二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

問われる。

2018年12月09日 08時19分36秒 | ニ言瓦版
やった。凄い。
16歳の少女は。


「カナダで開かれているフィギュアスケートのグランプリファイナルは8日、女子シングル後半のフリーが行われ、16歳の紀平梨花選手がショートプログラムとの合計で233.12をマークして初出場で優勝を果たしました。
ピョンチャンオリンピック金メダルのロシアのアリーナ・ザギトワ選手は2位でした。」




映像見たいものだ。
NHKならばいいのに。


==========

「フィギュアスケート・GPファイナル」(8日、バンクーバー)
 女子フリーが行われ、SPでトップだった紀平梨花(16)=関大KFSC=が初出場初優勝を果たした。フリーで150・61点、SPとの合計で233・12点をマークし、合計点では自己ベストを上回った。日本勢としては浅田真央が05年に達成して以来となるGPデビューシーズンの初優勝となった。2位はアリーナ・ザギトワ(16)=ロシア=で合計226・53点。坂本花織(18)=シスメックス=は4位、宮原知子(20)=関大=は6位だった。
 冒頭の大技3回転アクセル-3回転トーループの最初のジャンプで手をついてしまい、想定していた得点をほとんど得られなかった(単独3回転アクセルのダウングレード判定となり出来栄え点-1・65点、要素の合計は1・65点)が、ここからの巻き返しがすさまじかった。
 次に配置していた単独の3回転アクセルに2回転トーループをつけて成功させると、3回転ルッツ-2回転トーループは2本目のトーループを3回転に上げて得点を取り戻した。
 3本のスピンは足換えコンビネーションスピン、レイバックスピンでレベル4。SPでレベル2だったフライングシットスピンはレベル3の評価だった。ステップシークエンスもレベル4で大きな取りこぼしはなかった。
 紀平は「今の時点で自分のやってきたことを出せたので自信になった。この結果がプレッシャーになることはないと思うし、また頑張ろうという気持ちになると思う。プレッシャーじゃなくて自信になる」と今後につながる優勝になるとコメントした。
 冒頭の連続ジャンプで出遅れた分を冷静に取り戻した。フリーだけをみてもザギトワの148・60を上回る150・61点をマーク。SPからさらにライバルを突き放して初出場初優勝を成し遂げた。」



デイリーはいい。号外でるかな。
ないか。

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日刊スポーツもいい。

<フィギュアスケート:グランプリ(GP)ファイナル>◇8日(日本時間9日)◇カナダ・バンクーバー◇女子フリー
ショートプログラム(SP)首位発進の紀平梨花(16=関大KFSC)が233.12点で初優勝を飾った。05年浅田真央以来となるGPデビューシーズンでのファイナル制覇の快挙となった。SP2位で平昌(ピョンチャン)オリンピック(五輪)金メダルのザギトワ(ロシア)は226.53点で2位。
演技後のインタビューでは「ファイナル優勝は思ってもみなかった。今年はどんな大きい試合でも気持ちをコントロールできた。(今日も)今やっていることを出せた。(優勝は)全然プレッシャーにならず、これから頑張ろうと。プレッシャーでなく自信になる」と堂々と話した。
冒頭から代名詞のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)は着氷時に両手をついてしまったが、焦らない。続く3回転半からの連続ジャンプは成功させた。その後もリズミカルで切れある演技を続け、7本中6本のジャンプを決めた。
SPでは2位で平昌(ピョンチャン)オリンピック(五輪)金メダルのザギトワ(ロシア)に4.58点差をつけていた。ジャンプで回転不足のあったザギトワとは対照的にSP同様、フリーでも平常心を保ち、会心の滑りをみせた。
自分を知ることでトリプルアクセル(3回転半)の高い成功率につなげてきた。キーワードは「筋肉」。16年9月に国際スケート連盟(ISU)公認大会で女子世界7人目となる成功を果たしてからも、ジュニア時代は試行錯誤の日々が続いた。安定性を求めていく過程で「最近は筋肉の調整の仕方が分かってきた」と1つのポイントを見つけた。
日常生活だけでなく、飛行機での移動、疲れの蓄積…。「調子が悪い日とかは結構筋肉の感じが違っていて、だるくて、タイミングが分からなくなったりする。逆に緩すぎて、力の入れ方がおかしくなったりとか、そういうところで苦戦していた。例えば、だるい時はほぐしを多めにして、次の日に備えていくようになりました」。運動の強度、ストレッチの方法などを考え、16歳は自分の体と常に向き合う。
世界の実力者6人が集ったGPファイナルを経験し、ここからはシーズン後半戦へと突入する。目の前のプログラムと並行して、4回転トーループやサルコーも練習中。シーズン前には「4回転を習得して、北京には合わせていけたらいいなと思っています」と誓った。平昌五輪出場は年齢制限でかなわず、常に意識するのは22年北京五輪。未完の大器が目指すゴールは、まだまだ先にある。」



