憲法という言葉は、もちろん、国家のお元を支える掟を意味します。しかし言葉それ自体には、「憲(あき)らかな掟(おきて)。」という意味があるだけです。
それに比べると、「コンスティチューション。」には「コン」(皆であるいは総て)という接頭語があるおかげで、いわゆる『国体』を『構成』するという含みが少々示されております。
問題は、その構成のされ方が設計的か自生的かという点です。
設計的憲法は、長期未来の国体をも知識人が設計しうると構えているのですから、ハイエクのいう「知識人の傲慢。」の産物だというほかありません。
憲法を制定され出したのは近代に入ってからからです。 したがって、それに設計的な傾きがあることは論を俟ちません。
とくにアメリカやソ連のような実験国家の憲法において「設計主義。」が顕著ですし、大敗戦国家が新生国家として生まれ変わった日本やドイツの憲法もそういう種類のものです。
ついでまでに、憲法草案を占領軍に書いてもらってそれっきり、という奇妙な経緯にあるのは、敗戦日本くらいのものです。
イギリスは、さすが歴史を重んじる国家で、制定『成分』憲法というものを持っておりません。
それでもイギリスには憲法ガ、つまり不文憲法が、あるといえます。 つまり、自分らの国がらについての米い盛大な論議が、議会を始めとするさまざまな公共の場所で展開され蓄積されるという見込みがある限り、その言論活動の経緯それ自身が、「国家の根本規範。」としての憲法の在り処を支持することができるのです。
憲法は、「国の根本価値。」を国民の守るべき「根本規範。」としてしめすものです。 その根本の価値・規範は、宗教・『道徳』そして習俗・習慣といった国民の常識に根を下ろしています。
その意味では憲法の基礎は不文の歴史的英知です。 しかし憲法のは、法律体系の基礎なのですから、制定法の体系と発展してゆく潜在力を内蔵していなければなりません。
それをしっかりとみるのが「国家観。」つまり「国民とその政府。」についての「考え方と感じ方。」の力量だということになります。
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