昨夜、友人とリルケやゲーテの話をしながら、ゲーテに会った若き詩人「ハインリヒ・ハイネ」の名前が思い出せなくて、過去のメモを探し出してきました。わたくしもついに焼きがまわったか???以下、過去メモより。
* * *
もちろん柴田翔の考察による「ゲーテ」を知りたくて、この本を開いたのですが、わたくしにはこの著者「柴田翔」には特別な思い入れがあるのです。この方はドイツ文学研究者ではあるのですが、芥川賞作家でもあります。その小説「されどわれらが日々―」が「文学界・・・だったかな?」に掲載された時には、わたくしは高校生、姉は大学生となって家を出て、東京で一人暮らしをしていました。その姉から送られてきたのがこの雑誌でした。これによってわたくしはその時代の姉たち大学生の実態を知りました。さらに、それまでのわたくしはリアルタイムで書かれた小説というものを知らなかったのでした。この2つのカルチャーショックを与えて下さった方でした。
柴田翔のこの著書は、1994年4月~1995年11月の間に「学鐙」に連載したもので、ゲーテの詩を読みながら、飛び飛びに彼の生涯を辿ってみようとした試みでした。それがこの一冊の新書版にまとめられたものです。
読みながら、あああ、じれったい。ドイツ語が読めない哀しさよ。「この詩は美しい頭韻をふんでいる。」と著者&翻訳者は書いていらっしゃるのですが、ご本人ですら邦訳すれば、それは表現できないとおっしゃる。柴田氏がゲーテ詩の翻訳する過程を脇から覗きこみながら、わたくしはなんとか日本語で頭韻をふんで書くことはできないものかなぁ、などと無茶苦茶な希望を持ってしまいました(^^)。
アンテピレマ(語りかけ三たび)
敬虔なる眼差しで
永遠なる織女の傑作を見よ。
足をひとたび踏めば千の糸が動き
左へ右へ杼(ひ)が飛び
糸と糸とが出会い流れる。
ひとたび筬(おさ)を打てば千の織り目が詰められる。
織女はそれを物乞いして集めたのではない
彼女は経糸を太古の昔から機に張っていた
永遠の巨匠が横糸を
安んじて投げることができるようにと。
ゲーテ(1749年~1832年)が1818年~1820年に書かれたこの詩は、「パラバーゼ(人々への語りかけ)」「エピレマ(再びの語りかけ)」とともに3部作のようになっています。1814年は「ナポレオン退位」「ウィーン会議」、1816年は、妻クリスティアーネの死。大きな歴史の転換期であり、ゲーテの周囲の人間関係も大きく変化した時期でありながら、何故このような明快な詩が書かれたのだろうか?ゲーテには謎が多いようだ。「あとがき」によれば・・・・・・
『ゲーテは19世紀後半のドイツ・ナショナリズムの昂揚のなかで国民的大作家と評されるようになったのだが、それとともに当時の偽善的道徳律によって飾り立てられた〈ゲーテ像〉も作り上げられて行った。(中略)私がこの本で願ったのは、そうしたゲーテ像を解体し、ヨーロッパの大変動期に生きたゲーテという作家の魅力を読者に感じ取ってもらうことだった。』・・・・・・とある。
また、このようなことも書かれています。『フランス革命のあとの内的危機の時代、ゲーテは自然ではなく歴史の正義を信じるシラーを必要とし、彼との硬い盟約を結んだのだったが、その時期はもう終わっていた。それは、あえて言うならば、殆どシラーの死を――もとよりゲーテが、ではないにせよ――ゲーテのなかの自然の力が、待ち望んでいたかのようである。』・・・・・・この「自然の力」というものが、ゲーテの創作の困難、職務への勤勉性、人との別れ(晩年には「死」という別れもある。)などなどからの開放と忘却のために、何度もゲーテを救い出した考え方ではなかったのか?
青年「ハインリヒ・ハイネ」が老詩人「ゲーテ」に会った時を回顧しつつ、「彼は美しいアポロのようだった。但し、それは生命を持たぬ、冷たい石造りのアポロだった」と述べている。ゲーテは移ろいやすい人間(あるいは自己)というものを、不朽のアポロとして刻みこもうとしたようだった。それは中年から晩年まで、さらに最晩年まで執拗に続いた創作の作業だったようだ。それを支えたのは、「ロッテ」「アウグスト」「シュタイン夫人」「クリスティアーネ」などではなくて、ゲーテ独自の「エゴイズム」ではなかろうか?