いい記事だ。
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統合か、廃止がいい。

2018年12月09日 02時24分12秒 | ニ言瓦版
 問題だ。
医者は、信用できない。
学力のないものが、医者か。
だから、いろいろ不正と、事件が起きる。
病院と大学。

高額な薬とか。


「岩手医科大、金沢医科大、福岡大の3私立大が8日、一斉に各大学で会見を開き、医学部入試で「文部科学省から不適切な点があると指摘された」と公表した。募集要項で明記せずに現役生や地元高校の卒業生ら、特定の受験生を優遇していたが、いずれも「問題ないと思っていた」と釈明した。

 文科省は同省幹部の汚職事件をきっかけに、東京医科大の医学部入試で不適切な得点操作が発覚したことを受け、全国81大学の医学部入試を調べている。10月に「複数の大学で不適切な入試が行われている」と発表し、大学の自主的な公表を求めていた。

 岩手医科大は、34人が受験して7人が合格した今年の編入試験で、同大歯学部の出身者3人を優遇した。地域医療に貢献する人材育成のために出願時に約束させている、付属病院や関連病院で卒業後6年以上、勤務する条件を守る可能性を重視したという。佐藤洋一・医学部長は「出身者に優位性を持たせるのは、私学の裁量の範囲内と考えていた」と話した。

 今年度入学の一般入試で不合格となった7、8人より、評価が明らかに低かった1人を追加合格させた点も、不適切と指摘されたという。判断の基準について問われた佐藤医学部長は、「公表を差し控えたい。特定の属性で合格させておらず、不都合な点はないと考えていた」とした。

 金沢医科大は今年度のAO入試で同窓生の子ども、北陸3県(石川・福井・富山)の高校の卒業生、現役生と1浪生に加点していた。同窓生の子は10点、石川の高校出身者には5点、富山、福井については3点、現役・1浪生には5点を加えていた。編入試験でも北陸3県の高校出身者や年齢に応じて得点を調整。これらの操作によって約10人が不合格になったという。さらに、一般入試の補欠合格者を決める際にも年齢を考慮していた。

 会見した神田享勉(つぎやす)学長は「大学の機能を保ちながら、北陸の医療を支えていくのは困難。同窓生の子どもや現役・1浪生、北陸3県出身者の方が地域に残るというデータがある」と得点調整の理由を説明した。

 福岡大では、高校の調査書の評価を点数化する際、現役生を有利にしていた。一般入試の評価では、1浪は現役生の半分で、2浪以上は0点だった。2浪以上は受験できない推薦入試でも、同様に差をつけていたという。「高校時代の学力・成績も評価したかったが、卒業から年数が経つと基礎学力評価の有効性が下がる」として、2010年度入試から始めたという。11月下旬に文科省から不適切との指摘を受けて再検討し、高校側の保存期間を過ぎて調査書を提出できない浪人生もいることなどから「不適切」と結論づけた。月内に第三者を含む調査委員会を設け、追加合格などを検討するという。

