ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

夏から秋へ

2015-08-31 21:13:34 | Stroll
8月があまりにも暑かったので、ひきこもっておりましたが、
急に涼しくなりましたので、雨の合間に散歩へ。

夏の花たちは最後の時を迎えていました。


 サルスベリ。すでに花のそばに実が見えています。


 オシロイバナ。


 フヨウ。大きな木になりました。


 アサガオ。まだつぼみがあるようです。


 クヌギの青い実。秋のお知らせです。


 ヒガンバナ。もう咲いていました。

さくら 金子光晴

2015-08-24 21:59:37 | Poem





朝日新聞の「折々のことば」に短く引用されていた長編詩「さくら」の全文です。


さくら 金子光晴



おしろいくづれ、
紅のよごれの
うす花桜。

酔はされたんだよう。
これもみすぎ世すぎさ。

あそばれたままの、しどけなさ。
雨にうたれ、色も褪めて、
汗あぶら、よごれたままでよこたはる
雲よりもおほきな身のつかれよ。

女はなんたる弱いものだらう。

家柄とあひ性でむすばれる
よい花嫁。
しきたりのまへの伏し目がち。
鉄気くさい貞操、女 今川。
水仕業、ぬひ針、世帯やつれて、
あるひは親たちのために身うりして、
あるひは愛するがゆへにしりぞいて、
あきらめに生きる心根のいぢらしさ。

それこそは、花の花。
花の下の小ぐらさ。哀しい仄明かり。

近々と花はおもてをよせながら
かたらひもえで
はやちりかかる風情。

染井、よし野。
遠山桜。
糸ざくら。

ことしの春を送る花。
この国のやさしい女たちの
いのちのかぎり、悔もなく
天にも地にも咲映えて。

八重一重
手鞠、緋ざくら、
遅桜。




戦争がはじまつてから男たちは、放蕩ものが生まれかはったやうに戻ってきた。
敷島のやまとごごろへ。

あの弱々しい女たちは、軍神の母、銃後の妻。

日本は桜のまつ盛り。

涙をかざる陽の光、

ちりばめる螺鈿、落花の卍、こずえを嵐のわたるときは、ねりあるく白象かともながめられ、

花にうく天守閣。ーその一枚のえはがきにも
胸をどらせて、人はいふ。
さくらは、みくにのひとごごろと。

にほやかなさくらしぐれに肌うづもれて
世のしれものの私は、陶然として、
ただおもふ。

さくらのなかをおよぎながら
おもふことは淫らなことばかり。
雪とちりまふ鼻紙よ
ぬけ毛、落ち櫛、
あぶらのういた化粧のにごり水。
ふまれたさくら。
泥になつたさくら。

さくらよ。
だまされるな。
あすのたくはへなしといふ
さくらよ。忘れても、
世の俗説にのせられて
烈女節婦となるなかれ。

ちり際よしとおだてられて、
女のほこり、よろこびを、
かなぐりすてることなかれ。
きたないもんぺをはくなかれ。


      昭和19年5月5日 


「寂しさの歌・金子光晴」は、その翌年の昭和20年5月5日に書かれています。
何故「端午の節句」に書かれているのか?
この作品はさらに長編となっています。この2編の詩は共に、詩集「落下傘・1948年刊」に収録されたものです。

「召集・金子光晴」という作品では、ご子息に召集令状が届き、それに対する金子光晴流の
「拒否」が書かれています。
そして、あきらかにそれぞれが「非戦」を意図した作品となっているのではないでしょうか? 
ここでは3篇のみですが、金子光晴の詩には、さらにありますでしょう。     

作文教育が罪にされた時代

2015-08-18 21:57:12 | Memorandum



8月18日、朝日新聞に佐竹直子さんの御本「獄中メモは問う/作文教育が罪にされた時代」が
紹介されていました。

この記事を読みながら、小学校時代の担任のS女性教師を思い出しました。
それまでは作文を書くのが苦痛でならなかった私を、
作文好きな少女に生まれ変わらせて下さったのは、このS先生でした。
4年生になったら、毎週1回作文授業がありました。
この苦役を克服するために、どうしたらいいのか幼い頭で考えました。

3年生までの私は、たとえば「遠足の作文を書きなさい。」と言われると、
朝の起床から帰宅までの全てを書いていましたので、大仕事だったのです。
しかも、引き揚げ子の栄養失調からまだ健康に戻りきっていない体には、
遠足そのものも苦痛でした。

それでも、私は幼い頭で必死で考えました。
つまり苦痛の原因は「すべて書く」からで、書く範囲を決めればいいのではないか?
それで時間を限定しました。
「雨の日の昼休み」・・・・・・校庭で遊べない子供たちは色々な遊びをします。
遊ぶ場所は教室か廊下です。その様子を書きました。

よい作文は先生がみんなの前で読み上げて下さいます。
その時「もうちょっと頑張ろう。」と言って、先生が読み上げて下さったのは
私の作文でした。

魔法のように、私は書くことが大好きな少女になりました。
将来の夢は「作家」あるいは「詩人」になりました(笑)。
今でも、下手な詩を書き続けています。


あ。お話が長くなりました。
なぜS先生が熱心に作文教育をなさったのか?
この記事を読んで、その謎が解けたのでした。
気付くのが遅すぎました。ごめんなさい。S先生。

おかげさまで、書くことはそれからずっと続けてまいりました。
ありがとうございました。
自由に書けることを幸せに思います。
ずっとずっと、この自由が続きますように!