ゲーテ26歳の時に書かれた「ファウスト」の初校以来、「ファウスト」は彼の全部の経験を伴走し、「ヴィルヘルム・マイスター」と「ファウスト」とが、ゲーテの生きたすべてを、美しく描き出したと言えるのだろうか?ゲーテの生命力の驚くべき強さは、そのまま創作&執拗な推敲、書き直しへの力ともなった?あるいはそれがゲーテの生命力となった?「死して生きよ。」・・・・・・苦しみを忘却し、深く眠り、暗闇を憎み、輝く時を求め続けたゲーテ・・・・・・「もっと光を。」だったね。
* * *
もちろん柴田翔の考察による「ゲーテ」を知りたくて、この本を開いたのですが、わたくしにはこの著者「柴田翔」には特別な思い入れがあるのです。この方はドイツ文学研究者ではあるのですが、芥川賞作家でもあります。その小説「されどわれらが日々―」が「文学界・・・だったかな?」に掲載された時には、わたくしは高校生、姉は大学生となって家を出て、東京で一人暮らしをしていました。その姉から送られてきたのがこの雑誌でした。これによってわたくしはその時代の姉たち大学生の実態を知りました。さらに、それまでのわたくしはリアルタイムで書かれた小説というものを知らなかったのでした。この2つのカルチャーショックを与えて下さった方でした。
柴田翔のこの著書は、1994年4月~1995年11月の間に「学鐙」に連載したもので、ゲーテの詩を読みながら、飛び飛びに彼の生涯を辿ってみようとした試みでした。それがこの一冊の新書版にまとめられたものです。
読みながら、あああ、じれったい。ドイツ語が読めない哀しさよ。「この詩は美しい頭韻をふんでいる。」と著者&翻訳者は書いていらっしゃるのですが、ご本人ですら邦訳すれば、それは表現できないとおっしゃる。柴田氏がゲーテ詩の翻訳する過程を脇から覗きこみながら、わたくしはなんとか日本語で頭韻をふんで書くことはできないものかなぁ、などと無茶苦茶な希望を持ってしまいました(^^)。
アンテピレマ(語りかけ三たび)
敬虔なる眼差しで
永遠なる織女の傑作を見よ。
足をひとたび踏めば千の糸が動き
左へ右へ杼(ひ)が飛び
糸と糸とが出会い流れる。
ひとたび筬(おさ)を打てば千の織り目が詰められる。
織女はそれを物乞いして集めたのではない
彼女は経糸を太古の昔から機に張っていた
永遠の巨匠が横糸を
安んじて投げることができるようにと。
ゲーテ(1749年~1832年)が1818年~1820年に書かれたこの詩は、「パラバーゼ(人々への語りかけ)」「エピレマ(再びの語りかけ)」とともに3部作のようになっています。1814年は「ナポレオン退位」「ウィーン会議」、1816年は、妻クリスティアーネの死。大きな歴史の転換期であり、ゲーテの周囲の人間関係も大きく変化した時期でありながら、何故このような明快な詩が書かれたのだろうか?ゲーテには謎が多いようだ。「あとがき」によれば・・・・・・
『ゲーテは19世紀後半のドイツ・ナショナリズムの昂揚のなかで国民的大作家と評されるようになったのだが、それとともに当時の偽善的道徳律によって飾り立てられた〈ゲーテ像〉も作り上げられて行った。(中略)私がこの本で願ったのは、そうしたゲーテ像を解体し、ヨーロッパの大変動期に生きたゲーテという作家の魅力を読者に感じ取ってもらうことだった。』・・・・・・とある。
また、このようなことも書かれています。『フランス革命のあとの内的危機の時代、ゲーテは自然ではなく歴史の正義を信じるシラーを必要とし、彼との硬い盟約を結んだのだったが、その時期はもう終わっていた。それは、あえて言うならば、殆どシラーの死を――もとよりゲーテが、ではないにせよ――ゲーテのなかの自然の力が、待ち望んでいたかのようである。』・・・・・・この「自然の力」というものが、ゲーテの創作の困難、職務への勤勉性、人との別れ(晩年には「死」という別れもある。)などなどからの開放と忘却のために、何度もゲーテを救い出した考え方ではなかったのか?
青年「ハインリヒ・ハイネ」が老詩人「ゲーテ」に会った時を回顧しつつ、「彼は美しいアポロのようだった。但し、それは生命を持たぬ、冷たい石造りのアポロだった」と述べている。ゲーテは移ろいやすい人間(あるいは自己)というものを、不朽のアポロとして刻みこもうとしたようだった。それは中年から晩年まで、さらに最晩年まで執拗に続いた創作の作業だったようだ。それを支えたのは、「ロッテ」「アウグスト」「シュタイン夫人」「クリスティアーネ」などではなくて、ゲーテ独自の「エゴイズム」ではなかろうか?
ゲーテ26歳の時に書かれた「ファウスト」の初校以来、「ファウスト」は彼の全部の経験を伴走し、「ヴィルヘルム・マイスター」と「ファウスト」とが、ゲーテの生きたすべてを、美しく描き出したと言えるのだろうか?ゲーテの生命力の驚くべき強さは、そのまま創作&執拗な推敲、書き直しへの力ともなった?あるいはそれがゲーテの生命力となった?「死して生きよ。」・・・・・・苦しみを忘却し、深く眠り、暗闇を憎み、輝く時を求め続けたゲーテ・・・・・・「もっと光を。」だったね。