 会見はいずれも午前11時に開始された。この日になった理由を問われ、3大学とも「近く、一般入試の出願が始まるため」と同様の説明をした。会見日時が重なったことについて、福岡大の黒瀬秀樹副学長は「びっくりしている。示し合わせているわけでは全くない」と話した。(渡辺朔、沼田千賀子、竹野内崇宏)

     ◇

3大学が公表した不適切入試の内容

岩手医科大

・編入試験で同大歯学部出身の受験生を優遇

・一般入試の追加合格で、特定の受験生を優先

金沢医科大

・AO入試で同窓生の子、北陸3県の高校出身者、現役・1浪生に加点

・編入試験の書類審査で、北陸3県の高校出身かどうかや、年齢に応じて得点調整

福岡大

・高校の調査書の評価を点数化する際、1浪は現役生の半分、2浪以上は0点に」



日本に医療は、問われることかもしれない。
医者は、信用できない、学力。

普通に採点しないのか。
考えると、人工知能が、採点、判断することかもしれない。

医者になる前に、学力の検査。
いや教授、大学の検査と、処分は、破壊。
廃止が必要かもしれない。
医者も、医大も、廃止することかもしれない。
相撲の力士の処分のように、
大学の統合と、廃止が必要。

「岩手医科大、金沢医科大、福岡大」は、数年間、生徒を入れるな。
廃止がいい。

人の生死に、影響する職。

責任者の解雇と、一つの大学することだ。

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恐慌の意味

2018年12月09日 01時12分02秒 | 名言、珍言。
名言、珍言。



「恐慌きょう‐こう」



意味

1 おそれあわてること。「恐慌をきたす」

「是 (ここ) に於 (おい) て誰 (たれ) か―し、狼狽 (ろうばい) し」〈紅葉・金色夜叉〉


2 生産過剰などの原因により、景気が一挙に後退する現象。
株価などの暴落、失業者や滞貨の増大、企業の倒産、銀行の取り付けなどの混乱が起こる。
1929年に米国から始まり、全世界に及んだ大恐慌が有名。パニック。



勝手な解釈
意味は、初めて、知るものだ。
文科系、理科系、など、本当は、経済が、一番の生活基盤。
経済しらないものは、軽率な政治と、怠慢な作法する。

暴落、そして、失業、そして、難民。
国で食えないから、食える国に行く。

人生は、紙飛行機かも、自分で、飛ぶのは、難しい、
流れに乗り、生き残る、到達する。

「あさが来た、」ドラマの再放送みると、考えるは、不景気、組織の崩壊、生き残る、両替屋。

経済を知らないものは、破滅するのが国、人材だろう。


============

名言、珍言。


「富が農業の大きな原動力であり、
よい耕作のためには多くの富が必要だ。
農村は国家の真実の富の源泉である。
農民貧しければ、王もまた貧しい。」


フランソワ・ケネー

勝手な解釈
産業の原点は、農産物かもしれない。

食えないと、それは、生きられない、機械も、ソフトも、
職は、ない。
食える、食がないと。
人口は、多くなる。
そして、いろいろな病気、戦争で、人口が減る。
それでも、紀元前より、人口は、拡大だろう。
食えるのは、大変時代になるか。
死亡者は、多くなるか。
経済の原点は、農産物かもしれない。

===========

名言、珍言。



「3つの段階、
産業革命、生産性革命、マネジメント革命の根本にあったものが、
知識における意味の変化だった。
こうして我々は一般知識から専門知識へと移行してきた。
かつての知識は一般知識だった。
これに対し、今日知識とされているものは、
必然的に高度の専門知識である。」



ピーター・ドラッカー



勝手な解釈
バカは、淘汰される。
高度な専門知識のあるものが、
必要なのは、どの時代でも、見える。


一般常識もないのが、長にいるから、より、堕落するのかもしれない。
高度な専門家が、必要なことだろう。
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2

2018年12月09日 01時06分37秒 | ニ言瓦版
恐慌、昭和の恐慌。



「濱口内閣は、農業恐慌に対しては、農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。いっぽう工業面では、1930年(昭和5年)6月に臨時産業合理局を設けている[3][注釈 6]。