佐竹直子さんの御本をこれから読みます。

安倍首相の戦後70年談話全文 2015/8/14

2015-08-15 00:10:23 | Memorandum


 政治は、歴史から未来への知恵を学ばなければなりません。戦後70年という大きな節目にあたって、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を振り返り、その教訓の中から未来に向けて、世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く思索し、構想すべきである、私はそう考えました。

 同時に、政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるようなことは決してあってはならない、このことも私の強い信念であります。

 ですから談話の作成にあたっては、21世紀構想懇談会を開いて、有識者のみなさまに率直、徹底的なご議論をいただきました。それぞれの視座や考え方は、当然ながら異なります。しかし、そうした有識者の皆さんが熱のこもった議論を積み重ねた結果、一定の認識を共有できた、私はこの提言を歴史の声として受け止めたいと思います。そして、この提言のうえにたって歴史から教訓をくみ取り、今後の目指すべき道を展望したいと思います。(以上、記者会見での冒頭発言)


     ◇


 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃(そろ)えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃(たお)れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫(えいごう)の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱(しゃくねつ)の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜(むこ)の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈(かれつ)なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛(つら)い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留(とど)めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引き揚げ者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗(な)め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈(しれつ)に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐(おんしゅう)を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意(しい)にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引(けんいん)してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。


     ◇


 (談話を読み上げ後)以上が私たちが歴史から学ぶべき未来への知恵であろうと考えております。冒頭私は、21世紀構想懇談会の提言を歴史の声として受け止めたいと申し上げました。

 同時に私たちは歴史に対して謙虚でなければなりません。謙虚な姿勢とは果たして、聞き漏らした声がほかにもあるのではないかと、常に歴史を見つめ続ける態度であると考えます。私はこれからも謙虚に歴史の声に耳を傾けながら、未来の知恵を学んでいく。そうした姿勢を持ち続けていきたいと考えています。私からは以上であります。



    *    *     *



これ↓は、村山元首相のご意見です。


戦後50年の村山談話について、安倍首相は「全体として引き継ぐ」と説明してきた。村山氏は会見で、安倍談話について「(村山談話を)否定もしていないし、踏襲もしていない。出す必要はなかった」と指摘。「焦点がぼけて、さっぱり何を言いたかったのか分からない」と切って捨てた。

 安倍談話の「おわび」をめぐる表現については、村山氏は「何をおわびしたのか不明確だ」と批判。「『植民地支配』『侵略』『おわび』という言葉は入っているが、日本がやってきたことに対して不明確だ」と不満を漏らし、「『植民地支配』とか『侵略』という村山談話のキーワードを薄めたい、という気持ちだったのだろう」と語った。

 また、安倍首相が談話の最後に自身が唱える「積極的平和主義」を盛り込んだことについては、「中身の説明をしていない。イメージがさっぱり分からない」と話した。

 中国、韓国などアジア諸国の受け止め方については「受け入れる国と疑問を呈する国、いろいろあると思う」。そのうえで、「村山談話とはだいぶ中身が違うな、という印象は与えると思う」と話した。


「村山談話&小泉談話」はここに。



以上、わたくしの覚書とします。なんと長い安倍談話でしょ。



「父と暮せば」&「黒い雨」  

2015-08-07 21:47:58 | Movie
父と暮せば



『黒い雨』 予告編



TとKの会話から。

被爆者の語り部が、ある中学校での講演中
生徒の一人から「死に損ない!」と罵られた、と語っていました。

それについて、Tはこう言った。
「父と暮らせば」は多くの人々を感動させる力を持っていた。
それは脚本家の筆力によるものだ。
しかし語り部は、熱心に事実を語るが、
人々の心に浸透してゆく伝達の言葉を知らない。
その落差への苛立ちが、生徒の心によぎったのではないか。

Kはそれに応じて言う。
たどたどしさはいけないことか。
言葉の稚拙さは罪か。
被爆を知らない者は被爆経験者に謙虚であるべきだろう。

しかし「死に損ない!」と罵られた語り部は
その言葉を謙虚に受け止めた。

しかし、Kは決して生徒の言葉も、Tの言葉も許さない。

ある歌人は言う。
「私」と「公」が一首のなかでせめぎあっていないと
尖った歌にはなりにくい。
そのジレンマを抱きこんでいる歌を。

名作が残り
語り部の言葉は根付かないのか。

その後「黒い雨」を観ることになった。
「父と暮らせば」のファンタジー性は全く排除された映画であって、
目を覆いたくなるようなシーンが続出する映画であった。

Tは「原作と大分違う。」と一言言っただけだった。

原爆によって、いかに人々が深い苦しみと悲しみにのなかに
生きなければならなかったかがわかる。
観る方も痛いのだ。辛いのだ。激しい怒りもあるのだ。

しかし、KはTに対して語ることをやめた。


お月さまのおへそ

2015-08-06 16:33:23 | Stroll
「お月さまのおへそ」と言っていいのかどうか知りませんが、
何度かお月さまの写真を撮っているうちに気づいたことがありました。
(いや、誰でも知っていることかもしれませんが。。。)

「地上から見えるお月さまは、いつでも同じ方向からしか見えていないのだなぁ。」
と、納得したのは、お月さまのおへその位置で理解した次第です。

おじさんになっても知らない人もいるらしいわ。


 2012年10月31日


 2012年11月27日


 2012年12月25日

それから、時は過ぎて~~~


 2015年7月28日

以上です。