それをそこに描いた者たち、
いずれもおそらく無益ではない。けれども単に考案されたもののよう。

 (田口義弘訳)


おお 運命に逆らって。われらの存在の
かがやかしい充溢よ。公園に泡だちあふれるものよ――、
あるいはまたたけ高い正面の扉のかたえ、
露台の下に竿立ちに立つ石造の男らよ!

おお青銅の鐘よ、日毎鈍(おぞ)ましい
日常に抗し、撞木をふりかざす鐘よ。
あるいはまた、あの柱よ、カルナクに立つ柱よ、柱と、
久遠の寺院をすら超えて生きのこる円柱よ。

今日(こんにち)では、それと同じ力の剰余が、
ただ性急にわれわれのそばを狂奔し、水平な
黄いろい昼から、まばゆく燈火で誇張された夜へと突きすすむ。

だが狂奔はむなしく消え、なんの痕跡も残さない。
空をゆく飛行のカーヴ、地上を走せる車輛のカーブ、
おそらくどれも、よしなきことではない。だがまるで脳裡の観念ほどにむなしい。

 (生野幸吉訳)



 「カルナク」とは、エジプトのテーベにある古王朝の大神殿の遺跡のことです。

 わたくしたち地上のものたちの限りある「生」は、それでもやはり溢れるばかり。公園の花々、ほとばしる噴水と同じように。そして青銅の鐘は繰り返し繰り返し日常を突いているのでした。
 さらにリルケの現実の旅の記憶としての「石柱」が呼び出される。1911年1月にエジプトに旅をした折に見た、理解を絶した巨大な神殿に立っていた「カルナク」の石の円柱への驚嘆なのでした。この円柱の土台となっているところだけでも、人間の背丈以上のものであって、驚くべき大きさです。それは「生」を超えて聳え立っているかに見える。しかし永遠ではないのだ。神殿はすでに廃墟と化し、「カルナクの円柱」のみが屹立しているのだが、それもやがて崩壊するのだろう。

 それは「生」あるいは「無常性」への否定ではなくて、過去の人間が時をかけて築きあげたものの「充溢」に対して、現代の機械化された文明社会の過剰な空しさとの対比として呼び出されたものだ。
 その「過剰」は、黄色い昼から燈火で眠ることさえ拒まれているような夜のなかですら、走り、飛び続けているのだ。文明の速度はただ過ぎ去りやすいものとなるだろう。

  *     *     *

おまけの画像はどうですか?




オルフォイスへのソネット第二部・21

2010-02-22 21:55:28 | Poem
歌え わが心よ、おまえの知らぬ園々を、ガラスの器に
注ぎこまれた園にも似て 澄みきった 達しえぬそれら。
イスパハンやシラスの水と薔薇、
歌え それらを歓び深く、称えよ それらをたぐいなく。

示せ わが心よ、おまえがそれらの園なしでいた時のなかったことを。
それらが、そこで熟れてゆく無花果が、おまえを想っていることを。
そこの花咲く枝々のあいだを その顔が見えるほど
昂揚してそよいでいる風と おまえが交わっていることを。

存在することへの すでに生じたこの決意にとって
欠乏があると思うような 迷誤を遠ざけよ!
絹の糸よ おまえは 織物のなかへ歩みいったのだ。

どの図様におまえが内部で織りこまれていようとも
(たとえそれが苦悩の生の1こまであろうとも)
感じるがよい、称賛すべき絨毯の全体が想われていることを。

 (田口義弘訳)


うたえ、わが心よ、おまえの知らぬ庭々を。ガラスに
鋳こまれたように透明で、とどきえぬ園を。
イスパハン、またシラスの園の水と薔薇、
それらの至福を歌え、頌めたたえよ、たぐいない声で。

示せ、わが心よ、それらはるかな園が、たえずおまえに応じたことを。
そこに稔るいちじくがおまえを想ってくれようことを。
その園の花咲く枝のあわいを吹く、さながらに眼に見えるほど
高まる風と、おまえが交わっていることを。

