ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

まだ咲いているのは夾竹桃のバカ

2019-08-20 13:00:44 | Poem

この画像は咲きはじめですが・・・・・・・。


まだ咲いているのは夾竹桃のバカ

 

キッチンの窓から、いつも夾竹桃が見える。

最後の花がなかなか落ちない。

そこで思い出したのが、時実新子のこの川柳だった。

しかし、彼女の名前がなかなか思い出せない。

やっと思い出した頃に、ようやく花は散った。

そして、本のタイトル「有夫恋」も思い出しました。

 

 

http://www.shinko-tokizane.jp/index.html

 

コメント

願いをこめて・・・・・・・。

2019-08-16 12:52:46 | Poem

私の詩集「胴吹き桜」に、少しだけ光があたりました。

朝日新聞埼玉版に紹介されました。

https://www.asahi.com/articles/ASM885GQYM88UTNB019.html

ささやかな非戦の願いが、届いたようです。

コメント (2)

沢 知恵《りゅうりぇんれんの物語》 茨木のり子 詩 Tomoe Sawa《The Story of Liu Lianren》 Poem by Noriko Ibaragi

2019-08-01 15:51:42 | Poem

沢 知恵《りゅうりぇんれんの物語》 茨木のり子 詩 Tomoe Sawa《The Story of Liu Lianren》 Poem by Noriko Ibaragi

コメント

詩を書くことと、生きること

2019-05-09 17:15:55 | Poem

愛する石垣りんさんの言葉です。忘れないようにここに置いておきます。

コメント

ゆずり葉

2019-04-12 21:34:44 | Poem

 


「ゆずり葉」      河井酔茗
 
 
子供たちよ。
これは譲り葉の木です。
この譲り葉は
新しい葉が出来ると
入り代わつてふるい葉が落ちてしまふのです。
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲つてー 。
子供たちよ
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前達に譲られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。
輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー 。
世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造つてゐます。
今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑ってゐる間に
気が附いてきます。
そしたら子供たちよ。
もう一度譲り葉の木の下に立って
譲り葉を見るときが来るでせう。
 
 
近所の小学校では新学期。
上級生が先頭を歩いて、その後には下級生が列を組んで歩いている光景が見られる。
その道の脇に「ゆずり葉」が、新しい葉をのぞかせています。
小学校の校庭にも「ゆずり葉」があります。
我が子たちも、小学校の教科書で読んだはず。覚えているかしら?、

その木の下では、ウマゴヤシが咲き出しました。

コメント

吉原幸子【自作朗読】あたらしいいのちに 1989

2019-04-08 23:41:38 | Poem

吉原幸子【自作朗読】あたらしいいのちに 1989

コメント

吉原幸子【自作朗読】パンの話 1988

2019-04-08 23:24:47 | Poem

吉原幸子【自作朗読】パンの話 1988

コメント

詩集「胴吹き桜」ができました。

2018-12-05 22:21:17 | Poem


年末ゆえ、お送りするのには時間がかかりそうですが。。。。。
コメント (1)

追悼 石原武氏

2018-06-11 15:43:46 | Poem


詩人、英米文学者である「石原武氏」が、3月20日にご逝去されました。
石原武氏の多くの詩作品のなかから、この一篇をご紹介させていただきます。



   鶏   石原武 (1930~・2018 山梨県甲府生まれ)


   羽根を毟られた裸の鶏の
   まだぴくっと動く鳥肌を
   裏庭のバケツで洗うオフクロの
   白い首に吹く黄砂まじりの旋風
   三月の暮れどき
   低い地平が黄塵で少し明るい

   そのあと
   鶏ガラ汁に
   ゆであげうどん

   満州から
   イガグリ頭の男になって
   姉が生還した日
   ソヴィエト兵や八路兵の乱暴など
   断固として口を閉ざして
   首を垂れ
   鶏ガラ汁のうどんを啜る姉

   座敷の隅では
   雛祭りの人形たちが
   固唾をのんでいる
   まだ赤く燻る黄塵を背に
   姉はゆであげうどんを啜っている
   酔いつぶれたオヤジの
   鼾に
   オフクロがその鼻をつまみ
   ようやく
   春の夜のさざめき

   遠い野火も眠りに落ち
   満州は終った


――『飛蝗記・2004年・花神社刊』より――

この石原武の作品に出会った時に、はじめに思い出したしのは財部鳥子の詩集「腐蝕と凍結・1968年・地球社刊」のなかの作品「詩の音」でした。財部鳥子は1933年新潟県で生まれ、間もなく旧満州国、ジャムス市に渡り、引揚げまでをそこで過ごしています。


   きみの耳なりは詩の音 死の音とよぶ
   髪を刈られた極限の少女がすわりこんでいて
   永遠にうごかない息をしている
   (中略)
   きみの心は犬の涙のようにおわっている (「詩の音」より)

 
三月、女子の祝いの季節には、この土地には中国大陸から吹いてくる西風に乗って黄砂がやってくることがあるようです。その黄砂と同じ道筋を辿るようにして、イガグリ頭の姉は満州から故郷へ無事生還したのでしょう。姉の背後には「まだ赤く燻る黄塵」がただよい、若すぎる姉が見つめざるをえなかった、ソヴィエト兵や八路兵の行ったであろう凄惨な蛮行を物語っているかのようだ。飾られた雛人形でさえ口をつぐむほどの……。この時代、旧満州からの引揚者のなかにいる少女や若い女性は、身の危険を守るために男児あるいは男性に成りすましたということは、幾度も亡き父母から聞かされていました。これはどの時代であっても、戦争があれば世界中どこでも起こりうる悲惨な女性の状況なのです。

「オフクロ」はおそらく、当時大変貴重な食糧源であったであろう「鶏」と「うどん」を無事に帰ってきた娘への精一杯のご馳走として食卓に出す、と解釈していいのでしょうか?
「鶏」は地方を問わず、その当時はまず「卵」を食糧として求めるために飼ったという例は大変多いのではないか?一匹の鶏を食するということは、やはり「特別」なことなのではなかったかとわたくしには思われます。

久しぶりのお酒に酔い、安堵して酔いつぶれた「オヤジ」の鼾、その鼻をつまむ「オフクロ」、そしておだやかな「春の夜のさざめき」が一家にようやく戻ってきた。遅い雛祭りのように。姉の「沈黙」が記憶から遠ざかり、やがて新しく幸福な記憶を積み上げてゆくことを願いつつ……。
コメント

詩誌「真昼の家」

2018-06-01 00:19:05 | Poem

 「アカバナ」

マーケットへの道すがら、こんなアカバナに出会った。
そしてふいに、なぜか、昔の自分の書いた言葉を思い出した。

1989年から2001年までの間、「真昼の家」という個人詩誌を発行していたことがありました。
その2号の「あとがき」に、こんな言葉を書いていました。

『道路工夫は毎日丹念に敷石を並べてゆく。
 きっちりと敷きつめたはずなのに
 わずかな隙間から雑草が生えてくる。
 それは道路工夫の嘆きのように見えるが、
 実は大地からのぬきさしならぬ言葉ではないだろうか?
 
 そんな言葉が欲しい。
 すっきりと生えてくる言葉が欲しい。』


深く、深く、今の詩作の姿勢を反省します。
コメント