濱口内閣は、対外的には協調外交を進め、1930年(昭和5年)4月にロンドン海軍軍縮条約を調印した。しかし、同年11月、これを統帥権干犯であるとして反発する愛国社の佐郷屋留雄によって東京駅で狙撃された。濱口は一命を取りとめたが、1931年(昭和6年)4月、内閣不一致で総辞職した。政府は同じ4月に工業組合法、重要産業統制法を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進した[3]。重要産業統制法は、指定産業での不況カルテルの結成を容認するものであったが、これが統制経済の先がけとなった[注釈 7]。

濱口の後継としては同じ立憲民政党の若槻禮次郎を首班とする第2次若槻内閣が成立したが、31年(昭和6年)9月、関東軍によって満洲事変が勃発した。また、同じ9月にはイギリスが金本位制から離脱したことにより、大量の円売り・ドル買いを誘発した。ドル買いを進めた財閥に対しては、「国賊」「非国民」として攻撃する声が国民のあいだに高まった[注釈 8]。

満洲事変に対しては、若槻首相は事変不拡大を声明したが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大した。こうして若槻内閣は、恐慌に対し有効な対策を講じることができないまま、事変後の事態の収拾にゆきづまって総辞職した。1931年(昭和6年)12月、立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。


犬養内閣の高橋是清蔵相は、31年(昭和6年)12月、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換し、積極財政を採り、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った(これをきっかけとした軍拡政策は、景況改善後も、資源配分転換と国際協調を企図した軍縮の試みにもかかわらず継続される。これにより、満洲事変・支那事変を通じて軍部の発言力が増していくことになる)。

こうして、日本の金本位制復帰はわずか2年の短命に終わった。この2年間の深刻な恐慌は社会的危機を激化させ、濱口雄幸、井上準之助、三井財閥の大黒柱であった団琢磨らを襲ったテロリズムとなって暴発し、戦争と軍国主義への道を準備する結果となった[3]。その一方で金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増にともない景気も急速に回復し、1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復した[注釈 9]。 」



似ているか、似てないか。

来年は、恐慌の前座かもしれない。

平成、崩落、あったものだ。株価の。

最後の平成の年は、暴落が、凄いのかもしれない。
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そういえば、似てないか、似ているか。1

2018年12月09日 00時50分05秒 | ニ言瓦版
何が、燃料に税金だ。

日本の税金。
変わらない、異変は、飛び火するのかもしれない。





「フランスで8日、燃料税増税への抗議運動に端を発したデモが行われ、ロイター通信によれば、全土で約3万1000人が参加し、パリで600人以上、仏全体では700人以上が拘束された。


 治安当局が全土で警官ら約9万人を動員して厳戒態勢を敷く中、シャンゼリゼ通りなどパリ中心部でデモ隊と治安部隊が衝突し、当局側は催涙弾と放水車で対応した。

 エリゼ宮(大統領府)周辺は安全確保のためデモ開始前から封鎖され、住民以外の通行が禁じられた。また、デモ隊が過激化する事態を懸念し、パリのエッフェル塔や美術館、デパートなどが臨時休業した。

 毎週土曜に行われるデモは回を重ねるごとに激化し、今回で4回目。1日のデモでは、仏全土で治安部隊を含む260人以上が負傷、680人以上が拘束された。事態を重く見た政府は5日、燃料税の来年中の引き上げを断念した。しかし、大学の学費値上げなどに反対する高校生や大学生らも抗議運動に合流し、収束の兆しは見えていない。

 フィリップ首相は7日夜、抗議運動を呼び掛ける団体の代表らと面会した。団体メンバーの1人は「これは緊急事態だ。大統領はわれわれが表明した不満を考慮しなければならない」と語り、マクロン大統領との対話を要望した。