すでに生まれたこの決意、在ろうとする決意にとって
欠乏があろうとなどとは誤ってはならぬ!
絹糸よ、おまえは存在の織目にはいったのだ。

絵柄のどれに内部では織り入れられているにせよ、
(よしんばそれが苦痛の生の一瞬であろうとも)、
感じるがよい、頌むべき絨毯の全容が意図されてあることを。

 (生野幸吉訳)


 イスパハン(イスファハン)はイランの都市。同市にあるアパス大王によって建てられたモシューには水の流れる庭園があります。シラスもイランの都市ですが、ここには名高い薔薇の庭園があります。ここには詩人ハーフィスの墓所もあります。また「薔薇水」や「絨毯」の産地でもあります。

 ハーフィスはゲーテ(リルケと間違って書いているのではありませぬ。笑。)に大きな影響を与えた詩人であり、これによって「西東詩集」が生まれています。


 さまざまな遠い呼びかけの場所として、リルケはそこを「園」と名付けています。「園」は人間と関連しつつ、しかしこの地上にある身としては、そこに至ることはできない。ただその領域を感じつつ歌い続けるのみなのだ。ここを「イスパハン」と「シラス」の園に重ねています。そのはるかな場所から風が届いている。その風と交わることによって自らの存在を知るのでしょう。

 第3節から、リルケのこのソネットによくみられるように、「園」から「絹」「絨毯」への急展開が行われています。リルケの言う「全体」とは「生」と「死」を合わせ持つ統一世界であり、さらに現実と創造(想像?)との双方を合わせ持つ世界なのでしょう。

 自らの存在が絹の糸の1本が織り込まれたような存在であったとしても、「絨毯」という全体のなかにおいて、自らもまたその全体に関わり、織り込まれているのだと。


 《追記》

アンテピレマ(語りかけ三たび) ゲーテ  柴田翔訳

敬虔なる眼差しで
永遠なる織女の傑作を見よ。
足をひとたび踏めば千の糸が動き
左へ右へ杼(ひ)が飛び
糸と糸とが出会い流れる。
ひとたび筬(おさ)を打てば千の織り目が詰められる。
織女はそれを物乞いして集めたのではない
彼女は経糸を太古の昔から機に張っていた
永遠の巨匠が横糸を
安んじて投げることができるようにと。

ヘヴン  川上未映子(続)

2010-02-21 00:03:36 | Book
 この「日記」を書く度に、一回の文章が長すぎることは避けたいという思いがいつでもある。しかしやはり言葉足らずだったという後悔が残る場合があります。今回ももう1つ思っていたことを書かずにいましたが、やはりこれは書いておきたいと思います。

 この小説の主人公は中学生です。「斜視」ゆえに「いじめ」のターゲットとなった「僕」と、「汚い」ゆえに同じ側に立たされた女子中学生「コジマ」、「いじめる側」の男子中学生の「百瀬」との会話は、中学生の会話としてはできすぎた会話です。それはこの「会話」に作者の考え方が見事にはめこまれているからでしょう。

 「コジマ」は「いじめ」を受けつつも「弱さに意味がある。」というキリスト教的発想をする。彼女は「僕」に「君の目が好き」と言うのだった。

 一方、いじめグループの「百瀬」は「したいことをやってるだけ」と「いじめ=悪」を否定し、「僕」がいじめられるのは「斜視」のせいではない。集団には「生贄」が必要なので、相対的に不利な位置にいた者が生贄になるだけに過ぎないのだと言う。百瀬の論理はここに完結しているかのようだ。「僕」は論理的にも負けていたのだ。

 「コジマ」と「百瀬」との間で揺れながら、「僕」は必死に考える。そうするうちに、「いじめ」は教師や大人に隠し切れない事態となる。それは最終的には大人と教師に委ねられる部分が大きくなる。わずかに心の荷物を軽くした「僕」は学校をやめて、直らないと思い込んでいた「斜視」を治すのだった。世界はようやく一歩だけ「闇」を脱いだ。そこからまた彼等は大人までの道のりをどう生きてゆくのだろうか?

