ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ラスト・エンペラー

2009-12-28 15:36:39 | Movie
監督・脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
脚本:マーク・ペプロー
音楽:デイヴィッド・バーン、坂本龍一、コン・スー


《参考文献》
愛新覚羅溥儀の自伝『わが半生』(←共著者李文達)
レジナルド・フレミング・ジョンストン(愛新覚羅溥儀の家庭教師=帝師)著『紫禁城の黄昏』

《キャスト》
愛新覚羅溥儀 :ジョン・ローン(中国系アメリカ人)
レジナルド・フレミング・ジョンストン :ピーター・オトゥール
西太后:リサ・ルー
甘粕正彦:坂本龍一
戦犯収容所長:英若誠(イン・ルオ・チェン)


 思い出深い映画である。10年前に亡くなった姉と観た映画であり、さらにまたその姉と2人で旅した中国は北京(紫禁城など。)と旧満州のハルビンであったことなど。その長い空白を経て、再びテレビで愛娘と共に観たことは感慨深い。
 旧満州はわたくしにとって無縁な場所ではない。亡父は大学卒業と同時に満州へ渡った男であり、亡母はまさに「大陸の花嫁」として父に嫁いだ。豊かな占領国の人間としての生活、そして敗戦後の惨めな生活も味わい、引揚者としてふたたび日本に帰国した者である。愛娘曰く「時代は大きくかぶっているのね。」なのです。痛みと共に観る。しかし、中国大陸を舞台にした映画であるが、中国系アメリカ人俳優が主役、主な台詞は英語であるのは何故か?
 

 清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀(1906年~1967年)は、清朝の第12代皇帝であり、その後、形だけの満洲国の初代皇帝(在位:1934年-1945年)の生涯を描いた歴史映画。この時代を実際に支配していたのは甘粕正彦(1891年~1945年8月20日)である。 

 母の西太后による溥儀(3歳)に対する皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、満州国の崩壊後に一市民として死去する1967年までの溥儀の人生を描く。

 実際の紫禁城で世界初のロケーションが行われた。観光名所として一日5万人が訪れる場所を、中国共産党政府の全面協力により数週間貸り切って撮影が行われた。色彩感覚豊かなベルトルッチの映像美は高い評価を受けた。アカデミー賞9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)受賞を達成した。
 日本における評価は、甘粕正彦役兼音楽プロデューサーとして参加した坂本龍一が、日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞したことなど、様々な要因が大ヒットに繋がった。

 日本での劇場公開に際しては、溥儀が「戦犯収容所」で「南京虐殺」の映像を見せられるシーンを、配給元がベルトルッチ監督に無断でカットした。そのためベルトルッチ監督から抗議され、後にそのシーンを復活させた。配給元は馬鹿だねぇ。

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 ここで、溥儀の人生に初めて紫禁城以外の文化を教えた「レジナルド・フレミング・ジョンストン(Sir Reginald Fleming Johnston, 1874年 - 1938年)についてメモ。

 スコットランドのエディンバラで法律家の息子として生まれ、その後地元の名門大学であるエディンバラ大学に入学、その後オックスフォード大学モードリン・カレッジを卒業した。1898年にイギリス植民地省に入り、アジアにおけるイギリスの主要な植民地の一つである香港に配属された。1900年より香港総督の秘書官を務め、1904年にイギリスの租借領である威海衛に地方官として赴任した。 1919年に溥儀の帝師(家庭教師)に選ばれ、ヨーロッパ人としては初めて紫禁城の内廷に入った。イギリスの中国学者。

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 さらに甘粕正彦についてメモ。

 大日本帝国陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後に自殺した。

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 しかしながら、改めて中国という国の急速な歴史の激変ぶりには驚愕する。わずか3歳で「エンペラー」となり、紫禁城以外の世界を知らずに大人となり、やっと紫禁城を出られた時に、行った先は「第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所」である。そして10年後に出所できた後には、文化大革命である。
 「戦犯収容所」で、一人の生活者としては全く無能な愛新覚羅溥儀を見守り、導いた戦犯収容所長の「英若誠」も文革では、あの独特の忌まわしいさらし者の罰を受けることになる。溥儀は出所後は庭師として生活していたが、この事実を目の当たりにして、呆然とするのみ。

 最後に、入場チケットを買って、紫禁城に入る「元エンペラー」の老いた姿は感慨深い。日本の天皇が「チケット」を買って、「皇居」に入る時代はあるのか?