 7日付の仏経済紙レゼコーによると、調査会社エラブの世論調査で、マクロン大統領の支持率は就任以来最低の23%に落ち込んでいる。 」




何か、新しい年号になる前に、いろいろ事件が世界である気がする。
昭和の時代、平成の始まり。

異変があるのか。
軽率な税金の値上げで、それは、庶民は、怒る。

日本の増税は、消費税の上がる度、不景気と、庶民は、辛い。
いいのは、官僚の世界。消費税が、問われる、平成時代。
昭和の物品税がよかった。

フランスは、環境税とか、石油に、税金。
それは、庶民の生活、寒い今から時期は、異常な政権は、
似ているのは、崩壊の世界。


平成の最後の年、新しい初期、異変かもしれない。
世界の変化。

そういえば、恐慌は。

==========

「昭和恐慌(しょうわきょうこう)は、1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。

第一次世界大戦による戦時バブル(=日本の大戦景気)の崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った[1]。

昭和恐慌の発端は、第一次世界大戦による戦時バブル(=日本の大戦景気)の崩壊にある[1]。第一次世界大戦中は大戦景気に沸いた日本であったが、戦後ヨーロッパの製品がアジア市場に戻ってくると1920年(大正9年)には戦後恐慌が発生し、それが終息に向かおうとしていた矢先、1922年(大正11年)の銀行恐慌、1923年(大正12年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。このとき被災地の企業の振り出した手形を日本銀行(日銀)が再割引して震災手形としたことはかえって事態の悪化をまねいている[2]。

また、第一次世界大戦最中の1917年(大正6年)9月、日本はアメリカ合衆国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。アメリカは、大戦直後の1919年(大正8年)には早くも金輸出を解禁(金解禁[注釈 1])し、金本位制に復帰した。しかし日本は、大戦後の1919年(大正8年)末には内地・外地あわせて正貨準備が20億4,500万円にのぼり、国際収支も黒字であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった[3]。

1920年代(大正9年-昭和4年)には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されており、世界経済は大衆消費社会をむかえ、「永遠の繁栄」を謳歌していたアメリカの好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた[3][注釈 2]。

日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと機会を窺ったが、1920年代(大正9年-昭和4年)の日本経済は上述したように慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、また、立憲政友会が反対に回ったことから金解禁に踏み切ることができなかった[3]。さらに1927年(昭和2年)には、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌(昭和金融恐慌)が起こり、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。1928年(昭和3年)6月にはフランスも新平価(5分の1切下げ)による金輸出解禁(金解禁)を行ったので、主要国では日本のみが残された。このころ、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下したため、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった[3]。


このような状況下で成立した立憲民政党の濱口雄幸内閣は、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場、金本位制の復帰を決断し、日本製品の国際競争力を高めるために、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を加えることで産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとした[4]。これは多くの中小企業に痛みを強いる改革であった。浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行うことによって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図った。

1929年(昭和4年)12月7日付けの大阪毎日新聞は「下る・下る物価 よいお正月ができるとほくそえむサラリーマン」という見出しで、金本位制復帰によるデフレを歓迎した[5]。

金本位制復帰後の当時の新聞記事の見出しでは「金融平穏無事」(大阪時事新報 昭和5年(1930年)1月12日)、「金解禁後の財界は至極良好」(大阪朝日新聞 昭和5年(1930年)1月22日)と礼賛されたが、一カ月後には「金解禁で産業界は高率操短[6]時代」(中外商業新報 昭和5年(1930年)2月17-19日)、「一般物価に比し米価は甚だしく下落」(大阪朝日新聞 昭和5年(1930年)2月20日)といった新聞記事の見出しが出始めた[7]。

昭和恐慌当時の代表的なメディアである新聞・総合雑誌では「不景気を徹底させよ」と勇ましいスローガンが飛び出していた[8]。」



似ているか、似てないか。

来年は、どうなるか。
平成は、消費税の増税で、疲弊しているものだ。
どのくらい、個人商店が消え、スーパーが、消えたか。
大型スーパーは、イオンだけ。
後は、消えたようなもの。



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