今日の逗子湾上空は飛行機雲ラッシュで前衛的でした。
さて、明治時代に詩歌から詩が発生した件を日本文学史などの文献で調べてみました。
想念も詠うようになり自由な長さになり連ができた
日本の詩歌は長い間七五調の文語調でした。つまりそれは漢詩・和歌・俳句といった五音七音のリズムからなる一定の調子で花鳥風月や叙情を詠う定型詩です。
明治2年の開国以降、日本が積極的に取り入れた外国文化の中に西洋詩がありました。それらを外山正一らが訳した翻訳詩集「新体詩抄」が明治15年に、次いで森鴎外らの訳による「於母影」が明治22年に発行されました。
翻訳では西洋詩にある韻律つまりリズムを日本古来の七五調の形で踏襲しました。
内容的には従来の日本の詩歌の花鳥風月や叙情の枠を離れ、思想的・抽象的なことも表現されていました。内容的・精神的にこの影響を受けた詩作が国内でも行われるようになります。
北村透谷は自由律の長詩を書きました。彼の「楚囚之詩」は初めて近代の思想や感情を盛り込んだ創作詩といわれています。
こうした新体詩は「短歌」に対して「長詩」といわれるようになり、その後ただ単に「詩」と呼ばれることになります。
ほとんどが文語定型詩ではありましたが、こうして明治時代に連(スタンザ)のある自由な長さ・自由な内容の詩の形ができあがりました。
次に浪漫派が誕生します。
青春と自我の目覚めを詠って近代叙情詩を完成させたのが、明治30年の島崎藤村「若菜集」です。土井晩翠は「天地有情」で藤村と並び称されました。河井酔茗は文庫派と呼ばれる一派を形成しました。素直で清純な浪漫主義がこの派の特色で、代表詩人には伊良子清白・横瀬夜雨がいます。
言文一致運動の流れの中で、明治32年に与謝野鉄幹が新詩社を興します。翌年「明星」を発刊し、日本浪漫主義運動の中心となりつつ象徴詩運動も推進しました。蒲原有明が象徴詩の創始者といわれています。
こうして誕生した日本の詩がどうなっていくか、続きもまた投稿します。
さて、明治時代に詩歌から詩が発生した件を日本文学史などの文献で調べてみました。
想念も詠うようになり自由な長さになり連ができた
日本の詩歌は長い間七五調の文語調でした。つまりそれは漢詩・和歌・俳句といった五音七音のリズムからなる一定の調子で花鳥風月や叙情を詠う定型詩です。
明治2年の開国以降、日本が積極的に取り入れた外国文化の中に西洋詩がありました。それらを外山正一らが訳した翻訳詩集「新体詩抄」が明治15年に、次いで森鴎外らの訳による「於母影」が明治22年に発行されました。
翻訳では西洋詩にある韻律つまりリズムを日本古来の七五調の形で踏襲しました。
内容的には従来の日本の詩歌の花鳥風月や叙情の枠を離れ、思想的・抽象的なことも表現されていました。内容的・精神的にこの影響を受けた詩作が国内でも行われるようになります。
北村透谷は自由律の長詩を書きました。彼の「楚囚之詩」は初めて近代の思想や感情を盛り込んだ創作詩といわれています。
こうした新体詩は「短歌」に対して「長詩」といわれるようになり、その後ただ単に「詩」と呼ばれることになります。
ほとんどが文語定型詩ではありましたが、こうして明治時代に連(スタンザ)のある自由な長さ・自由な内容の詩の形ができあがりました。
次に浪漫派が誕生します。
青春と自我の目覚めを詠って近代叙情詩を完成させたのが、明治30年の島崎藤村「若菜集」です。土井晩翠は「天地有情」で藤村と並び称されました。河井酔茗は文庫派と呼ばれる一派を形成しました。素直で清純な浪漫主義がこの派の特色で、代表詩人には伊良子清白・横瀬夜雨がいます。
言文一致運動の流れの中で、明治32年に与謝野鉄幹が新詩社を興します。翌年「明星」を発刊し、日本浪漫主義運動の中心となりつつ象徴詩運動も推進しました。蒲原有明が象徴詩の創始者といわれています。
こうして誕生した日本の詩がどうなっていくか、続きもまた投稿します。
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