ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・11

2010-01-19 23:33:33 | Poem
多くの、死の、おだやかに配列された規則がうまれた、
たえず圧制を続ける人間よ、おまえがあくまで狩猟に執するようになってから。
だが罠や網よりも、おまえをわたしはよく知っている、
カルスト台地の空洞に張り下される帆布のひとすじを。

おまえは、平和をことほぐ合図のように、ひっそりと
卸された。けれども、やおら、下僕がおまえのふちを捩じると、
――洞のなかから永劫の夜が、あおじろい、よろめく鳩の
ひとつかみを光へ投げる・・・・・・
        だがこれはやはり正しいのだ。

よい潮どきと迅速にことを仕上げる、
ぬかりない猟師たちはさておき、
観客もまた、憐憫のといきはつかぬがよい。

殺すものも、わたしたちのうつろいやまぬ悲嘆の姿のひとつ。・・・・・・
快活な精神のうちにあっては、
わたしたちの身に起こるすべてが純粋なのだ。

 (生野幸吉訳)


死の、かずかずの、平静にきめられた規則が成り立った、
征服のわざを続ける人間よ、おまえが狩を慣わしとするようになってから。
だが 罠や網よりもよく私はおまえを知っているのだ、細長い帆布よ、
カルスト台地の洞穴のなかへ垂らして使われるものよ。

平和を祝う合図のようにおまえはそっと
中へおろされた。しかしやがてつと 下僕がおまえをよじると
――洞穴のなかから 暗闇が投げ出したのだ、一握りの蒼白い
よろめく鳩らを光のなかへ・・・・・・
               だが正しいのだ これもまた。

観ている者らからも あらゆる憐憫の吐息は遠くあるがいい、
ことがらの時機をすかさず察知し
油断なく敏腕にやりとげる猟師からのみならず。

殺すころは私たちのさまよう悲嘆のひとつのすがた・・・・・・
はれやかな精神のなかでは 純粋なのだ、
この私たちから生ずる出来事は。

 (田口義弘訳)


 このソネットには「おまえ」が3度でてきますが、「1」は人間、「2、3」は「帆布」のことを指しています。この「帆布」を「田口義弘」は「よじる」と訳し、「生野幸吉」は「捩(ね)じる」と訳しています。


 1911年10月、当時「ドゥイノ」に滞在中のリルケは、そこから近いトリエステ北方のヴィラ・オピチーナにある標高350メートルほどのカルスト台地で行われる「鳩狩」の見学に誘われて行ったのであろうと思われます。そこにある洞窟(日本で言えば、山口県の秋吉町一帯にある石灰岩台地にある鍾乳洞。)で古来からの習慣によって行われる「鳩狩」である。

 このソネットは、その「鳩狩」の行事を観た折に書かれたものと思われます。ここには狩猟の起源、人間の本来ある「飢え」による衝動、そこから起こる権力衝動に至るまでの肯定が書かれています。

 ここはわたくしの想像ですが、洞穴に帆布を垂らして洞内に暗闇をつくり、その闇に驚いた白い鳩が、下僕がねじる(よじる)帆布の隙間から、光を求めて飛び出す、その瞬間に猟師が撃つ。この殺戮は瞬時にやり遂げられて、鳩の苦痛はほとんどないだろう?狩猟とはこうして人間の永い歴史のなかで繰り返されてきた最低限の殺戮であって、戦争のような殺戮とは全く意味が異なる。

 第1次大戦後のリルケが、1919年夏にソリオで書いた、ある手紙のなかには「人間が自分自身の残酷を弁護するために、自然のなかの残酷を引き合いに出すことをやめられるなら!」と記されています。そうしてリルケは批判を受けながらも、この「鳩狩」を賛美したのだ。

 第1次大戦、そしてリルケの死後に起きたナチス・ドイツによって行われた大量殺戮が野蛮なものであって、カルスト台地の「鳩狩」はこうした人間の野蛮性とは対立するものだと言える?他者の生命を殺さずに自らの生命を維持できない自然的存在の人間には、自然の豊かさと寛容の内部で犯される殺戮は許されるのだと?死に向けられた運命をもつ我々ゆえに?