 「開き直り」や「しらけ」「無気力」が若者を支配している今日、善&悪、美&醜、強&弱とはどのように共存できるのか?という問いと回答はこの1冊にあふれるばかりだった。

ヘヴン    川上末映子

2010-02-19 01:20:45 | Book
それに第一、これはだれにだってできることだ。
目を閉じさえすればよい。
すると人生の向こう側だ。

           ――セリーヌ「夜の果てへの旅」


 この小説の扉を開けると、この言葉が記されている。それが「ヘヴン」なのだろうか?

 主人公は男子中学生の「僕」と、同じクラスの女子「コジマ」の2名。この2人はそれぞれにクラスの男子たちの、そして女子たちの非常に過酷な「いじめ」の対象となっている。この1クラスの出来事を書いた小説です。

 「僕」の家族は、あまり帰宅しない父親と、2度目の母親(専業主婦)との3人家族。実母ではないということには、ほとんど意味はないが、実母と「僕」とのたった1つの繋がりは、共に「斜視」であったことだ。この「斜視」は、人間世界とその位置関係を両眼で正確に見ることができないという比喩ともとれるだろう。差別語としての意味はなさない。

 「コジマ」の家族は、実母と、2度目の父親との3人家族。かつて実父は事業に失敗して、貧困の泥沼のなかで耐え切れなくなった母親が、かねてより交際があったらしい経済力のある2度目の父親のもとに「コジマ」を連れて再婚したのだった。好きだった実父を忘れないために「コジマ」は、実父と同じように、汚れたからだ、さらに汚れたものを身につけて、食事まで減量していた。

 「斜視の僕」と「汚れたコジマ」とは、この共通項によって、密かに友情を育てていた。この双方の「いじめ」がついに表面化するまで・・・・・・。


 この作家「川上末映子」は、ほぼわたくしの子供たちと同世代にいます。たくさんの時をかけて我が子2人は大きくなって、やがて社会人になってというわたくしの道筋がありました。彼女は1人の女の子として生まれて、わたくしの道筋と同時代的に生きて、こうして小説を書きあげる大人の女性となっているのですね。どのような日々であったのか?それは詮索しないことにしましょう。

 かつて我が子たちを、年齢とともに自動的に次々に送りださなければならなかった「学校」という世界に対して、わたくし自身が抱き続けた「危機感」を、子供の世界にいらした「川上末映子」が、きちんと言葉の世界として下さったのだという思いが深いのでした。整理しきれないほどの言葉が溢れひしめいていたことでしょう。小説としての姿になるまでに、彼女はどのような「心の仕事」をなさったのでしょうか?

 おそらく我が子はこのような「いじめ」に遭遇することなく通過できたのではないかと思いますが、それでもわたくしの「危機感」は拭えませんでした。「いじめ」があったのか?なかったのか?ということではなく、教師や大人たちがぎりぎりまで気付かない「いじめ」が潜航しているという不気味さです。


 この小説は図書館に予約を入れておきましたが、借り出せるまでにずいぶんの時間が経過していまして、なぜこの小説を読もうと思っていたのか?を忘れるほどでした。娘に話しましたら「わたしが読んで話してあげたからよ。」と言われました。

 (2009年第1刷-2010年第9刷・講談社刊)

オルフォイスへのソネット第二部・20

2010-02-16 16:43:57 | Poem
星と星のあいだの なんという遥けさ、しかしなんとさらに遥かなことか、
ひとがこの地上の生で知ってゆくことは。
だれかあるひとり、例えばひとりの子供と・・・・・・すぐ隣りの人、もうひとり――
おお なんと捉えがたいその隔たり。

