おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

富坂。六角坂。善光寺坂。ムクノキ。安藤坂。・・・(春日・小石川の坂。その1。)

2014-10-24 21:21:55 | 都内の坂めぐり

 今度は、大江戸線「春日」から西に向かいます。14:50~16:50、約2時間の探索。本郷台地から小石川・神田川筋の谷、そして小石川台地へ進みます。

「東京の地形図」(国土地理院・関東地方測量部)。↓が本郷・春日・小石川付近。

「春日局」像(「礫川公園」)。

文京区と春日局

 文京区「春日」の地名は春日局が乳母として使えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました
 また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり文京区は春日局と歴史的に深い縁があります
昭和64年1月(1989)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました 文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し 区民の皆様と共に区内の活性化 地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました  ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました

平成元年12月吉日
 文京区春日局推進協議会
 文京区
 文京区産業連合会
 東京商工会議所文京支部
 文京区観光協会
 文京区商店街連合会
 文京区町会連合会
 文京区旅館共同組合

 「春日通り」の坂を上ります。この坂が「富坂」。「白山通り」を挟んだ東にある「(東)富坂」と区別するために「西富坂」といいます。


富坂

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、“アララギ”の編集にあたっていた。
    「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
        島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)
 
        文京区教育委員会   平成12年3月


説明板付近から白山通り方向を望む。

 春日通りを渡って北に向かう。このあたり、東側に下る坂道が多くあります。



 坂の下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある「堀坂(宮内坂・源三坂)」など・・・。

 下って右に直角に曲がる坂道。

来た道を振り返る。

「六角坂」。

六角坂

 「六角坂は上餌差(えさし)町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改撰江戸志』)とある。
 『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。
 餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌になる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。

       東京都文京区教育委員会    昭和63年3月


 左に回り込み、坂道を上がっていくと、「善光寺坂」の説明板。



 坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
  “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)
 また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。

     文京区教育委員会

振り返って望む。
長く続く坂道。奥に「ムクノキ」の大木が見える。そのすぐ右手(北側)の白い壁の家(「沢蔵司稲荷」並び)は、幸田露伴「蝸牛庵」旧居跡で、露伴の孫の青木玉氏らが住んでいる。青木玉著『小石川の家』『上り坂下り坂』。

  

「善光寺坂のムクノキ」。

 文京区指定天然記念物 ムクノキ
 樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを計り、推定樹齢約400年の古木である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木の上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高約25mもあった。
・・・
 樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
 本樹の戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木である。

    平成26年1月    文京区教育委員会


《小石川空襲の手記》(2012年放送NHKスペシャル「東京大空襲」に寄せられたもの)(「NHK」HPより) 

 日にちは昭和20年の5月○○日と聞いていますが、私は母と姉と3人で、小石川植物園の防空壕に避難していました。
 夜、真っ赤な空に数多くのB29の飛行機が数本の探照灯に照らされ乍ら、皇居方面に飛んでおり、焼夷弾がぱらぱらと落とされ、油が雨のように落ちていました。
 子どもにとってそれは見事な夢のような光景でした。そのうち、目前の草原に数発落ち、一瞬の静寂ののちパッと燃えあがりました。
 私は大急ぎで防空壕に戻り、「外が燃えている!」と連絡、大人たちは「ウソを言うな!」といいながら外を覗見やってビックリ、私は姉に引っ張られながら防空壕を飛び出して裏門から出て、防火用水の水を頭から浴びて、燃えている家の間を縫い乍ら明化小学校方面へ走り抜けました。
 千石(駕町)の白山ー京華通りの交差点あたりで防火用水の陰に身を潜めて夜明けを待ちました。
 周りは焼け野原になっていて崩れた木材が時々火の手を上げましたが、崩れるものは崩れて広々としていたのです。
そこに一機の戦闘機が登場! 私は「バンザイ!」と叫んで立ち上がり両手をあげたところ、姉が「伏せろ」と叫び、機銃掃射の弾が私の脇を通り抜けていきました。
 その後、3人で植物園脇(白山側)の自宅に戻ったところ、父と兄が焼け焼け落ちた屋根の瓦と燻っている木材を片付けていて、家族5人がここで一同に会しました。
 ここから記憶は飛んで8月15日の天皇の玉音放送当日になります。
                                          70代 男性

 この「ムクノキ」の数奇な経緯に関心がありすぎて、旧「蝸牛庵」の写真を撮るのを怠ってしまった!

 しばらく行くと、「伝通院」の大きな山門。

表参道から望む。

 徳川将軍家の菩提寺。
 慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
 寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。元和9年に830石に加増された。また慶長18年(1613年)には増上寺から学僧300人が移されて、関東十八檀林の上席に指定され、檀林(仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。正保4年(1647年)に三代将軍家光の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。享保6年(1721年)と享保10年(1725年)の2度も大火に遭っている。伝通院の威容は、『江戸名所図会』、『無量山境内大絵図』、『東都小石川絵図』の安政4年(1857年)改訂版でも知ることができる。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたという。
 幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の塔頭処静院(しょじょういん)で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まった。当時の処静院住職・琳瑞は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われるが、後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。
 明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われた。明治2年(1869年)に勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つが善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校を元に淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部)を創立した。また、明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになった。
 永井荷風は、明治12年(1879年)に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育った。その思い出は、随筆『伝通院』(明治42年頃)を生み出し、パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院があると賞賛した。また、荷風は明治41年(1908年)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記している。
 夏目漱石も若い頃にこの近くに下宿していたため、小説『こゝろ』で伝通院に言及している。幸田露伴一家は大正13年(1924年)に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。
 昭和20年(1945年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。昭和24年(1949年)に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建されたものである。平成24年(2012年)3月には山門が再建された。
 敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚がある。ほかにも境内には、書家・中村素堂の書による碑「如是我聞」がある。
(以上、「Wikipedia」より)

「日本指圧専門学校」。
 TVでおなじみだった浪越徳治郎の銅像。一世を風靡したキャッチフレーズ「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」も。

浪越徳治郎

 7歳のとき、北海道虻田郡留寿都村に移住。多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいという一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見する。後にこの技術を指圧と名づけ、多くの人にその技術を広めるため、1940年、東京市小石川区に指圧学校を設立した。
 マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃痙攣(けいれん)で体調を崩したモンローに素手で触って指圧した唯一の日本人である。このことについて浪越は「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と後にテレビ番組の中で述懐している。
 他にも、モハメド・アリや吉田茂首相をはじめとした歴代の内閣総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事など、国内外の著名人を治療したことにより、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。
 テレビドラマやバラエティ番組などにも数多く出演。特に「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ)では、当初、「アーッハッハ」という豪快な笑い声から「アッハー浪越」の名前で登場。後に、ジェットコースターに乗った際に普段の笑い声が消え、あまりにも怖がっていたためそのリアクションから「ジェット浪越」と命名され、一般人から発掘された福島出身の吉田十三(通称「エンペラー吉田」)とのコンビで知名度を上げた。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の決め台詞は、特に有名である。
 2000年9月25日午前3時7分に、肺炎のため東京都文京区の病院で家族に見守られて94歳で死去した。日刊スポーツによると、浪越は「100歳まで生きる」と遺言をしていたという。(以上、「Wikipedia」参照)


 山門前の広い通りを進み、再び「春日通り」を越えていきます。

幅広い緩やかな坂。

「安藤坂」。

 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。

文京区教育委員会   平成8年3月

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