旧中山道は「17号線・深谷バイパス」でとぎれるので、「岡(西)」交差点から「滝岡橋」に向かいます。
案内板があります。振り返る。
しばらく進むと、(15:38)「滝岡橋」。
改修工事中のため工事用のシート・足場が設置され、全容を見ることができなかったので。
滝岡橋
昭和3年(1928)に旧中山道に架橋されました。鋼桁橋で、橋台は表面が赤レンガのイギリス積仕上げ、親柱や欄干は花崗岩が用いられています。親柱の上部にはかつて電灯が設置されていました。
(HPより)
はるか遠くに上越国境の山々(↓)。右は赤城山。
けっこう長い橋。
車がほとんど通らないので、安心して渡れました。
「小山川」上流(西側)を望む。
ふる里の橋 顕彰碑
この滝岡橋は小山川を渡る旧中山道に設けられた石橋で、長さ147m、幅員7mの鋼製八連橋で、昭和3年に竣工、花崗岩を用いた親柱には、かつて灯りがともり、人々を夕涼みに誘い生活の潤いとなっていた。 平成19年に地区の公民館に自治会や老人会関係者が集まりこの橋を文化財として登録することを決議し地元選出県議を始め、市観光協会長の協力を得て平成20年3月国土の史的景観に寄与しているものとして国登録有形文化財の指定を受けた。
ここに藤田地区のシンボルとして記念碑を建立し、永く後世に伝えるものである。
注:本庄市のHPを含め、この碑文でも「旧中山道」に架設された、とありますが、対岸の深谷市岡地区の解説文とは異なっているようです。この川一帯がたびたび氾濫して流路が定まらなかったようで、1880年(明治13年)の地図でも、この地域では幾筋も川が流れ、「中山道」には短い橋が二箇所架かっています。
シートの合間から煉瓦積みの部分が見えます。
渡り終えたところから、南西を望む。
振り返って望む。右の道が旧中山道の一部?
(15:52)次第に冬の日も暮れかかってきます。
しばらく進むと、ガードレールの脇に↑で歩道とあり、「この先通り抜けできません」との看板。→で「本庄」とありますので、そのまま道なりに右に曲がって行きそうですが、実はガードレールの切れ間から「歩道」に進むのが正解。
東海道でもありました。車の通行に合わせて進むと、もともとの旧道を進まない。そんなところがありました。それを思い出し、歩道を進みました。
(15:57)日差しも弱くなってきていささか不安ですが。
矢印に従って、左の道へ。
ますますこれでいいのかな、状態。
県道をくぐるとすぐ右の階段を上ります。
本来の旧道は直進していた?
階段を上がると、住宅地裏の草ぼうぼうの細道?
階段も含め、この付近では旧道は喪失しているようです。
いったん通りに出ると、案内表示があり、今来た道が「旧道」と分かります。
来た道を振り返って望む。
先ほどの車道と合流。ここにもさっきと同じ「この先通り抜けできません」の案内板。
振り返って望む。
「旧道」の出入口の案内表示は見事に対応していて、東京から京都へ向かう現代の旅人にも、反対に京都から歩いてきた人々にも親切をはかっているようです。もちろん地元の便利のためでしょうが。
(16:05)再び広い通りに復活。「旧中山道」の表示。
行く先にまたも「火の見櫓」。何だか安心します。
左手に古い長屋門があります。
「小川家長屋門」。白壁がはがれているのが残念。
(16:17)右手の路傍に「賽神の石碑」、「子育地蔵尊」、「庚申塔」などが並んでいます。
注:塞(さい)神(賽の神)
集落や家に疫病神などが入らないように祈る神で、集落の入口、辻(十字路や三叉路)に建てたようです。地域によっては「道祖神」と同じように建てられているケースも。
道なりに進むと、正面右手の広場の奥に「傍示堂」。
傍示とは、傍(ふだ)を立てて、ここが国境(くにざかい)であることを示したことからつけられた名称。この辺りが武蔵国と上野国との境界だったようです。この辺りに一里塚(日本橋から21里目)もあったそうですが確認できず(「中山道」は「東海道」に比べて「一里塚」の現状の定かでないものが多いようです)。
この辺りでの現在の埼玉県(武蔵国)と群馬県(上野国)との県境は、もう少し北の利根川付近になっています。
この先で道は左に曲がり、「元小山川」に架かる「新泉橋」を渡ります。
「傍示堂」付近から来た道を振り返って望む。
(16:28)「新泉橋」。「元小山川」
街中に入り、「日の出4丁目歩道橋」から西を望む。
(16:36)北西に向かう「国道17号線」。
だいぶ暮れかかってきました。
緩やかな「御堂坂」を上ります。
(16:57)「中山道」交差点。
その先の「本庄駅入口」交差点まで進んで、今回は終了。駅に着く頃にはすっかり日も落ちました。