運命、それはおそらく実在の尺度で私たちを測り、
だからそれは私たちには疎ましくみえるのだろう、
そう、少女と男とのあいだにはなんと大きな隔たりがあることだろう、
少女が彼を避けしかも想うとき。

すべては遥かだ――そして円環の閉じるところはいずこにもない。
皿のなかを見るがいい、はれやかに用意された食卓のうえで
魚たちの顔が奇妙だ。

魚たちはもの言わぬ・・・・・・とかつては思われていた。そうだろうか?
だがついに、存在しないだろうか、魚の言葉かもしれぬものが
魚なしに語られるひとつの場所が?

 (田口義弘訳)


星のあいだの、なんという隔て。しかも地上で習いおぼえるものは、
さらにどれほど隔たっていることか。
たとえば、だれか、ひとりの子供・・・・・・そして次の人、さらに次の人――。
おお把握をこえたそのはるかな隔て。

運命、それはわれわれを、おそらくは存在の尺度で計る、
だから運命はしたしみがたい。
少女と男性のあいだひとつ測ってみても、なんという距離があるのだろう、
少女がかれを避け、しかも慕うときには。

すべてが遠い――、そして円弧はどこにも閉じない。
みよ、はれやかにしつらえられた卓上の皿に、
魚の表情はいぶかしい。

魚はことばをもたぬ・・・・・・、以前はそう考えられた。だが、どうなのか?
結局は、魚の言葉かもしれないものを
魚を介さずに話しあう場所がありはしないか?

 (生野幸吉訳)



 なんとか翻訳詩を1編だけにしたいのですが、たったお2人の翻訳でさえ、こうも違い(大意は同じようでも、翻訳に移される時の言葉が微妙に違います・・・)があるのでは、どうしても書かなければなりません。この違いを思う時、できることならば5人くらいの翻訳詩を読まなければならないような気がします。


嘆き リルケ・富士川英郎訳 「形象詩集・1902~1906」より。

おお なんとすべては遠く
もうとっくに過ぎ去っているこだろう
私は思う 私がいまその輝きをうけとっている
星は何千年も前に消えてしまったのだと
私は思う 過ぎ去っていった
ボートのなかで
なにか不安な言葉がささやかれるのを聞いたと
家のなかの時計が
鳴った・・・・・・
それはどこの家だったのだろう?・・・・・・
私は自分のこの心から
大きな窓の下に出ていきたい
私は祈りたい
すべての星のうちのひとつは
まだほんとうに存在するに違いない
私は思う たぶん私は知っているのだと
どの星が独りで
生きつづけてきたかを――
どの星が白い都市(まち)のように
大空の光のはてにたっているかを・・・・・・


 この作品「嘆き」はソネットの約20年前に書かれたものです。リルケの詩作には生涯にわたって、同じテーマを繰り返し書き直し、あるいは書き続けたという特徴がそこここに見られます。

 
 星と星との途方もない距離に詩人が賛嘆を送る時、それは人間存在同士のはるけさを否定的に照射することになってしまう。いささか誇張とも思えますが、これも詩人リルケの特徴とみてもいいのかもしれません。

 「少女」と「男」との間にある隔たりと愛とは、人間同士あるいは男女の仲に共通してあるもので、そのすべてを示しているのかもしれない。その隔たりゆえに「関連」は「円環」を完成させることはできない。

 そして突然に、テーブルの上の皿の「魚」に飛躍してしまうのはなぜか?「魚」は言葉を持たぬものであればこそ、遠い距離を隔てていても通信可能な「言葉ではないなにか」を持ちつづけているのではないのか?「魚の言葉ではない言葉」を、オルフォイスの歌と同一化することも間違いではあるまい。しかし、このソネットでは断定を避け、全体を疑問符でつくりあげた、その慎重性を見つめる方がいいのかもしれません。