チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 民主主義。時代を失った、現代:チャンネル桜・瓦版、沖縄、反政府闘争のシンボル

2015-08-17 05:38:51 | 民主主義

           <民主主義。時代を失った、現代>

 『時代』(エイジ)とは、異なった年齢層(エイジ)としての、さまざまな、世代(ジェネレーション)が、社会という、舞台に上がって、それぞれの『演技』をする、その仕方のことに、ほかなりません。

 しかし、『近代』(モダン)では、それが、『現代』(コンテンポラリー)という時代に入ると、なおさら、各世代が、こぞって、目前の「新模型。」、新流行に、呑み込まれていきます。

 それは、「新奇さ。」(ニューネス)の中で、出来するのが、現代人に、共通の快楽なのか、と思われる風景です。 

 そこでは、年齢の定義までもが、変わって、ニューネスに、急速に、なじむことが、出来る者、それが、『若者』ということになります。 

ニューネスに、飛びついて、若造りに成功した、60歳は、ヤングであり、ニューネスの前で、たじろぐ20歳の人間は、すでに、オールドだ、ということになります。 

 いずれにせよ、「年寄りじみた。」人間は、社会の片隅に、蟄居するほかないわけですから、老年、壮年、青年、さらには、少年、幼年の間の、「世代間交流。」というものが、失われます。

 それ、すなわち、時代感覚の蒸発ということです。 

 というより、社会から、無視されるという点で、目立つのは、ニューネスに、接近する能力を失った、「後期高齢者。」と、その能力を、まだ持たぬ、「幼年者。」の立場です。

 ファミリー(家族)という、世代間交流の本拠地が、すでに、瓦解しておりますので、後期高齢者は、『遺棄』され、幼年者は、『虐待』されます。 

 そうするしかないのが、現代の、成り行きです。

 どんな人間も、かっては、幼年者であったし、これから、どうあがいても、後期高齢者になるという、事実を、指摘してみても、全く無意味です。

 変化のフロー(一瞬の流れ)に、身をさらす者には、過去のその流れを、ストック(長きにわたる、累積)することがなかったので、『記憶』というものが、ないかのようです。 

 「記憶のない。」人間は、遠い未来を見渡すための展望台を、失っているに、等しいのですから、瞬間に生きるしかなくなります。

 彼らは、正確には、老人を遺棄したり、幼児を、虐待したりしているのでは、ありません。 

 彼らの視野に、老人や幼児のことが、「始めから、入っていない。」だけのことです。 過去も、未来もない人間は、「昨日から、今日への変化率。」という数字が、「今日から、明日への変化率。」としても、成立するだろう、とみなします。

 つまり、超短期の時間意識において、生きるのです。

 そんな、愚かしい予測は、もし、彼が、社会の少数派に、属しているのならば、彼をして、ただちに、社会の落後者に追い込むでしょう。 

 しかし、経済の(特に証券の)市場や政治の(特に、政権や政策への支持率の)世論を見れば、すぐわかるように、彼は、圧倒的な、多数派の一員なのです。

 彼ら、一人びとりの愚かしさが、寄せ集められて、その結果が、市場の崩壊や世論の錯誤として、現れるだけのこととなります。 

 その崩壊や修復や錯誤の修正は、議会や政府の責任であって、「多数派。」は、その責任を、ひたすらに追及していれば、良いということになります。

 家庭の崩壊や錯誤のことでいえば、社会という名の「他者の群れ。」の責任であって、自分は、社会に、不平不満を、述べれていれば、すむわけです。

 こういう人々を、『マス』(大衆)と呼ぶことについては、前に述べました。

 ここでの繋がりでいうと、大衆は、「変化率。」の数値という、それ以上は、単純化できない模型(モデル)に従って、生きるという点が、大事です。

 瞬時の変化に、没入する大衆は、実際に生じる、新しい数値の変化率を、「新模型。」と、見立てて、結局は、とめどなき、変化の流れの中を、『漂流』します。 

 ―経済学では、それが、マイオピック(近視眼的)な、「期待形成。」と呼ばれています。

 アダプティヴ(適応的)な、期待形成というものも、ありますが、それは、「実際に、生じた、出来事を、参照にして、期待を、少しずつ、修正していく。」ということに、すぎないのですから、似たようなものです―。

                以上

 

 

 


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