案内板があります。振り返る。
しばらく進むと、(15:38)「滝岡橋」。
改修工事中のため工事用のシート・足場が設置され、全容を見ることができなかったので。
滝岡橋
昭和3年(1928)に旧中山道に架橋されました。鋼桁橋で、橋台は表面が赤レンガのイギリス積仕上げ、親柱や欄干は花崗岩が用いられています。親柱の上部にはかつて電灯が設置されていました。
(HPより)
はるか遠くに上越国境の山々(↓)。右は赤城山。
けっこう長い橋。
車がほとんど通らないので、安心して渡れました。
「小山川」上流(西側)を望む。
ふる里の橋 顕彰碑
この滝岡橋は小山川を渡る旧中山道に設けられた石橋で、長さ147m、幅員7mの鋼製八連橋で、昭和3年に竣工、花崗岩を用いた親柱には、かつて灯りがともり、人々を夕涼みに誘い生活の潤いとなっていた。 平成19年に地区の公民館に自治会や老人会関係者が集まりこの橋を文化財として登録することを決議し地元選出県議を始め、市観光協会長の協力を得て平成20年3月国土の史的景観に寄与しているものとして国登録有形文化財の指定を受けた。
ここに藤田地区のシンボルとして記念碑を建立し、永く後世に伝えるものである。
注:本庄市のHPを含め、この碑文でも「旧中山道」に架設された、とありますが、対岸の深谷市岡地区の解説文とは異なっているようです。この川一帯がたびたび氾濫して流路が定まらなかったようで、1880年(明治13年)の地図でも、この地域では幾筋も川が流れ、「中山道」には短い橋が二箇所架かっています。
シートの合間から煉瓦積みの部分が見えます。
渡り終えたところから、南西を望む。
振り返って望む。右の道が旧中山道の一部?
(15:52)次第に冬の日も暮れかかってきます。
しばらく進むと、ガードレールの脇に↑で歩道とあり、「この先通り抜けできません」との看板。→で「本庄」とありますので、そのまま道なりに右に曲がって行きそうですが、実はガードレールの切れ間から「歩道」に進むのが正解。
東海道でもありました。車の通行に合わせて進むと、もともとの旧道を進まない。そんなところがありました。それを思い出し、歩道を進みました。
(15:57)日差しも弱くなってきていささか不安ですが。
矢印に従って、左の道へ。
ますますこれでいいのかな、状態。
県道をくぐるとすぐ右の階段を上ります。
本来の旧道は直進していた?
階段を上がると、住宅地裏の草ぼうぼうの細道?
階段も含め、この付近では旧道は喪失しているようです。
いったん通りに出ると、案内表示があり、今来た道が「旧道」と分かります。
来た道を振り返って望む。
先ほどの車道と合流。ここにもさっきと同じ「この先通り抜けできません」の案内板。
振り返って望む。
「旧道」の出入口の案内表示は見事に対応していて、東京から京都へ向かう現代の旅人にも、反対に京都から歩いてきた人々にも親切をはかっているようです。もちろん地元の便利のためでしょうが。
(16:05)再び広い通りに復活。「旧中山道」の表示。
行く先にまたも「火の見櫓」。何だか安心します。
左手に古い長屋門があります。
「小川家長屋門」。白壁がはがれているのが残念。
(16:17)右手の路傍に「賽神の石碑」、「子育地蔵尊」、「庚申塔」などが並んでいます。
注:塞(さい)神(賽の神)
集落や家に疫病神などが入らないように祈る神で、集落の入口、辻(十字路や三叉路)に建てたようです。地域によっては「道祖神」と同じように建てられているケースも。
道なりに進むと、正面右手の広場の奥に「傍示堂」。
傍示とは、傍(ふだ)を立てて、ここが国境(くにざかい)であることを示したことからつけられた名称。この辺りが武蔵国と上野国との境界だったようです。この辺りに一里塚(日本橋から21里目)もあったそうですが確認できず(「中山道」は「東海道」に比べて「一里塚」の現状の定かでないものが多いようです)。
この辺りでの現在の埼玉県(武蔵国)と群馬県(上野国)との県境は、もう少し北の利根川付近になっています。
この先で道は左に曲がり、「元小山川」に架かる「新泉橋」を渡ります。
「傍示堂」付近から来た道を振り返って望む。
(16:28)「新泉橋」。「元小山川」
街中に入り、「日の出4丁目歩道橋」から西を望む。
(16:36)北西に向かう「国道17号線」。
だいぶ暮れかかってきました。
緩やかな「御堂坂」を上ります。
(16:57)「中山道」交差点。
その先の「本庄駅入口」交差点まで進んで、今回は終了。駅に着く頃にはすっかり日も落ちました。
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